レイニーブルー・コンチェルト
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#7 秋待のノクターン
八月のあの夜、夜空に咲いた大輪の光は、一瞬で消えてしまった。
なのに、景奈の肌には、あのとき隣から伝わってきた、真斗の熱を帯びた近さが、今も消えない熱として焼き付いている。
そして何より、花火の光に照らされながら、じっと自分を見つめていた彼の、あの深く熱い青い瞳――。
……だめだ。
また思い出してしまう。
景奈は小さく息を呑んだ。
*
九月に入り、季節は足早に秋の気配を帯び始めていたが、二人の現実はそれ以上に慌ただしく流れていた。
景奈は大きな仕事の納品が間近に迫り、連日深夜までの残業。真斗もまた、秋の新規プロジェクトやメディア出演が重なり、スケジュールは分刻みだった。
LINEの連絡は、途絶えていない。
『今日も遅くまでお疲れ様。あまり無理はしないようにな』
『聖川さんもお忙しいのにありがとうございます。体調には気をつけてくださいね』
画面に並ぶのは、お互いを思いやる優しくて丁寧な言葉ばかり。文字の上ではこんなに近くにいるのに、肝心の「次はいつ会えますか?」という一言が、どちらからも切り出せなかった。
時計の針は、すでに午前零時を回っている。
自宅へ持ち帰っていた作業がようやく一段落し、景奈は深くベッドへ身体を沈めた。
ほんの少しだけ。
今からなら、寝る前に五分だけでも彼の声が聞きたかった。
スマートフォンを握る指先が、通話ボタンの近くを彷徨う。
その瞬間、景奈は自分で驚いた。
――声が聞きたい。
そう願ってしまうほど、自分はもう彼をそんなに求めていたのだと。
恋人、という関係だったなら。
『急に声が聞きたくなっちゃった』と、そんな我儘を、許される夜もあったのだろうか。
けれど、今の自分にはそんな大義名分はどこにもないのだ。彼の優しさに甘えて、彼の貴重な休息時間を奪うわけにはいかない。
景奈は結局、打ちかけた『少しだけ、声が』という文字をすべて消去し、静まり返った部屋で小さくため息をついた。
*
同じ夜。
真斗もまた、すべての仕事を終えて、自宅の静寂のなかにいた。
明かりが少し落ちた部屋の机の上には硯と半紙が広がっている。
心を研ぎ澄まし、ただ一文字に集中する――いつもなら、彼にとって最も心が落ち着くはずの書道の時間だった。
だが、真斗は筆を握ったまま、動けずにいた。
白く無垢な半紙を見つめているはずなのに、脳裏に浮かぶのは、あの夜のテラスで、花火の光を浴びて笑っていた景奈の浴衣姿ばかりだった。
すまない、と謝る自分に、『本当は、待っていた時間さえ嬉しかった』とでも言うように、柔らかく微笑んだ彼女の顔。守り抜いたはずの糸一本の理性が、彼女を思い出すだけで、今にもぷつりと切れてしまいそうになる。
「……はぁ」
真斗は低く、重いため息を一つ吐き、筆を硯の縁へと置いた。
心が乱れていては、墨に濁りが出る。文字など、書けるはずもなかった。
視線を落とすと、机の上のスマートフォンが静かに佇んでいる。
景奈が今、大きな仕事の納品前で必死に戦っていることを彼は知っている。だからこそ、自分の「声が聞きたい」という独占欲が、彼女の負担になるのではないかと、彼の誠実さが強烈なブレーキをかけるのだ。
(……俺が恋人であったなら)
そこまで考えて、真斗は静かに目を伏せた。
お前の疲れも、弱音も、
この手で受け止められたのだろうか。
一人の男としての切ない飢餓感と、一線を越えられない己の立場。
