レイニーブルー・コンチェルト
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#12 寒声のチューニング
十二月も終わりの気配を色濃くし、街はすっかり年の瀬特有の慌ただしさと、浮き足立った熱に包まれていた。
パソコンの青白い画面に視線を落としながら、景奈はひどく重い息を吐き出す。
あの日から、結局三日間も有給を使ってしまった。この多忙を極める年末に。社会人として、決して褒められることではないと分かっている。
けれど――あの夜の翌日、どうしても出社できるような状態ではなかった。
泣き腫らした目を誤魔化し、何事もなかったかのようにキーボードを叩いて笑えるほど、自分は器用な人間ではなかったのだ。
だから、休んだ。
泣いて。眠って。また泣いて。
冷たい毛布にくるまって、ただただ嵐が過ぎ去るのを待つように息を潜めていた。
それでも、時間は残酷なほどに待ってはくれない。
未返信のメールは溜まり、年内対応の確認連絡は次々と積み上がっていく。
仕事をしなければならない。世界がどうなろうと、日常は容赦なく続いていく。
そうして迎えた、クリスマスの夜だった。
暖房の効いた薄暗い部屋の中。
景奈は毛布に深く身体を埋めたまま、小さく膝を抱えていた。
テレビの液晶画面だけが、クリスマスの生放送大型音楽特番の華やかな光と歓声を、暴力的なほど鮮やかに撒き散らしている。
けれど、そのきらびやかな喧騒は、まるで宇宙の果ての出来事のように遠かった。
耳の奥に、どうしても離れてくれない声がこびりついている。
――お前が、好きだ。
胸が、ひどく痛む。
あの、限界まで削り出されたような苦しい声が。
力強く抱き締められた腕の熱が。
今も身体の奥底から消えてくれない。
一番聞きたかった言葉だった。
ずっと。
自分なんかにそんな資格はないと諦めながら、それでも心のどこかで、愚かにも密かに願い続けていた言葉。
なのに。
同時に、一番聞きたくなかった言葉でもあった。
こんなアンバランスで曖昧な関係が、いつまでも続くはずがないことくらい、本当は分かっていたのだ。
だからこそ。
あの瞬間が来てしまうことを、心の底でひどく恐れていた。
毛布の端を、指が白くなるほどぎゅっと握り締める。
たくさん、本当にたくさんの愛を与えてくれた。
打ち上げの日、自分を見つけてくれたこと。
冷たい雨の中、肩にかけられたジャケットの温もり。
息を切らして駆けつけてくれた花火。
バラ園で響いた、優しいピアノの旋律。
そして、あの真っ直ぐで嘘のない眼差し。
そのひとつひとつが、景奈には眩しすぎるほどに大切で、一生の宝物だった。
それなのに。
自分は。
結局――自分の恐れと身勝手さで、その想いへ応えることができなかった。
もし、自分がもっと違う人間だったなら。
何の後ろ盾もないただのファンではなく、彼の隣へ堂々と立てる人間だったなら。
あの腕の中へ、泣きながら飛び込めていたのだろうか。
――ごめんなさい。
心の中で幾千回と繰り返した謝罪だけが、静かな夜の空気へ虚しく降り積もっていく。
その時だった。
『――次は、ST☆RISHのみなさんです!』
テレビから響いた司会の明るい声に、景奈の肩がびくりと大きく震えた。
見たい。
……でも、見たくない。
毛布を引き上げ、逃げるように顔を半分埋める。
それでも、電源を切ることは、どうしてもできなかった。
ほんの少しだけ。震える視線で覗いた毛布の隙間、その狭い世界の向こう側――
眩いスポットライト。
割れるような歓声。
青いステージ衣装を翻しながら現れた彼は、まるで冬の夜空へ降り立った一番星のように、圧倒的に眩しかった。
数日前。
自分を抱き締めながら、あんなにも苦しげな声で「好きだ」と告げた男と同じ人間だなんて、信じられないほどに。
艶やかで伸びやかな歌声。
指先まで神経の通った、雪のように静謐な所作。
カメラへ向ける、気高く甘い微笑み。
その一瞬一瞬が、あまりにも完璧な“アイドル・聖川真斗”だった。
……よかった。
胸の奥で、安堵にも似た小さな息が零れる。
