レイニーブルー・コンチェルト
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#13 群青のインテルメッツォ
二月。
山間の空気は剃刀の刃のように鋭く研ぎ澄まされ、吐き出す息はたちまち濃い白煙となって冬の虚空へ溶けていった。
真斗とトキヤは、二人で出演している伝統文化紀行番組――『温故知新ふたたび』の地方ロケのため、まだあちこちに根雪が残る静かな温泉地を訪れていた。
情緒ある古い町並み。湯気の立ち上る郷土料理。厳かな歴史を湛えた寺社仏閣。
昼間の収録は滞りなく、むしろ恐ろしいほどスムーズに終わり、宿へ戻った頃には、空はすっかり冬特有の深い群青へと沈み始めている。
宿の片隅にある、静かな休憩スペース。
温かいコーヒーを片手に、翌日の台本へ熱心に目を通していたトキヤの耳へ、不意に、地を這うような低い声が落ちてきた。
「……滝に行こうと思う」
「…………滝」
数時間前、地元のスタッフが雑談交じりに楽しそうに話していた言葉が、トキヤの脳裏をよぎる。
『この近くの山奥に、滝行で有名なお寺があるんですよ。この時期はさすがに地獄の冷たさらしいですが……』
……まさか、とは思った。
いや、このストイックすぎる男なら、まさかではない。
トキヤはコーヒーカップを持つ手をぴたりと止めたまま、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていた真斗は、いつもと変わらず、一糸乱れぬ隙のない姿だった。
ロケ中の仕事ぶりも完璧。歌も、ダンスのパフォーマンスも非の打ち所がない。
けれど――だからこそ、ずっと隣にいるトキヤには分かっていた。
この男はずっと、何か巨大な重荷を胸の奥底へ抱え込んだままだということが。
「……今、何月だと思っているのですか?」
「二月だ」
「ええ。だから申し上げているのですが」
トキヤの声音には、隠しきれないわずかな呆れと、本気の制止が混じっていた。
しかし真斗は、頑ななまでに窓の外へと視線を向ける。冬の夜空は高く、どこまでも冷酷に冴え渡っていた。
「……道が、見えぬのだ」
ぽつり、と。
掠れたその声は、ひどく静かで、ひどく脆かった。
「少し……頭も冷やしたい」
トキヤはしばし、言葉を失って黙り込む。
十二月のあのクリスマス特番の夜から、薄々感じていた。
真斗は心を整えている。プロとして、完璧すぎるほどに自分を整え、律し続けている。
けれど、限界まで張り詰めたその糸は、今にも引きちぎれそうなほどに危うかった。
やがて、トキヤは手元の台本を静かに閉じ、小さく息を吐き出した。
「でしたら」
真斗が怪訝そうに視線を戻す。トキヤはいつもの理知的で落ち着いた表情のまま、さらりと続けた。
「私もお付き合いします」
「……何?」
「経験はありますので。……以前も、似たようなことがありましたね」
真斗がわずかに目を細める。
「二人で道を見失って、山奥の滝へ向かったことが」
「……無理をするな、一ノ瀬。この寒さだぞ」
「それはこちらの台詞です」
トキヤは残りのコーヒーをひと口で飲み干すと、ふっと柔らかく、けれど拒絶を許さない笑みを浮かべた。
「心を整えるのでしょう? ならば、一人より二人の方が効率的です」
*
翌日。
『温故知新ふたたび』のすべての収録を無事終えた二人は、宿から車を走らせ、地元スタッフに教えられた山寺へと足を運んでいた。
鬱蒼とした杉林の奥。雪の気配が色濃く残る凍てついた空気。
重低音の轟鳴を響かせながら激しく落ちる白い水の塊を前に、トキヤは無言で立ち尽くしていた。
薄い白装束。完全な裸足。
