レイニーブルー・コンチェルト
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#11 残響のラメント
十二月に入ると、街は一気に年末の色を帯び始めた。
イルミネーションに彩られた駅前。
忙しなく行き交う人々。
浮き足立った空気とは裏腹に、二人の時間はむしろ、秋よりもさらに遠ざかっていた。
景奈もまた年末進行の仕事に追われていたが、真斗の多忙さはそれ以上だった。
年末特番。
歌番組。
カウントダウンライブの準備。
打ち合わせに収録、移動、取材。
朝から深夜まで、予定は分刻みに刻まれている。
楽屋へ入ったと思えば次の現場へ呼ばれ、気づけば一日が終わっている――そんな日々だった。
その夜も、収録の合間にようやく与えられた束の間の休息だった。
テレビ局の楽屋。
ソファへ深く腰掛けた真斗は、静かに息を吐いて手元のスマートフォンを開いた。
画面に映るのは、変わらず続いているメッセージの履歴と、カメラロールに収められた一枚の写真。
忙殺される日々のなかで心が擦り減りそうになるたび、真斗は何度もその写真を見返しては励まされてきた。
『お疲れ様です。無理はしないでくださいね』
『お前もだ。寒くなってきた、体調には気をつけろ』
互いを気遣う文字越しのやり取りだけでも、確かに心は安らぐ。
だが、本当は写真や文字ではなく、目の前で笑う彼女の声を直接聞きたかった。
ふと視線を落とした足元の鞄には、密かに準備していた小さなクリスマスプレゼントが眠っている。
決して派手なものではないが、彼なりに時間をかけて、心を込めて選んだ品だった。
とはいえ、この忙しさでは年内に会える保証すらなく、いつ渡せる機会が巡ってくるかは分からない。
だからこそ、今日たまたま生まれた数時間の空白が、真斗にはまるで奇跡のように思えた。
「会いたい」という切実な願いを自覚した瞬間、胸の奥が静かに疼く。
急な誘いは迷惑かもしれないと躊躇う気持ちを振り切るように、彼はスマートフォンを握り直した。
このまま慌ただしい年末へ流されてしまう前に、どうしても彼女の顔が見たかったのだ。
静かに息を整え、慎重に文字を打ち込む。
『急で申し訳ないのだが、今日このあと少し時間はあるだろうか。収録の合間に数時間だけ空きができてな。もし都合が合えば、茶でもどうかと思っている』
送信。
既読がつくまでの数秒が、ひどく長く感じられた。
だが、ほどなくして画面が小さく震え、短い返信が届く。
『ぜひ』
その二文字を見た瞬間、真斗は思わず息を呑んだ。
「会える」――ただそれだけの事実が、疲労で重くなっていた胸の内へ、驚くほどやわらかな熱を灯していく。
「……ふっ」
ごく小さな笑みを零し、真斗は静かにスマートフォンを閉じた。
鞄の中で眠るまだ渡せていない贈り物と、久しく感じていなかった胸の奥の甘い期待が、彼を静かに温めていた。
*
十二月の街は、年の瀬の浮かれた熱をそそくさと脱ぎ捨て、夜が深まるにつれてひどく透き通った静寂に沈んでいく。
灯りを落としたオフィス街、白く濁っては消える吐息。
家路を急ぐ人々の足音が、凍てつくアスファルトをかすかに震わせていた。
冷え切った指先を擦り合わせながら待つ景奈の視界に、ふと、見慣れたシルエットが滲む。
少し離れた街灯の下から歩み寄ってきたのは、黒縁の眼鏡に帽子を目深に被り、マフラーで口元を覆い隠した男性だった。
「――待たせたな」
厚い布地越しに落とされた、たったそれだけの短い言葉。
それなのに、景奈の胸の奥で固く結ばれていた緊張の糸が、不意にほろりとやわらかくほどけていく。
