現代人の松永さん
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携帯のアラームより先に痛みで目が覚めた。
本来なら昨夜酷使した首か顎関節辺りなら自業自得という所だが、手首が痛む。
あざになった左手首に視線を落として溜め息をついた。
時刻はまだ午前五時に届くか届かないかの所だった。
「湿布……どこだっけ」
私はまだ眠い眼を擦って戸棚の中の薬箱を探る。
かちりと昔ながらの緑色の十字を背負った木箱を開けた。
私の母が独身の時に買い、親元を離れてから今度は私も使い続けているせいか色々な薬品――特にアルコールとチンキ――の匂いが染み付いている。
今やそのものがなくとも強烈に鼻腔を刺激する衆に、私は毎度一瞬だけ麻薬のような快を覚えてしまう。
慣れてしまえば単に薬臭いだけなのだが、この一瞬が好ましかったりする。
冷湿布を取りだし、左の手首に張り付ける。
上手くいかずに下の方が皺を寄せていた。縦に皺を刻んだそれは昨日痣を付けた本人の眉間のそれのようだった。
何故あんな急に不機嫌になるのか。理由も意味も分からない。
しかし手首の赤い紋様は片倉さんの掌の形そのままである。
その人は居ないのにそこには痛め付けられた証がある。
薬箱の香りに似た何かを感じた。
私は木箱の蓋を閉めた。
パタンと少し大きめに乾いた音響がする。
戸棚にまた戻して、しばらく世話になるであろうと視線を反らしながら思った。
その視線の先で遮光カーテンの奥から光が漏れているのを見つける。
私はまだ薄ぼんやりとした頭をクリアにするために一気にカーテンの扉を開けた。
キラキラとした日差しが眠気を払うようだ。
ガラス窓を開けると、さらに部屋の中に爽やかな風が吹き抜けた。
ああ、気持ちいい。
私はまだ排気ガスに汚されていない初夏の澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。
コップに水を注ぎ、渇いた体を潤せば一層爽やかな気持ちになった。
しかし、私はバックの中に入れているピルに気をやると少し滅入った。
変えてもらったにも関わらず、体は一向に受け入れようとしないのだ。
当たり前の反応なのだろうが、今は飲む気になれなくて、視線を向けるに留めた。
気晴らしに散歩にでも行こうと思ったのもほぼ同時であった。
まだ涼しさの残る朝方にはカーディガンがちょうど良い。
散歩に出ているとランニングする人や犬を連れて歩く人をちらほら見かける。
都会だからその数も少なからない。
田舎育ちの自分だからか、この時間帯ならば農家の爺婆達が熱心に畑の様子を伺っているか漁師のおっちゃんならとっくに海に出ているのだろうなどと思い馳せる。
何人も何人も前から後ろから通りすぎて行くなかで、私に声をかけた者がいた。
「佐藤さんじゃないですか。おはようございます」
私は前方から掛けられた声に少し驚いた。
見覚えのある人物はにこやかに私に駆け寄ってきた。
「真田さん、奇遇ですね。おはようございます」
同じ職場で働く真田さんだった。
スウェットに身を包み、この人も走りに出ていたようだ。
爽やかな笑顔は朝日に照らされて益々輝きを増していた。
この人もとても美形である。
伊達店長や片倉さんが知的な雰囲気の美形ならば、真田さんは体育会系の爽やかな青年である。
人懐っこい笑顔にやられる女性客は少なからない。
「精が出ますね」
「動かないと体がウズウズするんです。
あぁ、せっかく会ったのですからコーヒーでも一緒にどうですか? ご馳走します」
にっこりと微笑む青年に私は頷いた。
「ホントに? 嬉しい。ありがとうございます」
彼は行きつけだと言うコーヒーチェーン店に私を誘った。
木の芳香漂う、落ち着いた店内は朝の日射しを優しく取り込んでいた。
朝方だと言うのに席を埋める多くの客を見て彼は言った。
「この店、朝にコーヒーを頼むと軽食もついてくるんです。
佐藤さんもメニューをどうぞ」
「じゃあカフェラテで」
「私はアメリカンにします」
窓の外に目をやる。
木の葉が柔らかな風に吹かれて舞っている。
強い風が少し秋の気配を滲ませていた。
「風が強いですね」
真田さんが呟いた。
私も「そうですね」と同意した。
「いつもあの通りを走るんです。
でも、佐藤さんに会うのは初めてです。
珍しいことも有るものだと思って」
「今日はたまたまです。
恥ずかしながら、いつもはまだ寝ている時間ですから」
「昼夜逆転は大変ですからね」
真田さんはニッコリと笑った。
運ばれてきたコーヒーの香りが鼻腔を擽る。
カフェラテの仄かな甘みにほっとした。
「真田さんとはなかなかシフトが被りませんね」
「まぁ、私は昼間の仕事もありますし、空いた時間で店長さんのお手伝いをしているようなものですから」
「そうなんですね」
「でも本業が手一杯になるとシフト通りに行かないときもあります。
