レイニーブルー・コンチェルト
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#2 レンズ越しのエチュード
『また、貴女と話せたら嬉しい』
あの夜、別れ際に聖川真斗から告げられた静かな言葉は、数日経っても景奈の鼓膜の奥に、消えない熱を残したまま居座っていた。
……けれど、現実はひどく冷静で、残酷だった。
大広間の中心で、眩いスポットライトを浴びるようにスタッフや共演者に囲まれている彼を、景奈は壁際から遠く眺めることしかできなかった。一度だって、視線が交わることすらなかった。
会場の喧騒に紛れていく彼の横顔を見つめながら、景奈はそっと胸の火照りを冷ましていく。
……うん。それは、そうなのだ。
あれはきっと、真面目な彼なりの丁寧な社交辞令だった。
ただの、丁寧な社交辞令。真面目な彼なりの、スタッフへの優しい労い。
銀河の先のように遠い世界に生きるアイドルと、しがないウェブデザイナーの接点なんて、あの夜のほんの数分が奇跡のすべてだったのだ。
そう自分を納得させ、浮ついた心を無理やり引き剥がすようにして、景奈はまた、いつもの代わり映えのしない日常へと戻っていった。
それから、一週間。
夜を吸い込んだドラマ公式サイトの会議室には、煮詰まったコーヒーの苦味と、澱んだ疲労の匂いが薄く満ちていた。
壁際の大型モニターが放つ、青白い液晶の光。そこに映し出されているのは、右肩上がりに急上昇を続けるアクセス数のグラフと、滝のように流れていくSNSの好意的な呟きだ。
「想定以上に伸びてますね〜」
誰かの弾んだ声が、静かな部屋に波紋のように広がる。沸き立つ周囲の熱から逃れるように、景奈は抱え込んだノートPCの微かな熱を腕に感じながら、部屋の隅でひっそりと肩を縮めていた。華やかな数字の世界が眩しければ眩しいほど、自分の存在が小さく、影のようになっていく気がする。
「で、急遽なんですけど」
ディレクターが、手元の資料を乾いた音を立ててめくった。その一言で、部屋の空気が一気にビジネスの戦場へと切り替わる。
「追加コンテンツやります。キャストのインタビュー動画と、撮り下ろしのオフショット」
「公開、来週金曜で」
「編集、今からで間に合う?」
「撮影スタジオ、急ぎで押さえます!」
濁流のように慌ただしく動き始める周囲の会話を、景奈はノートの余白に黙々と書き留めていた。ペン先が走る、ただそれだけの作業に意識を集中させようとしていた、その時。
「朝倉さん」
不意に名前を呼ばれ、胸の奥が冷たく跳ねた。
言葉にできない、じっとりとした嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「聖川さんのパート、現場入ってもらっていい? ほら、朝倉さん聖川さんのファンでしょ?」
心臓がにわかに大警報を鳴らし始める。
――駄目だ。近づいてはいけない。
ファンだからこそ、その境界線だけは踏み越えてはならない。
景奈は震えそうになる声を必死に整えて、すがるように口を開いた。
「あの、まあ、ファンといえば、ファン……ですけど、打ち上げの時にサイトのお話を少しさせていただいたので、それだけでもう本当に十分です……!」
「いいじゃん、いいじゃん。お仕事頑張ってるから役得ってことで!」
軽い。周囲の空気が軽すぎる。
景奈が「一ファン」として、そして「プロの裏方」として必死に引いた心の防衛線など、彼らは気づきもしない。相手はあのST☆RISHのメンバーなのだ。画面の向こう、銀河の先のように遠い世界に生きる国民的アイドル。
その事実の重さに、景奈の胃がきりきりと鳴るような痛みを訴え始める。けれど、そんな個人の畏怖や戸惑いを置き去りにしたまま、決定の歯車は冷酷なほどの速さで回っていく。
「じゃ、当日よろしく〜」
無慈悲に宣告されたその言葉が、会議室の天井に溶けて消えた。
終わった。
景奈はただ、きつく目を閉じ、心の中で静かに天を仰ぐことしかできなかった。
*
5月の、抜けるように鮮やかな青空。
街路樹のみずみずしい新緑が初夏の風に揺れる中、景奈は一人、スタジオの壁際に身を潜めるようにして、もう何度目になるかも分からない機材チェックを繰り返していた。手元を動かしていなければ、今にも心臓の音が周囲に漏れてしまいそうだった。
ふとした拍子にスタジオの鏡が目に入るたび、服の乱れを直し、前髪を整え、血色の悪い唇を気にしてしまう。そんな自分に気づくたび、ひどい自己嫌悪が襲ってきた。
何を期待しているのだろう。
ただの仕事だ。
自分は裏方で、彼は銀河の先のような世界に生きる人。
変な勘違いなど、してはいけないのに。
言い聞かせるようにきつく目を閉じた、その時だった。
「おはようございます」
スタジオの重い扉の向こうから、低く澄んだ声が響いた。
その瞬間、景奈の心臓がどくんと大きく跳ねる。
聖川真斗だった。
薄手のネイビーのロングコートの裾を美しく翻し、スタッフ一人ひとりへ丁寧に一礼しながら入ってくる。彼がそこに立つだけで、スタジオの空気が一瞬でピンと張り詰め、洗練された静謐さに満たされていく。それはアイドルというよりも、厳かな舞台の幕が上がるのを待つ、一人の気高き役者の佇まいだった。
スタッフたちが一斉に挨拶を返す中、真斗の鋭い視線が、ふとスタジオの隅へと動いた。
そして、佇む景奈の姿を捉えた、その瞬間。
ほんの少しだけ、彼の切れ長の目元が、春の雪解けのようにふわりと和らいだ。
「朝倉さん」
