レイニーブルー・コンチェルト
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テレビの天気予報が、どこか浮き足立った声で桜前線の到来を告げ始めた頃。
一日中座りっぱなしだった身体の強張りを解くように、小さく息を吐き出して駅へと向かう帰り道。
頬を撫でる夜風はまだ冷たかったが、その冷気の中には、ほんのわずかに柔らかな春の匂いが溶け込み始めていた。
……時間薬とは、よく言ったものだと思う。
どうしようもない喪失感に泣き明かした夜をいくつも越え、景奈は少しずつ、また元の静かな日常を送れるようになりつつあった。
彼と過ごした、痛いほど眩しくて、宝石のようにキラキラした思い出たち。
それらはすべて胸の奥底にある宝箱へと沈め、分厚い鍵をかけた。
いっそ、連絡先をすべて消してしまおうか。
そう考えた夜もあったけれど、どうしてもその指先は動かなかった。
連絡先を消してしまえば、彼との思い出までが本当に「無かったこと」になってしまいそうで、怖かったのだ。
あれから一度も、真斗から連絡は来ていない。
LINEを開くたび、あんなに一番上にあったはずの彼の名前は、他の他愛ない通知に押し流されていった。
今ではもう、意識して画面をスクロールしなければ、目に入らない場所へと静かに沈んでいる。
テレビ、雑誌、SNS。
時折、ふいに視界へ飛び込んでくる彼は、どこまでも気高く完璧な『アイドル・聖川真斗』のままだった。
よかった。
流石にもう、私のことなんて忘れている。
それでいい。私も、ちゃんと次に進まないと――。
自分に言い聞かせるように息を吸い込んだ、そのときだった。
不意に、コートのポケットでスマートフォンの通知音が鳴る。
景奈の肩が小さく跳ねた。何気ない動作でそれを取り出し、画面へと視線を落とす。
――そして。
表示されたその名前を見た瞬間。
景奈の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて止まった。
……なんで。
そこにあったのは、もう長いこと通知欄に現れることのなかった、四文字。
『聖川真斗』
どうして。
今さら、どうして。
血の気が引き、震え出した指先で、恐る恐る画面を見つめる。
ポップアップされた通知には、彼らしからぬ、たった短い一文だけが表示されていた。
『会いたい』
既読は――まだ、つけられない。
*
連絡先も分からず、会いたくても会う術すら無かったあの頃とは違う。
今は、この指先ひとつで想いを届けることができる。
それなのに。
真斗は、楽屋の片隅で一人、スマートフォンをじっと見つめていた。
画面へ映る、ひとつの名前。
朝倉景奈。
胸の奥が静かに軋む。
何度も、何度も、画面を開いた。
けれどあの夜、腕の中で震えていた景奈の涙を思い出すたび指先は止まった。
自分の想いが、彼女を追い詰めてしまったのではないか――。
その疑念が、真斗の胸へ重く沈んでいた。
恋人でもないのだから。
伝える資格など無いのだと――これまで何度も、喉の奥へ飲み込んできた言葉がある。
けれど。
もう、己の心から逃げたくはなかった。
震える指で、一文だけ打ち込む。
『会いたい』
送信。
小さな電子音。たったそれだけのことなのに、自分の鼓動が嫌になるほど速く、うるさかった。
返事が来る保証など無い。
既読すら付かないかもしれない。
それでも、祈るような気持ちだった。
続けて打ち込む。
『声が聞きたい』
『お前と、話がしたい』
最後に、場所を送る。
指定したのは――二人で花火を見上げた、あの街だった。
来てくれるかは分からない。
だが、今の自分にできることは、もう逃げずに、ただ彼女を待つことだけだった。
*
春先の夜風が、冷ややかな寂しさを孕んで静かに吹き抜けていく。
約束の待ち合わせ場所――あの日、二人で大輪の花火を見上げた街の、色褪せた街灯の下。
どれほどの時間が過ぎただろう。スマートフォンの画面を見る余裕すらなく、ただ凍えそうな視線を落としていた、その時だった。
ふいに、目の前のコンクリートへ、音もなくひとつの影が落ちる。
真斗はゆっくりと顔を上げた。
そこに、立っていたのは――。
「……なんで、まだいるんですか……」
必死に涙を堪えているような景奈の瞳が、まっすぐに真斗を射抜く。
「……もう会えないって、言ったじゃないですか……」
遮るもののない夜風が、再び二人の間を通り抜けていく。真斗はしばらくの間、何も言わずに景奈を見つめていた。
そして、峻厳だったその目元を、ほんのわずかに、壊れ物を労るように和らげる。
「……だが、お前は来てくれた」
低く、深く、夜の空気に溶け込むような声だった。
景奈が息を呑む。
真斗は静かに言葉を重ねた。
その声音には、彼女を責める響きも、自嘲的な皮肉も一切ない。
ただ、冷たい風の中で気の遠くなるような時間を待ち続けていた男の、魂からの安堵だけが滲んでいた。
「聞きたかったのだ。お前が、なぜあの夜、あんな言葉を口にしたのか」
「……え……」
「……俺は、まだ納得できていない」
景奈はきゅっと唇を噛み締めた。
視界が歪みそうになるのを必死に堪え、胸の奥底へ、それこそ頑丈な鍵をかけて押し込めていたはずの言葉を、震える吐息と共に吐き出す。
「……私の存在が、きっと、いつか聖川さんの足枷になる」
俯いた景奈の言葉を、真斗はすぐには否定しなかった。その懸念の重さを、芸能界という世界に身を置く彼自身が、誰よりも知っているかのように。
「……ずっと、一人でそう思っていたのか」
「だって……! あなたは“聖川真斗”なんですよ……! 私は、ただの……っ」
涙でその先が言葉にならなくなった景奈を見つめ、真斗は静かに、深く息を吐いた。
「……お前も、そんなふうに思い悩んでいたのだな」
「……え……?」
「俺も……考えた。昼間、人目を気にせず手を繋いで歩くことも難しい。仕事の都合で寂しい思いをさせる。聖川の名がお前を巻き込むことも……。だから、何度も諦めるべきだと考えた」
真斗も、同じように苦しみ、葛藤していた。
自分一人だけが怯えていたわけではなかったのだと知り、景奈の瞳が激しく揺れる。
「……だが、それでも、やはりお前のそばにいたかった。お前は、自分では気付いていないのだろうが……いつも真っ直ぐで、優しくて。お前が嬉しそうに笑うたび、俺まで嬉しくなった。その笑顔を見るのが、好きだったのだ。お前といると、飾らない俺でいられた。」
真斗は小さく息を吐く。
「……だから、諦められなかった」