ちゃんと、笑えている。
そう思った。
思った、はずなのに。
毛布を握る指先へ、じわりと痛いほどの力が入る。
苦しい。
どうしようもなく。
その眩しさが、今はひどく苦しかった。
画面の向こうで幾千もの光と愛を浴びるその人は――もう、自分の知る『聖川さん』ではなく、誰もが愛してやまない『聖川真斗』として、あまりにも遠い場所で輝いていた。
歌声が、無慈悲に胸を締めつける。
もう、これ以上は見ていられない。
震える指先が、毛布の隙間からそっと伸びた。
――カチッ。
歌が終わるより少し早く。
景奈はリモコンの電源ボタンを押した。
ふっと、部屋が暗闇に沈む。
さっきまで溢れていた光も、歓声も、一瞬にして消え去った。
けれど。耳の奥にはまだ、彼の優しくも力強い歌声だけが、幻聴のように微かに残っていた。
景奈は毛布を深く被り直し、小さく身体を丸める。
……ごめんなさい。
誰にも届かない謝罪だけが、静かなクリスマスの夜の底へ、とめどなく零れ落ちていった。
◇
大型音楽特番「ソングステーション」の生放送が行われている舞台裏。
クリスマス特有の浮き立つ熱狂が、迷路のような控室の隅々にまで満ちていた。
スタッフがインカムを押さえながら慌ただしく行き交い、モニターからは途切れることのない賑やかな歓声が流れている。
鏡台の容赦なく白いライトが、彼を照らし出している。
その喧騒の只中で。
真斗はただ静かに、鏡の前へ座っていた。
鮮やかな青いステージ衣装。一糸乱れぬよう丁寧に整えられた髪。
頭の先から指の先に至るまで、完璧に仕上げられた姿。――けれど、鏡に映る己の姿が、ひどく遠い他人のように感じられた。
「マサー、次スタンバイだって!」
控室へ顔を覗かせた音也が、努めて明るく声を掛ける。
「ああ」
短く返した真斗の声は、驚くほどに平静だった。
だからこそ、音也は少しだけ心配そうに眉を下げた。
そのやり取りを、少し離れた場所からトキヤも静かに見つめている。
真斗は再び、鏡の中へ視線を戻す。
そこにいるのは、よく知っている端正な自分の顔だった。
けれど。
胸の奥には、どす黒い染みのように消えてくれない声がある。
――ごめんなさい。
――もう、会えません。
あの日。
あの凍てつく冬の夜。
空っぽになった腕の中から零れ落ちていった彼女の切実な熱が、今も掌の奥に火傷のように焼き付いて離れない。
指先が、膝の上でわずかに強張った。
……情けない。
たった一度の拒絶で、これほどまでに心が乱されるとは。
深く、長く息を吸い、鏡の中の己の瞳を、静かに、そして鋭く見据える。
カメラの向こうには、今日という特別な夜を心待ちにしている幾千ものファンがいる。
彼女たちへ届けるべきものがある。
この胸を切り裂くような痛みも。
這いつくばりたくなるほどの私情も、神聖なステージへ持ち込むことなど、決して許されない。
それが、プロとして生きるということだ。
真斗はゆっくりと瞼を伏せ、小さく息を整えた。
まるで、己という楽器の乱れた音を、丁寧に調律するように。
やがて、低く、誰にも聞こえないほど小さな声が唇から零れる。
「……俺は、ちゃんと“聖川真斗”を演じられているだろうか」
返事はない。
鏡の中の自分も、ただ静かにこちらを見返しているだけだった。
けれど、ステージへ上がる時間は待ってはくれない。
「ST☆RISHさん、間もなく本番お願いしまーす!」
スタッフの張り詰めた声が響き、真斗は静かに立ち上がった。
その瞬間だった。
隣へ並んだ音也が、ふいにぽんと、彼の背中へ温かい掌を当てた。
「……行こっか、マサ」
振り返る。
そこにあったのは、すべてを分かった上で照らしてくれる、いつもの太陽みたいな笑顔だった。
真斗は一瞬だけ目を細める。
そして、胸の奥へ渦巻く血を流すような痛みを、誰にも見つからない深い場所へ、そっと重い蓋をして押し込めた。
「……ああ」
重い扉が開く。
その向こうには、目が眩むほどの強烈な光と、うねるような歓声の波。
次の瞬間、青い衣装を翻し、ステージという名の戦場へ歩み出た彼は――もう、未練に身を焦がす一人の男ではなかった。
