レイニーブルー・コンチェルト
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
#9 焦燥のロンド
十月のあの奇跡のようなバラ園の日から、秋はさらに深まり、街はすっかり十一月の冷え込みに包まれていた。
テレビ局の楽屋。
次の仕事までのわずかな休息時間、真斗はソファに深く腰掛け、手元にあるスマートフォンへと視線を落とした。
画面に映し出されているのは、カメラロールの一枚の写真だ。
雨上がりの光を浴びて、水滴をまとってキラキラと輝く満開のバラ。
その美しい景色のなかで、顔が触れそうなほど近く、真っ赤になって固まっている景奈。
そして――
その隣で、自分でも驚くほど穏やかに、心の底から愛おしそうに微笑んでいる己の姿。
真斗は、その画面を静かに見つめ、そっと指先で画面の中の彼女の輪郭をなぞった。
あの八月の花火大会から、十月のバラ園まで、丸々二ヶ月間。
会えなかった間、真斗にとって景奈の姿は、己の記憶の中にしかなかった。
自分とは違い、彼女は一般の人間だ。
雑誌を開いても、テレビをつけても、SNSの海を泳いでも、どこを探しても彼女の姿を確かめる術はない。
だからこそ。
今の自分には、この写真がある。
いつでも彼女の笑顔に、あの日の熱に触れることができる。
それだけのことが、今の真斗の胸の奥に、消えることのない静かな幸福の灯火を宿していた。
会えない時間がどれほど苦しかったか。
それを思い知るたびに、この一枚の存在が、今の彼の心を支える何よりの救いになっていた。
「おーい、マサ! 次の現場の資料、持ってきたよ――」
ガチャ、と前触れもなく部屋のドアが開いた。
現れたのは、いつも通りの底抜けに明るい笑顔を浮かべた音也だった。
「おっ、マサ何見て――」
「っ……!?」
音也が覗き込もうとした瞬間、真斗は弾かれたように、もの凄い勢いでスマートフォンの画面を机の上へとうつ伏せに伏せた。
バタン、とやけに大きな音が静かな室内に響く。
音也は一瞬きょとんとしたあと、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「え!? なになに!? 今のマサ、すっごく怪しくない!?」
「……一十木。ノックくらいしろと言っているだろう」
真斗は平静を装おうとしたが、その声はいつもより明らかに焦りで硬かった。
「見せて見せてー! 何隠したの?」
「断る。仕事の資料なら、そこに置いておいてくれ」
「えー! ケチ! 隠されると余計に見たくなるじゃん!」
普段なら、どんな時でも冷静沈着な真斗が、あからさまに動揺してスマホを死守している。
だが、音也の野生の勘は、スマホを伏せるほんの一瞬の隙を見逃していなかった。
「……ねえ、マサ。今の、写真だったよね?」
音也の目が、少しだけ真面目なものに変わる。
「男の人じゃなかった。……女の子、でしょ。もしかして……」
「…………」
真斗はしばらく沈黙したあと、これ以上隠し通すのは無理だと悟り、小さくため息をついた。
ゆっくりとスマホを表に返したものの、その画面を音也へ向けることはなかった。
「……知人だ」
「知人って距離じゃなくない!?」
音也は画面を盗み見ようと首を伸ばしながら、嬉しそうに声を弾ませた。
「だって、めちゃくちゃ顔近かったよ!? すっごく仲良さそうじゃん! マサ、そんなに優しく笑うんだね。俺、なんだか感動しちゃった!」
数々の苦楽を共にしながら、ずっと近くで戦ってきた音也だからこそ、真斗が胸の奥にある特定の誰かへの想いにどれほど苦しんできたかを知っていた。だからこそ、その相手とこんなに穏やかな笑顔で写真に写っていることが、一人の親友として、自分のことのように本気で嬉しかったのだ。
音也は机に身を乗り出し、ストレートに核心を突いた。
「……ねえ、その子と、付き合ってるの?」
真斗は、ピクリと指先を動かした。
少しの間を置き、視線をゆっくりと落とす。
「……付き合っては、いない」
「えーー!? あんなに仲良さそうなのに!? 絶対、その子もマサのこと好きだよ! なんで告白しないの?」
付き合っていない、という事実が信じられないように、音也がピョンピョンとまくしたてる。
しかし、真斗はそれ以上言葉を返さず、ただ静かに写真の中の景奈を見つめ直した。
そして。
低く、胸の奥底から絞り出すような声で、呟いた。
「……簡単に言うな」
その声の重さに、音也はハッとして口を閉じた。
「俺の立場は、お前も知っているだろう。……好きだからこそ、軽々しくあの一線を踏み越えるわけにはいかんのだ。俺の都合や、この世界の濁流に、彼女の平穏な人生を巻き込み、振り回すわけにはいかない」
相手を大切に想うからこそ、近付けない。
部屋の中に、少しだけ重い静寂が降りる。
音也は真斗の覚悟と苦悩を理解し、それ以上はからかうような口調を止めた。
けれど、少しだけ真面目な顔で、ぽつりと、けれど残酷なまでに純粋な正論を告げた。
「マサがその子を大事に思ってるの、俺ちゃんと分かってるよ……でもさ」
音也はドアノブに手をかけ、振り返る。
「早くしないと……誰かに取られちゃうかもよ?」
ドクン、と真斗の心臓が不穏な音を立てた。
「女の子だって、いつまでも待っててくれるとは限らないし……マサの知らないところで、他の誰かがその子を好きになっちゃうことだってあると思うんだ。……じゃ、俺、次の現場行くね!」
バタン、と今度こそ静かにドアが閉まり、音也は去っていった。
静まり返った部屋。
真斗は、椅子に座ったまま動けずにいた。
(……誰かに、取られる?)