ただ名前を呼ばれただけなのに、肺の空気がすべて抜き取られたかのように呼吸の仕方を忘れてしまう。
「……お、おはようございます」
真斗は景奈のすぐ近くまで迷いのない足取りで歩み寄ると、静かに彼女を見下ろした。
「今日は現場担当なのか」
「はい……追加コンテンツの、撮影補助を……」
「そうか」
真斗は小さく、満足そうに頷く。それから、どこまでも自然に、まっすぐ言葉を紡いだ。
「また会えて嬉しい」
その声が耳の奥で再生されるたび、景奈は小さく息を呑んだ。
――やめて。
そんなふうに思い出してしまったら、また勘違いしてしまう。
胸の奥が、悲鳴を上げるように締め付けられた。
打ち上げの夜、遠くから見つめることしかできなくて、「あれは社交辞令だったんだ」と無理やり心のシャッターを下ろしたはずだった。それなのに、どうしてそんな綺麗な顔で、そんなに嬉しそうに言うのだろう。
真斗の瞳には微塵の嘘も、計算もなかった。ただただ、至って真摯に景奈を見つめている。
「以前話していたサイト、周囲からも評判が良かった。貴女の仕事なのだろう。丁寧な良いサイトだ」
「……ありがとうございます」
そんな風に、真っ直ぐに自分の仕事を認められたら、もう逃げ場がない。
これ以上、好きにさせないでほしい。いや、とっくに引き返せないほど好きなのだ。
溢れそうになる感情を隠すため、耐えかねて視線を斜め下に逸らすと、真斗は不思議そうに少し首を傾げた。
「……朝倉さん」
「は、はい!」
「顔色が悪い。緊張しているのか?」
「い、いえ! 全然!」
「そうは見えぬが……」
図星を突かれ、気まずさと恥ずかしさで消えてしまいたい景奈を救ったのは、遠くからのスタッフの声だった。
「聖川さん、先にヘアメイクお願いしまーす!」
「ああ」
真斗は声の主へ短く応じると、去り際、もう一度だけ景奈の瞳をじっと見つめた。
「朝倉さん。後ほど、よろしく頼む」
その一言だけを贅沢に残して、彼は吸い込まれるようにメイクルームへと消えていった。
残された景奈はその場に釘付けになったまま、数秒後、堪えきれずに近くの長机へと突っ伏した。
「……無理……」
冷たい机の感触だけが、火照りきった体温を少しだけ宥めてくれた。
*
インタビュー収録が滞りなく一段落し、スタジオ内が次の準備に向けてにわかに慌ただしくなり始める。
景奈の手には、重みのある一眼レフカメラが握られていた。「朝倉さん、画角のセンスいいからオフショットお願い!」と、ディレクターから絶大な信頼と共に急遽押し付けられたのだ。今の景奈に、それを拒むプロ意識の低さは持ち合わせていなかった。
「……では、何枚か撮らせていただきます」
できるだけ感情を削ぎ落とした、事務的な声を意識して、ファインダーを覗き込む。
けれど、レンズの向こうに映る真斗は、残酷なほどに美しかった。
スタジオの照明の残光を受けてきらめく、長い睫毛。少しだけ緩められたネクタイ。インタビューの緊張から解放された、わずかに弛緩した柔らかい表情。
そのすべてが、悔しいくらいに完璧な絵画のようだった。
カシャ、と静かなシャッター音がスタジオの喧騒に紛れる。
「……もう少しだけ、視線をこちらにお願いします」
「こうか?」
「あ、はい……ありがとうございます。次、少し角度変えます」
仕事に集中しろ、変に意識するな。自分を必死に律して、ただの『カメラのレンズ』になろうとしていた。
そう自分を落ち着かせながら、次のポジションを探るために、景奈がファインダーから目を離してカメラを少し胸元へと下ろした——その瞬間だった。
——あ。
カメラという遮蔽物がなくなった視界の中で、完全に視線が噛み合った。
レンズのガラスを挟まない、生身の、真斗のまっすぐな視線。
彼は最初から、カメラのレンズなど見ていなかった。レンズの向こう側にある、景奈の瞳をずっと真っ直ぐに見つめていたのだ。
あまりの至近距離に、思考が凍りついたように止まる。
「……朝倉さん」
低い声が、静かな熱を持って直接鼓膜へと届く。
「貴女は、撮る時」
真斗は視線を微塵も逸らさぬまま、尊いものを慈しむように言葉を紡いだ。
「昔から、とても優しい目をするのだな」
景奈の呼吸が、完全に止まった。
何それ――。
そんなことを、この距離で。そんな真っ直ぐな顔で言うなんて。
景奈の呼吸は完全に行き場を失っていた。
「え、あ、そんなことは……」
「ある」
真斗は穏やかに、だが一切の拒絶を許さない響きで言い切る。
「だから、貴方に撮られるのは嫌いではない」
もう、限界だった。
これ以上ここにいたら、彼の言葉の意味を都合よく解釈して、愚かな勘違いをしてしまう。
プロとしての境界線がガラガラと崩れ落ちる恐怖に駆られ、景奈が思わず一歩後退り、逃げるように手元のカメラで顔を隠した、その時。
「へぇ。随分いい顔してるね、聖川」
静寂を切り裂くように、軽やかで、どこか全てを見抜いたような声が降ってきた。
「じ、神宮寺さん……!?」
「やあ、レディ」
不意に降ってきた、華やかで、どこか全てを見抜いたようなハチミツ色の声。
景奈が弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間にかスタジオに入り込んでいた神宮寺レンが、悪戯っぽく目を細めてこちらを見つめていた。彼は景奈の手元にある液晶画面を覗き込むと、形の良い唇をさらに深く綻ばせる。
「うん、いい写真。愛があるね」
「っ!?」
心臓が文字通り爆発するかと思った。景奈の顔が一気に沸騰したように熱くなる。
