松永殿と恋煩い
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ゆく手を阻む者たちを次々と薙ぎ倒し、信長は先導する。
何者にも及ばないその圧倒的な力と悪運はまだ尽きないのだと誇示しているようだ。
退却で霧散する兵をその手でまた束ね、死地へ向かわせながら、己の命を魔王の首元に刃を当てながら打診する。
傲慢で不遜でそれでいて自信に溢れた男は撤退しながら確信していた。
最後に勝つのは己だ、と。
「策を弄して、この程度。俺に抗い、仕留められぬ者に次はない」
劣勢であろうと男にはこの先の戦況が見えていた。
展開する布陣と生き残った将兵が取るであろう行動すら、まるで神仏が脳内に降りてきたかのようにありありと浮かんだ。
そしてその
「伝令! 朽木元綱殿、織田軍に帰参」
それによると街道の通行を許可し、織田の負傷兵を匿い保護すると言う書面であった。
夜通し走り抜け、神経を研ぎ澄ましいつ精根尽き果ててもおかしくない状況で得た天からの情けの一手とも思えた。
織田の兵はその報に歓声を上げた。
「やりましたな、信長様。これで我らの首は繋がりましたぞ」
傍らに控えていた者が心底安堵したように息を吐いた。
国に残した妻や子にもう一度
そう言って走り抜けながら泣く者もいる。夜通し駆け抜け、織田の軍勢が朽木の城に辿り着いたのは空が紫に色付き始めた頃だった。
張り詰めた空気から逃げおおせ、一息ついた。
斬り伏せた者の血と泥に塗れた自分の身なりの何と酷いこと。
死肉に群がるハエどもが舞う中、駆け抜けた道を振り返る。
影が信長の前にちらついていた。
*
続々と織田の将兵が保護されるのを見届けてから久秀様と宗矩殿はやっと腰を落ち着けることが出来た。
私もただそこに居るだけに偲びなく、負傷兵たちの手当や救護に回っていた。
大したことなど何も出来ないが血を洗い、泥を洗い、傷付いた箇所を保護していく。
あまりに酷い傷には頭がくらくらする思いだったが、それでも続けた。
今にも絶命仕掛けている兵に、温もりを最後に与えられるのは彼らの家族ではない。
なればこそこの世を去る前にせめてもの優しさをくれてやりたいと思うのは人の情けではなかろうか。
負傷兵に向き合い、また慰めの言葉などかけていると兵たちは涙を流しながら謝辞を述べる。
安堵の中で母を呼び、妻を呼ぶ声が小さくなる時、私は彼らが逝くのを静かに送った。皆、安らかな表情で果てた。
何人目かが息絶えた時背後から声がした。
「精が出るねぇ、こまちゃん」
「宗矩殿、もう起きてきていいのですか?」
「拙者は普段からしっかり寝かせて貰ってるからねェ。たまには早起きも悪くないよ。それより、こまちゃんこそこんな仕事しなくて良いのに、良くやるね」
「私は何も……」
そもそも私が久秀様に連れて来られたのは最初から私のわがままの為であるし、連れて来られたとはつまり何かしらお役目を果たすべきだと思う。
しかし否定すると謙遜と取られたのか宗矩殿は苦笑しつつ「あんたは良く出来た人間だねェ」と逆に褒めて下さった。
「こまちゃんは人に尽くす事が苦じゃないんだろうね。それはなかなか出来ないもんだって。心の大きさってのが拙者や松永殿とは違うんだろうね。拙者が小指くらいの心ならこまちゃんはそれをすっぽりおおってしまうぐらいでかいってことさ。まぁ、女だからと言われちゃしょうがないけどさ。あ、ちなみに松永殿の他人へ割く心はノミぐらいしかないだろうけど」
「それは言い過ぎじゃ無いですか?」
「いや本当さ。こまちゃんがそのノミ程度の配慮を全て受け取ってるから気付かないだけだよ」
くすくす笑いながら主君を貶す家来。
そんなことも知らずに思うままに貶されている我が主は籠の中ですやすやと眠っている。
こちらも先刻まで起きていたのだがやっと張り詰めていた緊張から解き放たれたのだろう。
あぐらをかいて頬杖などつきながら夢の中を放浪されておられる。
「私たちの前では疲れなどおくびにも出しませんでしたが、気を張ってらしたのでしょう。やっとお休みになられて良かった」
かくんかくんと揺れる背を少し危なかったしいと思いながら主人をみやり、少し置いて宗矩殿を見る。
この人も寝ていないせいか隈が
それに何とも無いように見えるが、疲れからか少し手が震えていた。
