レイニーブルー・コンチェルト
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#8 雨宿りのアリア
二ヶ月。
六十日。
ただそれだけの時間のはずなのに、これほど長く、果てしなく感じた日はなかった。
お互いを大切に想うからこそ、優しさと誠実さがブレーキになって「会いたい」と言えなかった九月の夜。
画面越しの文字だけで繋がっていた、あの胸が引きちぎれそうな焦燥感を乗り越え、十月の高い空の下、景奈はついに『彼』の前に立っていた。
「……待たせたな、朝倉さん」
待ち合わせ場所に滑り込んできたシックな車のドアが開く。
そこにいたのは、ずっと夢にまで見た真斗の姿だった。
二ヶ月ぶりに視線が交わった瞬間、景奈の胸の奥で、せき止めていた感情がどっと溢れ出しそうになる。
文字だけではない、本物の真斗がそこにいる――。
そう思った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
すると真斗は迷いのない足取りで助手席側へと回り込んできた。
「聖川、さん……?」
戸惑う景奈の前で、彼は長く美しい指先をドアノブにかけ、おだやかな所作で助手席のドアを開けてくれた。
「どうぞ」
そう言って、座席をそっと示すように大きな手を優しく差し向ける。
頭をぶつけないようにという無言の気遣いを含んだその掌は、驚くほど近くて、けれど決してこちらには触れない絶妙な距離を保っていた。
「あ、ありがとう……ございます」
それは、歴史ある聖川家の長男として、幼い頃から厳格に仕込まれてきたのであろう、骨の髄から染み付いた「御曹司」としての圧倒的な気品と、おだやかな伝統の重みを纏っていた。
至近距離で優しく添えられたその大きな手の男らしさや、すぐ傍らから響く高貴な低音に、景奈の心臓はすでに破裂寸前だった。触れ合ってはいないのに、彼の纏う特別な空気そのものに優しく包み込まれているような、そんな心地よい錯覚に目眩がしそうになる。
緊張で少し背筋を伸ばしながら助手席に滑り込とドアが静かに閉まり、真斗が再び運転席へと戻ってくる。
真斗がシートベルトを締める音がカチリと響き、景奈はようやく、膝の上で抱え込んでいたコンビニの袋に意識を戻した。車に乗せてもらうのだからと、待ち合わせの前に慌てて買っておいたものだ。
「あの、聖川さん。これ……よかったら、どうぞ」
袋から取り出したのは、よく冷えた緑茶のペットボトル。
真斗は一瞬驚いたようにそれを見つめ、すぐに深く、嬉しそうに目を細めた。
「……ありがとう。ちょうど少し、喉が渇いていたのだ。ありがたくいただく」
そう言って受け取った真斗の手は、やはり景奈のものよりずっと大きかった。
彼はフロントガラスの向こう、前方にまっすぐ視線を向けたまま、慣れた手つきでペットボトルのキャップを捻り開ける。
そして、少しだけ顎を上げ、上を向いて緑茶を口に含んだ。
その瞬間、景奈の目は、彼の首筋へと完全に釘付けになってしまった。
綺麗な横顔から繋がる、男らしくて、驚くほど鋭いラインを描く喉元。
彼が緑茶を飲み込んだ瞬間、その喉が、コクンと大きく、力強く上下に動いた。
思わず息を呑む。
ドクン、と景奈の心臓がひときわ大きく跳ねた。
それは、普段の気品溢れる彼からは想像もつかないような、男の色気そのものだった。
真斗はふぅ、と小さく息を吐いてボトルをホルダーへと収めると、何事もなかったかのように景奈のほうを振り返り、優しく微笑んだ。
「すまない、待たせたな。……では、行こうか」
「は、はい……!」
自分の声が裏返っていなかっただろうかと焦る景奈を乗せて、車は静かに滑り出す。
お互いに触れられなかった二ヶ月の寂しさを埋めるように、車は都心を遠く離れ、郊外にある広大なバラ園へと向かって走り出した。