真斗の声音は微かに震えていた。
完璧に見えた彼の隠しきれない脆さが、景奈の心の奥深くへ容赦なく染み込んでいく。
「……ほんとうに……私で、いいんですか……」
壊れそうな声で問う景奈に、真斗は一歩近づき、そっと大きな手を差し伸べた。
その青い瞳には、もう一片の迷いも残されていない。
「お前でなければ駄目だ。そのお前の不安ごと、抱きしめたい」
夜の静寂に溶けていくその切実な響き。
そして、一点の曇りもない青い瞳が、今にも零れそうな彼女の涙ごとすべてを包み込むように見つめていた。
「……だから、そばにいさせてくれ」
その言葉が引き金だった。
景奈は堪えきれず、大粒の涙を溢れさせながら、彼の広い胸へと飛び込んでいた。
その瞬間、心の奥底に頑丈な鍵をかけて、大切にしまっていたはずの宝箱が、音を立てて内側から弾け飛んだ。
閉じ込めていた真斗とのキラキラした思い出たちが、眩い光の粒となって、堰を切ったように胸の中へ溢れ出してくる。冷たい日常に無理やり馴染ませていた心が、一瞬で彼の熱に塗り替えられていく。
真斗の逞しい腕が、今度こそ迷いなく彼女の身体を強く抱きしめた。
ぎゅっと、二度と引き離されないとでも言うように、力を込めて。
彼の肩口へ顔を埋めた景奈の、小さな嗚咽が静まり返った夜に震える。
「……っ、ごめ……なさ……っ」
言葉にならない、あの日からずっと抱えていた謝罪。
真斗は何も言わなかった。ただ、その細い背を、壊れ物へ触れるように静かに、だけど確かに抱き締め返す。
真斗の大きな掌が、そっと景奈の頭へと触れた。
長い指先が愛おしそうに、慈しむように髪を撫でる。
ぽん、ぽん。
大丈夫だ、と。言葉の代わりにすべてを包み込むように。
そして、耳元へ優しく落ちてきたのは、低く、甘い声だった。
「……もう、泣かなくていい」
真斗は腕の力をほんの少しだけ緩めた。もちろん、身体を離すためではない。……涙に濡れた彼女の顔を見つめるために。
そっと、景奈の頬へと大きな掌が添えられる。
その手は――驚くほど、冷たかった。
「っ……」
景奈は小さく息を呑む。
ずっと、ずっと外にいたのだ。
来るかどうかも分からない、自分からの返事すら届かないあの暗闇の中で。
この春先の、凍えるような夜風に身を晒しながら、彼はただ信じて待っていた。
「……ケイ」
低く、静かな声。
頬に触れる掌はあんなに冷えているのに、その呼び方だけが、胸の奥の氷をすべて溶かしてしまうほどに優しく、熱かった。
景奈は涙に濡れた顔を、ゆっくりと上げる。
視線が、至近距離で絡み合う。
近い。あまりにも、近い。
真斗の深い青の瞳が。
切なげに揺れる長い睫毛が。
熱い息遣いが。
今にも触れそうな距離に、心臓が爆発しそうなほど跳ね上がる。
景奈の思考が、一気に熱で真っ白に染まりかけた。
その瞬間だった。
――ポツ。
頬へと、冷たい何かが落ちる。
「……え?」
もう一粒。
そして。
次の瞬間――。
――ザァァァァッ!!
「ひゃっ」
突然の激しい音に景奈の肩が跳ね、真斗が鋭く空を見上げる。
春先の不安定な夜空から、前触れもなく降り出した激しい通り雨が、街灯の光を白く滲ませていく。
「行くぞ!」
真斗は咄嗟に、景奈の手を強く握り締めた。
手を繋いだまま、夜の街を夢中で走った。
容赦なく降り注ぐ雨が身体を濡らし、服を重くしていく。
握られた真斗の手は、驚くほどひんやりと冷え切っていた。それなのに、その冷たさの奥から、景奈の手を決して離さないという彼の強固なまでの意志――じりじりと痺れるような熱量が、不思議なほど鮮明に、痛いほどに伝わっていた。
そうして辿り着いた、雨宿りの先。
促されるままに足を踏み入れたその場所で、景奈は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
電子音を立てて厳かにロックを解除する、カードキー。
二人の足音を静かに吸い込む、毛足の長い絨毯が敷かれた廊下。
真斗の手によって静かに押し開けられた、重厚な扉。
そして――
目の前に広がったのは、あまりにも広すぎる部屋だった。
壁一面の大きな窓と、そこに雨粒を纏って美しく滲む都会の夜景。
部屋の輪郭を優しく切り取る、琥珀色の柔らかな間接照明。
そして、部屋の奥に毅然と鎮座する、大きなベッド。
景奈の呼吸が、ぴたりと止まった。
胸の奥で、先ほど溢れ出したばかりの鮮やかな記憶たちが、目の前の光景と激しく重なり合って熱い軋みを上げる。
この景色には、確かな見覚えがあった。
あの日、彼と二人きりで寄り添いながら、窓の外に広がる大輪の花火を見上げた、あの夢のような夜の部屋とまったく同じなのだ。
偶然にしては、あまりにも、あまりにも出来過ぎている。
景奈は震える視線のまま、ゆっくりと窓の向こうの夜景を見つめ、それから背後に佇む男へと振り返った。
「……ここ、って……」
掠れた景奈の声に、真斗は雨に濡れた上着を静かに脱ぎながら、言い訳をするような取り繕いも一切せず、ただ真っ直ぐに見つめて答えた。
「ああ。あの日と、同じ部屋だ」
迷いなく返ってきたその言葉に、景奈は再び息を呑んだ。
来てくれるかも分からない、既読すらつかないかもしれないあの絶望的な待ち合わせの前に、彼はすでにあの思い出のスイートルームを押さえていたのだ。もし、自分が現れなかったら、彼は今頃、一人でこの広すぎる部屋に取り残され、あの日二人で見た花火の代わりに、窓の外の雨を眺めていたかもしれないのに。
完璧なトップアイドルとしてのプライドも、利口な計算も捨て去った、格好悪いほどの必死さ。
それは、絶対に自分を手放さないという、静かで強い覚悟そのものだった。
それが濁流のように胸へと押し寄せてきて、景奈の心臓は痛いほどに跳ね上がった。
*
部屋へ足を踏み入れた頃には、窓を叩く雨脚はすっかり強くなっていた。
脱いだ上着から、ぽたぽたと水滴が落ちる。ガラスの向こう側では、大都会の灯りが激しい雨に滲んで、ぼんやりと揺れていた。
景奈はまだどこか落ち着かないまま、広すぎる室内を見回した。
そんな彼女へ、真斗が静かに視線を向ける。
「……先に温まれ、風邪をひく」
低く、気遣うような声だった。
景奈は小さく瞬きをして、「え、あ……はい」とだけ返し、促されるままにバスルームへと向かった。
熱い湯が、冷え切った身体をじんわりと包み込む。
雨と夜風に晒された頬の冷たさも、限界まで張り詰めていた心も、湯気の中で少しずつほどけていくようだった。
けれど、胸の奥だけは、未だに激しい鼓動を打ち続けて落ち着かない。
恋人になった。
――本当に?