「いえ、私も今来たところです」
そうして隣を歩き出した二人の間には、いつものように穏やかで心地よい沈黙が降りていた。
けれど、前方から名を呼ぶ不意の声が、その薄氷のような平穏をあっけなく打ち砕く。
「あれ、朝倉さん?」
ハッとして顔を上げた景奈の視界に、残業上がりだろう職場の先輩の屈託のない笑顔が飛び込んできた。
「あっ、相沢さん。お疲れ様です」とごく自然なトーンで返す景奈の斜め後ろで、真斗は歩みを止めたまま一歩も動かなかった。
ただ静かに、街灯の影へと身を沈めるように。
「朝倉さん、もしかしてその人……彼氏さん?」
「いえいえ、違います! あの、知り合いの方で……!」
咄嗟に否定した声が、ピンと張り詰めた冬の空気の中で、ひどく甲高く散った。
先輩が笑って手を振り、その背中が夜の闇に溶けて消えても、真斗は何も言わなかった。
ただ、白い吐息だけが静かに夜へ溶けていく。
「……今の方は」
地の底を這うような低い声に、景奈は小さく息を呑んだ。
「ああ、職場の先輩です。いつも面倒を見てくださる方で……」
そこから先の言葉は続かなかった。
彼が黙り込んでしまったからだ。
その沈黙が、いつも二人の間に流れる穏やかなそれとは違う、ひどく暗くて重い、底なし沼のような深さを持っていることに景奈は気づいてしまう。
「あの、聖川さん……私、何か失礼なことでも……」
言いかけた、次の瞬間だった。
景色の天地が反転したかのように、景奈の身体は強い力で引き寄せられ、すっぽりと大きな腕の中に閉じ込められていた。
息が詰まるほどの乱暴な力ではない。
けれど、決して逃がさないという切実な重力がそこにはあった。
冬のコート越しに伝わってくる彼の熱は、まるで何かを必死で繋ぎ止めようとするように、痛いほど切実だった。
「――お前が、好きだ」
耳元で震えたその声は、苦しみに削られていた。
ずっと押し殺してきた感情が、ついに限界を迎えて理性の堤防を決壊させてしまったような、悲痛な響き。
「……っ」
景奈は目を見開いたまま、凍りついたように言葉を失った。
次の瞬間、身体の奥底から激しい感情の波がこみ上げてくる。
嬉しい。苦しい。どうしようもなく、好きだ。そのすべてが一度に押し寄せて、心臓が破裂しそうになる。
けれど、同時に脳裏をよぎるのは、あの冷酷な炎上の画面と、彼が背負う『聖川』という巨大な宿命だった。
景奈は震える指先を彼の胸元に当て、ゆっくりと、けれど確かな力で、その温もりを押し返した。
「……ごめんなさい」
たった一言。
それだけの言葉が、ガラスの破片を飲み込むように、景奈自身の喉をズタズタに切り裂いていく。
押し返された真斗の腕が、縋るようにわずかに揺らいだ。
その微細な動揺に、彼を傷つけてしまったという事実に、景奈の目から限界を迎えた大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「私も……聖川さんが、大好きです」
震える涙声だった。
隠したかった本心。
それでも、彼のあの切実な告白に応えるためには、嘘をつくことなどできなかった。
「でも、お付き合いは、できません」
冬の夜が、恐ろしいほどの静けさに包まれる。
景奈は血が滲むほど強く唇を噛み、泣きじゃくりそうになるのを必死に堪えながら言葉を紡いだ。
「打ち上げの日、私を覚えていてくれたことも……雨に濡れた私に、あの温かいジャケットをかけてくれたことも。一緒に花火を見るために、息を切らして走って来てくれたことも……バラ園で、私のためにピアノを弾いてくれたことも……全部、全部、本当に嬉しかったです。一生の宝物です。だから、だからこそ……!」