手の皺に落としきれぬ血糊を見る。
そういえばこの人は今さっきまで人を斬っていたのだと改めて実感した。
「宗矩殿も痛い所は有りませんか?」
「おやぁ? 拙者の心配してくれるのかい?大丈夫、無いよ。拙者も松永殿も最初からこんな所来るの嫌だったしねェ。適当に自分達が傷つかないように、程々に恩を売って退却するってちゃんと決めてんのさ。あとは下心の為せる業かな」
「下心なんか持ち込む隙は無いでしょう?」
「有るよ。まだこまちゃんを抱かずにいるのに死ねないからね」
宗矩殿が私を見ながら揶揄う様ににやにやと微笑む。
私はまたその話かと、視線をそらす。
久秀様の傍に侍り、彼の口の端から流れる涎水を拭ってやる。
世話の焼ける主上は眠っていても手が掛かる。
「そんな冗談いつまでも言わないで下さい。どうせ他の女を金で買っておられるのでしょう?」
「そりゃあ男だからねェ。溜まれば発散したいし、発散させてくれる女もいるし金もある。でも、松永殿が君を下賜してくれれば拙者はそんなことしないよ? 好きな女を思いながら別の女を抱く男の気持ちを考えても見て欲しいねェ」
「考えたく有りません。一途な男はさっさと僧侶にでもなるもんですよ。正論じみた言葉で私を惑わすのはやめて下さい。久秀様みたいで気持ち悪いです」
「えぇ……松永殿みたいって手厳しいなぁ」
ぴくりと、宗矩殿の頬が引き攣った。
「せっかく手当して差し上げようと思ったのにもう良いです。宗矩殿、久秀様のお守りをお願いしますね」
「どこ行くんだい?」
「もう少し兵の皆様の様子を見て参ります。宗矩殿も休んで下さいね」
「変な男に捕まらないでよ」
「さぁ、どうでしょうね」
踵を返して宗矩殿から遠ざかる。
「気を付けて」と背後から声がしたので手を振った。殆ど彼らの姿が小さくなった頃合に振り向いた。
すると宗矩殿は大きな欠伸をしながら久秀様の乗った籠をゆさゆさと揺さぶって睡眠の邪魔をしていた。
久秀様の癇癪のような怒号が背後から聞こえた。
あとはもう知らない。
「ねェ、ちょっと松永殿ォ。こまちゃんいつ貸してくれるのよ。てかさっき起きてたでしょ。松永殿みたいで気持ち悪いって言われちゃったよ。どうしてくれるのよ」
「知るかボケなす! 我輩の生きてる合間にお前なんかに手を出させてたまるか! そして揺らすなアホ!」
「えぇー? なんでまだ生きてんの。てか気持ち悪いのは認めるの」
「気持ち悪いと言われたのはお主だろうが! 話をすり替えるな。お主など帰ったら解雇だ、解雇!」
*
信長の前に影がちらつく。
夜通し駆け抜け疲労困憊の我が身に、ついに幻覚が見え始めたかと思ったが、どうやらその影は幻では無いようだ。
その者は甲斐甲斐しく負傷した兵たちを介抱している。
不慣れであろうはずなのに、一生懸命であるなと彼は思った。
ぼんやりとその姿を遠目から眺めていると、配下の何名かは主君の姿に気づいたようだ。
その中に羽柴秀吉と前田利家がいた。
「信長様! よくぞご無事で!」
秀吉が駆け寄って来た。
この者には
利家は今にも泣きそうになりながら「良かった」と我々の生還を喜んでいじらしい。
この二人に限らず他の将兵皆、死地を潜り抜けたのだ。
彼の生還をただひたすら安堵する二人に信長は誰とも知れず目を細めた。
「……うぬらには世話をかけたな」
その瞬間、彼らは話をすっ、と中断した。何事かと一瞬戸惑った信長だが、二人が静止した一拍後に今まで堰き止めていたであろう彼らの涙腺が一気に緩んでいた。
何気なく呟いた信長の謝辞に二人は感極まって泣いていた。
「の、信長様がワシなんかを労ってくれるなんて……!利家……わしは生きてて良かった!ねねと会えなくなるのは辛いが、今やったら死ねる!」
「あぁ、そうだな! 生きてて良かったな!」
大の大人が二人しておんおんと泣き喚く姿に通りがかる者共が不思議そうな顔をしていたが己の為に尽くして泣いてくれる配下に信長は悪い気はしなかった。
その後、信長は秀吉ら配下の者の手引きで城の主である朽木の当主とまみえた。
彼は将と言うよりも商人と言われた方がしっくりくる出で立ちで柔和な顔付きをしていた。
ただその視線は抜け目ない。
「此度のはからい心から感謝する。うぬのお陰で織田は生き残れた。この礼は後日いたそうぞ」