一瞬、思考が停止した。
他の男。自分以外の、誰か。
その瞬間、真斗の脳裏に、かつて初夏のカフェで景奈が話していた『職場の先輩』の存在が、鮮烈に蘇ってきた。
あの日、彼女は「職場の先輩からジュースを差し入れしてもらった」と、とても嬉しそうに、楽しそうに話していた。
自分の知らない場所で、自分の知らない時間を、彼女はその男と共有している。
今はただの先輩かもしれない。けれど、もし音也の言う通り、その男が景奈の魅力に気づき、彼女の手を引いていってしまったら――。
「っ……」
胸の奥を、冷たい刃で抉られたような激しい痛みが襲う。
それは、今まで生きてきて一度も味わったことのない、強烈な『喪失の恐怖』だった。
真斗は彼女の幸せを何より願っている。
けれど、他の男の隣で、自分に向けるのと同じような、あるいはそれ以上の笑顔を浮かべる景奈を想像しただけで――理性が狂いそうになるほど、胸が掻きむしられた。
失いたくない。
彼女を、誰の手にも渡したくない。
真斗はもう一度、手元のスマートフォンへと視線を落とした。
満開の秋バラ。
レイニーブルーの水滴。
そして、愛おしい景奈。
『早くしないと、誰かに取られちゃうかもよ?』
音也の言葉が、冷たい残響となって頭から離れない。
十一月の肌寒い静寂のなか、真斗は指先で彼女の笑顔をそっとなぞり、押し殺した声で、ぽつりと呟いた。
「……他の男、か」
スマートフォンの中で、雨上がりのバラに残った水滴が静かに光っている。
その笑顔を見つめる真斗の指先が、僅かに強く画面をなぞった。
十月のあの奇跡のようなバラ園の日から、秋はさらに深まり、街はすっかり十一月の冷え込みに包まれていた。
テレビ局の楽屋。
次の仕事までのわずかな休息時間、真斗はソファに深く腰掛け、手元にあるスマートフォンへと視線を落とした。
画面に映し出されているのは、カメラロールの一枚の写真だ。
雨上がりの光を浴びて、水滴をまとってキラキラと輝く満開のバラ。
その美しい景色のなかで、顔が触れそうなほど近く、真っ赤になって固まっている景奈。
そして――
その隣で、自分でも驚くほど穏やかに、心の底から愛おしそうに微笑んでいる己の姿。
真斗は、その画面を静かに見つめ、そっと指先で画面の中の彼女の輪郭をなぞった。
あの八月の花火大会から、十月のバラ園まで、丸々二ヶ月間。
会えなかった間、真斗にとって景奈の姿は、己の記憶の中にしかなかった。
自分とは違い、彼女は一般の人間だ。
雑誌を開いても、テレビをつけても、SNSの海を泳いでも、どこを探しても彼女の姿を確かめる術はない。
だからこそ。
今の自分には、この写真がある。
いつでも彼女の笑顔に、あの日の熱に触れることができる。
それだけのことが、今の真斗の胸の奥に、消えることのない静かな幸福の灯火を宿していた。
会えない時間がどれほど苦しかったか。
それを思い知るたびに、この一枚の存在が、今の彼の心を支える何よりの救いになっていた。
「おーい、マサ! 次の現場の資料、持ってきたよ――」
ガチャ、と前触れもなく部屋のドアが開いた。
現れたのは、いつも通りの底抜けに明るい笑顔を浮かべた音也だった。
「おっ、マサ何見て――」
「っ……!?」
音也が覗き込もうとした瞬間、真斗は弾かれたように、もの凄い勢いでスマートフォンの画面を机の上へとうつ伏せに伏せた。
バタン、とやけに大きな音が静かな室内に響く。
音也は一瞬きょとんとしたあと、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「え!? なになに!? 今のマサ、すっごく怪しくない!?」
「……一十木。ノックくらいしろと言っているだろう」
真斗は平静を装おうとしたが、その声はいつもより明らかに焦りで硬かった。
「見せて見せてー! 何隠したの?」
「断る。仕事の資料なら、そこに置いておいてくれ」
「えー! ケチ! 隠されると余計に見たくなるじゃん!」
普段なら、どんな時でも冷静沈着な真斗が、あからさまに動揺してスマホを死守している。
だが、音也の野生の勘は、スマホを伏せるほんの一瞬の隙を見逃していなかった。
「……ねえ、マサ。今の、写真だったよね?」
音也の目が、少しだけ真面目なものに変わる。