立ち込める湯気の向こうで、何度も自分自身へ問いかける。
まだ、どこか夢の中にいるような気分だった。
やがて髪を乾かし、備え付けの着心地の良い部屋着へ袖を通して、ゆっくりと部屋へ戻る。
その瞬間。景奈は思わず足を止めた。
テーブルの上には、いつの間にか豪勢なルームサービスが整えられている。琥珀色の柔らかな照明の下、静かに並んで光を反射する二つのグラス。そしてその隣に置かれた、見覚えのあるラベルのワインボトル。
「……えっ」
景奈は思わず目を瞬かせ、そこへ釘付けになるように視線を落とした。
「……カロン・セギュール……」
思わずその名を呟いた、その時だった。
「……ワイン、好きだっただろう?」
背後から、低く静かな声が落ちてくる。
振り返ると、そこにはちょうどバスルームから上がってきた真斗が立っていた。
「あ……」
ドライヤーの音が止んだばかりの彼の髪は、いつもより少し無造作で、どこかふんわりとした質感を残している。
乾かされた黒髪からは、景奈が先ほどまで包まれていたのと同じ、ホテルのシャンプーの清潔な香りが微かに漂った。
いつもなら完璧にセットされている『アイドル・聖川真斗』の髪型とは違う、完全なプライベートの姿。
部屋着を纏った彼は、いつもより少しだけ……近く、一人の男性としての体温を感じさせた。
景奈はドギマギと思わず視線を泳がせる。
「え、いや……好きですけど……」
真斗は静かにテーブルへと歩み寄った。
「そうか」
どこか穏やかに響く声。
真斗は手慣れた様子で静かにボトルを手に取ると、深い赤色の液体をグラスへと注いでいく。
トクトク、という小気味良い音が響いた。
窓を叩く雨音。
柔らかな照明。
二人きりの密室に落ちる、ほんの少しだけ落ち着かない沈黙。
景奈は促されるままグラスを持った。けれど、ふと困ったように視線を揺らす。
「……乾杯、っていうのも……なんか……」
少し、照れくさい。恋人になったばかりで、互いにまだ胸の置き所が定まっていないのだ。
そんな景奈の様子に、真斗は小さく目を細める。
そして、ほんのわずかに口元を和らげた。
「……では」
静かで、優しい声だった。
真斗も自分のグラスを持ち上げる。
「いただきます、か」
その少しズレた、けれど彼らしい提案に、景奈も思わずふふっと笑みをこぼす。
二人はグラスを軽く掲げ合った。ガラスを触れさせることはなく、ただ、互いの熱を帯びた視線を交わしながら。
「……いただきます」
そっとグラスを傾け、一口含む。
その瞬間。
芳醇でふくよかな香りが、口いっぱいに広がった。
柔らかく、深く、切ないほどに甘い余韻が鼻へと抜けていく。
あまりの美味しさに、思わず声が漏れていた。
「あーー……うっまーー……!」
――言ってから、ハッとする。
景奈はグラスを持ったまま、ピシリと石のように固まった。
やばい。
今、完全に素だった。
恋人になったばかりの緊張も、トップアイドルを前にしているという遠慮もどこかへ吹き飛んで、家で寛いでいるときのような、いちばん格好のつかない素の自分を晒してしまった。
恥ずかしさで一気に顔が熱くなる景奈だったが、しかし、向かい側から落ちてきたのは、呆れたようなため息ではなかった。
真斗はグラスを手にしたまま、愛おしいものを見るように少しだけ目を細める。
そして。
「ふっ……ははは」
小さく、声を出して笑った。
景奈が驚いて目を瞬かせる。真斗はどこか楽しげな様子のまま、手元のグラスへと視線を落とした。
「……そうか。うまいか」
その穏やかで優しい微笑みを見た瞬間、景奈の胸の奥がぎゅっと鳴った。
雨の音と、彼の声。同じシャンプーの清潔な香りと、口の中に残る甘い余韻。
このワインの味を、一生忘れることはないだろうと、景奈は密かに心に刻み込んだ。
*
厚いガラス窓を激しく叩く雨音だけが、密室の沈黙を埋めている。
景奈はグラスの中で揺れる深いルビー色をぼんやり見つめ、華奢なステムを指先でそっと撫でていた。
少しだけ、頬が熱い。
それは決して、アルコールのせいだけではない。
静かで、甘やかな時間だった。
絶え間ない雨の音と、雨粒の向こうでぼやける遠い街の灯り。そして、微かに同じシャンプーの香りを漂わせながら、すぐ隣に座る真斗。
彼が自分の『恋人』になったという現実が、まだどこか、覚めない夢のようだった。
やがて、景奈はグラスの底へ視線を落としたまま、決意するように小さく息を吸い込んだ。
「……あの……ひとつ、聞いてもいいですか?」
隣で、真斗が静かに視線を向けてくるのを感じる。
「……何だ」
少しだけ迷って、それでも。ずっと胸の奥につかえていた問いを、静かな声で紡ぎ出す。
「……あの日。どうして、急に……私のこと、抱きしめたりしたんですか……」
真斗はグラスをテーブルへ置き、長い睫毛を落とすようにして少しだけ目を伏せた。
「……すまなかった。ひどく、驚かせたな」
懺悔のような、低い声だった。
咎めるつもりなどない景奈は、慌てて小さく首を振る。真斗は自嘲するような響きを滲ませて、静かに言葉を継いだ。
「……あの時、他の男と親しげに話しているお前を見ていた」
わずかな一拍。
「……胸が、ひどくざわめいたのだ。情けない話だ。自分でも……あれほど容易く理性を失うとは思っていなかった」
言い訳も、格好をつけることもしない。
彼らしい、一切の誤魔化しもない真摯な告白だった。
「……お前を、誰にも取られたくないと思った」
部屋に響く雨音が、一瞬だけ大きくなったように錯覚する。
真斗は視線を落としたまま、さらに声を一段、低く落とした。
「……だが。衝動のままに抱きしめた理由は、決して嫉妬だけではない」
「……え……?」
真斗が、ゆっくりと顔を上げる。
視線が、至近距離で深く絡み合った。
その深い青の瞳の奥に宿る、隠しきれない仄暗い熱に、景奈の心臓がどくんと激しく跳ね上がった。
「……ずっと、お前へ触れたいと思っていた」
鼓膜を打つ雨音すら遠のくような、濃密な沈黙。
景奈は息を呑む。
熱を帯びた視線が、逃げ場なく絡まる。
胸が苦しい。
けれど、もう目を逸らすことはできなかった。
真斗が、ゆっくりと距離を詰める。
その動きは、獲物を逃がさない捕食者のように静かで、けれどどこまでも優しかった。
急かすことも、乱暴に奪うこともなく。
