現代人の松永さん
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ピルは飲み続けている。
飲み続けないと効果がないと松永医師が言っていたから。
生理が来るまでの辛抱と分かっていても、効き始めのこの不快感は馴れない。
仕事場で迷惑をかけないように飲む時間を調整してはいるが、そのときの体調によってもばらつきが出てくるので何ともない日や吐くほど辛い日も中にはある。
ただ、店長や副店長、あるいは同じ職場のスタッフに迷惑はかけないように平然をつくろって出勤していた。
男ばかりでたまにしか女の子が出勤してこないものだから誰かに話すと言う機会もなかった。
そんな折、貴重な女子の出勤日と重なったた。
「佐藤さん、おはようございます」
「おはようございます」
元気良く挨拶してくれたのは久野一千代さん。
彼女は常用の真田さんの紹介で勤めている。
とても明るく、私よりも若くあどけなく見えるが、同年の真田さんよりも年上というから驚きである。
それゆえ女子というには語弊があるかも知れないが、女子会やら女子旅やら五十、還暦間近となってもそんなネーミングが通用するのだから、久野一さんくらい可愛らしくて素敵な女性なら何も問題は無かろうと思う。
「なんだか会うの久しぶりですね」
「そうですにゃあ。久々過ぎて仕事の動き方を忘れていなきゃあ良いんですけど」
「何をおっしゃる。久野一さん、私よりもテキパキ仕事してくれるから捗りますよ。
それに真田さんやたまに手伝いに来る猿飛くんだと、女のお客さんに持てるから一々声を掛けられて仕事の手が中断されちゃうんですよねぇ。
店長や片倉さんもしょっちゅうですけど、イケメンが多いのも困りものです」
「え~? 幸村さんは分かりますけど、佐助まで持てるってどゆこと?
アイツ絶対猫被ってるからね」
エプロンを着けながらそんなガールズトークをしていると、久々に気持ちが晴れて来る。
今日はどちらかと言うとあまり調子が良い方ではなかったのだが、やはり同性とのコミュニケーションというのは無くてはならない大切なツールであると思った。
「それよりさ、ゆきちん」
不意に久野一さんが名前を呼ぶからビックリした。
目をパチパチさせていると、ずいっと軽い身のこなしで迫ってくる。
「なんかあった? 顔色悪いし」
「いえ、特には」
「嘘つき。
久々に会ったらちょっと太めになってるし、自棄食いでもしたの?
まさか、失恋……とか」
じっと目を見つめる久野一さん。そう言うわけでは無いのだが、太めになったという言葉に少なからずショックを受けた。
そうか、太っているのか私は。
男性と違って体型に対しての許容範囲が割りと広めの女性目線で見てもそう思われるのなら、異性の目は言わないだけで心の中は手厳しそうだ。
その上、「お姉ちゃんに話してみないかにゃ?」と興味津々である。
何もないと、はぐらかしたら余計に突っ込まれそうで、私は困り顔のまま答えた。
「薬ですよ。お医者さんから出されたんですけど、中々合わなくて困ってるんです。
副作用ってやつですね。
飲み続けないとダメだって言われるし、嫌になります」
「なにそれ大変だぁ! ゆきちん、癌とかじゃないよね! ね!」
「癌の薬も大変らしいですものね。
でも、生死に関わるものじゃ無いんですよ」
だってたかが無月経である。
そんなことと大病を比べたらそれこそ病と真剣に戦う者に失礼であろう。
生理が来ないから薬を飲んで勝手に体を壊している。
いや、薬を飲むことや生理が来ないことは別に問題ではない。
その結果に至るまでのプロセスが問題ではないか。
生活習慣、嗜好、交遊関係、その他もろもろの要因が合間って私の女性としての機能の一部が沈黙しているとしたら何かを手放すか受け入れるべきなのだが、その何かが今のところ薬であるという、ただそれだけの事だった。
こう言うのを「矛盾」というのだろう。
だけど久野一さんはキッパリと言う。
「チッチッチ、病に大も小も無いのだよ。
小が転じて大になったりするでしょう?
