レイニーブルー・コンチェルト
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#5 指先のプレリュード
あの隠れ家レストランでの、大人の理知的な食事会を経てから。
二人の関係には静かな変化が訪れていた。
最初の連絡は、ジャケット返却のお礼だった。
そこから少しずつ、他愛ない言葉が増えていった。
毎日、というわけではない。
けれど、どちらからともなく時折届くようになったLINEのメッセージ。
『今日は良い天気だな。そちらの職場の窓からも青空が見えるだろうか』
『聖川さんに教えていただいた和紅茶、とても美味しくて毎日の癒やしになっています』
そんな、本当に他愛のない日常の報告や、お互いを気遣う言葉のやり取りが、今や景奈の毎日にかけがえのない彩りを与えていた。
そして、そんな穏やかなやり取りの延長線上で迎えた、初夏の昼下がり。
景奈のスマートフォンに真斗から短いメッセージが届いた。
『急に時間ができたのだが、共に茶でもどうだ。もし都合がよければ、この間の駅の近くに気になる店がある』
待ち合わせたのは、賑やかな通りから一本路地を入ったところにある、気取らないカジュアルなカフェだった。
初夏の明るい陽射しが差し込む窓際の席で、ストローでアイスコーヒーを口に運ぶ真斗の姿は、飾らない風景の中でもやっぱり一枚の絵画のようにつやつやとしていて美しい。
けれど、お店の開放的な雰囲気のおかげか、今日の二人の会話はいつもよりどこか等身大で、弾んでいた。
画面越しに交わしていた仕事の近況や、本当に他愛のない日常の雑談が、対面した今、心地よいテンポでリアルに流れていく。
「すごく美味しいですね。聖川さん、素敵なお店を教えてくださってありがとうございます」
「いや、朝倉さんに気に入ってもらえたのなら何よりだ」
そう言ってふっと目元を緩める真斗。
その穏やかな表情に胸をときめかせつつも、景奈の視線は、彼の顔からじわじわと、テーブルの上の『ある一点』へと吸い寄せられていった。
冷たいグラスに添えられた、長く、端正な彼の指先――。
グラスを包むその美しい指先を見つめていると、不意に記憶が胸の奥で揺れた。
あの手で、この間はクッキーの生地を捏ねていたのだ。
……それだけではない。
激しい雷雨の日、肩へそっとジャケットを掛けてくれたのも、大きな傘を支えていたのも――。
すべて、あの手だった。
景奈は、グラスを傾ける滑らかな手首の動きから、どうしても目を逸らせなかった。
記憶の中の彼の指先と、今、目の前でグラスの水滴を無造作に拭う指先が、完全に重なり合う。
考えるだけで、心臓の奥がぎゅっと締め付けられるように甘く疼いた。彼がグラスを置き、テーブルの上でふわりと指を組む、その何気ない仕草のひとつひとつが、景奈の視界でスローモーションのように焼き付いていく。
「……朝倉さん? どうかしただろうか」
「えっ!? あ、い、いえなんでもないです!」
グラスをかき混ぜる手を止め、真斗が不思議そうに覗き込んでくる。その手が、今はアイスコーヒーの表面に浮かぶ水滴を、長い指先でそっと拭っている。その何気ない一挙手一投足にすら翻弄されながら、景奈は必死でバクバク鳴る心臓を落ち着かせようと、冷たいアイスティーを喉へと流し込んだ。
食事のときとはまた違う、お互いの「素の体温」が伝わってくるような距離感。
そんな中で、景奈は何気なく、本当に他愛のない会社でのエピソードのつもりで、職場の先輩の話を口にした。
「私がちょっとミスして落ち込んでいたら、仕事帰りに『お疲れ!』って、冷たいジュースを差し入れて励ましてくれて。本当に視野が広くて、尊敬できる先輩なんです」
楽しげに語る景奈の言葉を受け止めた真斗は、「……そうか」と短く応え、手元のアイスコーヒーへと視線を落とした。
端正な顔立ちから、明確な感情の揺れは読み取れない。
