レイニーブルー・コンチェルト
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#4 薄闇のアンダンテ
あの激しい雷雨の夜から数日。
景奈のスマートフォンの連絡先には、手の届かないはずのトップアイドル――聖川真斗の、プライベートな連絡先がひっそりと息を潜めていた。
ただその文字を見つめるだけで心臓が早鐘を打つような日々の中、クリーニング店から「仕上がりました」と連絡が入る。
景奈は何度も文章を入力しては消し、極力ビジネスライクになるよう努めて『ジャケットのクリーニングが仕上がりました。ご都合の良い時にお返しさせてください』とメッセージを送信した。
すると、驚くほどすぐに返信が届く。
『急だが明日の夜はどうだろうか? 撮影がバラシになったのでな。せっかくだから食事でも、と思うのだが』
「っ……明日の夜!?」
画面を見た瞬間、景奈は自室のベッドの上で勢いよく跳ね起きた。
何ヶ月、いえ、何年経ったとしても、あの聖川真斗とプライベートで食事をするなんて、心の準備が追いつくわけがない。
パニックに陥る景奈の手の中で、スマートフォンが続けて短く震えた。
『何か嫌いな食べ物は、あるいはアレルギーなどはないだろうか』
『アルコールは嗜む程度に大丈夫か? 無理にとは言わない、当日の気分で決めてくれて構わない』
どこまでも生真面目で、どこまでも優しい、彼らしい細やかな気遣い。
その丁寧さにじんわりと胸を打たれながら、景奈は震える指先を必死に落ち着かせ、お酒の好みを尋ねられたことに『何でも美味しくいただけます。ワインが好きです』とだけ返信した。
『そうか。では、美味いワインが飲める店を探しておこう。楽しみにしておくといい』
すぐに届いた、どこまでも真摯で優しい返信に、景奈は嬉しさと緊張がないまぜになった悲鳴を上げ、しばらくベッドの上で悶絶する羽目になったのだった。
*
そして運命の、翌日の夜。
指定されたのは、賑やかな繁華街から少し離れた、静かな路地裏に佇む隠れ家レストランだった。控えめな看板が一枚あるだけの、一見するとお洒落な一軒家のようだが、漂う空気だけでその格式の高さがひしひしと伝わってくる。
「……よし」
胸に抱えたジャケットの入った袋をもう一度強く抱き締め、景奈は意を決して重厚な木製のドアを開けた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
品のあるレセプションのスタッフに、景奈は緊張で強張る声で「あ、朝倉、です」と告げる。
「朝倉様ですね。お待ち申し上げておりました。こちらへどうぞ」
恭しく一礼したスタッフに導かれ、仄暗く静かな廊下を進む。厚い絨毯に足音が吸い込まれていく中、景奈の心臓の音だけが、うるさいほどに耳の奥で鳴り響いていた。
通路の一番奥。
プライバシーが完全に守られた、重厚な個室のドアの前でスタッフが足を止める。
「こちらでございます」
スタッフが静かにドアノブに手をかけ、扉を押し開けた。
――そこには。
「朝倉さん。……俺も今しがた着いたところだ」
落ち着いたシックな私服に身を包んだ聖川真斗が、すでに席に腰掛けていた。
景奈が部屋に入ってきたことに気づくと、彼はふっと端正な顔を綻ばせ、立ち上がって真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
吸い込まれそうなほどに深く、綺麗な青い瞳。
そして部屋の中にうっすらと漂う、あの夜、景奈のワンルームを支配した『凛としたウッディの香り』が、彼女の記憶を鮮烈に呼び覚ました。
真斗は景奈の腕にある、丁寧に包装されたジャケットに視線を落とすと、少しだけはにかむように微笑んだ。
「無事に来れて良かった。さあ、中へ。外は蒸し暑かっただろう」
優しく促す彼の声に、景奈は自分が六月の梅雨特有の、じっとりとした空気の中を歩いてきたことを思い出す。冷房が心地よく効いた静謐な室内に入り、ようやく少しだけ息がつけた。
「あ、あの、先日は本当にありがとうございました」