……冷たい。いや、冷たいなどという生易しい言葉では到底足りない。足の感覚は、地についた瞬間からすでに消失しかけていた。
そんな中、真斗はすでに慣れた様子で足元を確認し、滝の直前で振り返る。
「では、行くぞ」
「あ、ええ……」
トキヤは覚悟を決め、恐る恐る水の中へ足を踏み入れた。
その瞬間。
「ヒッ……!!」
極限の冷たさに、思わず素っ頓狂な悲鳴が漏れ、冬の静寂を引き裂いた。真斗が驚いたように振り返る。
「一ノ瀬、無理をするな! 今すぐ戻れ!」
「……い、いえ、大丈夫、です……っ」
顔面を完全に蒼白にしながらも、トキヤはきゅっと意地になって唇を結んだ。ここで引き下がるような、一ノ瀬トキヤではない。
二人は一歩ずつ進み、並んで立ち塞がる。
そして――轟音の渦巻く、白銀の瀑布の中へ、その身を投じた。
容赦のない水の質量が、頭頂から肩へと叩きつけられる。
凍える。痛い。息が、満足にできない。
頭の中の余計な思考や、濁った感情が、猛烈な水の暴力によって強制的に洗い流されていくような錯覚。真斗は奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばった。
胸の奥底へ、重い澱のように沈み込んでいた痛み。
進むべき方向を見失った、暗い迷い。
そして――。
『――もう、会えません』
今も耳の奥で鳴り止まなかった、あの切実な彼女の声すらも。
世界を支配する轟々とした水音の向こう側へと、激しく押し流されていくようだった。
*
滝行を終えた帰り道。
二人は命からがら、心地よい湯気に包まれた温かい山間の茶屋へ立ち寄っていた。
熱いお茶の入った湯呑みを両手で包み込み、指先がようやく微かな熱を取り戻し始めている。
窓の外からは、まだ遠く、あの滝の激しい轟音が地鳴りのように響いていた。
しばしの、心地よい沈黙。
やがて、温かいお茶を喉に滑らせたトキヤが、静かに口を開いた。
「……道は、見えましたか?」
真斗は揺れる湯気の向こう側へ、じっと視線を落とした。
少しの間、真剣に思考を巡らせて。
それから、ふっと微かな、小さく溜め息のような息を吐き出す。
「正直、分からん」
即答だった。
けれど、その硬さの取れた表情を見て、トキヤの口元がふっと優しく和らぐ。
「ですが……少し、すっきりした顔をしていますよ」
真斗は湯呑みに視線を戻し、張り詰めていた肩の力を、ほんのわずかだけ抜いた。
「……そうかもしれんな」
白く、柔らかな湯気が静かに立ち昇っていく。
その曖昧な白さをぼんやりと見つめながら、真斗は胸の内に湧き上がった想いを、ぽつりと小さく呟いた。
「……思えば、今回の件で……俺は随分と、仲間たちに助けられていた気がする」
撮影中、「随分分かりやすいな」と、視線の先まで見抜いた神宮寺。
「強い想いがあれば、縁のある人とはまた繋がります」と、迷いなく言った愛島。
「このクッキー、甘い味がします」と――胸の内にある想いを、ただ優しく受け止めてくれた四ノ宮。
花火の夜、躊躇う自分へ「後は任せろ」と背中を押してくれた来栖。
そして一十木には……随分と発破をかけられた気がする。
真斗の唇から、自嘲気味な、けれど確かな温もりを孕んだ微苦笑が零れ落ちた。
それから、彼は視線をゆっくりと動かす。
こんな寒空の、凍てつく山奥まで「効率のため」などと言い訳をしながら付き合ってくれている、目の前の仲間へ。
真斗は愛おしそうに、微かな息を漏らした。
「……俺は、そんなに周囲から見て分かりやすいだろうか」
トキヤは、一度静かに湯呑みを机へと置き、一切の迷いなく即座に答えた。
「ええ、とても」
湯気の向こうで、真斗は苦笑するように静かに目を伏せる。