まるで、触れてもいいのか、最後の確認をするように。
景奈は、そっと瞼を閉じた。
次の瞬間、柔らかな温もりが唇へ触れる。確かめるような、甘く控えめな口づけ。
胸が震える。一度離れて、また近づく。角度を変え、言葉の代わりに想いを刻み込むように唇が重なるたび、密やかな吐息が零れた。
「……っ」
真斗の大きな掌が景奈のうなじを優しく包み込み、その温度で逃げ道を塞ぐ。
先ほどまでの穏やかさを失った彼の吐息が、ひどく荒く、熱を帯びて景奈の肌を伝った。
深く、探るように唇が重なるたびに、景奈の指先は堪えきれずに彼のルームウェアの胸元をきゅっと掴みしめる。
雨音の合間に、互いの鼓動が鼓膜を激しく揺らす。
息継ぎの隙間すら惜しむように、幾度も深く絡み合う吐息。
真斗の長い指が景奈の髪をすくい上げ、さらなる熱を求めて、ふたりは引き寄せ合うように身体を寄せた。
「……ケイ」
唇を離したほんの一瞬。
掠れた、甘く熱を孕んだ声で名前を呼ばれる。
そのまま、真斗の大きな手が、震えるように景奈の背中をなぞった。
「……っ」
服越しではない熱が、そっと肌へ触れた瞬間。
景奈は小さく息を呑んだ。
直接素肌に触れた彼の指先は、ひどく熱かった。
服の上からでは決して分からなかったその圧倒的な熱量が、景奈の肌へと直接流れ込んでくる。
触れられた場所から、張りつめていた境界が静かにほどけていく。
普段は誰よりも自分を律している男の、その指先がわずかに震えていることに気づき、景奈の胸が甘く軋んだ。
それは、抑え込んできた想いの深さそのものだった。
抗いようのない熱に包まれながら、景奈は潤んだ瞳で彼を見つめ返す。
もう、何も隠す必要などない。どうしようもなく溢れ出す想いが、甘い吐息と共に零れ落ちる。
「……好き……大好き、です……」
その切実な響きに、真斗の動きがピタリと止まった。
瞳の奥で、静かに何かが弾けたような気がした。景奈の素肌を包み込む大きな掌に、さらに強い、焼け付くような熱がこもる。
「……俺も……愛している」
鼓膜の奥、魂に直接響くような、低く掠れた重い囁き。
彼がその本能のままにすべてを求め、受け入れてくれたことを悟った瞬間、景奈の胸は究極の幸福で満たされた。
そのまま、言葉すら必要なくなり、ただ互いの存在を確かめ合うように深く抱きしめ合う。
外を叩く冷たい雨とは対照的な、すべてを溶かすような愛おしさ。
ワインの残り香と、愛の言葉、そして直接触れ合う互いの体温。
その夜の雨音は、互いの心と身体の奥深くまで触れ合う二人を、誰の目からも隠すように、優しく夜を満たしていた。
*
柔らかな朝の光が、厚いカーテンの隙間から滑り込むように差し込んでいた。
昨夜、窓を激しく打ち据えていた雨音はいつの間にか止み、世界は嘘のように静まり返っている。
テーブルの上に並べられた、豪勢なルームサービスのモーニング。
湯気を立てる琥珀色の紅茶に、ふわりとバターが香る焼き立てのパン。
そして、鮮やかな黄色のとろとろのスクランブルエッグ。
穏やかで、満ち足りた朝だった。
景奈は温かいティーカップを両手で包み込みながら、小さく、幸せなため息を吐く。
……なんだか、ひどく不思議な気分だった。
昨日まで、もう二度と会えないかもしれないと絶望していた人が。
今、こうしてすぐ向かい側に座り、自分と同じ朝の空気を吸っている。
夢のようで、けれど昨夜交わした熱の余韻が、これが現実なのだと確かに教えてくれていた。
ふと、景奈は何かを思い出したように顔を上げる。
「……そういえば、真斗くんに、渡したいものがあって」
呼応するように、真斗が静かに視線を向けてくる。
景奈は傍らの鞄へ手を伸ばし、小さな包みを取り出した。
彼へ差し出すその手は、少しだけ照れくささに迷う。
「……十二月に、渡そうと思ってたの。結局……渡せなくて、ずっと持っていて」
真斗の深い青の瞳が、静かに揺れた。
受け取った包みから現れたのは、上質なハンドクリーム。
あの日、すれ違ってしまったために届けられなかった、冬の贈り物。
ピアノを弾く彼の、美しく大切な指先を守りたくて選んだものだった。
「……ありがとう」
真斗は静かに、けれどまるで壊れ物を扱うように、ひどく大切そうにそれを両手で包み込んだ。
そして、長い睫毛を落として少し目を伏せると、低く穏やかな声で告げる。
「俺も、お前に渡したいものがある」
真斗が鞄から取り出した小さな箱に、景奈は思わず目を瞬かせた。
「……これ……」
「俺も、十二月に渡そうと思っていたのだ」
ゆっくりと、真斗の手でベルベットの箱が開かれる。
朝の光を受けてきらりと輝いたのは、細いチェーンの上品なプラチナブレスレットだった。
そこには、小さく揺れる繊細な雪の結晶のモチーフと、景奈の誕生石が寄り添うように光を放っている。
あまりの美しさに、景奈の呼吸が止まる。
「……っ……」
声が出ない景奈を真っ直ぐに見つめ、真斗は静かに告げた。
「手を」
言われるがまま、景奈はそっと左手を差し出す。
真斗の長い指先が、景奈の細い手首へ触れた。昨夜、雨の冷たさを纏っていた時とは違う、朝の確かな体温を宿した、優しく温かい指。
カチ、と小さな音を立てて、華奢な手首にブレスレットが留められる。
真斗はそのまま手を離さず、景奈の手首をじっと見つめた。
そして、ほんのわずかに目を細めると――。
「……似合っている」
そう低く甘く囁き、雪の結晶が揺れる手首の内側へ、誓いを立てるように深く、熱い唇を落とした。
脈打つ手首の内側に触れた柔らかな感触に、景奈の胸の奥が甘く締め付けられる。
「一生……大切にするね」
潤んだ声で零した景奈の言葉に、真斗は顔を上げ、この上なく優しく、愛おしげに微笑んだ。
ふと窓の外へ目を向ければ、昨夜の雨粒を残した世界が、春の朝の光を受けて静かに煌めいていた。
その穏やかな景色は、ようやく重なり合った二人の音色のようだった。
一日中座りっぱなしだった身体の強張りを解くように、小さく息を吐き出して駅へと向かう帰り道。
頬を撫でる夜風はまだ冷たかったが、その冷気の中には、ほんのわずかに柔らかな春の匂いが溶け込み始めていた。
……時間薬とは、よく言ったものだと思う。