緊張で上ずりそうになる声を必死に抑えながら、景奈は胸に抱えていた袋を両手で真っ直ぐに差し出した。
ビニール越しに見える、あの気品溢れるベージュの生地。
それを見た瞬間、景奈の脳裏には、数日前のあの夜の記憶が鮮やかすぎるほどに蘇ってしまう。
狭いワンルームで、このジャケットを狂おしいほどに抱き締め、彼の体温と香りに五感のすべてを委ね、深く酔いしれていた、あの背徳的な時間――。
思い出してはいけない。
そう自分へ言い聞かせるほどに、頬はみるみる熱を帯びていく。
けれど、そんな彼女の内心の激しい動揺など露知らず、真斗はいつもの気品ある、けれどどこか柔らかな笑みを浮かべ、丁寧に袋を受け取った。
「手間をかけさせたな。綺麗な仕上がりだ、感謝する」
「い、いえそんな! こちらこそ、大切な上着をお借りしてしまって……!」
慌てて手を振る景奈を、真斗はどこか愛おしそうに目を細めて見つめていた。
やがて、タイミングを見計らったように現れたウェイターに促され、二人はテーブルを挟んで向かい合わせの席に着いた。
カトラリーが整然と並ぶテーブルの上で、景奈は膝の上に乗せたカバンにそっと手を伸ばす。
どうしても、クリーニングを返すだけでなく、個人的な感謝を伝えたかったのだ。
「あの、聖川さん。これ……本当にお礼にもならないくらい、ささやかなものなんですけど」
カバンから取り出したのは、綺麗にラッピングされた小さな包みだった。
「これ、私のお気に入りの和紅茶なんです。もし、お口に合うといいんですが……」
紅茶、それも日本の茶葉を使った和紅茶というチョイスに、真斗の綺麗な青い瞳がほんのりと輝いた。彼は「ほう」と感嘆の声を漏らし、宝物でも受け取るかのように両手でその包みを引き取る。
「和紅茶か。渋みが少なくて味わい深いと聞いたことがあるが、試すのは初めてだ。朝倉さんのお気に入りなら、なおさら淹れるのが楽しみだな。ありがとう、大切にいただく」
まっすぐな瞳で告げられた真摯な言葉に、景奈の胸がホッと温かくなる。
すると、真斗は「では、俺からもこれを」と言って、自分のバッグから上品なリボンが結ばれた小さな箱を取り出し、テーブルの上を滑らせるようにして景奈の前に差し出した。
「え……?」
「大したものではないのだが……その、クッキーを焼いてみた。口に合うか分からないが、よければ食べて欲しい」
「ええっ!? ひ、聖川さんが、手作りで……!?」
まさかのサプライズに、景奈は思わず目を丸くして凝視してしまった。
あのトップアイドルの聖川真斗が、自分のために厨房に立ち、クッキーの生地を捏ねてオーブンで焼いている姿――。想像しただけで、頭のキャパシティが限界を迎えそうになる。
「ああ。撮影がバラシになって、少し時間ができたのでな。朝倉さんは甘いものは大丈夫だっただろうか」
ほんの少しだけ目元を染めながら、生真面目に、けれどどこか照れくさそうに聞いてくる真斗。
そのあまりの破壊力に、景奈の心臓はメニューを開く前から、早くも特大の音を立てて波打ち始めていた。
「あ、甘いもの、大好きです! ありがとうございます……! おうちに帰ってから、大切に大切にいただきますね」
胸の前にクッキーの箱をそっと抱きしめる景奈を見て、真斗は心の底から安堵したように「そうか、良かった」と柔らかく笑みを零した。
やがて、ソムリエが姿を現し、二人のグラスに黄金色のシャンパンが静かに注がれる。美しく立ち上る一筋の泡のきらめきが、個室の落ち着いた照明に照らされてなんとも幻想的だ。
「では――今夜、こうして朝倉さんと佳き時間を共にできることに」
「はい。先日は、本当にありがとうございました」
真斗がそっとグラスを持ち上げる。
正式なマナーに倣い、決してグラスは合わせない。互いに目線の高さでグラスを確かめ合い、柔らかい微笑みを交わす。
それは控えめに、けれど確かに心を通わせる、大人の温かな乾杯だった。
ひとくち、喉を潤す。
きめ細やかな泡が心地よく弾け、爽やかな酸味とふくよかな香りが口いっぱいに広がった。ずっと張り詰めていた景奈の身体から、極上のアルコールがじんわりと緊張を解きほぐしていく。
