松永殿と恋煩い
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既に夕刻。
居室にて少しばかりの休息を得たあと、久秀様と気晴らしがてら城内を散策していた。
宗矩殿はと言うと「少し昼寝を」と言って横になりしばらく目を覚まさない。
小さな部屋に大きな男が幅を利かせているものだから久秀様が何度か踏み間違えそうになって苛ついておられた。
さて一見辺りを見渡すと退却からだいぶ刻が回ったためか兵たちは半分以上いなくなっていた。
残っているのは信長様の近習と朽木家への戦時協力に対する報酬の会計担当くらいだろう。
久秀様も少し驚かれていたが直ぐに目を細めて楽しげに微笑んだ。
「これはこれは、光秀殿。お主も無事で何より」
久秀様が自分から声を掛ける相手など滅多にいないから、私も少し興味を持った。気取られぬように見つめる。
目元がキリリと爽やかな、精錬された雰囲気を醸したお方である。
長い髪はおなごよりも美しく、きちんと結わえてある。
青く澄んだ湖畔を思わせる美丈夫に「ほう」とため息をつきそうだ。
そちらも我々に気が付くと面をこちらに向けて微笑む。
「松永殿ではありませんか。此度は朽木殿への協力要請、ありがとうございました。正直、撤退の折は肝が冷えましたゆえ。感謝に絶えません」
しっかりと礼を尽くす明智殿に久秀様は満足そうに頷く。
そして、このように礼儀を弁えた方が織田の家臣団の中にはいたのだなと私は初めて認知した。
ところで随分前だが私はこの方のご息女にお会いしたことが有る。
大した美相であったが、なるほど納得した。だがご息女は母君に似たのであろうか。随分活発であられた。
父君に黙って箱から箱を放浪されているらしいが、もしやこの場にもいるのではないかと少し落ち着かない私であった。
ところで光秀殿の視線が私に向いた。
「そういえばそちらの方は以前お見かけ致しましたね。たしか、男児かと思いましたが……」
言葉を濁しつつ久秀様をちらりと見た明智殿。久秀様は至極楽しげに耳打ちする。
「あの日はいたずらで稚児服など着せて遊んでいただけよ。これは我輩の女房。以後お見知り置きを」
「なんと、そうでしたか。いつかの信長様が開かれた宴では素晴らしい舞をありがとう御座いました」
大層驚かれていたが目を半月に細めてにっこりと微笑む御仁に私はつい頭を下げる。
このような美しい方に褒めて貰えるなどあまりに恐縮であった。
「いえ、私めなどまだまだ未熟者にございます」
「そのように謙遜されますな。私はとても感動いたしました。勢い余ってついあなたへの賛辞の文など書き送ってしまったこと、今思えば我ながら恥ずかしい」
困り顔で微笑む明智殿の言葉に、ふといつかの記憶が蘇る。
そういえばあの宴の後、沢山の文が届いていたが、明智殿からも頂いていたのを思い出す。
しかしその後全ての文を久秀様に取り上げられて処分されてしまった。
どのような内容でどのような筆致で私をお褒め頂いたのか私には不明である。
じろり、と久秀様を睨みつける。
私の物申したいとの視線に察したのであろう。
ふいっと顔を逸らされた。
一切視線を合わせようとしないので久秀様の尻の肉をぎゅっと
その部位が力が入り固くなった。
そこでやっと聞こえるかどうかの悲鳴と「よくもやったな」と言う恨めしそうな小言が聞こえた。
そのようなやり取りに気付かぬ明智殿は久秀様に言った。
「松永殿の隣には素晴らしい才能をお持ちの奥方がおられて羨ましい限りです。それに叶うなら再びあの舞を拝見したいものです。あの日は久しぶりにとても胸が高鳴ったのを覚えております」