この年になるとあちこち不調だらけだっつのに、童顔のせいで誰も気遣っちゃくれない。
嫌になるぜ」
はぁ、とこれ見よがしに溜め息をついて見せた彼女に私は微笑んだ。
「久野一さん」
「なぁに?」
「見た目の年齢って、そのまま中身の年齢らしいですよ」
「それって私は考え方が幼いって事かにゃ? 言うのう、お嬢ちゃん」
コツン、と軽く握った拳で額を突かれた。
にやっと冗談めかして口許をあげる久野一さんに、私は暫く思考し、納得する。
私もその不敵な笑みにちょっとだけ感化されて、にやっとお互い悪い顔になる。
「内臓の方って言いたかったんですけど。
でも、思考もお若いと思います。お姉さま」
「お、嫌味か? 分かってるよ。お姉さまは」
ケラケラ二人して笑っていると、扉を叩く音がした。
ビックリして静まると、副店長の声がした。
聞こえていたのか少し呆れている。
「いつまで寛いでるんですか? お客様がお待ちですよ、お嬢様方」
目を見合わせる。
私たちはさっきの威勢は何処へやら、小さく苦笑する。
久野一さんが静かな声で呟いた。
「さて。お仕事、お仕事」と。
*
それにしても女性が一人いると、こうも職場の雰囲気は変わるのかと驚きだ。
というのも、久野一さんが私の体調をさりげなく慮ってくれるからとても楽に仕事が出来るのだ。
お姉さまの力は偉大である。
それにいくら他に比べて女性のお客様が多いと言え、男性客の方が割合は多い。
女性客はうちのイケメンが適当にあしらっても、全てをカバーする久野一さんの力には遠く及ばないと思った。
「久野一さんがいると助かるなぁ……ね、片倉さん」
男性とも女性ともニコニコ会話している彼女に脱帽する。
居酒屋の店員らしく、酒と肴の情報提供もバッチリだ。
その上、客に注文させた酒を目の前でブレンドして見せたり多種多様な芸をお持ちである。
提供される側も――特に男性は――ご満悦そうだ。
「確かにそうですね。
こちらも厨房にだけ集中できます。
でも、あれはあの人だからこその持ち味でしょうね」
「あぁ、勿体ない。常用さんじゃないんですもんね」
「彼女は幸村くんのピンチヒッターですからね。
彼女でもないのに良く働きます」
片倉さんも私とはきっと違った意味で「勿体ない」と呟いた。
「それにしても、久野一さんと言い猿飛くんと言い、真田さんは良いお友だちがいて良いなぁ。
人柄なのは分かりますけど」
「あなたの人柄も十分素敵だと思いますよ」
「またまたぁ」
「ただ、無理を推すのは止めてくださいね。倒れられても商売の邪魔ですから」
「片倉さんのそう言う一言多いところも素敵ですよ」
少し嫌味かと思ったが、釘を刺すと片倉さんはパチパチと目を瞬かせた。
そして私の方に身を乗り出して名前を呼ぶ。
「ゆきさん」
かなりの至近距離に戸惑ったが堪えた。
「はい」
「あなたの気の強いところは特に素敵ですよ」
「つまり逆らうなと」
「そんな事は言ってません。
ただ、素敵な鼻っ柱を折ってやりたいなと思っただけです」
「そうですか。今の言葉をそっくりそのまま大事な店長に言ってあげます」