どうしようもない喪失感に泣き明かした夜をいくつも越え、景奈は少しずつ、また元の静かな日常を送れるようになりつつあった。
彼と過ごした、痛いほど眩しくて、宝石のようにキラキラした思い出たち。
それらはすべて胸の奥底にある宝箱へと沈め、分厚い鍵をかけた。
いっそ、連絡先をすべて消してしまおうか。
そう考えた夜もあったけれど、どうしてもその指先は動かなかった。
連絡先を消してしまえば、彼との思い出までが本当に「無かったこと」になってしまいそうで、怖かったのだ。
あれから一度も、真斗から連絡は来ていない。
LINEを開くたび、あんなに一番上にあったはずの彼の名前は、他の他愛ない通知に押し流されていった。
今ではもう、意識して画面をスクロールしなければ、目に入らない場所へと静かに沈んでいる。
テレビ、雑誌、SNS。
時折、ふいに視界へ飛び込んでくる彼は、どこまでも気高く完璧な『アイドル・聖川真斗』のままだった。
よかった。
流石にもう、私のことなんて忘れている。
それでいい。私も、ちゃんと次に進まないと――。
自分に言い聞かせるように息を吸い込んだ、そのときだった。
不意に、コートのポケットでスマートフォンの通知音が鳴る。
景奈の肩が小さく跳ねた。何気ない動作でそれを取り出し、画面へと視線を落とす。
――そして。
表示されたその名前を見た瞬間。
景奈の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて止まった。
……なんで。
そこにあったのは、もう長いこと通知欄に現れることのなかった、四文字。
『聖川真斗』
どうして。
今さら、どうして。
血の気が引き、震え出した指先で、恐る恐る画面を見つめる。
ポップアップされた通知には、彼らしからぬ、たった短い一文だけが表示されていた。
『会いたい』
既読は――まだ、つけられない。
*
連絡先も分からず、会いたくても会う術すら無かったあの頃とは違う。
今は、この指先ひとつで想いを届けることができる。
それなのに。
真斗は、楽屋の片隅で一人、スマートフォンをじっと見つめていた。
画面へ映る、ひとつの名前。
朝倉景奈。
胸の奥が静かに軋む。
何度も、何度も、画面を開いた。
けれどあの夜、腕の中で震えていた景奈の涙を思い出すたび指先は止まった。
自分の想いが、彼女を追い詰めてしまったのではないか――。
その疑念が、真斗の胸へ重く沈んでいた。
恋人でもないのだから。
伝える資格など無いのだと――これまで何度も、喉の奥へ飲み込んできた言葉がある。
けれど。
もう、己の心から逃げたくはなかった。
震える指で、一文だけ打ち込む。
『会いたい』
送信。
小さな電子音。たったそれだけのことなのに、自分の鼓動が嫌になるほど速く、うるさかった。
返事が来る保証など無い。
既読すら付かないかもしれない。
それでも、祈るような気持ちだった。
続けて打ち込む。
『声が聞きたい』
『お前と、話がしたい』
最後に、場所を送る。
指定したのは――二人で花火を見上げた、あの街だった。
来てくれるかは分からない。
だが、今の自分にできることは、もう逃げずに、ただ彼女を待つことだけだった。
*
春先の夜風が、冷ややかな寂しさを孕んで静かに吹き抜けていく。
約束の待ち合わせ場所――あの日、二人で大輪の花火を見上げた街の、色褪せた街灯の下。
どれほどの時間が過ぎただろう。スマートフォンの画面を見る余裕すらなく、ただ凍えそうな視線を落としていた、その時だった。
ふいに、目の前のコンクリートへ、音もなくひとつの影が落ちる。
真斗はゆっくりと顔を上げた。
そこに、立っていたのは――。
「……なんで、まだいるんですか……」
必死に涙を堪えているような景奈の瞳が、まっすぐに真斗を射抜く。
「……もう会えないって、言ったじゃないですか……」
遮るもののない夜風が、再び二人の間を通り抜けていく。真斗はしばらくの間、何も言わずに景奈を見つめていた。
そして、峻厳だったその目元を、ほんのわずかに、壊れ物を労るように和らげる。
「……だが、お前は来てくれた」
低く、深く、夜の空気に溶け込むような声だった。
景奈が息を呑む。
真斗は静かに言葉を重ねた。
その声音には、彼女を責める響きも、自嘲的な皮肉も一切ない。
ただ、冷たい風の中で気の遠くなるような時間を待ち続けていた男の、魂からの安堵だけが滲んでいた。
「聞きたかったのだ。お前が、なぜあの夜、あんな言葉を口にしたのか」
「……え……」
「……俺は、まだ納得できていない」
景奈はきゅっと唇を噛み締めた。
視界が歪みそうになるのを必死に堪え、胸の奥底へ、それこそ頑丈な鍵をかけて押し込めていたはずの言葉を、震える吐息と共に吐き出す。
「……私の存在が、きっと、いつか聖川さんの足枷になる」
俯いた景奈の言葉を、真斗はすぐには否定しなかった。その懸念の重さを、芸能界という世界に身を置く彼自身が、誰よりも知っているかのように。
「……ずっと、一人でそう思っていたのか」
「だって……! あなたは“聖川真斗”なんですよ……! 私は、ただの……っ」
涙でその先が言葉にならなくなった景奈を見つめ、真斗は静かに、深く息を吐いた。
「……お前も、そんなふうに思い悩んでいたのだな」
「……え……?」
「俺も……考えた。昼間、人目を気にせず手を繋いで歩くことも難しい。仕事の都合で寂しい思いをさせる。聖川の名がお前を巻き込むことも……。だから、何度も諦めるべきだと考えた」
真斗も、同じように苦しみ、葛藤していた。
自分一人だけが怯えていたわけではなかったのだと知り、景奈の瞳が激しく揺れる。
「……だが、それでも、やはりお前のそばにいたかった。お前は、自分では気付いていないのだろうが……いつも真っ直ぐで、優しくて。お前が嬉しそうに笑うたび、俺まで嬉しくなった。その笑顔を見るのが、好きだったのだ。お前といると、飾らない俺でいられた。」
真斗は小さく息を吐く。
「……だから、諦められなかった」
真斗の声音は微かに震えていた。
完璧に見えた彼の隠しきれない脆さが、景奈の心の奥深くへ容赦なく染み込んでいく。
「……ほんとうに……私で、いいんですか……」
壊れそうな声で問う景奈に、真斗は一歩近づき、そっと大きな手を差し伸べた。
その青い瞳には、もう一片の迷いも残されていない。