「むふふふ、そうだろうとも。実は我輩も、妻の舞の餌食となった男の一人であるからな。しかも毎度毎度他の男を引き連れて帰ってくるものでなァ……。どこぞの虫けらに盗られぬものかとヒヤヒヤしながら生きておるよ」
「おや、そうでありましたか」
意外だ、と言うような表情の後、くすくすと微笑む明智殿。
まさか悪党と名高い松永久秀がこのような女如きに翻弄されて参っているなど想像もしなかったのだろう。
いや久秀様が信長公以外に態度を変えるとも思えないから日頃からこの調子を知っているのかもしれない。
「まさか」というより「やっぱりな」という微笑やもしれぬ。
それよりも牽制のつもりであろうか、主の口の悪さがこの御仁の前ではより際立つ。
私は脇腹を小突いて小声で諌める。
「イテテテ、さっきから何するのよ、こまちゃん」
「もう少し良い言い回しはございませんのですか。今の会話の流れから言ったら明智殿まで虫けらみたいではないですか」
「あ〜あ〜全く、うるさい女房よなァ。お主が変な虫を
「どうしたも何も久秀様としかこんな不毛な会話はいたしませんよ。久秀様にだってこんなに優しくしてるではないですか」
「ほら〜! また、こうやっておじさんを虐めるんだから! なんでこんなに素直じゃないの? メッなんだからねっ! メッ!」
久秀様と来たら顔と顔がくっつくくらいの距離でこんな風に言われる。
ご丁寧に鼻の頭を人差し指でチョンとつつかれて、鼻先がムズムズする。
思わず顔を顰めてしまうが攻撃が止まない。
さすがに鬱陶しくなりその手を跳ね除けるとおもちゃを失った彼の指先が宙をを滑る。
「メッとはなんですか。メッとは。可愛くないですよ」
「まっ! こんなに可愛いおじさんを捕まえておいてこまちゃんってばそれはないでしょ〜。なぁ、光秀殿。お主はきかん坊な女房を仕置する際はどのようにするかね?」
久秀様が明智殿に問いかける。
視線をやつすと明智殿がとても困ったような、それでいて笑いを堪えるような態度でいた。
どうやら段々と声の大きさを釣り上がらせていたようだ。
私は赤面し、にぃっと意地悪そうな不遜な笑みを浮かべる久秀様の背に隠れる。
そして思い切りその背を叩いた。
「あだっ! もう、困った女だなァ……。よしよし夜はたっぷり可愛がってやるからなぁ」
「不要です」
「じゃあどうしたら良いか光秀殿に聞いてみような? ほら光秀殿、我輩達夫婦の危機だぞ? 何か言ってはくれないか、んん〜?」
そんな下らないことをわざわざ他人に聞くな、と言いたいが言ったところで調子に乗った久秀様の口を止められないだろう。
こうなった久秀様は女よりも口が達者だ。しかも今とても面白がって楽しそうである。どう足掻いても止まらぬであろう。
明智殿がそんな様子にますます困惑しつつも律儀に答えてくれた。
「私は若い時分、私のわがままで妻にはあまり良い暮らしをさせてあげられなかったんです。ですが、妻は自分の事のように私を支え励ましてくれました。ですから今は妻の望むことはなんでも叶えてあげたいと思っています」
「ほう、ならば今もお主と奥方の仲はとても良好なようだな。ふん、羨ましいことよ」
「私には勿体ないほど良い妻です。ですから何か粗相があったとしても、仕置きなどとても出来ません。そんなことをしたら娘達が私を責め立てることでしょう。それに松永殿と奥方の様子を見る限り、夫婦の危機などは訪れないような気が致しますよ」
にっこりと大人の余裕を思わせる笑顔を私たちに向ける明智殿。美丈夫の笑顔とはかくも人の心を虜にするようで、私は久秀様の背後にてしばし見とれた。