車が目的地に到着したとき、景奈はさらに目を丸くすることになった。
本来なら休園日であるはずのその場所は、真斗の手配によって、今日だけ特別に門を開けていたのだ。
広大な園内には、スタッフの姿すら見当たらない。
咲き誇る無数の秋バラに囲まれた世界の中で、今、確実に二人きりだった。
「驚かせてすまない。やはり、周囲の目を気にせず、朝倉さんにはゆっくりと楽しんでほしかったからな」
そう言って振り返る真斗を見て、景奈の頭は一瞬、真っ白になった。
なぜ、バラ園だったのか。
本当の理由は、真斗には恥ずかしくて口が裂けても言えなかった。
『バラの花を背景にした聖川真斗』が、どうしても見たかったのだ。
普段から王子様のように気品に溢れる彼なら、きっと本物の薔薇にも負けないくらいキラキラと輝いて、絵画のように素敵なんだろうな――そんな、ちょっとしたファンタジーのような憧れを抱いていた。
けれど、現実は、景奈の想像を遥かに超えていた。
色とりどりのバラの真ん中で、秋の澄んだ風に髪を揺らす真斗は、眩しすぎて、直視すれば目眩を覚えそうなほどに美しかった。バラの美しささえも彼の引き立て役に思えてしまうほどの、圧倒的な存在感。
景奈はただ、言葉を失ってその場に立ち尽くすしかなかった。
「朝倉さん? どうかしたか。体調でも……」
「い、いえ! 大丈夫です!! あまりにも綺麗で……っ」
慌てて首を振る景奈を、真斗は少し不思議そうに見つめたあと、ふっと目元をやわらげた。
「そうか。喜んでもらえたなら、何よりだ」
二人で静かに園内を散策していると、丘の上にぽつりと佇む、白いガゼボ(東屋)が見えてきた。
そのガゼボの柱や天井を覆い尽くすように咲き誇っていたのは、淡い、神秘的なラベンダーブルーのバラ、レイニーブルー。
その花の名をなぞるように、灰色の雲からパラパラと、優しい雨が降り出したのは、本当に偶然だった。
「雨だな。朝倉さん、こちらへ」
真斗に促され、二人は滑り込むようにガゼボの屋根の下へと雨宿りをする。
激しい雨ではない。けれど、静かに世界を濡らす雨の音は、広大なバラ園の中で二人きりだという事実を、よりいっそう際立たせていた。
ガゼボの柱を伝う雨水が、うつむき加減に咲く紫のバラの輪郭を濡らしていく。
そのガゼボの中央には一台の白いグランドピアノが佇んでいた。
真斗はピアノへと歩み寄り、そっと鍵盤の蓋を開けた。
「自由演奏用か」
そう言うと、真斗は無言のまま、ピアノ椅子へと腰掛けた。
景奈はすぐ傍らに立ち、雨に濡れる紫のバラのカーテンを背景に、彼が鍵盤に指を添えるのを見つめていた。
静寂のなか、最初の音がこぼれ落ちる。
優しく、何かを愛しむような、ひどく甘やかなメロディ。
外で優しく降る雨の音が、真斗の紡ぐピアノの音色と、心地よく溶け合っていく。
旋律がにわかに激しさを帯び、どこか切なそうな、胸が締め付けられるような表情で、彼が鍵盤へと激しく指を叩きつけていく頃には、雨の音すら聞こえなくなるほど、景奈はその世界に引き込まれていた。
そして――嵐が去るように、曲は再び静かに、そっと、名残惜しそうに終わった。
真斗が鍵盤からゆっくりと手を下ろし、余韻に浸るように息を吐く。
ふと気づけば、いつの間にか雨の音は止んでいた。
雲の切れ間から、秋の柔らかな光がすうっとガゼボの中へと差し込んでくる。
真斗が隣に立つ景奈のほうを振り返った瞬間、彼は「っ……!?」と声を詰まらせてギョッと目を見開いた。景奈の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていたからだ。
「ど、どうした!? すまない、なにか気に障っただろうか……?」