そう言うときは、申し訳ないと思いながら千代や佐助に頼ってしまいます。
もちろん、働いた分は彼らに全部入るように頼んでます」
「昨日は久野一さんが来てました。
彼女がいると仕事がしやすくて助かります。
感謝してると言っておいてください」
「はい。ちゃんと伝えますね」
彼は自分のことのように嬉しそうに答えた。
朝からこのようにキラキラと
眩しい笑顔に接することが出来たのはとてもラッキーな事だと思った。
これならば飲むのが憂鬱な薬にもある程度我慢が効きそうな気がした。
「ごちそうさまでした。今日は真田さんはお休みですか」
「夜はお休みですね。昼間のは相変わらずで、今から出社です」
「そっか……あまり無理しないで頑張ってくださいね」
私がそう言うと、真田さんは背を向けて軽やかに駈けていった。
その背中を見送りながら、私は松永さんのことを思った。
きっと今頃診察の準備をしているんだろうと思った。
週末はきっとどこも忙しい。
でもそれを過ぎれば明日は会える。
「明日かぁ……楽しみ」
一人言を呟きながら、家に戻る。
コーヒーで多少覚醒してしまったものの、薬を飲んだらもう一眠りしようと思った。
眠りにつけば、苦しみから逃れられる。
副作用など怖くないと言い聞かせた。
一眠りして、ぼうっと過ごしていたらあっという間に出勤の時間だ。
朝に飲んでそのまま眠ったせいか、いつものどんよりした症状が緩和されているような気がした。
「佐藤、今日は機嫌が良いな?」
「わかります? 今朝真田さんと会ったんですよ」
「幸村と? よかったな。あいつの顔を見るとワシもやる気が出る」
「いっつもニコニコしてますものね。有難い存在ですよ」
「そうだな」
店長がにっこりと笑う。
まぁ、機嫌が良いのはそれだけではないのだが、わざわざ言う必要もないと思った。
店長は同年代とは思えぬ程に大人びて見える。
そうでなくては店の切り盛りなどは出来ないと承知の上で、この人のその背景は苦労が多かったのだろうと勘繰る。
それ以上に従兄弟だと言う片倉さんの影響も少なからずであろうとも思った。
その片倉さんは今日は休みなのかホールには見当たらなかった。
聞いてみると、
「小十郎なら用事で外に出してる。だから今日は佐藤が頼りだな」
そんな風な答えが帰って来た。
私ごときに頼んだなどと、店長においては私に信用を寄せてくれて本当に有難い事だった。
「はい。喜んで」
私は片倉さんに苛められない今日と言う日を頑張ろうと思った。
仕事に没頭すれば早いもので、気が付けばロッカー室にいた。
いつこの部屋に戻ってきたか、記憶が曖昧である。
着信があった。松永さんに電話を掛けた。
「もしもし?」
「あぁ、ゆきさん? 仕事は終わったようだね」
「はい。松永さんは?」
「外にいるよ。早くおいで」
まるで手招きするかのような声音で、彼は言う。
私は図らずも笑顔になる。
ロッカー室から足早に飛び出す。
店長に挨拶すると「気をつけて帰れよ」と手を振ってもらえた。
道路ではすぐに彼を見つけた。
手持ち無沙汰で暇であったのだろう。
自慢のアストンマーチンの車体をシートで軽く拭いている。
私に気が付くと、まずいと思ったのかはにかんだ。
私は駆け寄ると問いかけた。
「寒くないですか? 私は出てきたばかりだからいいけれど」
「まぁ、時間的に真夜中だが平気だ。羽織もあるしな。
それより早くのりたまえ。疲れてるだろう?」
「明日が楽しみだから、平気」
「若いな。タフで良いのう」
おちゃらけた感じにクスクスと笑いながら彼はドアを開けた。
車内からは芳香剤の香りがした。
以前乗った時とは違うが良い香りだった。
柑橘類にも花の類いにも似た香りに何の匂いなのかと鼻をひくひくさせていた。
「まぁ、我輩もその気になって欲しくて色々頑張っちゃったがな」
「その気?」
「う~ん? エッチな気分に決まっておろう?」
「松永さんったら……」
まぁ、確かに昨日とは違う香りに少し脳味噌がとろけ始めても来ている。
嗅覚は至って原始的な部分であるから、それに上手く作用されると心にまで影響するのは自然なことであった。
助手席のシートに滑り込むと、彼も確認してからパタンとドアを閉めた。
動作が丁寧で本物のドアマンかと思うほどだ。
「では、送っていきましょう? あ、出来ればコーヒーとか、我輩ご馳走になりたいなぁ。佐藤さんの部屋で」
隣で彼は囁いた。
いきなりの申し出だったが私は困りはしなかった。
表情を見ると悪巧みしているようだった。
意図的であるのは彼がウインクしたから分かった。
「コーヒーくらいなら良いですけど、明日のお仕事は大丈夫ですか?」
「夜も遅いから長居するつもりは無い。ただ、昨日のお礼がしたくてね」
「お礼?」
お礼をされるようなことなどあったかと首を傾げる。
松永さんは口笛など吹きながら至って上機嫌であった。