「お前でなければ駄目だ。そのお前の不安ごと、抱きしめたい」
夜の静寂に溶けていくその切実な響き。
そして、一点の曇りもない青い瞳が、今にも零れそうな彼女の涙ごとすべてを包み込むように見つめていた。
「……だから、そばにいさせてくれ」
その言葉が引き金だった。
景奈は堪えきれず、大粒の涙を溢れさせながら、彼の広い胸へと飛び込んでいた。
その瞬間、心の奥底に頑丈な鍵をかけて、大切にしまっていたはずの宝箱が、音を立てて内側から弾け飛んだ。
閉じ込めていた真斗とのキラキラした思い出たちが、眩い光の粒となって、堰を切ったように胸の中へ溢れ出してくる。冷たい日常に無理やり馴染ませていた心が、一瞬で彼の熱に塗り替えられていく。
真斗の逞しい腕が、今度こそ迷いなく彼女の身体を強く抱きしめた。
ぎゅっと、二度と引き離されないとでも言うように、力を込めて。
彼の肩口へ顔を埋めた景奈の、小さな嗚咽が静まり返った夜に震える。
「……っ、ごめ……なさ……っ」
言葉にならない、あの日からずっと抱えていた謝罪。
真斗は何も言わなかった。ただ、その細い背を、壊れ物へ触れるように静かに、だけど確かに抱き締め返す。
真斗の大きな掌が、そっと景奈の頭へと触れた。
長い指先が愛おしそうに、慈しむように髪を撫でる。
ぽん、ぽん。
大丈夫だ、と。言葉の代わりにすべてを包み込むように。
そして、耳元へ優しく落ちてきたのは、低く、甘い声だった。
「……もう、泣かなくていい」
真斗は腕の力をほんの少しだけ緩めた。もちろん、身体を離すためではない。……涙に濡れた彼女の顔を見つめるために。
そっと、景奈の頬へと大きな掌が添えられる。
その手は――驚くほど、冷たかった。
「っ……」
景奈は小さく息を呑む。
ずっと、ずっと外にいたのだ。
来るかどうかも分からない、自分からの返事すら届かないあの暗闇の中で。
この春先の、凍えるような夜風に身を晒しながら、彼はただ信じて待っていた。
「……ケイ」
低く、静かな声。
頬に触れる掌はあんなに冷えているのに、その呼び方だけが、胸の奥の氷をすべて溶かしてしまうほどに優しく、熱かった。
景奈は涙に濡れた顔を、ゆっくりと上げる。
視線が、至近距離で絡み合う。
近い。あまりにも、近い。
真斗の深い青の瞳が。
切なげに揺れる長い睫毛が。
熱い息遣いが。
今にも触れそうな距離に、心臓が爆発しそうなほど跳ね上がる。
景奈の思考が、一気に熱で真っ白に染まりかけた。
その瞬間だった。
――ポツ。
頬へと、冷たい何かが落ちる。
「……え?」
もう一粒。
そして。
次の瞬間――。
――ザァァァァッ!!
「ひゃっ」
突然の激しい音に景奈の肩が跳ね、真斗が鋭く空を見上げる。
春先の不安定な夜空から、前触れもなく降り出した激しい通り雨が、街灯の光を白く滲ませていく。
「行くぞ!」
真斗は咄嗟に、景奈の手を強く握り締めた。
手を繋いだまま、夜の街を夢中で走った。
容赦なく降り注ぐ雨が身体を濡らし、服を重くしていく。
握られた真斗の手は、驚くほどひんやりと冷え切っていた。それなのに、その冷たさの奥から、景奈の手を決して離さないという彼の強固なまでの意志――じりじりと痺れるような熱量が、不思議なほど鮮明に、痛いほどに伝わっていた。
そうして辿り着いた、雨宿りの先。
促されるままに足を踏み入れたその場所で、景奈は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
電子音を立てて厳かにロックを解除する、カードキー。
二人の足音を静かに吸い込む、毛足の長い絨毯が敷かれた廊下。
真斗の手によって静かに押し開けられた、重厚な扉。
そして――
目の前に広がったのは、あまりにも広すぎる部屋だった。
壁一面の大きな窓と、そこに雨粒を纏って美しく滲む都会の夜景。
部屋の輪郭を優しく切り取る、琥珀色の柔らかな間接照明。
そして、部屋の奥に毅然と鎮座する、大きなベッド。
景奈の呼吸が、ぴたりと止まった。
胸の奥で、先ほど溢れ出したばかりの鮮やかな記憶たちが、目の前の光景と激しく重なり合って熱い軋みを上げる。
この景色には、確かな見覚えがあった。
あの日、彼と二人きりで寄り添いながら、窓の外に広がる大輪の花火を見上げた、あの夢のような夜の部屋とまったく同じなのだ。
偶然にしては、あまりにも、あまりにも出来過ぎている。
景奈は震える視線のまま、ゆっくりと窓の向こうの夜景を見つめ、それから背後に佇む男へと振り返った。
「……ここ、って……」
掠れた景奈の声に、真斗は雨に濡れた上着を静かに脱ぎながら、言い訳をするような取り繕いも一切せず、ただ真っ直ぐに見つめて答えた。
「ああ。あの日と、同じ部屋だ」
迷いなく返ってきたその言葉に、景奈は再び息を呑んだ。
来てくれるかも分からない、既読すらつかないかもしれないあの絶望的な待ち合わせの前に、彼はすでにあの思い出のスイートルームを押さえていたのだ。もし、自分が現れなかったら、彼は今頃、一人でこの広すぎる部屋に取り残され、あの日二人で見た花火の代わりに、窓の外の雨を眺めていたかもしれないのに。
完璧なトップアイドルとしてのプライドも、利口な計算も捨て去った、格好悪いほどの必死さ。
それは、絶対に自分を手放さないという、静かで強い覚悟そのものだった。
それが濁流のように胸へと押し寄せてきて、景奈の心臓は痛いほどに跳ね上がった。
*
部屋へ足を踏み入れた頃には、窓を叩く雨脚はすっかり強くなっていた。
脱いだ上着から、ぽたぽたと水滴が落ちる。ガラスの向こう側では、大都会の灯りが激しい雨に滲んで、ぼんやりと揺れていた。
景奈はまだどこか落ち着かないまま、広すぎる室内を見回した。
そんな彼女へ、真斗が静かに視線を向ける。
「……先に温まれ、風邪をひく」
低く、気遣うような声だった。
景奈は小さく瞬きをして、「え、あ……はい」とだけ返し、促されるままにバスルームへと向かった。
熱い湯が、冷え切った身体をじんわりと包み込む。
雨と夜風に晒された頬の冷たさも、限界まで張り詰めていた心も、湯気の中で少しずつほどけていくようだった。
けれど、胸の奥だけは、未だに激しい鼓動を打ち続けて落ち着かない。
恋人になった。
――本当に?