息がうまく吸えない。
それでも、ここで終わらせなければならない。
彼の輝かしい未来を、自分の手で汚してしまわないために。
「ごめんなさい。……もう、会えません」
深く、深く頭を下げた景奈は、零れ落ちる涙を隠すように弾かれたように踵を返した。
「……っ」
待て。
行かないでくれ。
追わなければ。
その細い腕を掴んで、もう一度呼び止めなければ。
心の中では狂おしいほどにそう叫んでいるはずなのに、真斗の足は、まるで冷たい氷に縫い付けられてしまったかのようにその場から一歩も動くことができなかった。
遠ざかっていく、揺れるコートの裾。冬の冷たい街灯の光に滲んでいく、あんなにも愛おしい小さな背中。
コートのポケットの奥、今日彼女の笑顔を想って密かに忍ばせてきた、渡すことのできなかった小さな贈り物だけが、鉛のようにひどく重くその存在を主張している。
やがて、景奈の姿は家路を急ぐ人混みと、深く冷たい冬の夜へ溶けるように見えなくなってしまった。
あとに残されたのは、肌を刺すような十二月の寒さと、空っぽになった腕の中から零れ落ちてしまった、彼女の切実な熱の残滓だけ。
――もう、会えません。
哀しい決意に満ちたその声だけが、すべてが終わったことを告げる鐘の残響のように、真斗の胸の奥で冷たく鳴り続けていた。
十二月に入ると、街は一気に年末の色を帯び始めた。
イルミネーションに彩られた駅前。
忙しなく行き交う人々。
浮き足立った空気とは裏腹に、二人の時間はむしろ、秋よりもさらに遠ざかっていた。
景奈もまた年末進行の仕事に追われていたが、真斗の多忙さはそれ以上だった。
年末特番。
歌番組。
カウントダウンライブの準備。
打ち合わせに収録、移動、取材。
朝から深夜まで、予定は分刻みに刻まれている。
楽屋へ入ったと思えば次の現場へ呼ばれ、気づけば一日が終わっている――そんな日々だった。
その夜も、収録の合間にようやく与えられた束の間の休息だった。
テレビ局の楽屋。
ソファへ深く腰掛けた真斗は、静かに息を吐いて手元のスマートフォンを開いた。
画面に映るのは、変わらず続いているメッセージの履歴と、カメラロールに収められた一枚の写真。
忙殺される日々のなかで心が擦り減りそうになるたび、真斗は何度もその写真を見返しては励まされてきた。
『お疲れ様です。無理はしないでくださいね』
『お前もだ。寒くなってきた、体調には気をつけろ』
互いを気遣う文字越しのやり取りだけでも、確かに心は安らぐ。
だが、本当は写真や文字ではなく、目の前で笑う彼女の声を直接聞きたかった。
ふと視線を落とした足元の鞄には、密かに準備していた小さなクリスマスプレゼントが眠っている。
決して派手なものではないが、彼なりに時間をかけて、心を込めて選んだ品だった。
とはいえ、この忙しさでは年内に会える保証すらなく、いつ渡せる機会が巡ってくるかは分からない。
だからこそ、今日たまたま生まれた数時間の空白が、真斗にはまるで奇跡のように思えた。
「会いたい」という切実な願いを自覚した瞬間、胸の奥が静かに疼く。
急な誘いは迷惑かもしれないと躊躇う気持ちを振り切るように、彼はスマートフォンを握り直した。
このまま慌ただしい年末へ流されてしまう前に、どうしても彼女の顔が見たかったのだ。
静かに息を整え、慎重に文字を打ち込む。
『急で申し訳ないのだが、今日このあと少し時間はあるだろうか。収録の合間に数時間だけ空きができてな。もし都合が合えば、茶でもどうかと思っている』
送信。