けれど、氷が浮かぶ琥珀色の液面を見つめるその青い瞳だけが、ほんの少し、さざ波のように静かに揺れている。
冷たいグラスの縁に、長く美しい指先が触れた。
無意識なのだろう。溶けかけた水滴を、親指の腹がゆっくりとなぞる。
「仕事熱心な男なのだろうな」
ぽつりと零れ落ちた声は、いつもよりずっと低く、微かな翳りを帯びていた。
景奈は小さく頷く。
「はい。厳しいところもありますけど、ちゃんと周りを見てくれる方で……」
そこまで言ってから、ふと気がつく。
真斗からの、相槌がないことに。
不思議に思って視線を上げると、彼は相変わらず穏やかな表情を保っていた。
だが、テーブルへ戻されたグラスが立てた「コツン」という音だけが、普段の彼らしからぬ、微かな硬さを孕んでいた。
「……聖川さん?」
戸惑いながら名を呼ぶと、真斗はハッと我に返ったように目を瞬かせた。
そして、微かに強張っていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出す。
「いや……すまない」
声色は落ち着きを取り戻していた。
けれど、その響きにはどこか、自分自身を諫めるような不器用な色が滲んでいる。
「……少し、羨ましく思っただけだ」
景奈は目を丸くする。
羨ましい。その言葉の意味がすぐには呑み込めない。
真斗は伏せ目がちに視線を落としたまま、テーブルの上で組んでいた指先を静かにほどいた。
「その男のように、日常の中で朝倉さんを支えたり、元気づけたり……」
そこで一度、言葉が途切れる。
それはまるで、自らの内にある感情を口にして良いものか、迷っているような間だった。
窓から差し込む初夏の柔らかな光が、彼の長い睫毛に淡い影を落としている。
やがて真斗は、ふっと自嘲するように、少しだけ照れたように目を細めた。
「……そういう役目が、俺にもあれば良かったのだがな」
「…………へ?」
思考が、完全に停止した。
賑やかなカフェのざわめきも。
グラスの中で氷が溶ける微かな音も。
その瞬間だけ、世界からすべての音が遠のいていく気がした。
当の真斗は、景奈がどれほど硬直しているかには気づかないまま、自分でも不用意な本音をこぼしてしまったと気づいたように、少し困ったように視線を逸らしている。
けれど景奈の胸の奥底では、たった今落とされたその一言が、甘く熱い波紋となって、何度も何度も広がっていた。
少女漫画のような「あ、あの……っ」なんて可愛い反応をする余裕など、1ミリも残されていない。顔が一気に沸騰したように熱くなり、景奈は完全にフリーズしてしまった。
そんな景奈の、魂が口から抜け出しかけているような大パニックを前にして、真斗は不思議そうにパチリと瞬きをした。
「どうした? どこか具合でも悪いのか。少し顔が赤いようだが……」
「だ、大丈夫です! ちょっと、アイスティーが、冷たくて、美味しくて、びっくりしちゃっただけで……!」
しどろもどろに言い訳をして慌ててグラスに口をつける景奈を見て、真斗は一瞬きょとんとした後、ふふっと肩を揺らして、今までで一番柔らかい、等身大の声を立てて笑った。
「そうか。それは良かった」
目元を優しく細め、心底楽しそうに笑う彼。
その飾らない笑顔と、テーブルの上に置かれた美しい指先を前に、景奈はもう、自分の募る想いをごまかすことはできなかった。
ひとしきり笑った後、真斗はふと、組んでいた指先を少しだけ組み替えた。
その、わずかに緊張を孕んだような手の動きに、景奈の視線が再び引き寄せられる。真斗はアイスコーヒーのグラスを見つめたまま、少しだけ声をトーンを落として切り出した。
「……朝倉さん。実は、少し先の話なのだが……聞いておきたいことがあってな」
いつもの穏やかな響き。
けれど、どこか引き締まった彼の低い声に、景奈の心臓がどくんと跳ねる。
「八月に、この近くで大きな花火大会があるだろう。……その、関係者用の、混雑を避けられる席が手に入ったのだ」
