レイニーブルー・コンチェルト
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#6 夏灯のセレナーデ
八月の空気は、昼の熱をまだ少しだけ抱えたまま、夕方の光のなかでゆっくりほどけていた。
景奈は美容院で整えてもらった髪先を指でそっと確かめながら、落ち着かない気持ちでホテルのエントランスに立っていた。
絞りの浴衣は、少しだけ大人びた藍の濃淡を含んでいて、ふわりと結ばれた兵児帯が、緊張で固くなった胸のあたりをやわらかく包んでいる。鏡の前で何度も見たはずなのに、いまこの場所に立つと、自分だけがひどく場違いな気がした。
「関係者用の観覧席がある」
そう言われていたはずだった。けれど通された先は、静かな廊下の奥にある、一室のスイートルームだった。
扉を開けた瞬間、景奈は思わず足を止める。
大きな窓。
夏の夕焼けを含んだ薄明。
そして部屋の奥には、見慣れないほど大きなベッドが静かに横たわっていた。
その存在を認識した瞬間、景奈の胸が不意に大きく脈打つ。
もちろん、深い意味などない。
人目を避けて花火を楽しむための部屋――それだけの話だ。
けれど、静かな室内に置かれたその寝台は、妙に存在感があった。
まだ姿の見えない真斗を思うほど、胸の奥は落ち着かない。
小さく息を吐き、景奈は熱を逃がすように視線を逸らした。
――これ以上、余計なことを考えてしまう前に。
逃げるようにテラスへ足を向けると、夜風が火照った頬をそっと撫でていった。
*
そのころ真斗は、まだラジオ局のスタジオにいた。
本来なら、もうとっくに終わっているはずの収録だった。けれど機材の不調と、あわただしい進行の乱れが重なって、予定はじわじわと押していた。
マイク前で話しながらも、真斗の視線は何度も腕時計へ落ちる。表情こそ崩さぬが、その落ち着きのなさは隣にいる来栖翔にもすぐ伝わった。
「……なんか予定でもあんのか?」
ひょいと投げられたその言葉に、真斗は一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「いや……大丈夫だ」
「大丈夫じゃなさそうだけどな」
翔は半ば呆れたように笑いながらも、真斗の横顔をじっと見た。そこには、いつもの完璧な聖川真斗の面影よりも、少しだけ焦りの滲んだ色がある。
その後、軽い打ち合わせと挨拶が残っていると聞いた真斗は、内心の焦燥を押し隠しながら立っていた。だが、翔はそこでふっと肩を竦める。
「後は俺に任せて、お前は行け」
「いや、しかし」
「いいから、行けって!! ……誰か待たせてんだろ?」
その言葉には、迷いがなかった。
背中を押すというより、半ば叩き出すような翔の不器用な優しさに、真斗は息を呑む。
「……来栖、恩に着る!」
真斗は珍しく、救われたような顔をした。次の瞬間にはもう、バッグをひったくるように掴み、ほとんど駆け出す勢いでスタジオを後にしていた。
*
送られてくるメッセージは、短い。
『すまない、収録が押している』
景奈はテラスの手すりのそばで、花火を映す夜空を見上げながら、すぐに返した。
『大丈夫ですよ、待ってます』
その一文を打つだけで、胸の奥が少し熱くなる。待っている、というのはたったそれだけの言葉なのに、不思議なくらい、真斗を信じてしまう言葉でもあった。
真斗は車で向かっていた。だが、会場の周囲はすでに交通規制が始まっていて、最後は人波をかき分けながら走るしかない。
シャツの下に、汗がじっとりと滲む。息は上がっている。けれど足は止まらない。
夜空の向こうで、花火がひとつ、またひとつと開いていく音がする。
間に合え。
真斗はそればかりを考えていた。
景奈が、ひとりで待っている。
浴衣を着て。
自分のために。
その事実だけで、胸の奥が焦げるように熱かった。
ようやくホテルへ着き、スタッフに短く頭を下げて通されたテラスへ、真斗はほとんど飛び込むように辿り着く。
汗をにじませた頬。
少し乱れた息。
そして、まだ鳴り止まぬ心臓。
ドアが開く音に気づいて、景奈が振り返った。
「……あ、聖川さん!」
その顔が、ぱっと明るくなる。
「お仕事、お疲れ様でした」
花火の光を背にして、景奈は笑っていた。待たせたことを責めるでもなく、ただ会えたことを素直に喜ぶように。
その笑顔を見た瞬間、真斗の喉の奥がきゅっと詰まる。
抱きしめたい。
その感情は、胸の奥へ真っ直ぐ突き刺さるほど鮮烈だった。
だが真斗は、糸一本ほどの理性をどうにか繋ぎ止める。ここで手を伸ばしてしまったら、浴衣の淡い布越しに触れた熱に、きっともう戻れなくなる。
「……待たせたな」
ようやく絞り出した声は、少しかすれていた。