プロの裏方として、そして一ファンとして、一番踏み越えてはならない一線を、これ以上ないほどストレートな言葉で突かれたのだ。あまりの恐れ多さと羞恥心に、景奈は声を裏返らせながら必死に手を振った。
「ち、違います! お仕事です……! 滅相もないです、純粋な業務としての、その、カメラワークです!」
「はは、ごめんごめん。そんなに慌てないでよ」
レンは楽しそうに肩を揺らすと、景奈のパニックぶりを愛おしそうに眺めた後、長い足を優雅に運んで真斗の隣へと滑り込むように腰掛けた。
「せっかくだし、オレも撮ってよ。追加コンテンツ用でしょ?」
「え、あ……はい! もちろんです!」
差し出された救いの一手に、景奈は心の中で激しく安堵の息を漏らした。
真斗と一対一の空間は、景奈にとって酸素が薄すぎる。だが、場の空気を一瞬で自分の色に染め上げるレンが加わってくれれば、辛うじて『仕事の現場』という現実の輪郭を保つことができる。
仕事だ。
これは純然たる仕事なのだ――。
景奈は乱れそうになる呼吸をどうにか整え、再び重い一眼レフを構えた。
「では……お二人とも、少しこちらに目線をお願いします」
ファインダーを覗き、息を呑んだ。
並び立つ、聖川真斗と神宮寺レン。
対極の魅力を放つ二人が一枚の画角に収まった瞬間、そこだけ次元が変わったかのような圧倒的な輝きが放たれる。もはや暴力的なまでの造形美。国民的アイドルたる所以をこれでもかと見せつけられ、景奈の脳内は「画面が強すぎる、意味が分からない」と処理を拒否しそうになっていた。
けれど、裏方としての理性を必死に総動員し、指先に力を込める。
カシャ、と静かなシャッター音が響いた。
その、一瞬の隙だった。
レンが、ごく自然な立ち位置の調整を装うようにして、ふっと真斗側へとわずかに顔を寄せた。
美しく整えられた横顔のまま、カメラからは決して見えない角度で、真斗の耳元へ低く、愉しげな声を滑り込ませる。
「聖川」
真斗の耳にだけ届くかすかな声。
「さっきからずっと、あのレディのこと、目で追ってるよ」
その指摘に、モデルとして自然に下ろされていた真斗の指先が、ぴくりと不自然に止まった。
彫刻のように完璧だった彼の佇まいに、ほんの僅かな動揺のさざ波が走る。
だが、真斗は正面のレンズを見据えたまま、微動だにせず低い声で応じた。
「……何を言っている、神宮寺」
「ふーん。自覚ないんだ」
くす、とレンは口元だけで、いかにも彼らしい不敵な笑みを漏らした。
レンズの向こうで繰り広げられている、微かな空気の変化。その正確な内容までは知る由もない景奈は、二人の間に漂う妙な緊張感を察知して、カメラから顔を離して小さく首を傾げた。
「……? お二人とも、何かお話中でしたか……?」
「いや? 何でもないよ」
レンは即座に、1ミリの綻びもない完璧な営業スマイルへと戻り、カメラへ向かって極上の視線を送る。
「ねぇ、聖川」
「……ああ」
レンに促され、真斗も短く生返事をした。
けれど、その切れ長の瞳は、景奈から僅かに斜め下へと逸らされたままだ。いつもなら真っ直ぐに自分を射抜くはずの真斗の視線が、頑なに合わない。その不自然な変化に、景奈の胸の奥は妙に落ち着かなくなり、ざわざわと小さな波が立ち始める。
——何だろう。今、神宮寺さんと、何を話していたんだろう……。私が、何か失礼なことでもしてしまったのだろうか。
そんな景奈の健気な戸惑いなど完全に楽しむように、レンはさらに、真斗にだけ聞こえる音量で追い打ちをかけるように囁いた。
「大丈夫。誰にも言わないよ、お前のその、可愛い初恋みたいな視線」
「……っ、神宮寺……!」
その声音があまりにも愉快そうで、そして核心を突きすぎていた。
真斗はそれ以上言い返すこともできず、静かに眉間を指先で押さえた。
*
ガタゴトと規則的な音を立てて揺れる、夜の下り電車。
窓ガラスに映る自分の疲れ切った顔から逃げるように、景奈はスマートフォンを取り出した。
無事にすべての撮影データを納品し終えた、その確認のために開いたはずだった。……なのに、指先が勝手に、今日撮影したばかりの真斗のオフショットばかりをスクロールしている。
液晶越しですら、息を呑むほどに綺麗だった。
それを見つめているだけで、胸の奥がぎゅうっと、あざができるほど強く締め付けられる。
『また会えて嬉しい』
『貴女の仕事なのだろう。丁寧な良いサイトだ』
『貴方に撮られるのは嫌いではない』
耳の奥で、彼の低く澄んだ声音が何度も、何度も都合よく再生されては鼓膜を震わせる。
おまけに、神宮寺レンの『いい写真。愛があるね』というからかうような言葉までが追い打ちをかけてきて、景奈はたまらずシートの端で小さく身悶えした。
違う。
ただの仕事だ。
変に意識してはいけないのに――。
この追加コンテンツの公開をもって、今回のドラマ公式サイトに関わる景奈の仕事は、文字通りすべて完了する。
これ以上のページ更新も、急な打ち合わせも、現場への呼び出しも、もう何一つとして残っていない。
今回の撮影は、ディレクターの気まぐれがもたらした、人生最後のご褒美のような奇跡だったのだ。
『仕事』という、あまりにも細くて、けれど唯一自分を繋ぎ止めてくれていた大義名分すらなくなってしまえば、自分はまた、その他大勢の、数百万人のうちの『一人のファン』に戻るだけ。
……これでもう、本当に終わりなのだ。
もう二度と、彼に会うことも、名前を呼ばれることもない。
だからこそ、この撮影は人生最後のご褒美のような奇跡だった。
生きる世界の地平が違いすぎる。画面の中の真斗は、手を伸ばしても絶対に届かない銀河の先のように、眩しくて、あまりにも遠い。
