名も無き世界のユートピア
とあるレンガの家が立ち並ぶ町、その中にある一周りも2周りも大きい立派なお屋敷。
大きな門を抜け、噴水のある中庭を通り、屋敷の外周をぐるっと回れば、そこにはまた大層立派な温室がある。
温室の中、ピシッとスーツを着た一人の若い男と、黒いドレスに、黒い薔薇のコサージュ、ふわりと輪を作って結ばれた髪に白いリボンを纏わせた少女がいた。
少女はビニールの小さなプールに足を付けてぱちゃぱちゃと遊ばせながら本を読んでいる。
「……あの、お嬢様」
男は少しずれて少女に声をかける。
少女は本から目を離さず、水を飛ばしながら話を続けた。
「何かしら、ウェルター」
「……つかぬ事をお伺いしますが、一体何をなさっていらっしゃるので?」
「あら、見てわからない?水浴びよ、水浴び」
――いや、まぁ……そうとしか見えないのは、確かにそうなのだが。
アホ面を浮かべる男とは対象的に、ふふん、と鼻を鳴らして、少女は随分と機嫌が良さそうに笑う。
「母様が用意してくださったの。温室でも楽しく過ごせるようにって」
あぁ、だから機嫌が良かったのか。男、ウェルターは心の中でひとりごちた。
この温室育ちのお嬢様はとてもわがままで、気分屋だ。普段からやれ「愉快な踊りをしなさい」だとか「何か面白い話でもしなさい」だとか、それはもう無理難題を押し付けてくる。
そのため、普段から彼女の機嫌を取るのにも一苦労なのだが、今日はすでに機嫌が良いことに、内心ほっと胸をなでおろした。
「外は日差しが強くなってきましたからね。水を使った遊びをするには丁度いい時期かもしれません。……が、あまり調子に乗って落ちて溺れないようにしてくださいね」
「あなた、私をなんだと思っているのかしら?」
顔を顰めるお嬢様。……どうやら機嫌は良かれど、冗談はお気に召さなかったらしい。「ものの例えです」とウェルターは眉を下げ気味に笑った。
「それで、何か奥様とはお話しになられたのですか?」
これ以上機嫌を損ねても仕方ない。話題を変えよう、ウェルターはお嬢様が撒き散らした水を足で伸ばして拭きながら訊ねた。
「えぇ。今年はとても穏やかな気候なんですって。だから外に出してあげられるかもしれないわ、って話してくださったの」
キュ、と音を立てウェルターの足が止まる。刹那の沈黙のあと、何食わぬ顔で再び足を動かした。
「……そうですか」
「やっとこの狭い温室の外に出られるかもなのよ、私。この日をどれだけ待ったことか!」
よほど外に出られるのが嬉しいらしい。彼女は近くの小机に本を置き、再び水をパシャパシャと跳ねさせた。
「お嬢様はお体が弱かったですから。仕方ないですよね」
彼女は体が弱い。常に気温や湿度が適度に保たれた部屋でないとすぐに体を壊してしまう。そのため、この温室が一番彼女の身体に良い、と、家主……彼女の言う母様なりの気遣いだった。
「えぇ。他のお友達たちはみんなお家で暮らしたり、外へ行ったりするのに、私だけずーっとここなの。どうしてかしらね」
だがしかし、親の心遣いを子は知らない、とはよく言ったもので、彼女も当然、母の思惑など知る由もないのだが。
「良かれと思ってですよ」
「でも寂しいわ。母様は時々しか私のもとへ来てくださらないし、外に行ったお友達も、みんな私の顔を見に来てくれやしない」
口をとがらせてより一層水をはねさせる。「あまり暴れると水がなくなります」とウェルターがやんわりと窘めるが、お嬢様はぶすくれたままだ。
「ウェルターはいいわよね、外に出られて」
「まぁ私は使用人なので。他の仕事もありますから」
「ふーん。……、ねぇウェルター」
「はい?」
水面に映る自分の顔をじっと見つめるお嬢様。ウェルターは首を傾げた。
「貴方は、今すぐ私をここから出してと命令したら、言うことを聞いてくれるのかしら」
彼女は顔を上げ、金糸雀色の瞳がじっとウェルターの視線を絡める。引き込まれそうなその美しさに、ウェルター息を呑んだ。
「……それは、私の判断では、できかねますね」
ウェルターは自嘲気味に目を伏せた。「お嬢様のお望みならば、聞いて差し上げたいのは山々なのですが」と申し訳なさそうに付け加えて。