並んで手すりのそばに立つと、目の前ではちょうど大輪の花火がひとつ、夜空いっぱいに咲いていた。赤。金。青。空を裂くような音と、少し遅れて胸へ届く振動。
「綺麗ですね」
景奈がぽつりと言う。
真斗も小さく頷く。
「ああ、綺麗だ」
その声に、景奈は何気なく隣を見た。
けれど次の瞬間、胸が小さく跳ねる。
真斗は花火ではなく、じっと景奈を見つめていた。
夜風に揺れる髪。
浴衣の襟元から覗くうなじ。
花火の光に照らされた横顔を、青い瞳が静かになぞるように見つめている。
「……っ」
不意に喉が熱くなる。
その視線の意味を考えてしまうのが怖くて――けれど、逸らすより先に、ふと目が合った。
夜空を裂く花火の光が、その青い瞳へ一瞬だけ滲む。
そして右目の下にある小さな泣きぼくろが、仄かな影を帯びて、ひどく色っぽく見えた。
花火の光が明滅するたび、その表情はいつもの端正さよりもずっと近く、知らない男の顔に見えてしまう。
「……っ」
胸の奥が甘く疼く。
これ以上見つめ返していたら、自分まで何か言ってしまいそうで。景奈は慌てて夜空へ目を戻した。
ちょうどその時だった。
花火大会の終わりを告げるような大きな音が、夜空いっぱいに散っていった。
歓声。
拍手。
遠くでざわめく観客たちの声。
真斗は、少し遅れて息を吐いた。
「……すまない。随分待たせてしまった」
その声音には、申し訳なさと、追いつけた安堵が同じだけ混じっていた。
「いえ、お仕事ですから」
景奈は首を振る。
本当は、待っていた時間さえ嬉しかった。言ってしまえば、今ここにいること自体が、もう奇跡みたいだった。
「去年、友達と来たときなんて、人が多すぎて会場にすら辿り着けなかったんですよ! 結局、ビルの隙間から見て終わっちゃって……。だから、こんな素敵な場所で見られたなんて、本当に夢みたいです」
景奈がそう言って笑うと、真斗は少しだけ目を細めた。
ホテルのテラスの向こうでは、祭りを終えた街のざわめきが、遠い波のようにかすかに届いている。
けれど、二人のあいだに落ちた沈黙は、不思議と苦しくはなかった。
夏の夜風が静かに吹き抜ける。
花火の消えた夜空を見上げながら、景奈はふと小さく息をついた。
「……星が綺麗ですね」
ぽつりと零れた声は、夜風に溶けていく。
真斗は隣で静かに空を見上げた。
そして、少し遅れて小さく頷く。
「ああ」
それ以上の言葉はなかった。
けれど。
ただ隣にいる――その事実だけで、胸の奥は不思議なほど満たされていた。
八月の空気は、昼の熱をまだ少しだけ抱えたまま、夕方の光のなかでゆっくりほどけていた。
景奈は美容院で整えてもらった髪先を指でそっと確かめながら、落ち着かない気持ちでホテルのエントランスに立っていた。
絞りの浴衣は、少しだけ大人びた藍の濃淡を含んでいて、ふわりと結ばれた兵児帯が、緊張で固くなった胸のあたりをやわらかく包んでいる。鏡の前で何度も見たはずなのに、いまこの場所に立つと、自分だけがひどく場違いな気がした。
「関係者用の観覧席がある」
そう言われていたはずだった。けれど通された先は、静かな廊下の奥にある、一室のスイートルームだった。
扉を開けた瞬間、景奈は思わず足を止める。
大きな窓。
夏の夕焼けを含んだ薄明。
そして部屋の奥には、見慣れないほど大きなベッドが静かに横たわっていた。
その存在を認識した瞬間、景奈の胸が不意に大きく脈打つ。
もちろん、深い意味などない。
人目を避けて花火を楽しむための部屋――それだけの話だ。
けれど、静かな室内に置かれたその寝台は、妙に存在感があった。
まだ姿の見えない真斗を思うほど、胸の奥は落ち着かない。
小さく息を吐き、景奈は熱を逃がすように視線を逸らした。
――これ以上、余計なことを考えてしまう前に。
逃げるようにテラスへ足を向けると、夜風が火照った頬をそっと撫でていった。
*
そのころ真斗は、まだラジオ局のスタジオにいた。
本来なら、もうとっくに終わっているはずの収録だった。けれど機材の不調と、あわただしい進行の乱れが重なって、予定はじわじわと押していた。
マイク前で話しながらも、真斗の視線は何度も腕時計へ落ちる。表情こそ崩さぬが、その落ち着きのなさは隣にいる来栖翔にもすぐ伝わった。
「……なんか予定でもあんのか?」
ひょいと投げられたその言葉に、真斗は一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「いや……大丈夫だ」
「大丈夫じゃなさそうだけどな」
翔は半ば呆れたように笑いながらも、真斗の横顔をじっと見た。そこには、いつもの完璧な聖川真斗の面影よりも、少しだけ焦りの滲んだ色がある。
その後、軽い打ち合わせと挨拶が残っていると聞いた真斗は、内心の焦燥を押し隠しながら立っていた。だが、翔はそこでふっと肩を竦める。