込み上げてくる泣き出しそうな愛おしさと、容赦のない喪失感。
景奈は耐えきれずスマートフォンを画面ごと胸に強く抱きしめ、深い溜息を、電車の無機質な揺れる音の中にそっと溶かした。
最寄り駅に着き、改札を出ると、少しひんやりとした風が景奈の火照った頬を撫でた。
昼間のあの、スタジオの熱気と、彼と目が合った瞬間の息苦しいほどの熱さが、まるで嘘だったかのようにすうっと冷めていく。大義名分は、もうどこにも残っていない。
景奈は小さく肩をすくめ、夜の静けさの中へ、一人歩き出した。
*
撮影現場の空気が落ち着き、スタッフが撤収を始めた頃。
控室のソファに腰掛けた真斗は、受け取った台本へ視線を落としていた。だが、文字がまったく頭に入ってこない。
脳裏に浮かぶのは、レンに囁かれた一言。
『さっきからずっと、あのレディのこと見てる』
俺が、朝倉さんを――。
その発想自体、これまで考えたこともなかった。
けれど否定しきれない何かが、胸の奥で静かに揺れていた。
思い返せば、彼女が現場に入ってきた瞬間から、無意識にその姿を追っていた。ファインダー越しに目が合った時、もっと見ていたいと思った。
それをレンに「自覚がない」と見抜かれ、返す言葉もなかった。
「……まだ考えてるの?」
不意に、横から声が落ちる。
見上げると、メイクを落とし終えたレンが、ジャケットを片手に面白そうにこちらを見ていた。
真斗は僅かに居心地の悪さを覚え、台本を閉じた。
「……お前のくだらん邪推に付き合う暇はない」
「邪推、ねぇ」
レンはくすりと笑い、真斗の正面に腰掛ける。
「素直じゃないな。別にいいじゃない、可愛かったよね。聖川さ、あのレディのこと、本当にただの『仕事仲間』だと思ってるの?」
真斗は言葉に詰まり、ゆっくりと息を吐き出した。
「……彼女の仕事を尊敬しているのは本当だ。早乙女学園時代から、彼女の生み出すものには実直さがあった。だから、再会できて、現場にいると安心するのだ」
「それにさ、お前、あのレディと話す時だけ声が柔らかいよ。大事そうに話すよね」
真斗は、はっとした。
自分の胸の内側へ、否応なしに意識が向く。
現場にいると探してしまう。目が合うと安心する。話していると落ち着く。もっと、彼女の言葉を聞きたいと思う。
それは、尊敬という言葉だけで片付けていい感情なのだろうか。
「はいはい、お堅いねぇ」
レンは呆れたように笑いながら立ち上がり、伸びをした。
「ま、頑張りなよ。とりあえず、連絡先はちゃんと聞いてるの?」
その言葉に、真斗は息を呑んだ。
連絡先――。
その発想が、まるで抜け落ちていた。
今日の撮影中、何度も話した。レンが来る前だって、二人きりの時間はあった。
なのに、聞いていない。
いつでもまた会える、と無意識に思い込んでいたのだ。
だが、彼女は制作側の人間で、自分はアイドル。次の仕事が重なる保証などどこにもない。本来なら、交わることすら稀な世界にいる。
その事実に気づいた瞬間、真斗の胸の奥が、ひどく静かに冷えていくのが分かった。
「……まずいな」
ぽつりと漏れた呟きに、ドアへ向かっていたレンが振り返る。
「ん?」
真斗は小さく眉を寄せ、この世の終わりかというほど酷く深刻な顔で言った。
「朝倉さんの連絡先を……聞いていない」
数秒の静寂。
それから、スタジオの廊下にレンの堪えきれない爆笑が響き渡った。
腹を抱えて笑うレンを、真斗は苦々しく睨みつける。
「笑いごとではない、神宮寺。俺は至って——」
「いや、だってさぁ!」
レンは涙を拭いながら、まだくすくすと肩を揺らしている。
「あんなに二人きりで話すチャンスあったのに、何やってるのさ。用件なんて『サイトの件で』って言えばいくらでも作れたでしょ? 本当に不器用だなぁ、お前は」
「……っ」
図星を突かれ、真斗は返す言葉もなく耳の裏まで赤くする。
レンは真斗の肩をポンと叩き、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「じゃ、次は『お仕事の業務連絡』として、お堅く正々堂々と聞きなよ。……ま、その次の機会がいつになるかは、神のみぞ知るだけどね。……ふふ、健闘を祈るよ」
今度こそ本当に楽しそうな足取りで、レンは控室を出ていった。
静まり返った部屋に、一人取り残される。
真斗は椅子の背にもたれかかり、静かに拳を握りしめたまま、自分のあまりの不手際に深いため息をついた。
……神のみぞ知る、か。
レンの言葉は、静かな水面へ落ちた小石のように、なお胸の奥で小さな波紋を広げ続けていた。
打ち上げの夜、ろくに言葉も交わせぬまま遠くへ行ってしまった彼女と、今日こうして再び同じ現場で向かい合うことができた。
それを、真斗は心のどこかで、どこか当然のように受け止めていた。
『また、貴女と話せたら嬉しい』
あの時の言葉を、真斗はただ真っ直ぐに信じていた。
また会える日が来ることを、どこか疑いもせずに。
だが、冷静に考えればそんなはずはない。
彼女は制作側の人間で、自分はアイドル。生きている世界の地平が違う。
今日の再会は、誰の意思でもない。急遽決まった追加コンテンツという、ただの「仕事の都合」が引き起こした、奇跡のような確率の偶然に過ぎなかったのだ。
その事実を完全に理解した瞬間、真斗の胸の奥が、ひどく静かに冷え切っていく。
連絡先という、細い糸すら繋がぬまま、自分はまた彼女をあの遠い世界の向こうへ帰してしまった。
「……愚かだったな、俺は」