「あの人にそんな言葉を言ったら暫く立ち直れませんよ」
厨房の奥で一生懸命にフライパンを揺する店長にチラリと視線をやる。
私たち下端より一番働いているだろう。
脇目もふらずに、汗水垂らす青年に私は考えるに留めた。
「相変わらず優しいんですね」
「店長が優しいからです」
「私には手厳しいのに」
「それは片倉さんが要らぬことを言うからです」
お互い負けじと視線を合わせたままだ。
犬のケンカと同じで視線を反らしたら負けのような気がした。
しかしにらめっこは圧倒的な身長差で打ち負かされた。
「何で迫ってくるんです」
「こうすれば不機嫌そうなあなたの顔を見なくて済みますから。
女性の困ってる顔は好きですし」
「セクハラで訴えますよ」
「お好きにどうぞ」
片倉さんはずいずいとにじりよって来る。
私は顔の前に掌を突き出して壁にした。
手首を掴まれた。
振りほどこうとするとその手に力が籠った。
痛みを感じるくらい強いので顔をしかめた。
無表情のままの片倉さんが囁いた。
「そう言う顔は堪らなく、そそるのですがね」
「痛いです」
「もっと痛め付けたら、私好みの表情をするのでしょうか」
私の言葉などお構い無しにギリギリと締め付けられる手首。
チラリと見ると若干、痕が付いていた。
つけた本人もそれに気付いたが、なに食わぬ表情をしていた。
「すみません。乱暴にしてしまって」
「思ってもいない癖に良く言いますね」
睨み付けると、その瞬間だけ楽しそうに目を細めた。
痛む手首を押さえながら溜め息をつく。
すると奥の方から店長が顔を出した。
「佐藤、二番テーブルにこれ運んでくれ」
「はい。分かりました」
私は片倉さんを見もせずに、店長に言われた通りお客様の元へと向かった。
「仕事中に何してる、お前ら」
「お気になさらず。にらめっこです。
それにオーダーは入っていません」
「そう言う問題ではないわ。佐藤のあんな顔初めて見たぞ」
「ふふ。あなたと同じで可愛らしくて、つい」
「佐藤を苛めるのはやめてやれ。三十路を過ぎて小学生か」
「そうかもしれませんね。良い歳した大人なんですけど、こう言う衝動には中々抑えが利かなくて困ります」
「鬼畜眼鏡め」
「今はコンタクトです。政宗さんはゆきさんに好かれていて羨ましいです」
「あのなぁ……わしが好かれとるのでは無くて小十郎が要らぬ世話を焼くから佐藤が怒るんだ」
溜め息をついた店長と、それに対して愉悦そうにクスリと笑う片倉さんの声が聞こえた。
そろそろ上がりの時間だった。
*
まるで屍体のようだ。
我ながら自分に鞭打って良くやったものだ。
鏡を見ると化粧をしているはずの顔なのに、目の下にはくっきりと縁取ったように隈が浮かび上がっている。
鏡の前の見知った他人にがっかりして肩を落とす。
私なら大丈夫――そんな風に思い上がっていたが、それこそ最初からしくじっているとしか今なら思えない。
ロッカー室でつかの間の休息を堪能する。狭い空間で俯いて居られるのが何より今は安心した。
携帯を確認する。pm11:03.
着信あり。pm10:38.