その答えに「そう」とだけ返して、お嬢様はふい、と目線を逸らした。
「……怒ってらっしゃいますか?」
「別に?私、そんなに短気じゃないもの」
更に顔をそらす。……あぁ、ご機嫌斜めだなぁ、などと思いながらウェルターは思わず苦笑い。
「……今すぐに、はお応えできませんが」
そう言ってウェルターは彼女の髪にサラと触れる。
その感触に気づいたのか、彼女もウェルターの方へ視線をよこした。
「……いつか、雲一つない大空を、その目でご覧いただきたいものです」
ウェルターの手は髪から彼女の頭へ。優しく撫でるその手つきに、彼女も心地が良くて機嫌を直したのか、はたまたその言葉が嬉しかったのか「そう」と柔らかく微笑んだ。
「約束よ」
「えぇ」
二人は小指を出しあい、ゆっくりと絡ませる。
誓いを立てるように、ゆっくりと。
特に相手に不利益なことを課すような言葉は言わず、ただ握手をするように、その小指を絡ませた。
「さ、気が済んだわ。プールを片付けておいてちょうだい。あと、そのへんに散らばった水もね」
ぱっと手を離せば彼女は上機嫌気味にプールから足をあげ、その場でくるくると回る。……濡れた足で歩かれると余計に片付けが大変なのだが。ひとまず足を拭いてもらおうと、どこかへ行こうとする彼女を呼び止めるのであった。
「……残酷な人ね、大空を見せてあげる、だなんて」
「 あの鳥 はここでしか生きられないのに」
「だからきっと、あぁして叶わない約束をするのね」
「――まるで、誰にも渡さないと言ってるようだ」
鳥のように小さなささやき声は、二人には聞こえることはない。
とあるレンガの家が立ち並ぶ町、その中にある一周りも2周りも大きい立派なお屋敷。
大きな門を抜け、噴水のある中庭を通り、屋敷の外周をぐるっと回れば、そこにはまた大層立派な温室がある。
その温室には、金糸雀が住んでいるらしい。だが、それを見たことがあるのは、この家の主と、隻眼の使用人だけ。
ここは、彼女のための 鳥籠 。
彼女が唯一、生きることのできる世界なのだ。
大きな門を抜け、噴水のある中庭を通り、屋敷の外周をぐるっと回れば、そこにはまた大層立派な温室がある。
温室の中、ピシッとスーツを着た一人の若い男と、黒いドレスに、黒い薔薇のコサージュ、ふわりと輪を作って結ばれた髪に白いリボンを纏わせた少女がいた。
少女はビニールの小さなプールに足を付けてぱちゃぱちゃと遊ばせながら本を読んでいる。
「……あの、お嬢様」
男は少しずれて少女に声をかける。
少女は本から目を離さず、水を飛ばしながら話を続けた。
「何かしら、ウェルター」
「……つかぬ事をお伺いしますが、一体何をなさっていらっしゃるので?」
「あら、見てわからない?水浴びよ、水浴び」
――いや、まぁ……そうとしか見えないのは、確かにそうなのだが。
アホ面を浮かべる男とは対象的に、ふふん、と鼻を鳴らして、少女は随分と機嫌が良さそうに笑う。
「母様が用意してくださったの。温室でも楽しく過ごせるようにって」
あぁ、だから機嫌が良かったのか。男、ウェルターは心の中でひとりごちた。
この温室育ちのお嬢様はとてもわがままで、気分屋だ。普段からやれ「愉快な踊りをしなさい」だとか「何か面白い話でもしなさい」だとか、それはもう無理難題を押し付けてくる。
そのため、普段から彼女の機嫌を取るのにも一苦労なのだが、今日はすでに機嫌が良いことに、内心ほっと胸をなでおろした。
「外は日差しが強くなってきましたからね。水を使った遊びをするには丁度いい時期かもしれません。……が、あまり調子に乗って落ちて溺れないようにしてくださいね」
「あなた、私をなんだと思っているのかしら?」
顔を顰めるお嬢様。……どうやら機嫌は良かれど、冗談はお気に召さなかったらしい。「ものの例えです」とウェルターは眉を下げ気味に笑った。
「それで、何か奥様とはお話しになられたのですか?」
これ以上機嫌を損ねても仕方ない。話題を変えよう、ウェルターはお嬢様が撒き散らした水を足で伸ばして拭きながら訊ねた。