立ち込める湯気の向こうで、何度も自分自身へ問いかける。
まだ、どこか夢の中にいるような気分だった。
やがて髪を乾かし、備え付けの着心地の良い部屋着へ袖を通して、ゆっくりと部屋へ戻る。
その瞬間。景奈は思わず足を止めた。
テーブルの上には、いつの間にか豪勢なルームサービスが整えられている。琥珀色の柔らかな照明の下、静かに並んで光を反射する二つのグラス。そしてその隣に置かれた、見覚えのあるラベルのワインボトル。
「……えっ」
景奈は思わず目を瞬かせ、そこへ釘付けになるように視線を落とした。
「……カロン・セギュール……」
思わずその名を呟いた、その時だった。
「……ワイン、好きだっただろう?」
背後から、低く静かな声が落ちてくる。
振り返ると、そこにはちょうどバスルームから上がってきた真斗が立っていた。
「あ……」
ドライヤーの音が止んだばかりの彼の髪は、いつもより少し無造作で、どこかふんわりとした質感を残している。
乾かされた黒髪からは、景奈が先ほどまで包まれていたのと同じ、ホテルのシャンプーの清潔な香りが微かに漂った。
いつもなら完璧にセットされている『アイドル・聖川真斗』の髪型とは違う、完全なプライベートの姿。
部屋着を纏った彼は、いつもより少しだけ……近く、一人の男性としての体温を感じさせた。
景奈はドギマギと思わず視線を泳がせる。
「え、いや……好きですけど……」
真斗は静かにテーブルへと歩み寄った。
「そうか」
どこか穏やかに響く声。
真斗は手慣れた様子で静かにボトルを手に取ると、深い赤色の液体をグラスへと注いでいく。
トクトク、という小気味良い音が響いた。
窓を叩く雨音。
柔らかな照明。
二人きりの密室に落ちる、ほんの少しだけ落ち着かない沈黙。
景奈は促されるままグラスを持った。けれど、ふと困ったように視線を揺らす。
「……乾杯、っていうのも……なんか……」
少し、照れくさい。恋人になったばかりで、互いにまだ胸の置き所が定まっていないのだ。
そんな景奈の様子に、真斗は小さく目を細める。
そして、ほんのわずかに口元を和らげた。
「……では」
静かで、優しい声だった。
真斗も自分のグラスを持ち上げる。
「いただきます、か」
その少しズレた、けれど彼らしい提案に、景奈も思わずふふっと笑みをこぼす。
二人はグラスを軽く掲げ合った。ガラスを触れさせることはなく、ただ、互いの熱を帯びた視線を交わしながら。
「……いただきます」
そっとグラスを傾け、一口含む。
その瞬間。
芳醇でふくよかな香りが、口いっぱいに広がった。
柔らかく、深く、切ないほどに甘い余韻が鼻へと抜けていく。
あまりの美味しさに、思わず声が漏れていた。
「あーー……うっまーー……!」
――言ってから、ハッとする。
景奈はグラスを持ったまま、ピシリと石のように固まった。
やばい。
今、完全に素だった。
恋人になったばかりの緊張も、トップアイドルを前にしているという遠慮もどこかへ吹き飛んで、家で寛いでいるときのような、いちばん格好のつかない素の自分を晒してしまった。
恥ずかしさで一気に顔が熱くなる景奈だったが、しかし、向かい側から落ちてきたのは、呆れたようなため息ではなかった。
真斗はグラスを手にしたまま、愛おしいものを見るように少しだけ目を細める。
そして。
「ふっ……ははは」
小さく、声を出して笑った。
景奈が驚いて目を瞬かせる。真斗はどこか楽しげな様子のまま、手元のグラスへと視線を落とした。
「……そうか。うまいか」
その穏やかで優しい微笑みを見た瞬間、景奈の胸の奥がぎゅっと鳴った。
雨の音と、彼の声。同じシャンプーの清潔な香りと、口の中に残る甘い余韻。
このワインの味を、一生忘れることはないだろうと、景奈は密かに心に刻み込んだ。
*
厚いガラス窓を激しく叩く雨音だけが、密室の沈黙を埋めている。
景奈はグラスの中で揺れる深いルビー色をぼんやり見つめ、華奢なステムを指先でそっと撫でていた。
少しだけ、頬が熱い。
それは決して、アルコールのせいだけではない。
静かで、甘やかな時間だった。
絶え間ない雨の音と、雨粒の向こうでぼやける遠い街の灯り。そして、微かに同じシャンプーの香りを漂わせながら、すぐ隣に座る真斗。
彼が自分の『恋人』になったという現実が、まだどこか、覚めない夢のようだった。
やがて、景奈はグラスの底へ視線を落としたまま、決意するように小さく息を吸い込んだ。
「……あの……ひとつ、聞いてもいいですか?」
隣で、真斗が静かに視線を向けてくるのを感じる。
「……何だ」
少しだけ迷って、それでも。ずっと胸の奥につかえていた問いを、静かな声で紡ぎ出す。
「……あの日。どうして、急に……私のこと、抱きしめたりしたんですか……」
真斗はグラスをテーブルへ置き、長い睫毛を落とすようにして少しだけ目を伏せた。
「……すまなかった。ひどく、驚かせたな」
懺悔のような、低い声だった。
咎めるつもりなどない景奈は、慌てて小さく首を振る。真斗は自嘲するような響きを滲ませて、静かに言葉を継いだ。
「……あの時、他の男と親しげに話しているお前を見ていた」
わずかな一拍。
「……胸が、ひどくざわめいたのだ。情けない話だ。自分でも……あれほど容易く理性を失うとは思っていなかった」
言い訳も、格好をつけることもしない。
彼らしい、一切の誤魔化しもない真摯な告白だった。
「……お前を、誰にも取られたくないと思った」
部屋に響く雨音が、一瞬だけ大きくなったように錯覚する。
真斗は視線を落としたまま、さらに声を一段、低く落とした。
「……だが。衝動のままに抱きしめた理由は、決して嫉妬だけではない」
「……え……?」
真斗が、ゆっくりと顔を上げる。
視線が、至近距離で深く絡み合った。
その深い青の瞳の奥に宿る、隠しきれない仄暗い熱に、景奈の心臓がどくんと激しく跳ね上がった。
「……ずっと、お前へ触れたいと思っていた」
鼓膜を打つ雨音すら遠のくような、濃密な沈黙。
景奈は息を呑む。
熱を帯びた視線が、逃げ場なく絡まる。
胸が苦しい。
けれど、もう目を逸らすことはできなかった。
真斗が、ゆっくりと距離を詰める。