誰もが愛し、誰もが憧れる。
完璧で、気高い、“アイドル・聖川真斗”だった。
十二月も終わりの気配を色濃くし、街はすっかり年の瀬特有の慌ただしさと、浮き足立った熱に包まれていた。
パソコンの青白い画面に視線を落としながら、景奈はひどく重い息を吐き出す。
あの日から、結局三日間も有給を使ってしまった。この多忙を極める年末に。社会人として、決して褒められることではないと分かっている。
けれど――あの夜の翌日、どうしても出社できるような状態ではなかった。
泣き腫らした目を誤魔化し、何事もなかったかのようにキーボードを叩いて笑えるほど、自分は器用な人間ではなかったのだ。
だから、休んだ。
泣いて。眠って。また泣いて。
冷たい毛布にくるまって、ただただ嵐が過ぎ去るのを待つように息を潜めていた。
それでも、時間は残酷なほどに待ってはくれない。
未返信のメールは溜まり、年内対応の確認連絡は次々と積み上がっていく。
仕事をしなければならない。世界がどうなろうと、日常は容赦なく続いていく。
そうして迎えた、クリスマスの夜だった。
暖房の効いた薄暗い部屋の中。
景奈は毛布に深く身体を埋めたまま、小さく膝を抱えていた。
テレビの液晶画面だけが、クリスマスの生放送大型音楽特番の華やかな光と歓声を、暴力的なほど鮮やかに撒き散らしている。
けれど、そのきらびやかな喧騒は、まるで宇宙の果ての出来事のように遠かった。
耳の奥に、どうしても離れてくれない声がこびりついている。
――お前が、好きだ。
胸が、ひどく痛む。
あの、限界まで削り出されたような苦しい声が。
力強く抱き締められた腕の熱が。
今も身体の奥底から消えてくれない。
一番聞きたかった言葉だった。
ずっと。
自分なんかにそんな資格はないと諦めながら、それでも心のどこかで、愚かにも密かに願い続けていた言葉。
なのに。
同時に、一番聞きたくなかった言葉でもあった。
こんなアンバランスで曖昧な関係が、いつまでも続くはずがないことくらい、本当は分かっていたのだ。
だからこそ。
あの瞬間が来てしまうことを、心の底でひどく恐れていた。
毛布の端を、指が白くなるほどぎゅっと握り締める。
たくさん、本当にたくさんの愛を与えてくれた。
打ち上げの日、自分を見つけてくれたこと。
冷たい雨の中、肩にかけられたジャケットの温もり。
息を切らして駆けつけてくれた花火。
バラ園で響いた、優しいピアノの旋律。
そして、あの真っ直ぐで嘘のない眼差し。
そのひとつひとつが、景奈には眩しすぎるほどに大切で、一生の宝物だった。
それなのに。
自分は。
結局――自分の恐れと身勝手さで、その想いへ応えることができなかった。
もし、自分がもっと違う人間だったなら。
何の後ろ盾もないただのファンではなく、彼の隣へ堂々と立てる人間だったなら。
あの腕の中へ、泣きながら飛び込めていたのだろうか。
――ごめんなさい。
心の中で幾千回と繰り返した謝罪だけが、静かな夜の空気へ虚しく降り積もっていく。
その時だった。
『――次は、ST☆RISHのみなさんです!』
テレビから響いた司会の明るい声に、景奈の肩がびくりと大きく震えた。
見たい。
……でも、見たくない。
毛布を引き上げ、逃げるように顔を半分埋める。
それでも、電源を切ることは、どうしてもできなかった。
ほんの少しだけ。震える視線で覗いた毛布の隙間、その狭い世界の向こう側――
眩いスポットライト。
割れるような歓声。
青いステージ衣装を翻しながら現れた彼は、まるで冬の夜空へ降り立った一番星のように、圧倒的に眩しかった。
数日前。
自分を抱き締めながら、あんなにも苦しげな声で「好きだ」と告げた男と同じ人間だなんて、信じられないほどに。
艶やかで伸びやかな歌声。
指先まで神経の通った、雪のように静謐な所作。
カメラへ向ける、気高く甘い微笑み。
その一瞬一瞬が、あまりにも完璧な“アイドル・聖川真斗”だった。
……よかった。
胸の奥で、安堵にも似た小さな息が零れる。
ちゃんと、笑えている。
そう思った。
思った、はずなのに。