「後は俺に任せて、お前は行け」
「いや、しかし」
「いいから、行けって!! ……誰か待たせてんだろ?」
その言葉には、迷いがなかった。
背中を押すというより、半ば叩き出すような翔の不器用な優しさに、真斗は息を呑む。
「……来栖、恩に着る!」
真斗は珍しく、救われたような顔をした。次の瞬間にはもう、バッグをひったくるように掴み、ほとんど駆け出す勢いでスタジオを後にしていた。
*
送られてくるメッセージは、短い。
『すまない、収録が押している』
景奈はテラスの手すりのそばで、花火を映す夜空を見上げながら、すぐに返した。
『大丈夫ですよ、待ってます』
その一文を打つだけで、胸の奥が少し熱くなる。待っている、というのはたったそれだけの言葉なのに、不思議なくらい、真斗を信じてしまう言葉でもあった。
真斗は車で向かっていた。だが、会場の周囲はすでに交通規制が始まっていて、最後は人波をかき分けながら走るしかない。
シャツの下に、汗がじっとりと滲む。息は上がっている。けれど足は止まらない。
夜空の向こうで、花火がひとつ、またひとつと開いていく音がする。
間に合え。
真斗はそればかりを考えていた。
景奈が、ひとりで待っている。
浴衣を着て。
自分のために。
その事実だけで、胸の奥が焦げるように熱かった。
ようやくホテルへ着き、スタッフに短く頭を下げて通されたテラスへ、真斗はほとんど飛び込むように辿り着く。
汗をにじませた頬。
少し乱れた息。
そして、まだ鳴り止まぬ心臓。
ドアが開く音に気づいて、景奈が振り返った。
「……あ、聖川さん!」
その顔が、ぱっと明るくなる。
「お仕事、お疲れ様でした」
花火の光を背にして、景奈は笑っていた。待たせたことを責めるでもなく、ただ会えたことを素直に喜ぶように。
その笑顔を見た瞬間、真斗の喉の奥がきゅっと詰まる。
抱きしめたい。
その感情は、胸の奥へ真っ直ぐ突き刺さるほど鮮烈だった。
だが真斗は、糸一本ほどの理性をどうにか繋ぎ止める。ここで手を伸ばしてしまったら、浴衣の淡い布越しに触れた熱に、きっともう戻れなくなる。
「……待たせたな」
ようやく絞り出した声は、少しかすれていた。
並んで手すりのそばに立つと、目の前ではちょうど大輪の花火がひとつ、夜空いっぱいに咲いていた。赤。金。青。空を裂くような音と、少し遅れて胸へ届く振動。
「綺麗ですね」
景奈がぽつりと言う。
真斗も小さく頷く。
「ああ、綺麗だ」
その声に、景奈は何気なく隣を見た。
けれど次の瞬間、胸が小さく跳ねる。
真斗は花火ではなく、じっと景奈を見つめていた。
夜風に揺れる髪。
浴衣の襟元から覗くうなじ。
花火の光に照らされた横顔を、青い瞳が静かになぞるように見つめている。
「……っ」
不意に喉が熱くなる。
その視線の意味を考えてしまうのが怖くて――けれど、逸らすより先に、ふと目が合った。
夜空を裂く花火の光が、その青い瞳へ一瞬だけ滲む。
そして右目の下にある小さな泣きぼくろが、仄かな影を帯びて、ひどく色っぽく見えた。
花火の光が明滅するたび、その表情はいつもの端正さよりもずっと近く、知らない男の顔に見えてしまう。
「……っ」
胸の奥が甘く疼く。
これ以上見つめ返していたら、自分まで何か言ってしまいそうで。景奈は慌てて夜空へ目を戻した。
ちょうどその時だった。
花火大会の終わりを告げるような大きな音が、夜空いっぱいに散っていった。
歓声。
拍手。
遠くでざわめく観客たちの声。
真斗は、少し遅れて息を吐いた。
「……すまない。随分待たせてしまった」
その声音には、申し訳なさと、追いつけた安堵が同じだけ混じっていた。
「いえ、お仕事ですから」
景奈は首を振る。
本当は、待っていた時間さえ嬉しかった。言ってしまえば、今ここにいること自体が、もう奇跡みたいだった。
「去年、友達と来たときなんて、人が多すぎて会場にすら辿り着けなかったんですよ! 結局、ビルの隙間から見て終わっちゃって……。だから、こんな素敵な場所で見られたなんて、本当に夢みたいです」
景奈がそう言って笑うと、真斗は少しだけ目を細めた。
ホテルのテラスの向こうでは、祭りを終えた街のざわめきが、遠い波のようにかすかに届いている。
けれど、二人のあいだに落ちた沈黙は、不思議と苦しくはなかった。
夏の夜風が静かに吹き抜ける。
花火の消えた夜空を見上げながら、景奈はふと小さく息をついた。
「……星が綺麗ですね」
ぽつりと零れた声は、夜風に溶けていく。
真斗は隣で静かに空を見上げた。
そして、少し遅れて小さく頷く。
「ああ」
それ以上の言葉はなかった。
けれど。
ただ隣にいる――その事実だけで、胸の奥は不思議なほど満たされていた。