誰もいない空間にぽつりと落とされた低い声は、自嘲の響きを孕みながら、夜の冷気へと溶けていった。
『また、貴女と話せたら嬉しい』
あの夜、別れ際に聖川真斗から告げられた静かな言葉は、数日経っても景奈の鼓膜の奥に、消えない熱を残したまま居座っていた。
……けれど、現実はひどく冷静で、残酷だった。
大広間の中心で、眩いスポットライトを浴びるようにスタッフや共演者に囲まれている彼を、景奈は壁際から遠く眺めることしかできなかった。一度だって、視線が交わることすらなかった。
会場の喧騒に紛れていく彼の横顔を見つめながら、景奈はそっと胸の火照りを冷ましていく。
……うん。それは、そうなのだ。
あれはきっと、真面目な彼なりの丁寧な社交辞令だった。
ただの、丁寧な社交辞令。真面目な彼なりの、スタッフへの優しい労い。
銀河の先のように遠い世界に生きるアイドルと、しがないウェブデザイナーの接点なんて、あの夜のほんの数分が奇跡のすべてだったのだ。
そう自分を納得させ、浮ついた心を無理やり引き剥がすようにして、景奈はまた、いつもの代わり映えのしない日常へと戻っていった。
それから、一週間。
夜を吸い込んだドラマ公式サイトの会議室には、煮詰まったコーヒーの苦味と、澱んだ疲労の匂いが薄く満ちていた。
壁際の大型モニターが放つ、青白い液晶の光。そこに映し出されているのは、右肩上がりに急上昇を続けるアクセス数のグラフと、滝のように流れていくSNSの好意的な呟きだ。
「想定以上に伸びてますね〜」
誰かの弾んだ声が、静かな部屋に波紋のように広がる。沸き立つ周囲の熱から逃れるように、景奈は抱え込んだノートPCの微かな熱を腕に感じながら、部屋の隅でひっそりと肩を縮めていた。華やかな数字の世界が眩しければ眩しいほど、自分の存在が小さく、影のようになっていく気がする。
「で、急遽なんですけど」
ディレクターが、手元の資料を乾いた音を立ててめくった。その一言で、部屋の空気が一気にビジネスの戦場へと切り替わる。
「追加コンテンツやります。キャストのインタビュー動画と、撮り下ろしのオフショット」
「公開、来週金曜で」
「編集、今からで間に合う?」
「撮影スタジオ、急ぎで押さえます!」
濁流のように慌ただしく動き始める周囲の会話を、景奈はノートの余白に黙々と書き留めていた。ペン先が走る、ただそれだけの作業に意識を集中させようとしていた、その時。
「朝倉さん」
不意に名前を呼ばれ、胸の奥が冷たく跳ねた。
言葉にできない、じっとりとした嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「聖川さんのパート、現場入ってもらっていい? ほら、朝倉さん聖川さんのファンでしょ?」
心臓がにわかに大警報を鳴らし始める。
――駄目だ。近づいてはいけない。
ファンだからこそ、その境界線だけは踏み越えてはならない。
景奈は震えそうになる声を必死に整えて、すがるように口を開いた。
「あの、まあ、ファンといえば、ファン……ですけど、打ち上げの時にサイトのお話を少しさせていただいたので、それだけでもう本当に十分です……!」
「いいじゃん、いいじゃん。お仕事頑張ってるから役得ってことで!」
軽い。周囲の空気が軽すぎる。
景奈が「一ファン」として、そして「プロの裏方」として必死に引いた心の防衛線など、彼らは気づきもしない。相手はあのST☆RISHのメンバーなのだ。画面の向こう、銀河の先のように遠い世界に生きる国民的アイドル。
その事実の重さに、景奈の胃がきりきりと鳴るような痛みを訴え始める。けれど、そんな個人の畏怖や戸惑いを置き去りにしたまま、決定の歯車は冷酷なほどの速さで回っていく。
「じゃ、当日よろしく〜」
無慈悲に宣告されたその言葉が、会議室の天井に溶けて消えた。
終わった。
景奈はただ、きつく目を閉じ、心の中で静かに天を仰ぐことしかできなかった。
*
5月の、抜けるように鮮やかな青空。
街路樹のみずみずしい新緑が初夏の風に揺れる中、景奈は一人、スタジオの壁際に身を潜めるようにして、もう何度目になるかも分からない機材チェックを繰り返していた。手元を動かしていなければ、今にも心臓の音が周囲に漏れてしまいそうだった。
ふとした拍子にスタジオの鏡が目に入るたび、服の乱れを直し、前髪を整え、血色の悪い唇を気にしてしまう。そんな自分に気づくたび、ひどい自己嫌悪が襲ってきた。
何を期待しているのだろう。
ただの仕事だ。
自分は裏方で、彼は銀河の先のような世界に生きる人。
変な勘違いなど、してはいけないのに。
言い聞かせるようにきつく目を閉じた、その時だった。
「おはようございます」
スタジオの重い扉の向こうから、低く澄んだ声が響いた。
その瞬間、景奈の心臓がどくんと大きく跳ねる。
聖川真斗だった。
薄手のネイビーのロングコートの裾を美しく翻し、スタッフ一人ひとりへ丁寧に一礼しながら入ってくる。彼がそこに立つだけで、スタジオの空気が一瞬でピンと張り詰め、洗練された静謐さに満たされていく。それはアイドルというよりも、厳かな舞台の幕が上がるのを待つ、一人の気高き役者の佇まいだった。
スタッフたちが一斉に挨拶を返す中、真斗の鋭い視線が、ふとスタジオの隅へと動いた。
そして、佇む景奈の姿を捉えた、その瞬間。
ほんの少しだけ、彼の切れ長の目元が、春の雪解けのようにふわりと和らいだ。
「朝倉さん」
ただ名前を呼ばれただけなのに、肺の空気がすべて抜き取られたかのように呼吸の仕方を忘れてしまう。
「……お、おはようございます」