湯呑みから立ちのぼる白い湯気だけが、二人の間で柔らかく揺れていた。
二月。
山間の空気は剃刀の刃のように鋭く研ぎ澄まされ、吐き出す息はたちまち濃い白煙となって冬の虚空へ溶けていった。
真斗とトキヤは、二人で出演している伝統文化紀行番組――『温故知新ふたたび』の地方ロケのため、まだあちこちに根雪が残る静かな温泉地を訪れていた。
情緒ある古い町並み。湯気の立ち上る郷土料理。厳かな歴史を湛えた寺社仏閣。
昼間の収録は滞りなく、むしろ恐ろしいほどスムーズに終わり、宿へ戻った頃には、空はすっかり冬特有の深い群青へと沈み始めている。
宿の片隅にある、静かな休憩スペース。
温かいコーヒーを片手に、翌日の台本へ熱心に目を通していたトキヤの耳へ、不意に、地を這うような低い声が落ちてきた。
「……滝に行こうと思う」
「…………滝」
数時間前、地元のスタッフが雑談交じりに楽しそうに話していた言葉が、トキヤの脳裏をよぎる。
『この近くの山奥に、滝行で有名なお寺があるんですよ。この時期はさすがに地獄の冷たさらしいですが……』
……まさか、とは思った。
いや、このストイックすぎる男なら、まさかではない。
トキヤはコーヒーカップを持つ手をぴたりと止めたまま、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていた真斗は、いつもと変わらず、一糸乱れぬ隙のない姿だった。
ロケ中の仕事ぶりも完璧。歌も、ダンスのパフォーマンスも非の打ち所がない。
けれど――だからこそ、ずっと隣にいるトキヤには分かっていた。
この男はずっと、何か巨大な重荷を胸の奥底へ抱え込んだままだということが。
「……今、何月だと思っているのですか?」
「二月だ」
「ええ。だから申し上げているのですが」
トキヤの声音には、隠しきれないわずかな呆れと、本気の制止が混じっていた。
しかし真斗は、頑ななまでに窓の外へと視線を向ける。冬の夜空は高く、どこまでも冷酷に冴え渡っていた。
「……道が、見えぬのだ」
ぽつり、と。
掠れたその声は、ひどく静かで、ひどく脆かった。
「少し……頭も冷やしたい」
トキヤはしばし、言葉を失って黙り込む。
十二月のあのクリスマス特番の夜から、薄々感じていた。
真斗は心を整えている。プロとして、完璧すぎるほどに自分を整え、律し続けている。
けれど、限界まで張り詰めたその糸は、今にも引きちぎれそうなほどに危うかった。
やがて、トキヤは手元の台本を静かに閉じ、小さく息を吐き出した。
「でしたら」
真斗が怪訝そうに視線を戻す。トキヤはいつもの理知的で落ち着いた表情のまま、さらりと続けた。
「私もお付き合いします」
「……何?」
「経験はありますので。……以前も、似たようなことがありましたね」
真斗がわずかに目を細める。
「二人で道を見失って、山奥の滝へ向かったことが」
「……無理をするな、一ノ瀬。この寒さだぞ」
「それはこちらの台詞です」
トキヤは残りのコーヒーをひと口で飲み干すと、ふっと柔らかく、けれど拒絶を許さない笑みを浮かべた。
「心を整えるのでしょう? ならば、一人より二人の方が効率的です」
*
翌日。
『温故知新ふたたび』のすべての収録を無事終えた二人は、宿から車を走らせ、地元スタッフに教えられた山寺へと足を運んでいた。
鬱蒼とした杉林の奥。雪の気配が色濃く残る凍てついた空気。
重低音の轟鳴を響かせながら激しく落ちる白い水の塊を前に、トキヤは無言で立ち尽くしていた。
薄い白装束。完全な裸足。
……冷たい。いや、冷たいなどという生易しい言葉では到底足りない。足の感覚は、地についた瞬間からすでに消失しかけていた。