「いえいえ……織田家の当主様のお噂は
頼みましたよ、と念を押す言葉に信長は「是非も無し」と頷いた。
その後は利に聡い秀吉や交渉に強い者を残し、少し疲れたと言って信長はその場を離れた。
先程の場所に戻るとまだ甲斐甲斐しく兵たちに世話を焼く者がいた。
その姿が不思議と気持ちを安堵させる。
ただそれが何故かは信長には分からなかった。
少し傍に近づいて声をかけてみた。
「生駒」
呼ばれた本人の肩はぴくりと反応し、そしてゆっくりと視線が彼を見つけた。
*
振り返ると信長がいた。
私をその名前で呼ぶのはこの人しか居ないからすぐに分かった。
恐る恐る視線を向けると、その目は疲労からか影が深くなっていた。
ただでさえ目付きの鋭い御仁であるのに人相の悪さにさらに拍車がかかり一層悪人の面構えである。
「信長様、お久しゅうございます」
ちょうど膝をついていたので、このまま三指をついて礼をした。
他の介抱に当たっていた者も信長の姿を認めると皆土下座をしようと膝を折った。
しかし、すぐに彼は我々の前に近寄りその腕を取って立たせた。
取られた私の腕は掴まれたままだ。
そのまま呆けていると、信長は言った。
「頭を付けるな。皆、世話になった。養生せよ」
私に言ったのではあるまい。
だが、意外である。
信長公とはこうも民兵に対し気さくであっただろうか。
そしてこちらとしては挨拶をしようとしただけなのだが、と、またしても呆気に取られ瞬きしていた私。
しかし織田家の兵の皆様は、感激という言葉の通り声を上げて泣いておられる。
主君に労われて皆報われたと、おんおん泣いておられる。
そう言えば先程も誰かが雄叫びを上げて泣いておられたがこの人の仕業だったのかもしれない。
皆様が涙で視界が悪くなっているのを見計らってかそうでないのか知らないが、私は信長公に連れ去られた。
幸い人目はポツポツある。
握られた手首が少し痛むので問いかけた。
「あの、どうかなさいましたか?」
「うぬは泣かぬのだな」
「どう言う意味でしょうか?」
本気で訳が分からずに首を傾げると信長は愉快そうにくつくつと笑った。
そしてなんでも無いと言うように首を振って、その手を離した。
「許せ、生駒。うぬがいるとは思うていなかった。女を連れて戦場に出るとは相変わらず久秀は酔狂よの」
そう言ってこちらを振り向く信長はどこか楽しそうである。
そして言っていることもまともであるから、思わず同意した。
「えぇ。お願いですから、今後こんな場所に私を連れて出掛けないように注意してやって下さいませ」
「努力はしよう。おれとしては酔狂な久秀を真似たいぐらいだが」
「連れて来られた女性に一生恨まれたいならお好きにどうぞ」
こんな悪態をつくも信長は私を手打ちにしない。
気に入られようとは思ってないが、手打ちにならないだけ好かれているのだろう。
気に入らない者にはとことん容赦しない方だから、神経を使うのは言わずもがなだが。
「女の恨みは恐ろしいからな……」
思い当たる節が有るのであろう。
信長はふと呟いた。
そして適当な箇所に腰を下ろしたあと、隣に座るように手招きされた。
少し間合いを取って腰を下ろす。
一応人通りが有る場所である。
襲われる心配は無かろうと指示に従った。
気を緩めると微かに彼から死臭がした。
「そういえばいつお戻りでしたか?」
「つい先程であるな」
なるほど、まだ疲れが抜けない表情なのも頷けた。
まだ満足に食事なども取られてはおるまい。
こんなところで私などとお話されるより休まれた方が良いのではと思った。
「なぜそんなことを聞く?」
「いえ、ただ信長様のお顔にお疲れの様子が見えましたので」
「であるか」
そういうと彼は深くため息をついて宙を見上げた。
暗殺者から逃れるために疾く駆けて来た様子がありありと浮かんだ。
ふと鎧を見ると、黒い汚れが覆うようにこびりついている。
死臭の正体はこれのようだ。
「返り血だ」
じっと見つめていたのがバレたのだろう。
信長公が言った。
このような物を身につけていて居心地は悪くないのだろうか。
その上休まれていないとしたら、気付かぬうちに疲労はますます溜まるであろうと思った。
「気になる、か?」
「えぇ、……まぁ」
「案ずるな、すぐに部下に変えさせる」
そう言うと、信長公は静かと笑った。
そして彼は私の手を取った。