その後運ばれてくる料理はどれも目を見張るほど美しく、そして本当に美味しかった。
前菜からメインに至るまで、一皿ごとに一番相性の良いワインが絶妙なタイミングで用意される。景奈が「ワインが好きです」と伝えたからこそ、真斗がお店の人と事前に細かく打ち合わせをしておいてくれたのだろう。
その背景にある彼の見えない誠実さを想うだけで、胸がいっぱいになる。まさに至極の時間だった。
美味しい料理、極上のワイン。
そして何より、テーブルの向こう側には、あの聖川真斗がいる。
お酒が進むにつれ、会話も自然と弾み始めた。
普段の仕事にかける熱い想いや、ちょっとした裏話。あるいは、本当に他愛のない季節の移り変わりのことや、お互いの好きなもののこと。
真斗は景奈の拙い言葉にも一つひとつ深く頷き、真摯に耳を傾けてくれる。彼がふっと声を立てて笑うたび、景奈の心臓はワインのせいだけではない甘い熱を帯びていった。
けれど。
「では、名残惜しいが今夜はこれで。遅くなっては朝倉さんの身に障る」
コースの最後のデザートが片付き、食後の温かいお茶を飲み終えた頃。真斗はなんの未練も見せずに、スマートに席を立った。
結局、その夜はそれ以上のことは何も起きなかった。
連絡先を渡されたあの雷雨の夜のような劇的な瞬間も、お互いの距離が物理的にグッと近づくようなハプニングも、恋が進展するような甘い言葉も、何一つない。
ただひたすらに、美味しく、楽しく、穏やかな時間が過ぎて、そのまま大人の食事会は静かに幕を閉じたのだ。
これでいいのだ。
ただ、親切に食事へ連れてきてもらっただけ――。
景奈はそう胸の内で静かに言い聞かせた。
帰り際、駅の改札前で「気をつけて帰るのだぞ」と優しく見送ってくれた彼の後ろ姿を思い出しながら、景奈は夜道を歩く。
進展はなかった。でも、がっかりするような気持ちはどこにもなかった。
むしろ、あの聖川真斗が、自分のために時間を割き、お店を選び、お酒の手配をして、あのまっすぐな瞳で自分だけを見て話してくれた。その事実だけで、景奈の胸はちぎれそうなくらいの幸福感で満たされていた。
自宅のワンルームに戻り、バッグからそっと、あの小さな箱を取り出す。
リボンを解いて蓋を開けると、ふんわりと香ばしく、どこか懐かしいバターの香りが広がった。
中には、驚くほど形と厚みが綺麗に揃った、いかにも真斗らしい生真面目なクッキーが並んでいる。
ずっと飾っておきたいくらいだった。
けれど、せっかく聖川さんが焼いてくれたのだ。悪くならないうちに、ちゃんと食べよう。
意を決してそれを一枚、そっと口に運ぶ。
サクッとした小気味よい歯触りのあと、胸の奥がキュンとするような、温かくて優しい甘さが口いっぱいに広がって、じわっと解けていく。
「……おいしい」
誰もいない部屋で、景奈はぽつりと呟いた。
彼が焼いてくれたこのクッキーの甘さが、景奈の胸へ静かに溶けていく。
それは、もう簡単には忘れられない甘さだった。
*
窓の外で、薄鈍色の夕闇が静かに夜へと溶けていく頃。
レジデンスの共有キッチンには、シン、とした静寂と規則正しい金属音だけが満ちていた。
紺色のエプロンを身に纏った聖川真斗は、伏せられた長い睫毛の影を落としながら、真剣な眼差しで計りの目盛りを見つめている。
一グラムの狂いすら許さない精緻な手つきは、まるで繊細なガラス細工でも扱うかのようだ。しかし、その張り詰めた横顔とは裏腹に、彼の胸の内を柔らかく占めていたのは、たった一人の女性のはにかむような笑顔だった。
(……ワインを好むと言っていたな。ならば、無闇な甘さは避け、素材の香りを引き立てるべきか。それとも、酒に寄り添うよう微かに塩味を効かせるべきか……)
滑らかに溶けたバターに、粉雪のようにきめ細やかな小麦粉が舞い落ちる。
ピアノの鍵盤を撫でるような端正な指先で生地をまとめるたび、幾度も脳裏をよぎるのはあの夜の記憶だ。
アスファルトを叩きつける激しい雨音、むせ返るような湿った空気。そして――自分のジャケットに包まり、微かに震えていた彼女の華奢な肩の感触。