真斗は景奈のすぐ近くまで迷いのない足取りで歩み寄ると、静かに彼女を見下ろした。
「今日は現場担当なのか」
「はい……追加コンテンツの、撮影補助を……」
「そうか」
真斗は小さく、満足そうに頷く。それから、どこまでも自然に、まっすぐ言葉を紡いだ。
「また会えて嬉しい」
その声が耳の奥で再生されるたび、景奈は小さく息を呑んだ。
――やめて。
そんなふうに思い出してしまったら、また勘違いしてしまう。
胸の奥が、悲鳴を上げるように締め付けられた。
打ち上げの夜、遠くから見つめることしかできなくて、「あれは社交辞令だったんだ」と無理やり心のシャッターを下ろしたはずだった。それなのに、どうしてそんな綺麗な顔で、そんなに嬉しそうに言うのだろう。
真斗の瞳には微塵の嘘も、計算もなかった。ただただ、至って真摯に景奈を見つめている。
「以前話していたサイト、周囲からも評判が良かった。貴女の仕事なのだろう。丁寧な良いサイトだ」
「……ありがとうございます」
そんな風に、真っ直ぐに自分の仕事を認められたら、もう逃げ場がない。
これ以上、好きにさせないでほしい。いや、とっくに引き返せないほど好きなのだ。
溢れそうになる感情を隠すため、耐えかねて視線を斜め下に逸らすと、真斗は不思議そうに少し首を傾げた。
「……朝倉さん」
「は、はい!」
「顔色が悪い。緊張しているのか?」
「い、いえ! 全然!」
「そうは見えぬが……」
図星を突かれ、気まずさと恥ずかしさで消えてしまいたい景奈を救ったのは、遠くからのスタッフの声だった。
「聖川さん、先にヘアメイクお願いしまーす!」
「ああ」
真斗は声の主へ短く応じると、去り際、もう一度だけ景奈の瞳をじっと見つめた。
「朝倉さん。後ほど、よろしく頼む」
その一言だけを贅沢に残して、彼は吸い込まれるようにメイクルームへと消えていった。
残された景奈はその場に釘付けになったまま、数秒後、堪えきれずに近くの長机へと突っ伏した。
「……無理……」
冷たい机の感触だけが、火照りきった体温を少しだけ宥めてくれた。
*
インタビュー収録が滞りなく一段落し、スタジオ内が次の準備に向けてにわかに慌ただしくなり始める。
景奈の手には、重みのある一眼レフカメラが握られていた。「朝倉さん、画角のセンスいいからオフショットお願い!」と、ディレクターから絶大な信頼と共に急遽押し付けられたのだ。今の景奈に、それを拒むプロ意識の低さは持ち合わせていなかった。
「……では、何枚か撮らせていただきます」
できるだけ感情を削ぎ落とした、事務的な声を意識して、ファインダーを覗き込む。
けれど、レンズの向こうに映る真斗は、残酷なほどに美しかった。
スタジオの照明の残光を受けてきらめく、長い睫毛。少しだけ緩められたネクタイ。インタビューの緊張から解放された、わずかに弛緩した柔らかい表情。
そのすべてが、悔しいくらいに完璧な絵画のようだった。
カシャ、と静かなシャッター音がスタジオの喧騒に紛れる。
「……もう少しだけ、視線をこちらにお願いします」
「こうか?」
「あ、はい……ありがとうございます。次、少し角度変えます」
仕事に集中しろ、変に意識するな。自分を必死に律して、ただの『カメラのレンズ』になろうとしていた。
そう自分を落ち着かせながら、次のポジションを探るために、景奈がファインダーから目を離してカメラを少し胸元へと下ろした——その瞬間だった。
——あ。
カメラという遮蔽物がなくなった視界の中で、完全に視線が噛み合った。
レンズのガラスを挟まない、生身の、真斗のまっすぐな視線。
彼は最初から、カメラのレンズなど見ていなかった。レンズの向こう側にある、景奈の瞳をずっと真っ直ぐに見つめていたのだ。
あまりの至近距離に、思考が凍りついたように止まる。
「……朝倉さん」
低い声が、静かな熱を持って直接鼓膜へと届く。
「貴女は、撮る時」
真斗は視線を微塵も逸らさぬまま、尊いものを慈しむように言葉を紡いだ。
「昔から、とても優しい目をするのだな」
景奈の呼吸が、完全に止まった。
何それ――。
そんなことを、この距離で。そんな真っ直ぐな顔で言うなんて。
景奈の呼吸は完全に行き場を失っていた。
「え、あ、そんなことは……」
「ある」
真斗は穏やかに、だが一切の拒絶を許さない響きで言い切る。
「だから、貴方に撮られるのは嫌いではない」
もう、限界だった。
これ以上ここにいたら、彼の言葉の意味を都合よく解釈して、愚かな勘違いをしてしまう。
プロとしての境界線がガラガラと崩れ落ちる恐怖に駆られ、景奈が思わず一歩後退り、逃げるように手元のカメラで顔を隠した、その時。
「へぇ。随分いい顔してるね、聖川」
静寂を切り裂くように、軽やかで、どこか全てを見抜いたような声が降ってきた。
「じ、神宮寺さん……!?」
「やあ、レディ」
不意に降ってきた、華やかで、どこか全てを見抜いたようなハチミツ色の声。
景奈が弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間にかスタジオに入り込んでいた神宮寺レンが、悪戯っぽく目を細めてこちらを見つめていた。彼は景奈の手元にある液晶画面を覗き込むと、形の良い唇をさらに深く綻ばせる。
「うん、いい写真。愛があるね」
「っ!?」
心臓が文字通り爆発するかと思った。景奈の顔が一気に沸騰したように熱くなる。
プロの裏方として、そして一ファンとして、一番踏み越えてはならない一線を、これ以上ないほどストレートな言葉で突かれたのだ。あまりの恐れ多さと羞恥心に、景奈は声を裏返らせながら必死に手を振った。