真斗はそこで一度言葉を切り、意を決したようにまっすぐ、青い瞳で景奈を見つめた。
その端正な顔の、耳の付け根が、ほんのりと赤く染まっているのを景奈は見逃さなかった。
テーブルの上の彼の指先が、微かにグラスの縁を強く握りしめる。
「俺と……花火を見に行ってはくれないだろうか。朝倉さんと、夏の光を見てみたいのだ」
「え……っ」
夏の光。
彼が紡いだそのあまりに美しい響きと、まっすぐな青い瞳に射抜かれ、景奈の頭は真っ白になる。
「ひ、聖川さんと、花火……っ? は、はい! 喜んで、行きたいです……!」
すると真斗は、張り詰めていた肩の力をふっと抜き、どこかホッとしたような、本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。その安堵した表情がたまらなく愛おしくて、景奈の胸の奥にも、小さな勇気がふわりと湧き上がる。
「じゃあ……せっかくですし、私、当日は浴衣を着ていきますね」
「……っ」
満面の笑みでそう告げた瞬間、真斗の動きが微かに止まった。
グラスに触れていた彼の美しい指先が、ほんの少しだけ強張る。
「浴衣、か」
復唱した真斗の声は、いつもよりほんの少しだけ低く、かすれていた。
彼は一度視線を落とすと、握っていたグラスから静かに手を離し、口元を隠すようにして自らの長い指先を添える。
夕暮れに近い初夏の陽射しのせいだけではない、確かな熱が彼の耳の後ろから首筋へと、じわじわと淡く広がっていくのを、景奈は静かに見つめていた。
いつも冷静で、どこまでも紳士的な彼が、自分の言葉ひとつでこんなにも静かに揺らいでいる。
「……あ、あの、あまり似合わないかもしれないんですけど……」
「いや」
気恥ずかしさに耐えかねて景奈が言葉を濁そうとすると、真斗は口元に添えていた手をゆっくりと下ろし、もう一度、まっすぐに彼女の目を見据えた。
その青い瞳は、いつもより少しだけ真剣で、静かな熱を湛えていた。
「……楽しみにしている」
静かに、けれど丁寧に紡がれたその一言に、今度は景奈の心臓が甘く悲鳴を上げた。
あの隠れ家レストランでの、大人の理知的な食事会を経てから。
二人の関係には静かな変化が訪れていた。
最初の連絡は、ジャケット返却のお礼だった。
そこから少しずつ、他愛ない言葉が増えていった。
毎日、というわけではない。
けれど、どちらからともなく時折届くようになったLINEのメッセージ。
『今日は良い天気だな。そちらの職場の窓からも青空が見えるだろうか』
『聖川さんに教えていただいた和紅茶、とても美味しくて毎日の癒やしになっています』
そんな、本当に他愛のない日常の報告や、お互いを気遣う言葉のやり取りが、今や景奈の毎日にかけがえのない彩りを与えていた。
そして、そんな穏やかなやり取りの延長線上で迎えた、初夏の昼下がり。
景奈のスマートフォンに真斗から短いメッセージが届いた。
『急に時間ができたのだが、共に茶でもどうだ。もし都合がよければ、この間の駅の近くに気になる店がある』
待ち合わせたのは、賑やかな通りから一本路地を入ったところにある、気取らないカジュアルなカフェだった。
初夏の明るい陽射しが差し込む窓際の席で、ストローでアイスコーヒーを口に運ぶ真斗の姿は、飾らない風景の中でもやっぱり一枚の絵画のようにつやつやとしていて美しい。
けれど、お店の開放的な雰囲気のおかげか、今日の二人の会話はいつもよりどこか等身大で、弾んでいた。
画面越しに交わしていた仕事の近況や、本当に他愛のない日常の雑談が、対面した今、心地よいテンポでリアルに流れていく。
「すごく美味しいですね。聖川さん、素敵なお店を教えてくださってありがとうございます」
「いや、朝倉さんに気に入ってもらえたのなら何よりだ」
そう言ってふっと目元を緩める真斗。
その穏やかな表情に胸をときめかせつつも、景奈の視線は、彼の顔からじわじわと、テーブルの上の『ある一点』へと吸い寄せられていった。