私の掌の皺までじっと見つめている。訝しんでいるのが分かったのだろう。
口を開いた。
「うぬの手にも血がついているが、織田の負傷者の血だろうか」
「えぇ。手当する者が足りないと聞きましたので。でもまだこびり付いてましたか? 洗い落としたと思ったのですが……」
「気にするな。我が将兵が世話になった。お前にも、久秀にもな」
口元がふと、上がると同時に信長公が久秀さまの名を出した。
どうやらこの功績はきちんと信長公に伝わっていたらしい。
苦手な方ではあるが、主の評価をしてくださるならそれは決して悪くない。
少し頬が緩んだ。
「はい、こちらこそご無事で何よりでした」
柄にもなく親しみを感じ、笑顔が零れる。
信長公の瞳が驚いたように見開かれた。
そして口元を抑えて溜息などつかれている。
「うぬはそのように笑うのだな」
「だめですか?」
「いや……だめなものか」
そう言うと、信長公も困ったように微笑まれる。
その笑みに私の方が逆に驚かされた。
決してこのようなお顔をする人だとは思わなかったから。
「案外親しみやすかったのですね」
「何を言うかと思えば」
ひ弱な女で、特に殺しの理由もない私だからこうやって気まぐれに連れ立って話し相手にさせるのだろうか。
思えばあの宴の席でなぜ信長公が私をお気に召したのか不明である。
それに彼のお足元で過ごされていた時分、わざわざ訪ねてこられた時にすぐ気付かれた。
思いあぐねていると信長公は静かに言った。
「女には優しくありたいだけよ 」
「意外です」
「それで良い」
ゆっくりと信長公は立ち上がる。
そして私に手を差し伸べた。
どうやら掴めと言うらしい。
拒否などは出来ないのだろう。
大人しく付き従う。
「久秀の所まで送ろう。
「よろしいのですか?」
「なに、あやつには礼もせねばならぬしな」
掴んだ手の平は硬く、強ばっていた。
たくさんの人を切ったであろうその手の指にはまだ拭い切れぬ血のあとがついていた。
大人しくついて行き、人波をかき分ける。
途中何人かが信長公と気付いて会釈などされていた。
ひそひそと私の方を噂する者もいなくは無いだろう。
「変な噂が立たねば良いのですが」
「この信長と出来ているという噂か?」
楽しげに揶揄う信長公の言葉にまた驚く。
「そんなことを仰るなんてまた意外です」
「良いでは無いか。予は構わぬ」
「奥方に殺されてしまいます。信長様の奥方は久秀様を嫌っているようですので」
そして彼は得心言ったように「そうだな」と答えた。手に握る力が増した気がした。
「だが、うぬはお濃とはものが違うからな。久秀のものでなくなったらこの信長の元で舞えば良い」
「雇用でしょうか」
「信長の女になるのは嫌か?」
「側室は嫌です」
「ならば良き友人でいようぞ」
淡々と語るこの人は本当に信長公だろうか。
引きづられながら、少し混乱した。
が、こんな愛嬌のある一面を持つ方だったかと見方が変わった。
何より形はどうあれ好意的に自分を見てくれていると知り、安心した。
「おかしな方ですね」
「であるか」
「えぇ。とっても」
安心したら自然と笑みがこぼれた。
信長公も満足そうに口の端を上げていた。
面白い御人だ。話も程々に気がつくと彼は私を久秀様の前に帰還させた。
宗矩殿が最初に気付いて酷い物をみたときの驚愕した声を出した。
「うっわ。こまちゃんってば、言ったそばからまた男を引っ掛けて来て」
「何ですかその言い草」
「だから気をつけろって言ったのに。バカだねェ。で、こちらにおられるのは?えぇと……信長様かい」
視線を私に向ける宗矩殿に「そうですよ」と頷いて見せる。
その間、信長公は未だ手の平を握ったま宗矩殿を見ている。
私は苦笑いを浮かべて「そろそろ離してくださいますか」とお願いした。
離してはくれなかったが。
「あの……」
「生駒よ、予はうぬの手に触れることなど今後二度とないかもしれぬ。なればしばし待て」
「はぁ」
宗矩殿はと言うとその御仁の不機嫌そうな鋭い目付きを見てかなり困惑しているようだ。
目付きに関してはただお疲れのせいだが、しかしこの執心した態度である。
数秒唸って立ち止まる。
だが立場上要件を退けることは絶対できそうもない。
それから久秀様のいる籠に向けて「どうしようかなぁ……」と言いながら問いかけた。