しかし、呆けている私とは違い久秀様は少ししかめっ面であった。子供のように頬を膨らませて、あからさまに不機嫌を身振りにて伝える。大袈裟な態度は逆に嫌味を感じさせずあっけらかんと冗談めかしているようだ。
「ったく、背中がムズムズするわ。お主が家族思いの真っ当な人間なのは承知していたが返答まで完璧とは我輩はいじめがいがないでは無いか。やめだ、やめだ。つまらん」
「良いでは無いですか。実際、危機などないのでしょうから」
「当たり前だ、あってたまるか。お主があんまりまともすぎるからな、浮気相手でもいるのかと探って見ただけよ。あ〜、家庭円満で羨ましいのう!」
そんな明け透けな物言いを苦笑混じりに受け流す明智殿。
久秀様は顔を背けながらも、満更でも無さそうに答えていた。
「ではこれで」と立ち去ろうとする明智殿の背に向けて普段ならなさらない忠告などされていた。
「せいぜい此処を発った後も気を付けて行くことだ。生きて帰るまでが戦であるからな」
「えぇ、ありがとうございます。奥方もまたいつか」
軽く会釈した明智殿に私も深深と腰を曲げて礼をする。
最後まで礼儀をわきまえた素晴らしいお人である。
久秀様の言葉を遮らず、他者ならば関わるのを避けたがるであろうこの人に穏やかに対応してくださる。
まして傍らの私にさえ気を配るその態度に内心感激していた。
敵の多い主人が気を休めてお喋り出来る御仁が側にいると思うと側で見守る者はそれだけで嬉しいものだ。
遠ざかる御仁を見送ったあと何気なしに呟く。
「良かったですね。素敵なお友達がいらっしゃって」
衝撃だったのだろう。
私の放った言葉に久秀様は面食らった鳩のように目をまん丸くし、大袈裟に仰け反った。
そして肩を鳴らしてくつくつと笑った。わしゃわしゃと犬か何かのように私の髪を撫で回しながら。
「あんな顔も性格も良い男が側にいたら我輩が霞むだろうが」
「霞もうと構わないではないですか。私は安心致しましたよ。だから明智殿の前で嫌味な言い方をするのはよして下さいまし」
「むっふっふ〜、お主はわかってないのう。良いのだよ、あれはあれで。男には男にしか分からないやり取りの仕方があるんだからな」
「はぁ、そうでございますか」
「そうであるよ」
そういうと久秀様は至極愉快そうに微笑まれた。
屈託なく破顔一笑した彼に不覚にも心ときめいてしまった私は気取られぬようにそっと顔を伏せた。
明智殿と別れた後も私と久秀様は、ゆったりと散策を続けていた。
夕暮れとなり、いよいよ緊張が解れ、昨日の戦の記憶をぽつりぽつりと話題に登らせるなどしていた。
「あの時は本当に恐ろしかったのですからね。いくら久秀様がご一緒でも、もう二度と戦に同伴なんか致しませんから」
「んん〜? そうかね。我輩は結構楽しかったぞ。お主がきゃあきゃあ騒ぐ度に次はどんな激戦地を回ろうか考えてたのだがな」
「本当に意地悪なんですから! 少しは私の気持ちを考えて下さったっていいではないですか」
「考えたからこうやって連れ立って来たのであろう。それに戦場で猛った
「それはそうですけど……」
と、呟いてから後悔する。
すると腰をかがめて私の前方に塞がり、上目遣いに「そうなのか? どうだ?」と確かめられた。
私は真っ直ぐに見つめられ、少し言葉を濁す。
何故ならその点に関しては正直その通りであったからだ。
久秀様が命懸けで戦地に立たれ、いつ死ぬともしれないのをただ待つというのもなかなか苦しい。
その上久秀様に仕込まれた体が誰にも触れられず、寒々しい褥で一人横にならねばならぬのは悲しいものだ。