「ち、違います! お仕事です……! 滅相もないです、純粋な業務としての、その、カメラワークです!」
「はは、ごめんごめん。そんなに慌てないでよ」
レンは楽しそうに肩を揺らすと、景奈のパニックぶりを愛おしそうに眺めた後、長い足を優雅に運んで真斗の隣へと滑り込むように腰掛けた。
「せっかくだし、オレも撮ってよ。追加コンテンツ用でしょ?」
「え、あ……はい! もちろんです!」
差し出された救いの一手に、景奈は心の中で激しく安堵の息を漏らした。
真斗と一対一の空間は、景奈にとって酸素が薄すぎる。だが、場の空気を一瞬で自分の色に染め上げるレンが加わってくれれば、辛うじて『仕事の現場』という現実の輪郭を保つことができる。
仕事だ。
これは純然たる仕事なのだ――。
景奈は乱れそうになる呼吸をどうにか整え、再び重い一眼レフを構えた。
「では……お二人とも、少しこちらに目線をお願いします」
ファインダーを覗き、息を呑んだ。
並び立つ、聖川真斗と神宮寺レン。
対極の魅力を放つ二人が一枚の画角に収まった瞬間、そこだけ次元が変わったかのような圧倒的な輝きが放たれる。もはや暴力的なまでの造形美。国民的アイドルたる所以をこれでもかと見せつけられ、景奈の脳内は「画面が強すぎる、意味が分からない」と処理を拒否しそうになっていた。
けれど、裏方としての理性を必死に総動員し、指先に力を込める。
カシャ、と静かなシャッター音が響いた。
その、一瞬の隙だった。
レンが、ごく自然な立ち位置の調整を装うようにして、ふっと真斗側へとわずかに顔を寄せた。
美しく整えられた横顔のまま、カメラからは決して見えない角度で、真斗の耳元へ低く、愉しげな声を滑り込ませる。
「聖川」
真斗の耳にだけ届くかすかな声。
「さっきからずっと、あのレディのこと、目で追ってるよ」
その指摘に、モデルとして自然に下ろされていた真斗の指先が、ぴくりと不自然に止まった。
彫刻のように完璧だった彼の佇まいに、ほんの僅かな動揺のさざ波が走る。
だが、真斗は正面のレンズを見据えたまま、微動だにせず低い声で応じた。
「……何を言っている、神宮寺」
「ふーん。自覚ないんだ」
くす、とレンは口元だけで、いかにも彼らしい不敵な笑みを漏らした。
レンズの向こうで繰り広げられている、微かな空気の変化。その正確な内容までは知る由もない景奈は、二人の間に漂う妙な緊張感を察知して、カメラから顔を離して小さく首を傾げた。
「……? お二人とも、何かお話中でしたか……?」
「いや? 何でもないよ」
レンは即座に、1ミリの綻びもない完璧な営業スマイルへと戻り、カメラへ向かって極上の視線を送る。
「ねぇ、聖川」
「……ああ」
レンに促され、真斗も短く生返事をした。
けれど、その切れ長の瞳は、景奈から僅かに斜め下へと逸らされたままだ。いつもなら真っ直ぐに自分を射抜くはずの真斗の視線が、頑なに合わない。その不自然な変化に、景奈の胸の奥は妙に落ち着かなくなり、ざわざわと小さな波が立ち始める。
——何だろう。今、神宮寺さんと、何を話していたんだろう……。私が、何か失礼なことでもしてしまったのだろうか。
そんな景奈の健気な戸惑いなど完全に楽しむように、レンはさらに、真斗にだけ聞こえる音量で追い打ちをかけるように囁いた。
「大丈夫。誰にも言わないよ、お前のその、可愛い初恋みたいな視線」
「……っ、神宮寺……!」
その声音があまりにも愉快そうで、そして核心を突きすぎていた。
真斗はそれ以上言い返すこともできず、静かに眉間を指先で押さえた。
*
ガタゴトと規則的な音を立てて揺れる、夜の下り電車。
窓ガラスに映る自分の疲れ切った顔から逃げるように、景奈はスマートフォンを取り出した。
無事にすべての撮影データを納品し終えた、その確認のために開いたはずだった。……なのに、指先が勝手に、今日撮影したばかりの真斗のオフショットばかりをスクロールしている。
液晶越しですら、息を呑むほどに綺麗だった。
それを見つめているだけで、胸の奥がぎゅうっと、あざができるほど強く締め付けられる。
『また会えて嬉しい』
『貴女の仕事なのだろう。丁寧な良いサイトだ』
『貴方に撮られるのは嫌いではない』
耳の奥で、彼の低く澄んだ声音が何度も、何度も都合よく再生されては鼓膜を震わせる。
おまけに、神宮寺レンの『いい写真。愛があるね』というからかうような言葉までが追い打ちをかけてきて、景奈はたまらずシートの端で小さく身悶えした。
違う。
ただの仕事だ。
変に意識してはいけないのに――。
この追加コンテンツの公開をもって、今回のドラマ公式サイトに関わる景奈の仕事は、文字通りすべて完了する。
これ以上のページ更新も、急な打ち合わせも、現場への呼び出しも、もう何一つとして残っていない。
今回の撮影は、ディレクターの気まぐれがもたらした、人生最後のご褒美のような奇跡だったのだ。
『仕事』という、あまりにも細くて、けれど唯一自分を繋ぎ止めてくれていた大義名分すらなくなってしまえば、自分はまた、その他大勢の、数百万人のうちの『一人のファン』に戻るだけ。
……これでもう、本当に終わりなのだ。
もう二度と、彼に会うことも、名前を呼ばれることもない。
だからこそ、この撮影は人生最後のご褒美のような奇跡だった。
生きる世界の地平が違いすぎる。画面の中の真斗は、手を伸ばしても絶対に届かない銀河の先のように、眩しくて、あまりにも遠い。