その動きは、獲物を逃がさない捕食者のように静かで、けれどどこまでも優しかった。
急かすことも、乱暴に奪うこともなく。
まるで、触れてもいいのか、最後の確認をするように。
景奈は、そっと瞼を閉じた。
次の瞬間、柔らかな温もりが唇へ触れる。確かめるような、甘く控えめな口づけ。
胸が震える。一度離れて、また近づく。角度を変え、言葉の代わりに想いを刻み込むように唇が重なるたび、密やかな吐息が零れた。
「……っ」
真斗の大きな掌が景奈のうなじを優しく包み込み、その温度で逃げ道を塞ぐ。
先ほどまでの穏やかさを失った彼の吐息が、ひどく荒く、熱を帯びて景奈の肌を伝った。
深く、探るように唇が重なるたびに、景奈の指先は堪えきれずに彼のルームウェアの胸元をきゅっと掴みしめる。
雨音の合間に、互いの鼓動が鼓膜を激しく揺らす。
息継ぎの隙間すら惜しむように、幾度も深く絡み合う吐息。
真斗の長い指が景奈の髪をすくい上げ、さらなる熱を求めて、ふたりは引き寄せ合うように身体を寄せた。
「……ケイ」
唇を離したほんの一瞬。
掠れた、甘く熱を孕んだ声で名前を呼ばれる。
そのまま、真斗の大きな手が、震えるように景奈の背中をなぞった。
「……っ」
服越しではない熱が、そっと肌へ触れた瞬間。
景奈は小さく息を呑んだ。
直接素肌に触れた彼の指先は、ひどく熱かった。
服の上からでは決して分からなかったその圧倒的な熱量が、景奈の肌へと直接流れ込んでくる。
触れられた場所から、張りつめていた境界が静かにほどけていく。
普段は誰よりも自分を律している男の、その指先がわずかに震えていることに気づき、景奈の胸が甘く軋んだ。
それは、抑え込んできた想いの深さそのものだった。
抗いようのない熱に包まれながら、景奈は潤んだ瞳で彼を見つめ返す。
もう、何も隠す必要などない。どうしようもなく溢れ出す想いが、甘い吐息と共に零れ落ちる。
「……好き……大好き、です……」
その切実な響きに、真斗の動きがピタリと止まった。
瞳の奥で、静かに何かが弾けたような気がした。景奈の素肌を包み込む大きな掌に、さらに強い、焼け付くような熱がこもる。
「……俺も……愛している」
鼓膜の奥、魂に直接響くような、低く掠れた重い囁き。
彼がその本能のままにすべてを求め、受け入れてくれたことを悟った瞬間、景奈の胸は究極の幸福で満たされた。
そのまま、言葉すら必要なくなり、ただ互いの存在を確かめ合うように深く抱きしめ合う。
外を叩く冷たい雨とは対照的な、すべてを溶かすような愛おしさ。
ワインの残り香と、愛の言葉、そして直接触れ合う互いの体温。
その夜の雨音は、互いの心と身体の奥深くまで触れ合う二人を、誰の目からも隠すように、優しく夜を満たしていた。
*
柔らかな朝の光が、厚いカーテンの隙間から滑り込むように差し込んでいた。
昨夜、窓を激しく打ち据えていた雨音はいつの間にか止み、世界は嘘のように静まり返っている。
テーブルの上に並べられた、豪勢なルームサービスのモーニング。
湯気を立てる琥珀色の紅茶に、ふわりとバターが香る焼き立てのパン。
そして、鮮やかな黄色のとろとろのスクランブルエッグ。
穏やかで、満ち足りた朝だった。
景奈は温かいティーカップを両手で包み込みながら、小さく、幸せなため息を吐く。
……なんだか、ひどく不思議な気分だった。
昨日まで、もう二度と会えないかもしれないと絶望していた人が。
今、こうしてすぐ向かい側に座り、自分と同じ朝の空気を吸っている。
夢のようで、けれど昨夜交わした熱の余韻が、これが現実なのだと確かに教えてくれていた。
ふと、景奈は何かを思い出したように顔を上げる。
「……そういえば、真斗くんに、渡したいものがあって」
呼応するように、真斗が静かに視線を向けてくる。
景奈は傍らの鞄へ手を伸ばし、小さな包みを取り出した。
彼へ差し出すその手は、少しだけ照れくささに迷う。
「……十二月に、渡そうと思ってたの。結局……渡せなくて、ずっと持っていて」
真斗の深い青の瞳が、静かに揺れた。
受け取った包みから現れたのは、上質なハンドクリーム。
あの日、すれ違ってしまったために届けられなかった、冬の贈り物。
ピアノを弾く彼の、美しく大切な指先を守りたくて選んだものだった。
「……ありがとう」
真斗は静かに、けれどまるで壊れ物を扱うように、ひどく大切そうにそれを両手で包み込んだ。
そして、長い睫毛を落として少し目を伏せると、低く穏やかな声で告げる。
「俺も、お前に渡したいものがある」
真斗が鞄から取り出した小さな箱に、景奈は思わず目を瞬かせた。
「……これ……」
「俺も、十二月に渡そうと思っていたのだ」
ゆっくりと、真斗の手でベルベットの箱が開かれる。
朝の光を受けてきらりと輝いたのは、細いチェーンの上品なプラチナブレスレットだった。
そこには、小さく揺れる繊細な雪の結晶のモチーフと、景奈の誕生石が寄り添うように光を放っている。
あまりの美しさに、景奈の呼吸が止まる。
「……っ……」
声が出ない景奈を真っ直ぐに見つめ、真斗は静かに告げた。
「手を」
言われるがまま、景奈はそっと左手を差し出す。
真斗の長い指先が、景奈の細い手首へ触れた。昨夜、雨の冷たさを纏っていた時とは違う、朝の確かな体温を宿した、優しく温かい指。
カチ、と小さな音を立てて、華奢な手首にブレスレットが留められる。
真斗はそのまま手を離さず、景奈の手首をじっと見つめた。
そして、ほんのわずかに目を細めると――。
「……似合っている」
そう低く甘く囁き、雪の結晶が揺れる手首の内側へ、誓いを立てるように深く、熱い唇を落とした。
脈打つ手首の内側に触れた柔らかな感触に、景奈の胸の奥が甘く締め付けられる。
「一生……大切にするね」
潤んだ声で零した景奈の言葉に、真斗は顔を上げ、この上なく優しく、愛おしげに微笑んだ。
ふと窓の外へ目を向ければ、昨夜の雨粒を残した世界が、春の朝の光を受けて静かに煌めいていた。
その穏やかな景色は、ようやく重なり合った二人の音色のようだった。
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