黙っていたら図星と思われたのだろう。
覆い被さるようにして肩を抱かれた。
「あ〜、こまちゃんは可愛いのう。なぜこうも美人で可愛いのか」
「久秀様は意地悪です。私が死んでも良いのですか?」
「死ぬのはならん。 そんなこと断固認めぬ。他人の妻を奪うのは好きだが、死神に自分の女を取られたい願望はないのでな」
「他の女も盗らないで下さい。作ったら承知しませんからね」
「自分の死よりもそちらがご立腹とは、おじさん嬉しいなぁ」
辺りに人がまばらなのを良いことに、久秀様は恥じらいもなく、さながら大きな猫がゴロゴロと飼い主に喉を鳴らして甘えるように抱きついて頬ずりする。
重くて、鬱陶しくて、めんどくさいが、それが可愛らしくて愛おしい。
私も相当、この男に関しては末期であると改めて自覚した。
「今日は二度もお主を抱いたのでな、我輩すこぶる調子が良い。夜になったらまたしよう」
「……どれだけ強いのですか」
「絶倫というわけでは無いのだから良いだろう? そんな我輩が大好きな癖に」
自信たっぷりにそう言われ、きゅうんと胸が締め付けられるようだ。
またそう言われて否定できない自分に呆れもした。
さて晩である。
久秀様は宗矩殿を連れ立って朽木殿と宴会に参加されている。
私は一応客人とは言うものの、恩がある朽木殿に少しでも何か返せればと女中の皆様に混じって配膳や清掃などの雑用に加わった。
女だらけの仕事場は久方ぶりで、少し緊張もする。
私と歳がそう変わらぬような女達がテキパキと指揮を取って働くさまに感動も覚えた。
何故なら生まれてこの方ほとんど一人で仕事を請け負って来たのだ。
配下がいたり、上司がいたりという誰かを指導したり付き従ったりする責任感とは無縁であった。
少しして役目が終わった後も、じっと見つめていると声がかかった。
「どうかした?」
「いえ、皆様よく働くなぁと思いまして」
「そりゃあ、そうよ。これが私たちのできることだからね。でも私達としてはあなたの方がよく働いると思うけどな。旦那のために戦場まで出向いて、織田の兵士の世話してたんだろ? 並大抵の奴に務まるとは思えないよ」
「いえ、そんな……」
「その上私らの仕事の雑用までやってくれると来た。松永様は悪い噂ばっかり聞く御仁だけど、あなたのような人が奥さんってなら少し見方が変わるよ」
にっこりと微笑んだ女中の彼女は健康的なそばかすが可愛らしい。
手は厚く、少々荒れているがそれこそが働き者だとよく分かる証である。
対して私の手はというと美しくは無いが昔ほど荒れてもいない。
そのように言われるほど働いてもいないと思うと、気恥ずかしくなりそっと手の甲を隠した。
(……ほんと私ときたら、久秀様に甘やかされて生かされているのね)
談笑で時間が過ぎ行く。
男衆の宴会も盛りとなって笑い声なども聞こえてくる。
そのうち傍らの彼女も仕事に戻られ私だけがここに一人ぽつんと佇んでいる。
お月様がきれいだ。
宵闇となった辺りを煌々と照らしている。そこで、もしこの城に入れなかった場合はどうなっていたのかと頭をよぎってしまう。
間違い無く完膚なきまでの敗戦であったろう。
そう考えるとつくづく織田の衆は運が良い。
既に犠牲になった者は悔やまれるが、生きている者はこんな月明かりの下まだ逃げ惑っていたかもしれない。
野武士による残党狩りなど当たり前であるし、疲弊しきった心と身体でいると自刃なども珍しくない。
それを踏まえても久秀様は本当に大きな仕事をなさったんだな、と我が主につくづく感心する。
(でも、もうこんな戦場二度とごめんだわ)
溜息などつくときれいなお月様が霞みそうである。