「ご、ごめんなさい……! あまりにも素敵で……胸がいっぱいになって……」
しゃくり上げながら一生懸命に伝える景奈を見て、真斗はふっと愛おしそうに、困ったように眉を下げる。
「……お前の心に届いたなら、良かった。」
少しだけ視線を伏せた彼の横顔の後ろで、雨上がりの光を浴びた『レイニーブルー』の花びらが、残された水滴をまとって、まるで無数の宝石のようにキラキラと眩しく輝いていた。
*
園内をぐるりと一周し終え、出口が近づいてきたとき。
景奈の胸の中に、強烈な寂しさが押し寄せてきた。
この時間が、もうすぐ終わってしまう。
この奇跡みたいな、夢のような時間を、どうしても形にして残しておきたかった。
だから、つい、口が滑ってしまったのだ。
「あの……聖川さん。良かったら、一緒に写真を撮りませんか?」
言った瞬間、景奈は己の軽率さに血の気が引いた。
彼は世界中から注目を浴びるトップアイドルなのだ。プライベートの写真撮影など、絶対に許されるはずがない。我に返った景奈は、自分のあまりの分別のなさに激しい後悔とパニックに襲われ、慌てて両手を振って前言を撤回しようと言葉を紡いだ。
「あ、すみません! 今のは忘れてください、やっぱり駄目ですよね、お仕事のこともあるし――」
まくしたてるように言い訳を重ねる景奈の言葉を遮るように、真斗は穏やかな声で言った。
「いや、構わない。……そうだな、思い出に一枚、撮ろう」
「え……いい、んですか?」
「ああ」
ほんの少し目を細めて。
「以前も言っただろう。……お前に撮られるのは、嫌ではない」
夢ではないかと思いながら、景奈は震える手でスマートフォンを掲げ、インカメラに切り替えた。
けれど、極度の緊張のせいで手が震え、腕をいくら伸ばしても、なかなか二人で綺麗に画角に収まりきらない。真斗との間に、どうしても不自然な距離が空いてしまう。
「あ、すみません……もうちょっとだけ、寄ってもらえますか……?」
景奈が小さく呟いた、その瞬間だった。
躊躇う素振りを一切見せず、真斗が景奈のほうへ、ぐっと顔を近づけてきたのだ。
「こうか?」
「ひゃいっ……!?」
低く心地よい彼の声が、すぐ耳元で鼓膜を揺らす。
寄ってもらう、どころの騒ぎではない。二人の距離は、今にも頬と頬が触れ合ってしまいそうなほどに近かった。
真斗の纏う、あの凛とした香りと、彼の体温が、ダイレクトに肌へ伝わってくる。
近い。
近い、近すぎる。
まともに顔を見ることすら難しい距離だった。
心臓が破裂しそうなほど暴れるなか、景奈は震える指で、必死にシャッターを切った。
画面の中に残されたのは、雨上がりの柔らかな光に包まれた秋バラの景色。
その美しい彩りのなかで、顔が触れそうなほど近く、真っ赤になって固まっている自分と――その隣で、驚くほど優しく、穏やかに微笑んでいる聖川真斗の姿だった。
*
「寝ていても良いぞ」
帰りの車内。
夕闇が静かに降りてくるなか、心地よい車の揺れと、今日一日の緊張の反動で、景奈は強烈な睡魔に襲われていた。
何度もこっくりと船を漕ぐ景奈に、真斗が前を見据えたまま、静かに声をかける。
「いえ、そんな、運転していただいている横で、寝るわけ……には、いか、ない……で……」
最後まで言葉を紡ぐこともできず、景奈の意識はそこで完全に途切れた。
カチ、カチ、と静かに響く方向指示器の音。
真斗は赤信号で車を止めると、助手席へと視線を向けた。
そこには、さっきまで真っ赤になって緊張していたのが嘘のように、無防備な寝息を立てて眠っている景奈の姿があった。
自分の隣で、何の警戒もなく、安心して眠ってくれている。
ただそれだけのことが、今の真斗にとっては、これ以上ないほど幸福なことだった。
真斗はハンドルを握る手を少しだけ緩め、彼女を起こさないよう、世界で一番優しい眼差しで、その愛おしい寝顔をじっと見つめ続けていた。