「ねェ、松永殿ォ。今目の前に信長様がいらっしゃるんだけどどうする?」
「はぁ? 何を寝ぼけたことを。我輩はまだ眠い。お主も夢でも見ておるのではないか?」
「いやそれがさ、こまちゃんの手握ってるんだけど、どうする?」
勢いよく籠の簾が開いた。
刺すような視線が私を探している。
責め立てるような鋭い非難の眼差しをひしひしと感じる。
私は首を何度も左右に振って「これは違うんだ」ととにかく久秀様に伝えた。
しかし久秀様は私より信長公を相手にせねばならない。
あからさまな溜息などはつかぬまま居住まいを正した久秀様が今度は信長公を見て言った。
コホンと咳払いして「一体どのようなご用件で?」と問いかけた。信長公が口を開いた。
「久秀」
「はい」
「大義であったな」
「……は?」
呆気に取られて動けなくなった久秀様。
なぜそのような労いの言葉を掛けられているのか、この戦の一番の功労者は分かっていないようだ。それを認識させるように信長公はさらに追い討ちをかける。
「見事であった」
「は、は……あ、有り難き幸せ」
ポカンとする久秀様。そしてそのまま平伏した。
何がどうなっている、という表情だが感謝と労いに、己の仕事が認められたという充足を感じているようだ。
そして宗矩殿の方にも歩を歩まして、見上げる。
ビクリ、と巨躯の男が物怖じしている。
「拙者にまでなんでしょう」
「久秀の従者、うぬも大義であった」
「困ったねぇ……どうしよう、こまちゃん」
宗矩殿は恥じらうように頭をかいた。
そして「どういたしまして」とまるで子供のように呟いた。
その様子に私と信長公は微笑み、久秀様はアワアワと震えていた。
「ならば信長はもう行こう。久秀、うぬには後日達しがあろう。それまで気長に待て」
頭を下げて見送る久秀様。それに倣い、宗矩殿と私も頭を下げた。
ふと、お呼びが掛かった。
「生駒」
「はい」
「うぬへの言葉、嘘ではない。信長は楽しみに待とう」
去り際に掌で髪を撫でられる。
久秀様が何やら奥の方で奇声を放っていたが信長公には聞こえてないようで安心した。
「達者でな」と背を向ける彼に、私はまた頭を下げた。
「槍でも降るのかなァ……」と宗矩殿がそっと呟いた。
その後久秀様にこっぴどく怒られたのは言うまでもない。
「全く、お主はいつもいつも、いつもいつも変な虫を連れて帰ってきおって!」
「そんなこと言ったって私のせいではありませんよ。久秀様だって信長公に褒められて満更でもない顔してたじゃないですか」
「あれはとにかくびっくりしたの! 一体全体何をやらかした、こま」
心臓に悪いわ、と久秀様を言う。
宗矩殿も同じ心境のようだ。
思い出してはがくがく震えている。
その背を励まして、少し休むように言うと素直に頷いていた。
「小心者ですね、二人とも。帰ったら一緒にお風呂に入りましょうね。なんなら帰りがけに温泉宿に泊まっても良いでしょうね。綺麗な格好して美味しいものがたくさん食べたいです」
「全く、調子がいい女だな。まぁこまちゃんのわがままなんて珍しいし、この際望むならなんでもしてあげる! とりあえず今日は元綱と宴会でもしようかなっ! 織田の馬鹿どもはさっさと追い出して、こまちゃんと今夜はゆっくりするぞぉ」
「まぁ、久秀様ったら」
すっかり上機嫌になった我が君の頬に口付ける。
久秀様の目がぱちくりと瞬く。
通りすがりの者たちも見ては行けないものを見たように頬を赤くしていた。
それを見ても恥じらいを感じぬのは頭が働いていないからだったのだろう。
普段ならこんなこと他者の前でしないと自他ともに分かっているのにおかしな事だった。
「何だかやけに積極的だな。まぁ、我輩は嬉しいが。布団でも準備してもらうか」
お布団という単語が耳に優しい。
あぁそういえば私、寝ていないなと考えたが最後、自覚したら急に睡魔が襲ってきた。
久秀様の腕の中のなんと心地よいことか。気付いたら瞼がもう視界を遮っていた。
「あれ、こまちゃん? こまちゃーん…?」
久秀様の声がゆっくり遠のいて行く。
この瞬間、抗えないほど暖かくてとても幸せだった。
やはり何を置いてもこの人の側を離れるなど出来るまい。
20230906→2023/09/13
こちらが新本編になります。
前回書きましたお話は短編集に納めます。
間違い探しをお楽しみください。