しかしやっと一人でほっとする時間が出来たのだ。
それぐらい許されるであろうと思った。
その時だ。
「こんなところで美人が溜め息なんてどうしたんだい?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、その人は月を背にしてニッコリと佇んでいた。
***
先日と変わらず馴れ馴れしい雰囲気を醸したままこちらの懐近くに入り込もうとする彼に私は後ずさる。
「あなたはたしか、鈴木殿」
「あぁ。久しぶりだね、奥様。覚えていてくれて光栄だよ」
「えぇ……あなたも織田の将兵でしたの?」
「はぁ? 俺が? まさか」
私の問いかけに彼は「冗談キツイぜ」と言って頭を振った。
では何故このような場所にいるのだろうと思案していると彼は早々に答え合わせをしてくれた。
「俺は傭兵なんだ。と言っても今回は織田がお客じゃあない。羽柴秀吉ってダチがどうしてもってんで力を貸してやったんだよ。ま、今回だけな」
「負け戦でしたけどね」
「そりゃあ、浅井が裏切るなんて誰も想像つかないだろ? だから今回はこの負けはないみたいなもんだって。それに俺は信長って奴が好きじゃない。なんならそのまま
カラカラと笑う鈴木殿。
その言動に少し呆気に取られたと同時に妙な親近感を持った。
久秀様以外にこうも信長公を恐れずに楯突く男は珍しい。
しかもその陣中にも関わらずだ。恐れ多い人を主人に持ったせいか妙な判断基準ができてしまい、我ながら玉が座って来たものだと呆れた。
「ところで奥様こそ、どうしてここに?」
いつの間にか隣を陣取られ、グッと至近距離に詰め寄られる。
不遜な態度に舌を巻くも、会うのが三度目ともなるとこちらも気持ちの距離が近くに感じてしまうから驚きである。
だが距離を詰めてくる男を何とか
「主人が連れてきたんです。でなければ危ない場所に誰もわざわざ来たくなどありません」
「へぇ、ご主人は君をこんな場所に連れてきて悪い男だね」
「えぇ、そうですね。でも良いのです。無事に帰る当ても付きましたし」
「そうかい? でも俺なら君みたいな素敵な人をこんな血なまぐさい場所には連れてこないな。連れて行くなら、もっと楽しくて素敵な場所が君には似合いそうだからね」
「ありがとうございます。では、これで失礼致します」
頬杖をついてこちらの横顔を覗き込もうとする鈴木殿を振り切って思い切りよく立ち上がる。
この男といつまでも一緒にいては面倒に輪をかけるような事になるのは前回のことで承知していた。
早々に立ち去って今頃酔いつぶれて動けなくなっているだろう我が家の男たちを介抱すべきであろう。
「あなた様とお会いできて楽しゅうございました」
「なぁ、待ちなって。まだ男共は酒盛りしてるだろ? それにまだ名前も聞いてないぜ」
「前回そんな遊びも致しましたね」
「ああ、そうさ。昼も夜もずっとあなたの事を考えていた俺に少し時間をくれよ」
縋り付くように何とか間を持たせようとする男。
それが立ち塞がる。
前回みたいに連れ去られては堪らないので一挙手一投足を警戒する。
でもその顔ときたら焦りとも苛立ちともいえぬ、まことに神妙な顔つきである。
まさか日がな一日、本当に私などの事を考えていたのだろうか。
だとしたら滑稽だが可愛らしいとも思う。
「いいですよ、それでは当ててご覧になって下さい」
「分かった。じゃあおれが当たったら京でまたお茶でもしようぜ、奥様」
「ええ」
どうせ当たりはすまい。
そう思って最後の機会を与える。
すると男は楽しそうに嬉しそうに、目を細めた。
そして切り札を出すかのように自信満々に答えた。