*
夜、自宅に帰り、お風呂を済ませた景奈は、ベッドの中で寝る前に何気なくテレビをつけていた。
ぼんやりとリモコンを押し、番組をザッピングしていると、あるクラシックの音楽番組で、一人のピアニストが演奏を始めた。
流れてきたその旋律を耳にした瞬間、景奈の身体が跳ねるように起き上がった。
「あ、この曲……っ」
それは、今日、あのレイニーブルーのガゼボの中で、真斗がすべてをぶつけるようにして奏でていた、あの切なくも美しい曲そのものだった。
「すごく聴いたことあるのに、曲名を知らなかった……」
画面の隅に表示されたテロップを、景奈は凝視する。
――フランツ・リスト 『愛の夢』第3番。
何気なく、手元のスマートフォンでその曲名を検索した。
画面をスクロールしていくと、その曲の元となった、古い歌曲の『詩(歌詞)』の日本語訳が目に飛び込んできた。
『おお、愛せる限り愛せよ』
『愛する人が亡くなるまで、愛し続けよ』
『その時はやってくる、その時はやってくるのだ。お前が墓の前に立ち、嘆き悲しむその時が』
「…………っ」
言葉にならない衝撃が、胸の奥を激しく突き刺した。
あの優しいメロディも。
あの、胸を掻きむしるような切ない旋律も。
すべて、この「命の限り、愛し抜け」という狂おしいほどの愛の歌だったのだ。
真斗が、あのガゼボで、どんな想いを込めてあの鍵盤を叩いていたのか。
自分を見つめていた、あの熱い瞳。
自分へ向けられていた、あの切ないほどの優しさ。
近くにいても、決して急ごうとはしなかった彼の、不器用な誠実さ。
『お前の心に届いたなら、良かった』と、少し寂しそうに微笑んだ彼の顔が蘇る。
気づけば、昼間よりもずっと熱い涙が、景奈の目から次から次へと溢れ、スマートフォンの画面を濡らしていた。
真斗の秘めたる恋心の深さに、そして自分自身がもう引き返せないほど彼を愛してしまっている事実に、景奈は暗い部屋の中で、声を殺して泣き続けた。
二ヶ月。
六十日。
ただそれだけの時間のはずなのに、これほど長く、果てしなく感じた日はなかった。
お互いを大切に想うからこそ、優しさと誠実さがブレーキになって「会いたい」と言えなかった九月の夜。
画面越しの文字だけで繋がっていた、あの胸が引きちぎれそうな焦燥感を乗り越え、十月の高い空の下、景奈はついに『彼』の前に立っていた。
「……待たせたな、朝倉さん」
待ち合わせ場所に滑り込んできたシックな車のドアが開く。
そこにいたのは、ずっと夢にまで見た真斗の姿だった。
二ヶ月ぶりに視線が交わった瞬間、景奈の胸の奥で、せき止めていた感情がどっと溢れ出しそうになる。
文字だけではない、本物の真斗がそこにいる――。
そう思った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
すると真斗は迷いのない足取りで助手席側へと回り込んできた。
「聖川、さん……?」
戸惑う景奈の前で、彼は長く美しい指先をドアノブにかけ、おだやかな所作で助手席のドアを開けてくれた。
「どうぞ」
そう言って、座席をそっと示すように大きな手を優しく差し向ける。
頭をぶつけないようにという無言の気遣いを含んだその掌は、驚くほど近くて、けれど決してこちらには触れない絶妙な距離を保っていた。
「あ、ありがとう……ございます」
それは、歴史ある聖川家の長男として、幼い頃から厳格に仕込まれてきたのであろう、骨の髄から染み付いた「御曹司」としての圧倒的な気品と、おだやかな伝統の重みを纏っていた。
至近距離で優しく添えられたその大きな手の男らしさや、すぐ傍らから響く高貴な低音に、景奈の心臓はすでに破裂寸前だった。触れ合ってはいないのに、彼の纏う特別な空気そのものに優しく包み込まれているような、そんな心地よい錯覚に目眩がしそうになる。