「男の人じゃなかった。……女の子、でしょ。もしかして……」
「…………」
真斗はしばらく沈黙したあと、これ以上隠し通すのは無理だと悟り、小さくため息をついた。
ゆっくりとスマホを表に返したものの、その画面を音也へ向けることはなかった。
「……知人だ」
「知人って距離じゃなくない!?」
音也は画面を盗み見ようと首を伸ばしながら、嬉しそうに声を弾ませた。
「だって、めちゃくちゃ顔近かったよ!? すっごく仲良さそうじゃん! マサ、そんなに優しく笑うんだね。俺、なんだか感動しちゃった!」
数々の苦楽を共にしながら、ずっと近くで戦ってきた音也だからこそ、真斗が胸の奥にある特定の誰かへの想いにどれほど苦しんできたかを知っていた。だからこそ、その相手とこんなに穏やかな笑顔で写真に写っていることが、一人の親友として、自分のことのように本気で嬉しかったのだ。
音也は机に身を乗り出し、ストレートに核心を突いた。
「……ねえ、その子と、付き合ってるの?」
真斗は、ピクリと指先を動かした。
少しの間を置き、視線をゆっくりと落とす。
「……付き合っては、いない」
「えーー!? あんなに仲良さそうなのに!? 絶対、その子もマサのこと好きだよ! なんで告白しないの?」
付き合っていない、という事実が信じられないように、音也がピョンピョンとまくしたてる。
しかし、真斗はそれ以上言葉を返さず、ただ静かに写真の中の景奈を見つめ直した。
そして。
低く、胸の奥底から絞り出すような声で、呟いた。
「……簡単に言うな」
その声の重さに、音也はハッとして口を閉じた。
「俺の立場は、お前も知っているだろう。……好きだからこそ、軽々しくあの一線を踏み越えるわけにはいかんのだ。俺の都合や、この世界の濁流に、彼女の平穏な人生を巻き込み、振り回すわけにはいかない」
相手を大切に想うからこそ、近付けない。
部屋の中に、少しだけ重い静寂が降りる。
音也は真斗の覚悟と苦悩を理解し、それ以上はからかうような口調を止めた。
けれど、少しだけ真面目な顔で、ぽつりと、けれど残酷なまでに純粋な正論を告げた。
「マサがその子を大事に思ってるの、俺ちゃんと分かってるよ……でもさ」
音也はドアノブに手をかけ、振り返る。
「早くしないと……誰かに取られちゃうかもよ?」
ドクン、と真斗の心臓が不穏な音を立てた。
「女の子だって、いつまでも待っててくれるとは限らないし……マサの知らないところで、他の誰かがその子を好きになっちゃうことだってあると思うんだ。……じゃ、俺、次の現場行くね!」
バタン、と今度こそ静かにドアが閉まり、音也は去っていった。
静まり返った部屋。
真斗は、椅子に座ったまま動けずにいた。
(……誰かに、取られる?)
一瞬、思考が停止した。
他の男。自分以外の、誰か。
その瞬間、真斗の脳裏に、かつて初夏のカフェで景奈が話していた『職場の先輩』の存在が、鮮烈に蘇ってきた。
あの日、彼女は「職場の先輩からジュースを差し入れしてもらった」と、とても嬉しそうに、楽しそうに話していた。
自分の知らない場所で、自分の知らない時間を、彼女はその男と共有している。
今はただの先輩かもしれない。けれど、もし音也の言う通り、その男が景奈の魅力に気づき、彼女の手を引いていってしまったら――。
「っ……」
胸の奥を、冷たい刃で抉られたような激しい痛みが襲う。
それは、今まで生きてきて一度も味わったことのない、強烈な『喪失の恐怖』だった。
真斗は彼女の幸せを何より願っている。
けれど、他の男の隣で、自分に向けるのと同じような、あるいはそれ以上の笑顔を浮かべる景奈を想像しただけで――理性が狂いそうになるほど、胸が掻きむしられた。
失いたくない。
彼女を、誰の手にも渡したくない。
真斗はもう一度、手元のスマートフォンへと視線を落とした。
満開の秋バラ。
レイニーブルーの水滴。
そして、愛おしい景奈。
『早くしないと、誰かに取られちゃうかもよ?』
音也の言葉が、冷たい残響となって頭から離れない。
十一月の肌寒い静寂のなか、真斗は指先で彼女の笑顔をそっとなぞり、押し殺した声で、ぽつりと呟いた。
「……他の男、か」
スマートフォンの中で、雨上がりのバラに残った水滴が静かに光っている。
その笑顔を見つめる真斗の指先が、僅かに強く画面をなぞった。