冷たいグラスに添えられた、長く、端正な彼の指先――。
グラスを包むその美しい指先を見つめていると、不意に記憶が胸の奥で揺れた。
あの手で、この間はクッキーの生地を捏ねていたのだ。
……それだけではない。
激しい雷雨の日、肩へそっとジャケットを掛けてくれたのも、大きな傘を支えていたのも――。
すべて、あの手だった。
景奈は、グラスを傾ける滑らかな手首の動きから、どうしても目を逸らせなかった。
記憶の中の彼の指先と、今、目の前でグラスの水滴を無造作に拭う指先が、完全に重なり合う。
考えるだけで、心臓の奥がぎゅっと締め付けられるように甘く疼いた。彼がグラスを置き、テーブルの上でふわりと指を組む、その何気ない仕草のひとつひとつが、景奈の視界でスローモーションのように焼き付いていく。
「……朝倉さん? どうかしただろうか」
「えっ!? あ、い、いえなんでもないです!」
グラスをかき混ぜる手を止め、真斗が不思議そうに覗き込んでくる。その手が、今はアイスコーヒーの表面に浮かぶ水滴を、長い指先でそっと拭っている。その何気ない一挙手一投足にすら翻弄されながら、景奈は必死でバクバク鳴る心臓を落ち着かせようと、冷たいアイスティーを喉へと流し込んだ。
食事のときとはまた違う、お互いの「素の体温」が伝わってくるような距離感。
そんな中で、景奈は何気なく、本当に他愛のない会社でのエピソードのつもりで、職場の先輩の話を口にした。
「私がちょっとミスして落ち込んでいたら、仕事帰りに『お疲れ!』って、冷たいジュースを差し入れて励ましてくれて。本当に視野が広くて、尊敬できる先輩なんです」
楽しげに語る景奈の言葉を受け止めた真斗は、「……そうか」と短く応え、手元のアイスコーヒーへと視線を落とした。
端正な顔立ちから、明確な感情の揺れは読み取れない。
けれど、氷が浮かぶ琥珀色の液面を見つめるその青い瞳だけが、ほんの少し、さざ波のように静かに揺れている。
冷たいグラスの縁に、長く美しい指先が触れた。
無意識なのだろう。溶けかけた水滴を、親指の腹がゆっくりとなぞる。
「仕事熱心な男なのだろうな」
ぽつりと零れ落ちた声は、いつもよりずっと低く、微かな翳りを帯びていた。
景奈は小さく頷く。
「はい。厳しいところもありますけど、ちゃんと周りを見てくれる方で……」
そこまで言ってから、ふと気がつく。
真斗からの、相槌がないことに。
不思議に思って視線を上げると、彼は相変わらず穏やかな表情を保っていた。
だが、テーブルへ戻されたグラスが立てた「コツン」という音だけが、普段の彼らしからぬ、微かな硬さを孕んでいた。
「……聖川さん?」
戸惑いながら名を呼ぶと、真斗はハッと我に返ったように目を瞬かせた。
そして、微かに強張っていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出す。
「いや……すまない」
声色は落ち着きを取り戻していた。
けれど、その響きにはどこか、自分自身を諫めるような不器用な色が滲んでいる。
「……少し、羨ましく思っただけだ」
景奈は目を丸くする。
羨ましい。その言葉の意味がすぐには呑み込めない。
真斗は伏せ目がちに視線を落としたまま、テーブルの上で組んでいた指先を静かにほどいた。
「その男のように、日常の中で朝倉さんを支えたり、元気づけたり……」
そこで一度、言葉が途切れる。
それはまるで、自らの内にある感情を口にして良いものか、迷っているような間だった。
窓から差し込む初夏の柔らかな光が、彼の長い睫毛に淡い影を落としている。
やがて真斗は、ふっと自嘲するように、少しだけ照れたように目を細めた。
「……そういう役目が、俺にもあれば良かったのだがな」
「…………へ?」
思考が、完全に停止した。
賑やかなカフェのざわめきも。
グラスの中で氷が溶ける微かな音も。
その瞬間だけ、世界からすべての音が遠のいていく気がした。