緊張で少し背筋を伸ばしながら助手席に滑り込とドアが静かに閉まり、真斗が再び運転席へと戻ってくる。
真斗がシートベルトを締める音がカチリと響き、景奈はようやく、膝の上で抱え込んでいたコンビニの袋に意識を戻した。車に乗せてもらうのだからと、待ち合わせの前に慌てて買っておいたものだ。
「あの、聖川さん。これ……よかったら、どうぞ」
袋から取り出したのは、よく冷えた緑茶のペットボトル。
真斗は一瞬驚いたようにそれを見つめ、すぐに深く、嬉しそうに目を細めた。
「……ありがとう。ちょうど少し、喉が渇いていたのだ。ありがたくいただく」
そう言って受け取った真斗の手は、やはり景奈のものよりずっと大きかった。
彼はフロントガラスの向こう、前方にまっすぐ視線を向けたまま、慣れた手つきでペットボトルのキャップを捻り開ける。
そして、少しだけ顎を上げ、上を向いて緑茶を口に含んだ。
その瞬間、景奈の目は、彼の首筋へと完全に釘付けになってしまった。
綺麗な横顔から繋がる、男らしくて、驚くほど鋭いラインを描く喉元。
彼が緑茶を飲み込んだ瞬間、その喉が、コクンと大きく、力強く上下に動いた。
思わず息を呑む。
ドクン、と景奈の心臓がひときわ大きく跳ねた。
それは、普段の気品溢れる彼からは想像もつかないような、男の色気そのものだった。
真斗はふぅ、と小さく息を吐いてボトルをホルダーへと収めると、何事もなかったかのように景奈のほうを振り返り、優しく微笑んだ。
「すまない、待たせたな。……では、行こうか」
「は、はい……!」
自分の声が裏返っていなかっただろうかと焦る景奈を乗せて、車は静かに滑り出す。
お互いに触れられなかった二ヶ月の寂しさを埋めるように、車は都心を遠く離れ、郊外にある広大なバラ園へと向かって走り出した。
車が目的地に到着したとき、景奈はさらに目を丸くすることになった。
本来なら休園日であるはずのその場所は、真斗の手配によって、今日だけ特別に門を開けていたのだ。
広大な園内には、スタッフの姿すら見当たらない。
咲き誇る無数の秋バラに囲まれた世界の中で、今、確実に二人きりだった。
「驚かせてすまない。やはり、周囲の目を気にせず、朝倉さんにはゆっくりと楽しんでほしかったからな」
そう言って振り返る真斗を見て、景奈の頭は一瞬、真っ白になった。
なぜ、バラ園だったのか。
本当の理由は、真斗には恥ずかしくて口が裂けても言えなかった。
『バラの花を背景にした聖川真斗』が、どうしても見たかったのだ。
普段から王子様のように気品に溢れる彼なら、きっと本物の薔薇にも負けないくらいキラキラと輝いて、絵画のように素敵なんだろうな――そんな、ちょっとしたファンタジーのような憧れを抱いていた。
けれど、現実は、景奈の想像を遥かに超えていた。
色とりどりのバラの真ん中で、秋の澄んだ風に髪を揺らす真斗は、眩しすぎて、直視すれば目眩を覚えそうなほどに美しかった。バラの美しささえも彼の引き立て役に思えてしまうほどの、圧倒的な存在感。
景奈はただ、言葉を失ってその場に立ち尽くすしかなかった。
「朝倉さん? どうかしたか。体調でも……」
「い、いえ! 大丈夫です!! あまりにも綺麗で……っ」
慌てて首を振る景奈を、真斗は少し不思議そうに見つめたあと、ふっと目元をやわらげた。
「そうか。喜んでもらえたなら、何よりだ」
二人で静かに園内を散策していると、丘の上にぽつりと佇む、白いガゼボ(東屋)が見えてきた。
そのガゼボの柱や天井を覆い尽くすように咲き誇っていたのは、淡い、神秘的なラベンダーブルーのバラ、レイニーブルー。
その花の名をなぞるように、灰色の雲からパラパラと、優しい雨が降り出したのは、本当に偶然だった。
「雨だな。朝倉さん、こちらへ」