「綺麗にして、すぐにお返しします」と、申し訳なさそうに連絡をくれた朝倉景奈の、ひたむきで細やかな気遣い。明日、あのジャケットを大切に抱えて現れるであろう彼女の温かな優しさに、不器用な自分はどうしても、この手で作り上げた「形」で応えたかったのだ。
(朝倉さん……貴女は、どんな顔でこれを受け取ってくれるだろうか)
予熱を終えたオーブンへ、寸分の狂いもなく切り揃えられた生地たちをそっと滑り込ませる。
やがて扉の向こう側から、じんわりと甘く香ばしい匂いが立ち上り始めるまで。真斗はただ直立不動のまま、まるで静かな祈りを捧げるようにその場に佇んでいた。
やがて、沈黙を破るように焼き上がりを知らせる柔らかな電子音が響く。
扉を開けると、ふわりと濃密なバターの香りが溢れ出した。焼きムラ一つない、完璧な黄金色。満足げに息をつき、真斗がミトンで天板を取り出した、まさにその時だった。
「ふぁあ……なんだか、とっても美味しそうな匂いにつられて来ちゃいました!」
ひょっこり、という長閑な擬音がこれほど似合う男もいないだろう。キッチンの入り口から顔を出したのは、眼鏡の奥の瞳を子供のようにきらきらと輝かせた、四ノ宮那月だった。
「四ノ宮か。……丁度いいところに来た」
一瞬肩を揺らした真斗だったが、微かな照れ隠しのように伏し目がちに言う。味見も兼ねて、多めに焼いておいて正解だった。
「少し余分に作ったからな。良ければどうだ?」
「わあ! 良いんですか? じゃあ僕、このお菓子にぴったりの美味しいお茶を淹れてきますね!」
花が咲いたように笑い、嬉々として茶葉の用意に向かう那月の背中を見送りながら、真斗の唇からも自然と柔らかな笑みがこぼれ落ちていた。
薄明かりの灯るリビングのソファ。
淹れたてのダージリンの芳醇な香りと、焼きたての菓子の甘い匂いが、夜の空気に心地よく溶け合っていく。
那月は差し出された一枚のクッキーを両手で包み込むように持ち、宝物でも味わうように大切に口へ運んだ。
サクッ――。
小気味よい音が、静寂の落ちた部屋に優しく響く。
「……はふ。とーっても美味しいです、真斗くん。……それに、とっても甘い味がしますねぇ」
その言葉に、真斗はティーカップを傾ける手をピタリと止め、怪訝そうに眉を寄せた。
「なっ……甘い、だと? 砂糖の分量は正確に量ったはずだが、多すぎたか」
「ううん、違いますよぉ、真斗くん」
那月はふわりと、春風のような微笑みを浮かべて小首を傾げる。レンズの奥にあるその瞳は、どんな些細な隠し事すらも優しく見透かしてしまうほどに、どこまでも澄み切っていた。
「これはお砂糖の甘さじゃなくて……真斗くんの『想い』の甘さです。……ふふ、大好きな人にプレゼントするんですか?」
「っ……!」
図星を突かれた真斗の端正な顔が、一瞬にして耳の付け根までカッと熱を帯びた。
咄嗟に否定の言葉を探して唇をわななかせる。だが、一切の淀みがない那月の真っ直ぐで、心からの祝福に満ちた視線に射抜かれ――彼にこれ以上の嘘をつくことは、到底できなかった。
「……四ノ宮には、どう足掻いても敵わないな」
降参したように視線を落とし、真斗は熱を逃がすように小さく吐息をつく。
認めざるを得なかった。
粉を量る時も、生地を捏ねる時も、オーブンの前で立ち尽くしていた時も。
ずっと脳裏にあったのは彼女の姿であり、どうすれば彼女が微笑んでくれるか、そればかりを狂おしいほどに考えていたのだと。
「そうか。お前には、隠し味まで透けて見えるのだな」
「ふふ、わかっちゃいますよ。だって、胸の奥がキュンとするくらい、優しくて温かい味がするんですから。なんだか、僕まで幸せな気持ちになっちゃいました」
那月は自分の肩を抱くようにして、甘い余韻を噛み締めるように身をよじらせる。
「幸せのお裾分け、ありがとうございます。……ああっ、僕もなんだか、大好きな人をぎゅーーーってしたくなっちゃいました!」
俄かに賑やかさを取り戻した夜のリビングで、真斗は再び、手元に残った一片の焼き菓子へと静かに視線を落とした。
四ノ宮の言葉が本当なら。
自分の内にある不器用で臆病な恋心も、この菓子を介せば、彼女の心へ届くのだろうか。
明日の夜、テーブル越しにまっすぐに見つめ合う彼女の瞳に、ほんの少しでも、この甘い熱が伝わることを願って。