「君の名は生駒。そうだろう?」
目をキラキラさせてまるで少年のようだ。
答え合わせを今か今かと待っている彼にこの真実を突きつけるのは少し可哀想な気がした。
だがそれは半分当たりでしかない。
「残念ながら違う」と、口を開けようと思ったその時だ。
遠くから人を呼ぶ声がした。
「まご〜! おーい、まごったら〜!」
聞き知った少女の声がした。
それはそれは軽やかで楽しげで親しげな声。
この戦地に私以外にも女が参戦していたのは驚きだったが、正体を知ってなるほど納得した。
明智殿のご息女である珠殿。
そして彼女を見つけた鈴木殿も大層驚いた顔をしていた。
「げっ、お嬢ちゃん! なんでここに!」
「げっとはなんじゃ、 げっとは! 父上に聞いてずーっと探しておったのじゃぞ。わらわとまごはダチじゃろ? なんじゃ違うのか?」
「だからってなんでこんな大事な時に……」
頭を抱える鈴木殿。
私はその様子を面白可笑しく見物している。
父上、という単語を聞くに流石に今回は箱から箱を漂流されてはいないようで安心した。
珠殿は鈴木殿の困った視線の先にいる私を見つけた。
彼女は私を見るや否や「はっ!?」と言って仰け反っていた。
「なぜじゃ? なぜお主がここにおるのじゃ? 松永殿があの屋敷を去ったゆえわらわは会いに行きたくても会えなかったのだぞ! こんなところで会えるとは奇跡じゃあ!」
「お久しぶりです、お嬢様。明智殿がいらっしゃったのでまさかとは思いましたが、そのまさかでしたね。私もお会いできて嬉しいです」
「ほむ、今回は箱では無くて父上の荷駄に紛れて来たのだ! 沢山怒られた故、もう心配いらないぞ」
「もう、お嬢様ったら相変わらずなんですから」
このやり取りを呆然とした様子で眺めている鈴木殿。
しかも「知り合いかよ」と頭をかいて困り顔である。
ならばその顔を更に困らせてやろうとお嬢様に耳打ちする。
「お嬢様、この方の名前を教えて頂けませんか? 今面白い遊びをしていて、当たったら私からお礼もいたしますよ」
「むむ? それは本当か! この者の名はな……ㅡㅡ」
そんなやり取りに気付かない彼はまだ話は終わらないのかと痺れを切らしている。
女の長話に首を突っ込まないで待っていてくれるだけの器には素直に関心した。
それだけ多くの女性を相手にしてきたのだろう。
だがそちらも私の答えを待っている。
苛立ちが目立った頃、私は答えた。
「鈴木殿、残念ながら今回は半分だけ正解。あなたの負けですわ」
「はぁ? 何だよそれ。くそ秀吉のやつ……」
「ふふふ、でもとても近かったのですよ。答えはお嬢様に聞いてくださいませ。雑賀孫市殿」
皆に知られているであろうその名を呼ぶと彼は「ばれちゃったか」と呟いて頬をかいた。
これでこの人の素性が知れたというものだ。
傭兵集団雑賀衆の長。
そのような人が私などを口説いて遊んでいたとは驚きだ。
「変わらず鈴木殿とお呼びしたほうが良いかしら」
「それだって別に偽名って訳じゃないんだがな……。孫市で良い。何だよ、今回も袖にされちまったな。まったく、嬢ちゃんのせいだからな」
「何故わらわのせいなのじゃ?まごが名を教えぬのが悪いぞ」
「ったくよぉ……」
男に取って、せっかく掴んだ切り札も外れ、女も手に入らず情けないといった所だろう。
私としては明智のご息女のお陰で助かったと言うのが本音だ。
懐からお嬢様ヘお礼の品を取り出す。
久秀様から頂いた小箱である。
その中には主人から頂いた金平糖が入っている。
それを彼女に差し上げる。
「どうぞお嬢様」
「はぅ~! これは金平糖じゃな! キラキラしていてきれいじゃのう」
