松永殿と恋煩い
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日が落ちた。紺色の夜だ。
私が帰ると、信長様は当然の事ながらすでにお帰りになられていた。
開け放たれた障子の奥から久秀さまがゆったりと茶をすする背などが見える。
私は庭から一直線に久秀さまのいる居間へと掛け上がる。
少し驚いた表情の彼と目があった。
「おかえり、こま」
「信長様に何かされませんでしたか? どこも痛め付けられておりませんか?」
私が捲し立てると、久秀さまは「待て待て」と両手を前にして落ち着くように促した。
「なんだ、我輩の心配などして。お主の方が心配だったから家臣どもの方に行かせたのに」
「何もされておりませんね」
「あぁ。大丈夫」
私はホッと息をついた。
自分ではどうしようもない胸のつっかえが、すぅっと抜け落ちた気がした。
私は久秀さまの隣に、まるで己が主人かという素振りで腰をおろした。
蚊が五月蝿く鳴いている。
もぐさを焚いて、それを寄せ付けぬようにして後ろ手に障子を閉めた。
久秀さまの視線が私に向けられている。
手のひらが茶碗から私の膝に移った。
少しばかり冷たい気がした。
「実はな、信長から京に帰っても良いと許しが出たのだ」
私は少し驚いた。
随分前から帰りたいと言ってはいたが、まさか信長が許しを出すとも想像していなかった。
思わず久秀さまの顔を窺う。
彼はそんな私を見て小さく苦笑を漏らした。
「あと、信長にお主のことを聞かれた」
私はしばらく何のことかと思った。
今朝のあの剣幕の後、どう言った経緯があったのか私には不明であった。
「それで?」
問いかけると、久秀さまは目を閉じた。
そのままふっと表情を崩した。
「お主が良いと言うか否かは分からないが、我輩はお主に側にいて欲しいのでな。そう言う願いも含めた上で、我輩はお主を伴侶だと信長に言った。お主がよしとしなければ、我輩は主君を謀ったのであろうな」
今度はくくく、と餓鬼のように笑う。
私はまたその話か、と呆れた。
いい加減この人もしつこいのだが、堂々と上司にまで嘘の報告をする根性にはたまげてしまう。
「そんなことを」
「驚いておった。あの若造」
私は久秀さまが面白がってからかう様子が目に浮かんだ。
ついこの間痛い目を見たと言うのに、何度も信長にちょっかいをかける彼は子供のようである。
「そんな表情をするな。無理強いはせんと常々言っておる」
しかし、その膝に掛けられた掌は今にも私を凪ぎ伏せて、体ごと覆い被さりそうである。
そっと余所に動かぬように繋ぎ止めると、久秀さまは自分なりに満足してさらに指先を絡めた。
本当に無理強いしないかなどは本人にしか知れないのに、行動が伴わないままで久秀さまは私に理解を求める。
「久秀さま」
「ん?」
「説得力がございませんよ」
「むっふふぅ、説得する気など毛頭ないからな」
そこまで言われると呆れるしかないのだが。
そう思うや、久秀さまは私に向き直って、頬を撫でた。
肩肘をついてしばらく何やら観賞するように凝視されるとふと魅惑的に吐息を漏らした。
「今夜は少し冷える。一緒に寝ようか」
「嫌ですよ。冬でもないのに暑苦しい」
「じゃあ、背中を洗っておくれよ。こまちゃん」
「本当に背中だけですよ」
「構わぬよ」
「ご飯は何を食べたいですか?」
「簡単で良い。漬け物もあるしな」
「かしこまりました」
私はそっと席を離れる。
食事も風呂も今からするには骨が折れる作業だが、久秀さまが大嫌いな主君と
対峙したのだから労ってやらなければなるまい。
「なぁ、こま」
「何でしょうか? 旦那様」
「お主は良い女だな」
彼は呟くように私を賞賛する。
少し照れ臭いので何も言わなかった。
「我輩の好みで見てくれが美しいのは当然の事ながら、中身が良い」
「久秀さまの好みに合う顔で嬉しく思います。中身は……自分では分かりませぬ」
「その年で自分を分かりきっていたら我輩が作り替える意味が無くなる。自分好みに出来るから若い娘は可愛いのだからな」
「そうですか」
「そうだ」
久秀さまの頷くより早く、私は土間の方へと背を向ける。
話していると腹が空くばかりだ。
米を水に浸してから、釜戸の火を起こし、風呂を掃除する。
それだけで半刻はかかると言うのにいつまでもお喋りは出来ない。
それに久秀さまの話に付き合うといちいち顔が火照ってしまう。
だから「まだまだ若い」と言われるのだろうかと思いを巡らせた。
「こま」
「はい」
久秀さまがすぐ後ろから名前を呼んだ。
どうやら板間の方まで来たらしい。
草履に履き替えて、土間まで降りて来て私の隣に立った。
米を研いでくれるらしい。
その間に釜戸に薪をくべて火打ち石を鳴らす。
藁の束に火がついたのを見てから、それを釜戸に放り投げた。
久秀さまがふと問いかけた。
「京に行ったことはあるか?」
「仕事で何度か」
「我輩が三好家に仕えていたのは知っているな?」
「えぇ。天下の弾正様ですから」
手が煤にまみれる。
気にせず、今度は風呂の方へと向かう。
土間と風呂場は一続きであるから、
久秀さまの声も聞こえる。
風呂桶を洗いながら、次の仕事を考える。この人の趣味で檜で出来ているためか、きちんと磨いてやるとぼんやりした頭にも爽やかな木材の香りが舞い込む。
「昔な、三好の屋敷にも旅の一座が来たことがある」
「そうですか」
「すだち女……小少将の主宰だったから癪に障ったが」
「すだちがお好きな方なんですね。その方」
「あぁ。でも悪くなかった。そこにな、天女さまが来たんだよ」
私は聞きながら首をかしげた。
久秀さまに天女さまなどと言われるくらい芸が優れていると言うことなら、少し嫉妬もした。
久秀さまはあらかた台所仕事をこなしてくれるらしく、包丁の小気味良い軽やかな打音が聞こえた。
洗い終えると、今度は井戸から予め貯めておいた水桶から浴槽へと水を移し返る。
一杯になったら先程と同じく、風呂を沸かすためまた煤にまみれる。
気づかぬが、いつもより汚れ放題な私を見て久秀さまは小さく笑った。
「我輩がお主の背を流してやるのが先のようだな」
「そんなに汚れてますか?」
「頑張りすぎだ。鼻の頭にも黒いのが付いている」
久秀さまは「やれやれ」と言いながら私の鼻を自分の袖で拭う。
以前もこのようにしてもらったが、自分の身分などこの人はあまり興味がないのかと思った。
「天女さまは美しくなくてはな」
「私はそんな大層なものではありません」
「分からなければ良いのだよ。それより、信長が帰って良いと言ったからそれに甘えようかと思っておる。お主もつれていくつもりだが、どうだ」
「私は久秀さまに従うのみです。今の主人はあなた様ですから」
そう言うと久秀さまは満足そうに目尻を垂れさせた。
「なら、遠慮なく連れて行くからな」
「仰せの通りに」
私が答えると久秀さまは優しげな笑みを溢した。
その慈しむような瞳に思わずどきり、としたのは胸の内に仕舞まった。
その日の晩は風呂も寝所も一緒に過ごした。
何もないのが不思議な夜であった。
ただ、私は確実に久秀さまに心を許していた。
20180318