真斗は目を伏せ、そっと最後の一口を飲み込んだ。
あの激しい雷雨の夜から数日。
景奈のスマートフォンの連絡先には、手の届かないはずのトップアイドル――聖川真斗の、プライベートな連絡先がひっそりと息を潜めていた。
ただその文字を見つめるだけで心臓が早鐘を打つような日々の中、クリーニング店から「仕上がりました」と連絡が入る。
景奈は何度も文章を入力しては消し、極力ビジネスライクになるよう努めて『ジャケットのクリーニングが仕上がりました。ご都合の良い時にお返しさせてください』とメッセージを送信した。
すると、驚くほどすぐに返信が届く。
『急だが明日の夜はどうだろうか? 撮影がバラシになったのでな。せっかくだから食事でも、と思うのだが』
「っ……明日の夜!?」
画面を見た瞬間、景奈は自室のベッドの上で勢いよく跳ね起きた。
何ヶ月、いえ、何年経ったとしても、あの聖川真斗とプライベートで食事をするなんて、心の準備が追いつくわけがない。
パニックに陥る景奈の手の中で、スマートフォンが続けて短く震えた。
『何か嫌いな食べ物は、あるいはアレルギーなどはないだろうか』
『アルコールは嗜む程度に大丈夫か? 無理にとは言わない、当日の気分で決めてくれて構わない』
どこまでも生真面目で、どこまでも優しい、彼らしい細やかな気遣い。
その丁寧さにじんわりと胸を打たれながら、景奈は震える指先を必死に落ち着かせ、お酒の好みを尋ねられたことに『何でも美味しくいただけます。ワインが好きです』とだけ返信した。
『そうか。では、美味いワインが飲める店を探しておこう。楽しみにしておくといい』
すぐに届いた、どこまでも真摯で優しい返信に、景奈は嬉しさと緊張がないまぜになった悲鳴を上げ、しばらくベッドの上で悶絶する羽目になったのだった。
*
そして運命の、翌日の夜。
指定されたのは、賑やかな繁華街から少し離れた、静かな路地裏に佇む隠れ家レストランだった。控えめな看板が一枚あるだけの、一見するとお洒落な一軒家のようだが、漂う空気だけでその格式の高さがひしひしと伝わってくる。
「……よし」
胸に抱えたジャケットの入った袋をもう一度強く抱き締め、景奈は意を決して重厚な木製のドアを開けた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
品のあるレセプションのスタッフに、景奈は緊張で強張る声で「あ、朝倉、です」と告げる。
「朝倉様ですね。お待ち申し上げておりました。こちらへどうぞ」
恭しく一礼したスタッフに導かれ、仄暗く静かな廊下を進む。厚い絨毯に足音が吸い込まれていく中、景奈の心臓の音だけが、うるさいほどに耳の奥で鳴り響いていた。
通路の一番奥。
プライバシーが完全に守られた、重厚な個室のドアの前でスタッフが足を止める。
「こちらでございます」
スタッフが静かにドアノブに手をかけ、扉を押し開けた。
――そこには。
「朝倉さん。……俺も今しがた着いたところだ」
落ち着いたシックな私服に身を包んだ聖川真斗が、すでに席に腰掛けていた。
景奈が部屋に入ってきたことに気づくと、彼はふっと端正な顔を綻ばせ、立ち上がって真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
吸い込まれそうなほどに深く、綺麗な青い瞳。
そして部屋の中にうっすらと漂う、あの夜、景奈のワンルームを支配した『凛としたウッディの香り』が、彼女の記憶を鮮烈に呼び覚ました。
真斗は景奈の腕にある、丁寧に包装されたジャケットに視線を落とすと、少しだけはにかむように微笑んだ。
「無事に来れて良かった。さあ、中へ。外は蒸し暑かっただろう」
優しく促す彼の声に、景奈は自分が六月の梅雨特有の、じっとりとした空気の中を歩いてきたことを思い出す。冷房が心地よく効いた静謐な室内に入り、ようやく少しだけ息がつけた。
「あ、あの、先日は本当にありがとうございました」
緊張で上ずりそうになる声を必死に抑えながら、景奈は胸に抱えていた袋を両手で真っ直ぐに差し出した。