真斗は行き場のない手をそっと握りしめた。
画面には、小さな「おやすみ」のスタンプがひとつ。
それだけで、嬉しいはずだった。
なのに。
声が聞きたい。
会いたい。
胸の奥に浮かぶその願いだけが、行き場を失ったまま静かに沈んでいく。
九月の夜は、どこまでも深く、冷たく更けていくのだった。
*
あの息苦しいほどの夜から、数日が過ぎた。
怒涛のようだった仕事のピークがようやく落ち着き、久しぶりに定時で退社できた金曜日の夕方。オフィスを出て駅へと向かう道すがら、景奈はふと足を止め、小さく息を吐き出した。
景色が白く霞むほどの夏の暑さは、もうどこにもない。
見上げた空は驚くほど高くなっていて、肌をかすめる風は、すっかり秋の澄んだ冷たさを孕んでいた。
ふわりと鼻を掠めた見知らぬ秋の香りに、胸の奥がツンと切なくなる。
――あの日から、もう一ヶ月。
最後に出会った、あの八月の熱い花火の夜。
間違いなく二人の距離は触れそうなほど近かったはずなのに、九月の現実は、驚くほどあっさりと二人を引き離してしまった。
このまま、お互いに忙しいと言い訳を重ねているうちに、季節だけが移り変わって、あの夜の熱も全部ただの過去になってしまうのだろうか。
「……それは、いやだな」
ぽつりと零れた声に、景奈は自分で少し驚いた。
会いたい。
その言葉を、ようやく胸の奥で認める。
恋人ではない。
だから「寂しい」とも「会いたい」とも軽々しく言えない。
けれど。
この綺麗な秋の景色を、聖川さんと一緒に見たい。
その願いまで、諦めたくはなかった。
家に帰り、お気に入りの和紅茶を淹れてベッドに腰掛ける。
スマートフォンを手に取り、画面を見つめる。心臓が、トクトクと少し速いリズムを刻み始めた。
「次はいつ会えますか」なんて、やっぱり怖くて打てない。
だから景奈は、震える指先で、一生懸命に「綺麗な言い訳」を文字にしていった。
『聖川さん、お仕事お疲れ様です。朝晩はすっかり肌寒くなってきましたが、体調など崩されていませんか?
私のほうは、おかげさまで仕事の納品が無事にひと段落しました。
実は、十月になると近くの公園で、とても綺麗な秋バラが見頃を迎えるそうなんです。
もし、聖川さんのスケジュールに少しでも余裕のあるお日にちがあれば……今度、お仕事の息抜きも兼ねて、一緒にバラ園に行きませんか?』
花火大会をあんなに素敵な席でもてなしてもらった、そのお礼も兼ねて。
言い訳を並べるように長い文章を打ち込み、これ以上ないほど丁寧な敬語の裏に本心を隠して。
景奈は息を止め、送信ボタンを押した。
――どうか、迷惑じゃありませんように。
祈るような気持ちでスマートフォンを胸に抱きしめる。
すると――思っていたよりずっと早く、手元が短く震えた。
あまりの速さに、景奈は目を瞬かせる。
画面には、すでに彼からの返信が届いていた。
画面を開くと、そこにはいつも通りの、けれどどこか少しだけ慌てたような、熱を帯びた彼からの返信が届いていた。
『朝倉さん、連絡をありがとう。仕事が落ち着いたようで安心した』
その数秒後、続けてもう一通。
『バラ園のお誘い、とても嬉しい。ぜひ、ご一緒させてほしい』
景奈の鼓動が跳ねる。
さらに表示された次のメッセージには、十月の候補日が驚くほど細かく並んでいた。
『十月なら、以下の日程が比較的調整できそうだ。朝倉さんの都合はいかがだろうか』
まるで、最初から空きを探していたみたいに。
その必死さが、可笑しくて、愛おしくて。
景奈は思わず、胸の前でスマートフォンを抱きしめた。
お互いに「資格がない」と苦しんだ九月の夜を越えて。