真斗に促され、二人は滑り込むようにガゼボの屋根の下へと雨宿りをする。
激しい雨ではない。けれど、静かに世界を濡らす雨の音は、広大なバラ園の中で二人きりだという事実を、よりいっそう際立たせていた。
ガゼボの柱を伝う雨水が、うつむき加減に咲く紫のバラの輪郭を濡らしていく。
そのガゼボの中央には一台の白いグランドピアノが佇んでいた。
真斗はピアノへと歩み寄り、そっと鍵盤の蓋を開けた。
「自由演奏用か」
そう言うと、真斗は無言のまま、ピアノ椅子へと腰掛けた。
景奈はすぐ傍らに立ち、雨に濡れる紫のバラのカーテンを背景に、彼が鍵盤に指を添えるのを見つめていた。
静寂のなか、最初の音がこぼれ落ちる。
優しく、何かを愛しむような、ひどく甘やかなメロディ。
外で優しく降る雨の音が、真斗の紡ぐピアノの音色と、心地よく溶け合っていく。
旋律がにわかに激しさを帯び、どこか切なそうな、胸が締め付けられるような表情で、彼が鍵盤へと激しく指を叩きつけていく頃には、雨の音すら聞こえなくなるほど、景奈はその世界に引き込まれていた。
そして――嵐が去るように、曲は再び静かに、そっと、名残惜しそうに終わった。
真斗が鍵盤からゆっくりと手を下ろし、余韻に浸るように息を吐く。
ふと気づけば、いつの間にか雨の音は止んでいた。
雲の切れ間から、秋の柔らかな光がすうっとガゼボの中へと差し込んでくる。
真斗が隣に立つ景奈のほうを振り返った瞬間、彼は「っ……!?」と声を詰まらせてギョッと目を見開いた。景奈の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていたからだ。
「ど、どうした!? すまない、なにか気に障っただろうか……?」
「ご、ごめんなさい……! あまりにも素敵で……胸がいっぱいになって……」
しゃくり上げながら一生懸命に伝える景奈を見て、真斗はふっと愛おしそうに、困ったように眉を下げる。
「……お前の心に届いたなら、良かった。」
少しだけ視線を伏せた彼の横顔の後ろで、雨上がりの光を浴びた『レイニーブルー』の花びらが、残された水滴をまとって、まるで無数の宝石のようにキラキラと眩しく輝いていた。
*
園内をぐるりと一周し終え、出口が近づいてきたとき。
景奈の胸の中に、強烈な寂しさが押し寄せてきた。
この時間が、もうすぐ終わってしまう。
この奇跡みたいな、夢のような時間を、どうしても形にして残しておきたかった。
だから、つい、口が滑ってしまったのだ。
「あの……聖川さん。良かったら、一緒に写真を撮りませんか?」
言った瞬間、景奈は己の軽率さに血の気が引いた。
彼は世界中から注目を浴びるトップアイドルなのだ。プライベートの写真撮影など、絶対に許されるはずがない。我に返った景奈は、自分のあまりの分別のなさに激しい後悔とパニックに襲われ、慌てて両手を振って前言を撤回しようと言葉を紡いだ。
「あ、すみません! 今のは忘れてください、やっぱり駄目ですよね、お仕事のこともあるし――」
まくしたてるように言い訳を重ねる景奈の言葉を遮るように、真斗は穏やかな声で言った。
「いや、構わない。……そうだな、思い出に一枚、撮ろう」
「え……いい、んですか?」
「ああ」
ほんの少し目を細めて。
「以前も言っただろう。……お前に撮られるのは、嫌ではない」
夢ではないかと思いながら、景奈は震える手でスマートフォンを掲げ、インカメラに切り替えた。
けれど、極度の緊張のせいで手が震え、腕をいくら伸ばしても、なかなか二人で綺麗に画角に収まりきらない。真斗との間に、どうしても不自然な距離が空いてしまう。
「あ、すみません……もうちょっとだけ、寄ってもらえますか……?」
景奈が小さく呟いた、その瞬間だった。