当の真斗は、景奈がどれほど硬直しているかには気づかないまま、自分でも不用意な本音をこぼしてしまったと気づいたように、少し困ったように視線を逸らしている。
けれど景奈の胸の奥底では、たった今落とされたその一言が、甘く熱い波紋となって、何度も何度も広がっていた。
少女漫画のような「あ、あの……っ」なんて可愛い反応をする余裕など、1ミリも残されていない。顔が一気に沸騰したように熱くなり、景奈は完全にフリーズしてしまった。
そんな景奈の、魂が口から抜け出しかけているような大パニックを前にして、真斗は不思議そうにパチリと瞬きをした。
「どうした? どこか具合でも悪いのか。少し顔が赤いようだが……」
「だ、大丈夫です! ちょっと、アイスティーが、冷たくて、美味しくて、びっくりしちゃっただけで……!」
しどろもどろに言い訳をして慌ててグラスに口をつける景奈を見て、真斗は一瞬きょとんとした後、ふふっと肩を揺らして、今までで一番柔らかい、等身大の声を立てて笑った。
「そうか。それは良かった」
目元を優しく細め、心底楽しそうに笑う彼。
その飾らない笑顔と、テーブルの上に置かれた美しい指先を前に、景奈はもう、自分の募る想いをごまかすことはできなかった。
ひとしきり笑った後、真斗はふと、組んでいた指先を少しだけ組み替えた。
その、わずかに緊張を孕んだような手の動きに、景奈の視線が再び引き寄せられる。真斗はアイスコーヒーのグラスを見つめたまま、少しだけ声をトーンを落として切り出した。
「……朝倉さん。実は、少し先の話なのだが……聞いておきたいことがあってな」
いつもの穏やかな響き。
けれど、どこか引き締まった彼の低い声に、景奈の心臓がどくんと跳ねる。
「八月に、この近くで大きな花火大会があるだろう。……その、関係者用の、混雑を避けられる席が手に入ったのだ」
真斗はそこで一度言葉を切り、意を決したようにまっすぐ、青い瞳で景奈を見つめた。
その端正な顔の、耳の付け根が、ほんのりと赤く染まっているのを景奈は見逃さなかった。
テーブルの上の彼の指先が、微かにグラスの縁を強く握りしめる。
「俺と……花火を見に行ってはくれないだろうか。朝倉さんと、夏の光を見てみたいのだ」
「え……っ」
夏の光。
彼が紡いだそのあまりに美しい響きと、まっすぐな青い瞳に射抜かれ、景奈の頭は真っ白になる。
「ひ、聖川さんと、花火……っ? は、はい! 喜んで、行きたいです……!」
すると真斗は、張り詰めていた肩の力をふっと抜き、どこかホッとしたような、本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。その安堵した表情がたまらなく愛おしくて、景奈の胸の奥にも、小さな勇気がふわりと湧き上がる。
「じゃあ……せっかくですし、私、当日は浴衣を着ていきますね」
「……っ」
満面の笑みでそう告げた瞬間、真斗の動きが微かに止まった。
グラスに触れていた彼の美しい指先が、ほんの少しだけ強張る。
「浴衣、か」
復唱した真斗の声は、いつもよりほんの少しだけ低く、かすれていた。
彼は一度視線を落とすと、握っていたグラスから静かに手を離し、口元を隠すようにして自らの長い指先を添える。
夕暮れに近い初夏の陽射しのせいだけではない、確かな熱が彼の耳の後ろから首筋へと、じわじわと淡く広がっていくのを、景奈は静かに見つめていた。
いつも冷静で、どこまでも紳士的な彼が、自分の言葉ひとつでこんなにも静かに揺らいでいる。
「……あ、あの、あまり似合わないかもしれないんですけど……」
「いや」
気恥ずかしさに耐えかねて景奈が言葉を濁そうとすると、真斗は口元に添えていた手をゆっくりと下ろし、もう一度、まっすぐに彼女の目を見据えた。
その青い瞳は、いつもより少しだけ真剣で、静かな熱を湛えていた。
「……楽しみにしている」
静かに、けれど丁寧に紡がれたその一言に、今度は景奈の心臓が甘く悲鳴を上げた。