込み上げてくる泣き出しそうな愛おしさと、容赦のない喪失感。
景奈は耐えきれずスマートフォンを画面ごと胸に強く抱きしめ、深い溜息を、電車の無機質な揺れる音の中にそっと溶かした。
最寄り駅に着き、改札を出ると、少しひんやりとした風が景奈の火照った頬を撫でた。
昼間のあの、スタジオの熱気と、彼と目が合った瞬間の息苦しいほどの熱さが、まるで嘘だったかのようにすうっと冷めていく。大義名分は、もうどこにも残っていない。
景奈は小さく肩をすくめ、夜の静けさの中へ、一人歩き出した。
*
撮影現場の空気が落ち着き、スタッフが撤収を始めた頃。
控室のソファに腰掛けた真斗は、受け取った台本へ視線を落としていた。だが、文字がまったく頭に入ってこない。
脳裏に浮かぶのは、レンに囁かれた一言。
『さっきからずっと、あのレディのこと見てる』
俺が、朝倉さんを――。
その発想自体、これまで考えたこともなかった。
けれど否定しきれない何かが、胸の奥で静かに揺れていた。
思い返せば、彼女が現場に入ってきた瞬間から、無意識にその姿を追っていた。ファインダー越しに目が合った時、もっと見ていたいと思った。
それをレンに「自覚がない」と見抜かれ、返す言葉もなかった。
「……まだ考えてるの?」
不意に、横から声が落ちる。
見上げると、メイクを落とし終えたレンが、ジャケットを片手に面白そうにこちらを見ていた。
真斗は僅かに居心地の悪さを覚え、台本を閉じた。
「……お前のくだらん邪推に付き合う暇はない」
「邪推、ねぇ」
レンはくすりと笑い、真斗の正面に腰掛ける。
「素直じゃないな。別にいいじゃない、可愛かったよね。聖川さ、あのレディのこと、本当にただの『仕事仲間』だと思ってるの?」
真斗は言葉に詰まり、ゆっくりと息を吐き出した。
「……彼女の仕事を尊敬しているのは本当だ。早乙女学園時代から、彼女の生み出すものには実直さがあった。だから、再会できて、現場にいると安心するのだ」
「それにさ、お前、あのレディと話す時だけ声が柔らかいよ。大事そうに話すよね」
真斗は、はっとした。
自分の胸の内側へ、否応なしに意識が向く。
現場にいると探してしまう。目が合うと安心する。話していると落ち着く。もっと、彼女の言葉を聞きたいと思う。
それは、尊敬という言葉だけで片付けていい感情なのだろうか。
「はいはい、お堅いねぇ」
レンは呆れたように笑いながら立ち上がり、伸びをした。
「ま、頑張りなよ。とりあえず、連絡先はちゃんと聞いてるの?」
その言葉に、真斗は息を呑んだ。
連絡先――。
その発想が、まるで抜け落ちていた。
今日の撮影中、何度も話した。レンが来る前だって、二人きりの時間はあった。
なのに、聞いていない。
いつでもまた会える、と無意識に思い込んでいたのだ。
だが、彼女は制作側の人間で、自分はアイドル。次の仕事が重なる保証などどこにもない。本来なら、交わることすら稀な世界にいる。
その事実に気づいた瞬間、真斗の胸の奥が、ひどく静かに冷えていくのが分かった。
「……まずいな」
ぽつりと漏れた呟きに、ドアへ向かっていたレンが振り返る。
「ん?」
真斗は小さく眉を寄せ、この世の終わりかというほど酷く深刻な顔で言った。
「朝倉さんの連絡先を……聞いていない」
数秒の静寂。
それから、スタジオの廊下にレンの堪えきれない爆笑が響き渡った。
腹を抱えて笑うレンを、真斗は苦々しく睨みつける。
「笑いごとではない、神宮寺。俺は至って——」
「いや、だってさぁ!」
レンは涙を拭いながら、まだくすくすと肩を揺らしている。
「あんなに二人きりで話すチャンスあったのに、何やってるのさ。用件なんて『サイトの件で』って言えばいくらでも作れたでしょ? 本当に不器用だなぁ、お前は」
「……っ」
図星を突かれ、真斗は返す言葉もなく耳の裏まで赤くする。
レンは真斗の肩をポンと叩き、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「じゃ、次は『お仕事の業務連絡』として、お堅く正々堂々と聞きなよ。……ま、その次の機会がいつになるかは、神のみぞ知るだけどね。……ふふ、健闘を祈るよ」
今度こそ本当に楽しそうな足取りで、レンは控室を出ていった。
静まり返った部屋に、一人取り残される。
真斗は椅子の背にもたれかかり、静かに拳を握りしめたまま、自分のあまりの不手際に深いため息をついた。
……神のみぞ知る、か。
レンの言葉は、静かな水面へ落ちた小石のように、なお胸の奥で小さな波紋を広げ続けていた。
打ち上げの夜、ろくに言葉も交わせぬまま遠くへ行ってしまった彼女と、今日こうして再び同じ現場で向かい合うことができた。
それを、真斗は心のどこかで、どこか当然のように受け止めていた。
『また、貴女と話せたら嬉しい』
あの時の言葉を、真斗はただ真っ直ぐに信じていた。
また会える日が来ることを、どこか疑いもせずに。
だが、冷静に考えればそんなはずはない。
彼女は制作側の人間で、自分はアイドル。生きている世界の地平が違う。
今日の再会は、誰の意思でもない。急遽決まった追加コンテンツという、ただの「仕事の都合」が引き起こした、奇跡のような確率の偶然に過ぎなかったのだ。
その事実を完全に理解した瞬間、真斗の胸の奥が、ひどく静かに冷え切っていく。
連絡先という、細い糸すら繋がぬまま、自分はまた彼女をあの遠い世界の向こうへ帰してしまった。
「……愚かだったな、俺は」
誰もいない空間にぽつりと落とされた低い声は、自嘲の響きを孕みながら、夜の冷気へと溶けていった。