躊躇う素振りを一切見せず、真斗が景奈のほうへ、ぐっと顔を近づけてきたのだ。
「こうか?」
「ひゃいっ……!?」
低く心地よい彼の声が、すぐ耳元で鼓膜を揺らす。
寄ってもらう、どころの騒ぎではない。二人の距離は、今にも頬と頬が触れ合ってしまいそうなほどに近かった。
真斗の纏う、あの凛とした香りと、彼の体温が、ダイレクトに肌へ伝わってくる。
近い。
近い、近すぎる。
まともに顔を見ることすら難しい距離だった。
心臓が破裂しそうなほど暴れるなか、景奈は震える指で、必死にシャッターを切った。
画面の中に残されたのは、雨上がりの柔らかな光に包まれた秋バラの景色。
その美しい彩りのなかで、顔が触れそうなほど近く、真っ赤になって固まっている自分と――その隣で、驚くほど優しく、穏やかに微笑んでいる聖川真斗の姿だった。
*
「寝ていても良いぞ」
帰りの車内。
夕闇が静かに降りてくるなか、心地よい車の揺れと、今日一日の緊張の反動で、景奈は強烈な睡魔に襲われていた。
何度もこっくりと船を漕ぐ景奈に、真斗が前を見据えたまま、静かに声をかける。
「いえ、そんな、運転していただいている横で、寝るわけ……には、いか、ない……で……」
最後まで言葉を紡ぐこともできず、景奈の意識はそこで完全に途切れた。
カチ、カチ、と静かに響く方向指示器の音。
真斗は赤信号で車を止めると、助手席へと視線を向けた。
そこには、さっきまで真っ赤になって緊張していたのが嘘のように、無防備な寝息を立てて眠っている景奈の姿があった。
自分の隣で、何の警戒もなく、安心して眠ってくれている。
ただそれだけのことが、今の真斗にとっては、これ以上ないほど幸福なことだった。
真斗はハンドルを握る手を少しだけ緩め、彼女を起こさないよう、世界で一番優しい眼差しで、その愛おしい寝顔をじっと見つめ続けていた。
*
夜、自宅に帰り、お風呂を済ませた景奈は、ベッドの中で寝る前に何気なくテレビをつけていた。
ぼんやりとリモコンを押し、番組をザッピングしていると、あるクラシックの音楽番組で、一人のピアニストが演奏を始めた。
流れてきたその旋律を耳にした瞬間、景奈の身体が跳ねるように起き上がった。
「あ、この曲……っ」
それは、今日、あのレイニーブルーのガゼボの中で、真斗がすべてをぶつけるようにして奏でていた、あの切なくも美しい曲そのものだった。
「すごく聴いたことあるのに、曲名を知らなかった……」
画面の隅に表示されたテロップを、景奈は凝視する。
――フランツ・リスト 『愛の夢』第3番。
何気なく、手元のスマートフォンでその曲名を検索した。
画面をスクロールしていくと、その曲の元となった、古い歌曲の『詩(歌詞)』の日本語訳が目に飛び込んできた。
『おお、愛せる限り愛せよ』
『愛する人が亡くなるまで、愛し続けよ』
『その時はやってくる、その時はやってくるのだ。お前が墓の前に立ち、嘆き悲しむその時が』
「…………っ」
言葉にならない衝撃が、胸の奥を激しく突き刺した。
あの優しいメロディも。
あの、胸を掻きむしるような切ない旋律も。
すべて、この「命の限り、愛し抜け」という狂おしいほどの愛の歌だったのだ。
真斗が、あのガゼボで、どんな想いを込めてあの鍵盤を叩いていたのか。
自分を見つめていた、あの熱い瞳。
自分へ向けられていた、あの切ないほどの優しさ。
近くにいても、決して急ごうとはしなかった彼の、不器用な誠実さ。
『お前の心に届いたなら、良かった』と、少し寂しそうに微笑んだ彼の顔が蘇る。
気づけば、昼間よりもずっと熱い涙が、景奈の目から次から次へと溢れ、スマートフォンの画面を濡らしていた。
真斗の秘めたる恋心の深さに、そして自分自身がもう引き返せないほど彼を愛してしまっている事実に、景奈は暗い部屋の中で、声を殺して泣き続けた。