確認すると松永さんだった。
私は折り返し電話をかけた。
「はい、もしもし」
「もしもし、佐藤です」
「お疲れさま。今仕事終わり?」
「はい。松永さんは?」
「こっちも仕事を片付けていた。
君の声が聞きたくなって電話をかけてしまった。
本当は迎えに行ってあげたいんだけど、すまんね」
「いいえ……嬉しい」
何となく嬉しい。
優しい言葉だけで私は満足だった。
それに今、この顔を見られるのは少し恥ずかしい気もした。
Bluetoothに切り替えて、軽くメイクを落としていく。
厚化粧が嫌いな為、アイメイクとリップ、それとフェイスパウダーのみで比較的簡単に私の仮面は出来上がる。
だけど、夜も更けてきたとは言えこの屍体のような表情だけは隠したかった。
久々にコントロールカラーを使い血色なるものを復活させ、目の下の隈はコンシーラーで覆った。
少しだけ自分が戻ってきた。
私はここで初めて化粧の本当の意味を知った気がした。
化粧とは「ばける」と「よそおう、めかす」の意味だ。
自分の今のコンディションがあまり良くなくても、いつも通り美しくいたい。その美しさとは自分の理想ではなく、普段の快活とした自分であろうと思った。だからこそ死んだ人間にさえ化粧を施すのだろう。
まさに死人のような自分がせめて病人程度の顔つきに戻ってきたところでそんなことをふと考えた。
会話に戻って問いかける。松永さんの声は耳に心地良い。
「松永さんのお仕事は難しそうですね」
「難しくはないが面倒くさい。
毎月患者のレセプトを作成するのだが、事務員のミスがないか、ある程度チェックしている。
何でも自分でやらないと気が済まない性質だから仕事ばかり増える」
「れせぷとって?」
「書類だよ。それが通ると国からやっと給料が貰える。
君は保険料が三割でしょ。
残りの七割を貰うために我輩は昼夜を惜しんで働いておる。
そんな自分が嫌になる日は多い」
「ふふ、嫌にならないで。当てにしてる人は多いんだから」
「本当だって。でも、佐藤さんに誉められるなら自己肯定してみよう」
電話の向こうで嬉しげに微笑む姿が浮かぶ。
時折カチャカチャと陶器のぶつかるような音がした。
「コーヒーでも飲んでいるのですか?」
「良くお分かりで」
「この前も飲んでましたから」
「そうだったか。まぁ、習慣だからな。またの名をホリック」
「コーヒー中毒?」
「そーゆーこと。
君と喋ってると楽しいよ。
そのうち佐藤さん中毒になりそうだ」
「まだ何もしてないのに?」
「でも何かしたい下心はある」
「素直な人ですね。私も……」
言いかけて口をつぐんだ。
私は何を言おうとしたんだろうか。
でも、松永さんは私にそれらしい体裁を繕わせない雰囲気がある。
良く言えば自分の気持ちに素直にさせてくれるが、せっかく隠している欲望が丸裸にされるようである。
続きを待つように彼は繰り返す。
「私も、何?」
その問いかけた口調がとても期待に満ちていて、少しだけ恥ずかしかった。
私はロッカーの中に目をやる。
鏡と目が合う。
ゆっくりと吐息を吐いてから小さく答えた。
もう少し焦らしたって良いだろうなんて意地悪したかったが、直接的な表現を避けたに過ぎなかった。
「私も……会いたいです」
「それは土曜日にね」
彼の優しげな口調が私の気分を解していく。
笑みが零れる。
鏡の人も機嫌が良さそうである。
今なら会えそうだな、と思ってはみたが仕方がない。
残念そうに「そっか」と呟くと松永さんは唸った。
「むぅ……そんな声を出されたら参ってしまう。
本当は今すぐ迎えに行きたいんだが」
「平日ですから良いですよ。
夜遅いし、明日も頑張って下さいね」
「ちょっと待て……そんなあっさり切るのか?
悔しいな。何だか男妾の気分だ。
10分も有れば行けるから待ってなさい。
この前のタクシー拾った所に行くから」
「え……あぁ、はい」
予想外だった。
松永さんはそう言うと電話を切った。
ツーツーと音がする。
はにかんで苦笑した。
「良いって言ったのに勝手だなぁ」
荷物を取り出して、忘れ物がないか確認する。
私はロッカー室を出た。
店長と片倉さん、久野一さん、それと私の後に入る人の影がちらりと見える。
皆、忙しく働いていた。
「お疲れさまです」
私の言葉にそれぞれの「お疲れさま」が返ってきた。
裏口から回って、足早に待ち合わせ場所を目指す。
まだ来ていないようだ。
ベンチに腰掛けると、冷たい風が頬を撫でた。
そのすぐ後に短いクラクションが鳴った。
私の目の前に停車し、窓が下がった。