「えぇ。今年はとても穏やかな気候なんですって。だから外に出してあげられるかもしれないわ、って話してくださったの」
キュ、と音を立てウェルターの足が止まる。刹那の沈黙のあと、何食わぬ顔で再び足を動かした。
「……そうですか」
「やっとこの狭い温室の外に出られるかもなのよ、私。この日をどれだけ待ったことか!」
よほど外に出られるのが嬉しいらしい。彼女は近くの小机に本を置き、再び水をパシャパシャと跳ねさせた。
「お嬢様はお体が弱かったですから。仕方ないですよね」
彼女は体が弱い。常に気温や湿度が適度に保たれた部屋でないとすぐに体を壊してしまう。そのため、この温室が一番彼女の身体に良い、と、家主……彼女の言う母様なりの気遣いだった。
「えぇ。他のお友達たちはみんなお家で暮らしたり、外へ行ったりするのに、私だけずーっとここなの。どうしてかしらね」
だがしかし、親の心遣いを子は知らない、とはよく言ったもので、彼女も当然、母の思惑など知る由もないのだが。
「良かれと思ってですよ」
「でも寂しいわ。母様は時々しか私のもとへ来てくださらないし、外に行ったお友達も、みんな私の顔を見に来てくれやしない」
口をとがらせてより一層水をはねさせる。「あまり暴れると水がなくなります」とウェルターがやんわりと窘めるが、お嬢様はぶすくれたままだ。
「ウェルターはいいわよね、外に出られて」
「まぁ私は使用人なので。他の仕事もありますから」
「ふーん。……、ねぇウェルター」
「はい?」
水面に映る自分の顔をじっと見つめるお嬢様。ウェルターは首を傾げた。
「貴方は、今すぐ私をここから出してと命令したら、言うことを聞いてくれるのかしら」
彼女は顔を上げ、金糸雀色の瞳がじっとウェルターの視線を絡める。引き込まれそうなその美しさに、ウェルター息を呑んだ。
「……それは、私の判断では、できかねますね」
ウェルターは自嘲気味に目を伏せた。「お嬢様のお望みならば、聞いて差し上げたいのは山々なのですが」と申し訳なさそうに付け加えて。
その答えに「そう」とだけ返して、お嬢様はふい、と目線を逸らした。
「……怒ってらっしゃいますか?」
「別に?私、そんなに短気じゃないもの」
更に顔をそらす。……あぁ、ご機嫌斜めだなぁ、などと思いながらウェルターは思わず苦笑い。
「……今すぐに、はお応えできませんが」
そう言ってウェルターは彼女の髪にサラと触れる。
その感触に気づいたのか、彼女もウェルターの方へ視線をよこした。
「……いつか、雲一つない大空を、その目でご覧いただきたいものです」
ウェルターの手は髪から彼女の頭へ。優しく撫でるその手つきに、彼女も心地が良くて機嫌を直したのか、はたまたその言葉が嬉しかったのか「そう」と柔らかく微笑んだ。
「約束よ」
「えぇ」
二人は小指を出しあい、ゆっくりと絡ませる。
誓いを立てるように、ゆっくりと。
特に相手に不利益なことを課すような言葉は言わず、ただ握手をするように、その小指を絡ませた。
「さ、気が済んだわ。プールを片付けておいてちょうだい。あと、そのへんに散らばった水もね」
ぱっと手を離せば彼女は上機嫌気味にプールから足をあげ、その場でくるくると回る。……濡れた足で歩かれると余計に片付けが大変なのだが。ひとまず足を拭いてもらおうと、どこかへ行こうとする彼女を呼び止めるのであった。
「……残酷な人ね、大空を見せてあげる、だなんて」
「
「だからきっと、あぁして叶わない約束をするのね」
「――まるで、誰にも渡さないと言ってるようだ」
鳥のように小さなささやき声は、二人には聞こえることはない。
とあるレンガの家が立ち並ぶ町、その中にある一周りも2周りも大きい立派なお屋敷。
大きな門を抜け、噴水のある中庭を通り、屋敷の外周をぐるっと回れば、そこにはまた大層立派な温室がある。
その温室には、金糸雀が住んでいるらしい。だが、それを見たことがあるのは、この家の主と、隻眼の使用人だけ。
ここは、彼女のための
彼女が唯一、生きることのできる世界なのだ。
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