二人の時間が、十月の高い空の下で、再び静かに動き出そうとしていた。
八月のあの夜、夜空に咲いた大輪の光は、一瞬で消えてしまった。
なのに、景奈の肌には、あのとき隣から伝わってきた、真斗の熱を帯びた近さが、今も消えない熱として焼き付いている。
そして何より、花火の光に照らされながら、じっと自分を見つめていた彼の、あの深く熱い青い瞳――。
……だめだ。
また思い出してしまう。
景奈は小さく息を呑んだ。
*
九月に入り、季節は足早に秋の気配を帯び始めていたが、二人の現実はそれ以上に慌ただしく流れていた。
景奈は大きな仕事の納品が間近に迫り、連日深夜までの残業。真斗もまた、秋の新規プロジェクトやメディア出演が重なり、スケジュールは分刻みだった。
LINEの連絡は、途絶えていない。
『今日も遅くまでお疲れ様。あまり無理はしないようにな』
『聖川さんもお忙しいのにありがとうございます。体調には気をつけてくださいね』
画面に並ぶのは、お互いを思いやる優しくて丁寧な言葉ばかり。文字の上ではこんなに近くにいるのに、肝心の「次はいつ会えますか?」という一言が、どちらからも切り出せなかった。
時計の針は、すでに午前零時を回っている。
自宅へ持ち帰っていた作業がようやく一段落し、景奈は深くベッドへ身体を沈めた。
ほんの少しだけ。
今からなら、寝る前に五分だけでも彼の声が聞きたかった。
スマートフォンを握る指先が、通話ボタンの近くを彷徨う。
その瞬間、景奈は自分で驚いた。
――声が聞きたい。
そう願ってしまうほど、自分はもう彼をそんなに求めていたのだと。
恋人、という関係だったなら。
『急に声が聞きたくなっちゃった』と、そんな我儘を、許される夜もあったのだろうか。
けれど、今の自分にはそんな大義名分はどこにもないのだ。彼の優しさに甘えて、彼の貴重な休息時間を奪うわけにはいかない。
景奈は結局、打ちかけた『少しだけ、声が』という文字をすべて消去し、静まり返った部屋で小さくため息をついた。
*
同じ夜。
真斗もまた、すべての仕事を終えて、自宅の静寂のなかにいた。
明かりが少し落ちた部屋の机の上には硯と半紙が広がっている。
心を研ぎ澄まし、ただ一文字に集中する――いつもなら、彼にとって最も心が落ち着くはずの書道の時間だった。
だが、真斗は筆を握ったまま、動けずにいた。
白く無垢な半紙を見つめているはずなのに、脳裏に浮かぶのは、あの夜のテラスで、花火の光を浴びて笑っていた景奈の浴衣姿ばかりだった。
すまない、と謝る自分に、『本当は、待っていた時間さえ嬉しかった』とでも言うように、柔らかく微笑んだ彼女の顔。守り抜いたはずの糸一本の理性が、彼女を思い出すだけで、今にもぷつりと切れてしまいそうになる。
「……はぁ」
真斗は低く、重いため息を一つ吐き、筆を硯の縁へと置いた。
心が乱れていては、墨に濁りが出る。文字など、書けるはずもなかった。
視線を落とすと、机の上のスマートフォンが静かに佇んでいる。
景奈が今、大きな仕事の納品前で必死に戦っていることを彼は知っている。だからこそ、自分の「声が聞きたい」という独占欲が、彼女の負担になるのではないかと、彼の誠実さが強烈なブレーキをかけるのだ。
(……俺が恋人であったなら)
そこまで考えて、真斗は静かに目を伏せた。
お前の疲れも、弱音も、
この手で受け止められたのだろうか。
一人の男としての切ない飢餓感と、一線を越えられない己の立場。
真斗は行き場のない手をそっと握りしめた。
画面には、小さな「おやすみ」のスタンプがひとつ。