小さな菓子を月明かりに照らしてみて遊ぶ様子に私も微笑む。
口の中に放り込み、甘さを堪能する表情は殊更である。
そして幸せを噛み締めているその可愛らしい彼女の細い首に、袖から取り出した飾りをかけてやる。
以前孫市殿から頂いた鉛玉に
それを彼女にかけてやると、とてもしっくり来た。
やはり時として物の方が持ち主を選ぶらしい。孫市殿はそれを見てとても驚いていたが。
「持っててくれたなんて、やっぱり俺に気が有ったのかい」
「ふふふ。でもこれの主はもう決まったようですよ」
首からぶら下がるそれをお嬢様はしげしげと物珍しげに眺める。
彼女の視線が私を捉え、そして孫市を見た。
「お嬢様、これは孫市殿が
「まごがそちにやったものを、わらわがもらってよいのか?」
「孫市殿がだめなんて言うと思いますか?」
視線をやつすと孫市殿はどうやら諦めた風にして溜息を付いていた。
そして道化のようにおどけて話す。
「だめじゃないさ。
だけどそれは孫市のもんって証なのさ。俺はあなたの事が本気で気になってるし、どうしてもやるってんなら俺はあなたに本気で印を付けてしまいそうだ。たとえあなたの主人である松永殿に殺されてもだ」
「主人は大変な悪党ですのよ。私はもう久秀様のものですからそれは無理な話です」
「そうかい。ならそれはやっぱりお嬢ちゃんにやるしかないな」
お嬢様の頭をポンポンと撫でながら彼は言う。とても嬉しそうに目をキラキラさせて喜ぶお嬢様に私はつい破顔してしまう。
「大事にしてくれよ、お嬢ちゃん」
「ほむ、任せよ」
ニッコリと笑ったお嬢様。
胸を叩いて誇らしげである。
そんな和やかな雰囲気の中、孫市殿が言った。
とても唐突に明るく煌々と照らす月を指差して。
「あれ、お嬢ちゃん。今、月に兎が映ったぜ。何匹も跳ねてる」
「何! 本当か!? どこじゃ、どこじゃ!?」
「ほら、あの左端」
お嬢様が頭上にそびえる、まん丸な月の中を必死に探している。
兎はどこだ、あちらかこちらかと真剣に探している。
なんの事はない。
雲が流れてそう見えるに過ぎない。
だが、それがお嬢様に取ってはとても面白いらしくもっと近くに寄って夢中になって見つめてらっしゃる。
「よく見つけたのう! まごはすごいのう!」
「だろう? やるときはやるぜ、俺は」
そして彼は私を文字通り射抜いて見せた。
してやられた。
孫市殿の腕の中で抵抗も出来ないまま、息も゙奪われて目を見開いていた。
がっちりと頭部を抑え込まれ、逃げ出そうに逃げ出せぬ。
「離して……」
「今動いたらお嬢ちゃんにバレちゃうぜ?」
「………」
呼吸がおぼつかず一旦唇が離れると卑猥な糸が引いた。
嫌な男だ。
無垢な他人を巻き込むなど下男の心の卑しさよ。
「綺麗だぜ、奥様」
妖しく囁やくと共に手付きが腿を撫でる。押し返すもままならない。
そしてふと脳裏に久秀様と宗矩殿の顔とセリフが浮かぶ。
「こまちゃんは我輩のものだからな。絶対誰にも奪わせんよ」
「こまちゃんは隙だらけだからさ、拙者が守ってやらないとね」
あぁ嘘つき共め、と心中は恨み節に溢れる。
こんな大事な時に側にいないなんて二人共なんて間が悪いのか。
それよりもこの男が間が良すぎるのか。
いや違う、隙だらけな私が悪いのだ。
この男と来たら何人の女と遊んで来たのか。
久秀様ほどでは無いにしろ、仕込まれた身体を疼かせるのに申し分ない技であった。
心とは裏腹に女がうずく。
「孫市殿……お嬢様の前でなんてことを!」
「いやだな、前じゃ無くて背後だろう?」
「同じ事です……!」