ビニール越しに見える、あの気品溢れるベージュの生地。
それを見た瞬間、景奈の脳裏には、数日前のあの夜の記憶が鮮やかすぎるほどに蘇ってしまう。
狭いワンルームで、このジャケットを狂おしいほどに抱き締め、彼の体温と香りに五感のすべてを委ね、深く酔いしれていた、あの背徳的な時間――。
思い出してはいけない。
そう自分へ言い聞かせるほどに、頬はみるみる熱を帯びていく。
けれど、そんな彼女の内心の激しい動揺など露知らず、真斗はいつもの気品ある、けれどどこか柔らかな笑みを浮かべ、丁寧に袋を受け取った。
「手間をかけさせたな。綺麗な仕上がりだ、感謝する」
「い、いえそんな! こちらこそ、大切な上着をお借りしてしまって……!」
慌てて手を振る景奈を、真斗はどこか愛おしそうに目を細めて見つめていた。
やがて、タイミングを見計らったように現れたウェイターに促され、二人はテーブルを挟んで向かい合わせの席に着いた。
カトラリーが整然と並ぶテーブルの上で、景奈は膝の上に乗せたカバンにそっと手を伸ばす。
どうしても、クリーニングを返すだけでなく、個人的な感謝を伝えたかったのだ。
「あの、聖川さん。これ……本当にお礼にもならないくらい、ささやかなものなんですけど」
カバンから取り出したのは、綺麗にラッピングされた小さな包みだった。
「これ、私のお気に入りの和紅茶なんです。もし、お口に合うといいんですが……」
紅茶、それも日本の茶葉を使った和紅茶というチョイスに、真斗の綺麗な青い瞳がほんのりと輝いた。彼は「ほう」と感嘆の声を漏らし、宝物でも受け取るかのように両手でその包みを引き取る。
「和紅茶か。渋みが少なくて味わい深いと聞いたことがあるが、試すのは初めてだ。朝倉さんのお気に入りなら、なおさら淹れるのが楽しみだな。ありがとう、大切にいただく」
まっすぐな瞳で告げられた真摯な言葉に、景奈の胸がホッと温かくなる。
すると、真斗は「では、俺からもこれを」と言って、自分のバッグから上品なリボンが結ばれた小さな箱を取り出し、テーブルの上を滑らせるようにして景奈の前に差し出した。
「え……?」
「大したものではないのだが……その、クッキーを焼いてみた。口に合うか分からないが、よければ食べて欲しい」
「ええっ!? ひ、聖川さんが、手作りで……!?」
まさかのサプライズに、景奈は思わず目を丸くして凝視してしまった。
あのトップアイドルの聖川真斗が、自分のために厨房に立ち、クッキーの生地を捏ねてオーブンで焼いている姿――。想像しただけで、頭のキャパシティが限界を迎えそうになる。
「ああ。撮影がバラシになって、少し時間ができたのでな。朝倉さんは甘いものは大丈夫だっただろうか」
ほんの少しだけ目元を染めながら、生真面目に、けれどどこか照れくさそうに聞いてくる真斗。
そのあまりの破壊力に、景奈の心臓はメニューを開く前から、早くも特大の音を立てて波打ち始めていた。
「あ、甘いもの、大好きです! ありがとうございます……! おうちに帰ってから、大切に大切にいただきますね」
胸の前にクッキーの箱をそっと抱きしめる景奈を見て、真斗は心の底から安堵したように「そうか、良かった」と柔らかく笑みを零した。
やがて、ソムリエが姿を現し、二人のグラスに黄金色のシャンパンが静かに注がれる。美しく立ち上る一筋の泡のきらめきが、個室の落ち着いた照明に照らされてなんとも幻想的だ。
「では――今夜、こうして朝倉さんと佳き時間を共にできることに」
「はい。先日は、本当にありがとうございました」
真斗がそっとグラスを持ち上げる。
正式なマナーに倣い、決してグラスは合わせない。互いに目線の高さでグラスを確かめ合い、柔らかい微笑みを交わす。
それは控えめに、けれど確かに心を通わせる、大人の温かな乾杯だった。
ひとくち、喉を潤す。
きめ細やかな泡が心地よく弾け、爽やかな酸味とふくよかな香りが口いっぱいに広がった。ずっと張り詰めていた景奈の身体から、極上のアルコールがじんわりと緊張を解きほぐしていく。
その後運ばれてくる料理はどれも目を見張るほど美しく、そして本当に美味しかった。