そんな中、真斗はすでに慣れた様子で足元を確認し、滝の直前で振り返る。
「では、行くぞ」
「あ、ええ……」
トキヤは覚悟を決め、恐る恐る水の中へ足を踏み入れた。
その瞬間。
「ヒッ……!!」
極限の冷たさに、思わず素っ頓狂な悲鳴が漏れ、冬の静寂を引き裂いた。真斗が驚いたように振り返る。
「一ノ瀬、無理をするな! 今すぐ戻れ!」
「……い、いえ、大丈夫、です……っ」
顔面を完全に蒼白にしながらも、トキヤはきゅっと意地になって唇を結んだ。ここで引き下がるような、一ノ瀬トキヤではない。
二人は一歩ずつ進み、並んで立ち塞がる。
そして――轟音の渦巻く、白銀の瀑布の中へ、その身を投じた。
容赦のない水の質量が、頭頂から肩へと叩きつけられる。
凍える。痛い。息が、満足にできない。
頭の中の余計な思考や、濁った感情が、猛烈な水の暴力によって強制的に洗い流されていくような錯覚。真斗は奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばった。
胸の奥底へ、重い澱のように沈み込んでいた痛み。
進むべき方向を見失った、暗い迷い。
そして――。
『――もう、会えません』
今も耳の奥で鳴り止まなかった、あの切実な彼女の声すらも。
世界を支配する轟々とした水音の向こう側へと、激しく押し流されていくようだった。
*
滝行を終えた帰り道。
二人は命からがら、心地よい湯気に包まれた温かい山間の茶屋へ立ち寄っていた。
熱いお茶の入った湯呑みを両手で包み込み、指先がようやく微かな熱を取り戻し始めている。
窓の外からは、まだ遠く、あの滝の激しい轟音が地鳴りのように響いていた。
しばしの、心地よい沈黙。
やがて、温かいお茶を喉に滑らせたトキヤが、静かに口を開いた。
「……道は、見えましたか?」
真斗は揺れる湯気の向こう側へ、じっと視線を落とした。
少しの間、真剣に思考を巡らせて。
それから、ふっと微かな、小さく溜め息のような息を吐き出す。
「正直、分からん」
即答だった。
けれど、その硬さの取れた表情を見て、トキヤの口元がふっと優しく和らぐ。
「ですが……少し、すっきりした顔をしていますよ」
真斗は湯呑みに視線を戻し、張り詰めていた肩の力を、ほんのわずかだけ抜いた。
「……そうかもしれんな」
白く、柔らかな湯気が静かに立ち昇っていく。
その曖昧な白さをぼんやりと見つめながら、真斗は胸の内に湧き上がった想いを、ぽつりと小さく呟いた。
「……思えば、今回の件で……俺は随分と、仲間たちに助けられていた気がする」
撮影中、「随分分かりやすいな」と、視線の先まで見抜いた神宮寺。
「強い想いがあれば、縁のある人とはまた繋がります」と、迷いなく言った愛島。
「このクッキー、甘い味がします」と――胸の内にある想いを、ただ優しく受け止めてくれた四ノ宮。
花火の夜、躊躇う自分へ「後は任せろ」と背中を押してくれた来栖。
そして一十木には……随分と発破をかけられた気がする。
真斗の唇から、自嘲気味な、けれど確かな温もりを孕んだ微苦笑が零れ落ちた。
それから、彼は視線をゆっくりと動かす。
こんな寒空の、凍てつく山奥まで「効率のため」などと言い訳をしながら付き合ってくれている、目の前の仲間へ。
真斗は愛おしそうに、微かな息を漏らした。
「……俺は、そんなに周囲から見て分かりやすいだろうか」
トキヤは、一度静かに湯呑みを机へと置き、一切の迷いなく即座に答えた。
「ええ、とても」
湯気の向こうで、真斗は苦笑するように静かに目を伏せる。
湯呑みから立ちのぼる白い湯気だけが、二人の間で柔らかく揺れていた。