それだけで、嬉しいはずだった。
なのに。
声が聞きたい。
会いたい。
胸の奥に浮かぶその願いだけが、行き場を失ったまま静かに沈んでいく。
九月の夜は、どこまでも深く、冷たく更けていくのだった。
*
あの息苦しいほどの夜から、数日が過ぎた。
怒涛のようだった仕事のピークがようやく落ち着き、久しぶりに定時で退社できた金曜日の夕方。オフィスを出て駅へと向かう道すがら、景奈はふと足を止め、小さく息を吐き出した。
景色が白く霞むほどの夏の暑さは、もうどこにもない。
見上げた空は驚くほど高くなっていて、肌をかすめる風は、すっかり秋の澄んだ冷たさを孕んでいた。
ふわりと鼻を掠めた見知らぬ秋の香りに、胸の奥がツンと切なくなる。
――あの日から、もう一ヶ月。
最後に出会った、あの八月の熱い花火の夜。
間違いなく二人の距離は触れそうなほど近かったはずなのに、九月の現実は、驚くほどあっさりと二人を引き離してしまった。
このまま、お互いに忙しいと言い訳を重ねているうちに、季節だけが移り変わって、あの夜の熱も全部ただの過去になってしまうのだろうか。
「……それは、いやだな」
ぽつりと零れた声に、景奈は自分で少し驚いた。
会いたい。
その言葉を、ようやく胸の奥で認める。
恋人ではない。
だから「寂しい」とも「会いたい」とも軽々しく言えない。
けれど。
この綺麗な秋の景色を、聖川さんと一緒に見たい。
その願いまで、諦めたくはなかった。
家に帰り、お気に入りの和紅茶を淹れてベッドに腰掛ける。
スマートフォンを手に取り、画面を見つめる。心臓が、トクトクと少し速いリズムを刻み始めた。
「次はいつ会えますか」なんて、やっぱり怖くて打てない。
だから景奈は、震える指先で、一生懸命に「綺麗な言い訳」を文字にしていった。
『聖川さん、お仕事お疲れ様です。朝晩はすっかり肌寒くなってきましたが、体調など崩されていませんか?
私のほうは、おかげさまで仕事の納品が無事にひと段落しました。
実は、十月になると近くの公園で、とても綺麗な秋バラが見頃を迎えるそうなんです。
もし、聖川さんのスケジュールに少しでも余裕のあるお日にちがあれば……今度、お仕事の息抜きも兼ねて、一緒にバラ園に行きませんか?』
花火大会をあんなに素敵な席でもてなしてもらった、そのお礼も兼ねて。
言い訳を並べるように長い文章を打ち込み、これ以上ないほど丁寧な敬語の裏に本心を隠して。
景奈は息を止め、送信ボタンを押した。
――どうか、迷惑じゃありませんように。
祈るような気持ちでスマートフォンを胸に抱きしめる。
すると――思っていたよりずっと早く、手元が短く震えた。
あまりの速さに、景奈は目を瞬かせる。
画面には、すでに彼からの返信が届いていた。
画面を開くと、そこにはいつも通りの、けれどどこか少しだけ慌てたような、熱を帯びた彼からの返信が届いていた。
『朝倉さん、連絡をありがとう。仕事が落ち着いたようで安心した』
その数秒後、続けてもう一通。
『バラ園のお誘い、とても嬉しい。ぜひ、ご一緒させてほしい』
景奈の鼓動が跳ねる。
さらに表示された次のメッセージには、十月の候補日が驚くほど細かく並んでいた。
『十月なら、以下の日程が比較的調整できそうだ。朝倉さんの都合はいかがだろうか』
まるで、最初から空きを探していたみたいに。
その必死さが、可笑しくて、愛おしくて。
景奈は思わず、胸の前でスマートフォンを抱きしめた。
お互いに「資格がない」と苦しんだ九月の夜を越えて。
二人の時間が、十月の高い空の下で、再び静かに動き出そうとしていた。