前菜からメインに至るまで、一皿ごとに一番相性の良いワインが絶妙なタイミングで用意される。景奈が「ワインが好きです」と伝えたからこそ、真斗がお店の人と事前に細かく打ち合わせをしておいてくれたのだろう。
その背景にある彼の見えない誠実さを想うだけで、胸がいっぱいになる。まさに至極の時間だった。
美味しい料理、極上のワイン。
そして何より、テーブルの向こう側には、あの聖川真斗がいる。
お酒が進むにつれ、会話も自然と弾み始めた。
普段の仕事にかける熱い想いや、ちょっとした裏話。あるいは、本当に他愛のない季節の移り変わりのことや、お互いの好きなもののこと。
真斗は景奈の拙い言葉にも一つひとつ深く頷き、真摯に耳を傾けてくれる。彼がふっと声を立てて笑うたび、景奈の心臓はワインのせいだけではない甘い熱を帯びていった。
けれど。
「では、名残惜しいが今夜はこれで。遅くなっては朝倉さんの身に障る」
コースの最後のデザートが片付き、食後の温かいお茶を飲み終えた頃。真斗はなんの未練も見せずに、スマートに席を立った。
結局、その夜はそれ以上のことは何も起きなかった。
連絡先を渡されたあの雷雨の夜のような劇的な瞬間も、お互いの距離が物理的にグッと近づくようなハプニングも、恋が進展するような甘い言葉も、何一つない。
ただひたすらに、美味しく、楽しく、穏やかな時間が過ぎて、そのまま大人の食事会は静かに幕を閉じたのだ。
これでいいのだ。
ただ、親切に食事へ連れてきてもらっただけ――。
景奈はそう胸の内で静かに言い聞かせた。
帰り際、駅の改札前で「気をつけて帰るのだぞ」と優しく見送ってくれた彼の後ろ姿を思い出しながら、景奈は夜道を歩く。
進展はなかった。でも、がっかりするような気持ちはどこにもなかった。
むしろ、あの聖川真斗が、自分のために時間を割き、お店を選び、お酒の手配をして、あのまっすぐな瞳で自分だけを見て話してくれた。その事実だけで、景奈の胸はちぎれそうなくらいの幸福感で満たされていた。
自宅のワンルームに戻り、バッグからそっと、あの小さな箱を取り出す。
リボンを解いて蓋を開けると、ふんわりと香ばしく、どこか懐かしいバターの香りが広がった。
中には、驚くほど形と厚みが綺麗に揃った、いかにも真斗らしい生真面目なクッキーが並んでいる。
ずっと飾っておきたいくらいだった。
けれど、せっかく聖川さんが焼いてくれたのだ。悪くならないうちに、ちゃんと食べよう。
意を決してそれを一枚、そっと口に運ぶ。
サクッとした小気味よい歯触りのあと、胸の奥がキュンとするような、温かくて優しい甘さが口いっぱいに広がって、じわっと解けていく。
「……おいしい」
誰もいない部屋で、景奈はぽつりと呟いた。
彼が焼いてくれたこのクッキーの甘さが、景奈の胸へ静かに溶けていく。
それは、もう簡単には忘れられない甘さだった。
*
窓の外で、薄鈍色の夕闇が静かに夜へと溶けていく頃。
レジデンスの共有キッチンには、シン、とした静寂と規則正しい金属音だけが満ちていた。
紺色のエプロンを身に纏った聖川真斗は、伏せられた長い睫毛の影を落としながら、真剣な眼差しで計りの目盛りを見つめている。
一グラムの狂いすら許さない精緻な手つきは、まるで繊細なガラス細工でも扱うかのようだ。しかし、その張り詰めた横顔とは裏腹に、彼の胸の内を柔らかく占めていたのは、たった一人の女性のはにかむような笑顔だった。
(……ワインを好むと言っていたな。ならば、無闇な甘さは避け、素材の香りを引き立てるべきか。それとも、酒に寄り添うよう微かに塩味を効かせるべきか……)
滑らかに溶けたバターに、粉雪のようにきめ細やかな小麦粉が舞い落ちる。
ピアノの鍵盤を撫でるような端正な指先で生地をまとめるたび、幾度も脳裏をよぎるのはあの夜の記憶だ。
アスファルトを叩きつける激しい雨音、むせ返るような湿った空気。そして――自分のジャケットに包まり、微かに震えていた彼女の華奢な肩の感触。
「綺麗にして、すぐにお返しします」と、申し訳なさそうに連絡をくれた朝倉景奈の、ひたむきで細やかな気遣い。明日、あのジャケットを大切に抱えて現れるであろう彼女の温かな優しさに、不器用な自分はどうしても、この手で作り上げた「形」で応えたかったのだ。