毛布を握る指先へ、じわりと痛いほどの力が入る。
苦しい。
どうしようもなく。
その眩しさが、今はひどく苦しかった。
画面の向こうで幾千もの光と愛を浴びるその人は――もう、自分の知る『聖川さん』ではなく、誰もが愛してやまない『聖川真斗』として、あまりにも遠い場所で輝いていた。
歌声が、無慈悲に胸を締めつける。
もう、これ以上は見ていられない。
震える指先が、毛布の隙間からそっと伸びた。
――カチッ。
歌が終わるより少し早く。
景奈はリモコンの電源ボタンを押した。
ふっと、部屋が暗闇に沈む。
さっきまで溢れていた光も、歓声も、一瞬にして消え去った。
けれど。耳の奥にはまだ、彼の優しくも力強い歌声だけが、幻聴のように微かに残っていた。
景奈は毛布を深く被り直し、小さく身体を丸める。
……ごめんなさい。
誰にも届かない謝罪だけが、静かなクリスマスの夜の底へ、とめどなく零れ落ちていった。
◇
大型音楽特番「ソングステーション」の生放送が行われている舞台裏。
クリスマス特有の浮き立つ熱狂が、迷路のような控室の隅々にまで満ちていた。
スタッフがインカムを押さえながら慌ただしく行き交い、モニターからは途切れることのない賑やかな歓声が流れている。
鏡台の容赦なく白いライトが、彼を照らし出している。
その喧騒の只中で。
真斗はただ静かに、鏡の前へ座っていた。
鮮やかな青いステージ衣装。一糸乱れぬよう丁寧に整えられた髪。
頭の先から指の先に至るまで、完璧に仕上げられた姿。――けれど、鏡に映る己の姿が、ひどく遠い他人のように感じられた。
「マサー、次スタンバイだって!」
控室へ顔を覗かせた音也が、努めて明るく声を掛ける。
「ああ」
短く返した真斗の声は、驚くほどに平静だった。
だからこそ、音也は少しだけ心配そうに眉を下げた。
そのやり取りを、少し離れた場所からトキヤも静かに見つめている。
真斗は再び、鏡の中へ視線を戻す。
そこにいるのは、よく知っている端正な自分の顔だった。
けれど。
胸の奥には、どす黒い染みのように消えてくれない声がある。
――ごめんなさい。
――もう、会えません。
あの日。
あの凍てつく冬の夜。
空っぽになった腕の中から零れ落ちていった彼女の切実な熱が、今も掌の奥に火傷のように焼き付いて離れない。
指先が、膝の上でわずかに強張った。
……情けない。
たった一度の拒絶で、これほどまでに心が乱されるとは。
深く、長く息を吸い、鏡の中の己の瞳を、静かに、そして鋭く見据える。
カメラの向こうには、今日という特別な夜を心待ちにしている幾千ものファンがいる。
彼女たちへ届けるべきものがある。
この胸を切り裂くような痛みも。
這いつくばりたくなるほどの私情も、神聖なステージへ持ち込むことなど、決して許されない。
それが、プロとして生きるということだ。
真斗はゆっくりと瞼を伏せ、小さく息を整えた。
まるで、己という楽器の乱れた音を、丁寧に調律するように。
やがて、低く、誰にも聞こえないほど小さな声が唇から零れる。
「……俺は、ちゃんと“聖川真斗”を演じられているだろうか」
返事はない。
鏡の中の自分も、ただ静かにこちらを見返しているだけだった。
けれど、ステージへ上がる時間は待ってはくれない。
「ST☆RISHさん、間もなく本番お願いしまーす!」
スタッフの張り詰めた声が響き、真斗は静かに立ち上がった。
その瞬間だった。
隣へ並んだ音也が、ふいにぽんと、彼の背中へ温かい掌を当てた。
「……行こっか、マサ」
振り返る。
そこにあったのは、すべてを分かった上で照らしてくれる、いつもの太陽みたいな笑顔だった。
真斗は一瞬だけ目を細める。
そして、胸の奥へ渦巻く血を流すような痛みを、誰にも見つからない深い場所へ、そっと重い蓋をして押し込めた。
「……ああ」
重い扉が開く。
その向こうには、目が眩むほどの強烈な光と、うねるような歓声の波。
次の瞬間、青い衣装を翻し、ステージという名の戦場へ歩み出た彼は――もう、未練に身を焦がす一人の男ではなかった。
誰もが愛し、誰もが憧れる。
完璧で、気高い、“アイドル・聖川真斗”だった。