「そんな潤んだ眼でこっちを見ないでくれよ。戦の後の女の匂いにこっちも当てられてるんだ。そんなんじゃ、せっかくしてる我慢が無駄になるぜ」
にやぁっと、微笑みながら二度までも゙唇を奪われた。
その間もお嬢様は月を眺めている。
時折名前を呼ぶ彼女に平然と何事も゙ないように受け答えし、その裏で私を辱める男。
振りほどけたのはとても幸いだったが、上手く逃されたと言っても過言ではない。
「あなたの名前は改めてお嬢ちゃんに聞くとして、今日は本当に良い日だ。きっと今のであなたの中に俺の居場所が出来ただろう?」
「そんなこと……」
「ない」と、思って振り返る。
そういえば久秀様と初めて対面した日を思い出す。
唐突に現れ、嵐の様に我が心を掻き乱し、そして奪い去っていった彼。
あぁ、同じだ。
そう言えば彼もこんな風に私を翻弄していた。
そして私は彼の物になったのだ。
また私は誰かに奪われるのか。
なるものか。
「もうお辞め下さい。私は帰ります。あなたがこのような手合いの方とはがっかり致しました。さようなら、孫市殿」
顔も見ずに私は足早にその場を後にする。
この心臓の早鐘がとてもうるさいが、お嬢様へのお別れの言葉を添えるのは忘れずに行けただけましだろうと思った。
「お嬢様、私はもう行かねばなりません。どうかお体を大事にして、達者でいて下さい。たまには父上様と屋敷に遊びにいらして下さいね」
ぎゅっ、と手を握ると、いきなりのことでお嬢様は「もう行くのか!?」と名残惜しそうに言ってくれた。
しかし厄介な心を落ち着かせるにはこの場を一刻も早く離れたかった。
足早に私は主人の元へと急ぐ。
今頃酔いつぶれているだろうが知ったことか。
久秀様の物で有るのだから他の男の色になど染まりはしない。
このような身体にした張本人には必ず責任を取ってもらう、そうと決めて走り出した。
「まご、一体こまに何を言ったんじゃ? そちの顔は見ないで行ったぞ?」
「こまってのは彼女のことかい?」
「うむ。喧嘩でもしたのか? 仲良くせねばならぬぞ」
「仲良くしてたさ。ま、お嬢ちゃんにはまだ分かんないかね」
孫市殿の獲物を狩る時の楽しそうな微笑みが脳裏に浮かんだ。
その後の私というと酔いつぶれている久秀様を居室まで引き摺って、その身を剥いで貪るようにして彼の上でよがり狂った。
それは朝まで続き、酔のすっかり覚めた久秀様に「勘弁してくれ」と半泣きで訴えられた。
「もう無理、もうだめ、堪忍してこまちゃん!」
「なりませぬ。私としようとおっしゃったではございませんか」
「そんなこと言ったってもう出るもの出ないし、勃たないし、無理だって……あぁーっ!」
「出なくても勃たなくても大丈夫です。さ、もう一度……」
「ほんと、どうしちゃったの、こまちゃん! コワイ! 頼むからもうしゃぶらないでぇっ! いやぁーっ!」
始末をつけたのは昼過ぎである。
久秀様の精も根も全て吸い取り、心なしか肌艶も゙良くなった気がした。
屍になった久秀様を横目に今日も日の光の下穏やかに過ごせることに安堵した。
そしていつからいたのか控えていた宗矩殿が引き攣った笑顔で「松永殿、ご愁傷様」と念仏を唱えていたが聞こえないふりでもう一度久秀様の隣に控えた。
「もうやめて」と訴える久秀様の畏怖の表情にもう一度、と思ったが流石に疲れた。
布団の中に潜り込み、彼の腕を枕にした。素直に明け渡す久秀さまが可愛いらしくて他の男など今や霞んでいた。
「久秀様、愛していています」
「……我輩初めて身に沁みた」
「それは結構なことです」
そして二人でまた夢の中に転げ落ちた。
城を発ったのは次の日の朝だった。
2023/10/01