(朝倉さん……貴女は、どんな顔でこれを受け取ってくれるだろうか)
予熱を終えたオーブンへ、寸分の狂いもなく切り揃えられた生地たちをそっと滑り込ませる。
やがて扉の向こう側から、じんわりと甘く香ばしい匂いが立ち上り始めるまで。真斗はただ直立不動のまま、まるで静かな祈りを捧げるようにその場に佇んでいた。
やがて、沈黙を破るように焼き上がりを知らせる柔らかな電子音が響く。
扉を開けると、ふわりと濃密なバターの香りが溢れ出した。焼きムラ一つない、完璧な黄金色。満足げに息をつき、真斗がミトンで天板を取り出した、まさにその時だった。
「ふぁあ……なんだか、とっても美味しそうな匂いにつられて来ちゃいました!」
ひょっこり、という長閑な擬音がこれほど似合う男もいないだろう。キッチンの入り口から顔を出したのは、眼鏡の奥の瞳を子供のようにきらきらと輝かせた、四ノ宮那月だった。
「四ノ宮か。……丁度いいところに来た」
一瞬肩を揺らした真斗だったが、微かな照れ隠しのように伏し目がちに言う。味見も兼ねて、多めに焼いておいて正解だった。
「少し余分に作ったからな。良ければどうだ?」
「わあ! 良いんですか? じゃあ僕、このお菓子にぴったりの美味しいお茶を淹れてきますね!」
花が咲いたように笑い、嬉々として茶葉の用意に向かう那月の背中を見送りながら、真斗の唇からも自然と柔らかな笑みがこぼれ落ちていた。
薄明かりの灯るリビングのソファ。
淹れたてのダージリンの芳醇な香りと、焼きたての菓子の甘い匂いが、夜の空気に心地よく溶け合っていく。
那月は差し出された一枚のクッキーを両手で包み込むように持ち、宝物でも味わうように大切に口へ運んだ。
サクッ――。
小気味よい音が、静寂の落ちた部屋に優しく響く。
「……はふ。とーっても美味しいです、真斗くん。……それに、とっても甘い味がしますねぇ」
その言葉に、真斗はティーカップを傾ける手をピタリと止め、怪訝そうに眉を寄せた。
「なっ……甘い、だと? 砂糖の分量は正確に量ったはずだが、多すぎたか」
「ううん、違いますよぉ、真斗くん」
那月はふわりと、春風のような微笑みを浮かべて小首を傾げる。レンズの奥にあるその瞳は、どんな些細な隠し事すらも優しく見透かしてしまうほどに、どこまでも澄み切っていた。
「これはお砂糖の甘さじゃなくて……真斗くんの『想い』の甘さです。……ふふ、大好きな人にプレゼントするんですか?」
「っ……!」
図星を突かれた真斗の端正な顔が、一瞬にして耳の付け根までカッと熱を帯びた。
咄嗟に否定の言葉を探して唇をわななかせる。だが、一切の淀みがない那月の真っ直ぐで、心からの祝福に満ちた視線に射抜かれ――彼にこれ以上の嘘をつくことは、到底できなかった。
「……四ノ宮には、どう足掻いても敵わないな」
降参したように視線を落とし、真斗は熱を逃がすように小さく吐息をつく。
認めざるを得なかった。
粉を量る時も、生地を捏ねる時も、オーブンの前で立ち尽くしていた時も。
ずっと脳裏にあったのは彼女の姿であり、どうすれば彼女が微笑んでくれるか、そればかりを狂おしいほどに考えていたのだと。
「そうか。お前には、隠し味まで透けて見えるのだな」
「ふふ、わかっちゃいますよ。だって、胸の奥がキュンとするくらい、優しくて温かい味がするんですから。なんだか、僕まで幸せな気持ちになっちゃいました」
那月は自分の肩を抱くようにして、甘い余韻を噛み締めるように身をよじらせる。
「幸せのお裾分け、ありがとうございます。……ああっ、僕もなんだか、大好きな人をぎゅーーーってしたくなっちゃいました!」
俄かに賑やかさを取り戻した夜のリビングで、真斗は再び、手元に残った一片の焼き菓子へと静かに視線を落とした。
四ノ宮の言葉が本当なら。
自分の内にある不器用で臆病な恋心も、この菓子を介せば、彼女の心へ届くのだろうか。
明日の夜、テーブル越しにまっすぐに見つめ合う彼女の瞳に、ほんの少しでも、この甘い熱が伝わることを願って。
真斗は目を伏せ、そっと最後の一口を飲み込んだ。