既読がつくまでの数秒が、ひどく長く感じられた。
だが、ほどなくして画面が小さく震え、短い返信が届く。
『ぜひ』
その二文字を見た瞬間、真斗は思わず息を呑んだ。
「会える」――ただそれだけの事実が、疲労で重くなっていた胸の内へ、驚くほどやわらかな熱を灯していく。
「……ふっ」
ごく小さな笑みを零し、真斗は静かにスマートフォンを閉じた。
鞄の中で眠るまだ渡せていない贈り物と、久しく感じていなかった胸の奥の甘い期待が、彼を静かに温めていた。
*
十二月の街は、年の瀬の浮かれた熱をそそくさと脱ぎ捨て、夜が深まるにつれてひどく透き通った静寂に沈んでいく。
灯りを落としたオフィス街、白く濁っては消える吐息。
家路を急ぐ人々の足音が、凍てつくアスファルトをかすかに震わせていた。
冷え切った指先を擦り合わせながら待つ景奈の視界に、ふと、見慣れたシルエットが滲む。
少し離れた街灯の下から歩み寄ってきたのは、黒縁の眼鏡に帽子を目深に被り、マフラーで口元を覆い隠した男性だった。
「――待たせたな」
厚い布地越しに落とされた、たったそれだけの短い言葉。
それなのに、景奈の胸の奥で固く結ばれていた緊張の糸が、不意にほろりとやわらかくほどけていく。
「いえ、私も今来たところです」
そうして隣を歩き出した二人の間には、いつものように穏やかで心地よい沈黙が降りていた。
けれど、前方から名を呼ぶ不意の声が、その薄氷のような平穏をあっけなく打ち砕く。
「あれ、朝倉さん?」
ハッとして顔を上げた景奈の視界に、残業上がりだろう職場の先輩の屈託のない笑顔が飛び込んできた。
「あっ、相沢さん。お疲れ様です」とごく自然なトーンで返す景奈の斜め後ろで、真斗は歩みを止めたまま一歩も動かなかった。
ただ静かに、街灯の影へと身を沈めるように。
「朝倉さん、もしかしてその人……彼氏さん?」
「いえいえ、違います! あの、知り合いの方で……!」
咄嗟に否定した声が、ピンと張り詰めた冬の空気の中で、ひどく甲高く散った。
先輩が笑って手を振り、その背中が夜の闇に溶けて消えても、真斗は何も言わなかった。
ただ、白い吐息だけが静かに夜へ溶けていく。
「……今の方は」
地の底を這うような低い声に、景奈は小さく息を呑んだ。
「ああ、職場の先輩です。いつも面倒を見てくださる方で……」
そこから先の言葉は続かなかった。
彼が黙り込んでしまったからだ。
その沈黙が、いつも二人の間に流れる穏やかなそれとは違う、ひどく暗くて重い、底なし沼のような深さを持っていることに景奈は気づいてしまう。
「あの、聖川さん……私、何か失礼なことでも……」
言いかけた、次の瞬間だった。
景色の天地が反転したかのように、景奈の身体は強い力で引き寄せられ、すっぽりと大きな腕の中に閉じ込められていた。
息が詰まるほどの乱暴な力ではない。
けれど、決して逃がさないという切実な重力がそこにはあった。
冬のコート越しに伝わってくる彼の熱は、まるで何かを必死で繋ぎ止めようとするように、痛いほど切実だった。
「――お前が、好きだ」
耳元で震えたその声は、苦しみに削られていた。
ずっと押し殺してきた感情が、ついに限界を迎えて理性の堤防を決壊させてしまったような、悲痛な響き。
「……っ」
景奈は目を見開いたまま、凍りついたように言葉を失った。
次の瞬間、身体の奥底から激しい感情の波がこみ上げてくる。
嬉しい。苦しい。どうしようもなく、好きだ。そのすべてが一度に押し寄せて、心臓が破裂しそうになる。
けれど、同時に脳裏をよぎるのは、あの冷酷な炎上の画面と、彼が背負う『聖川』という巨大な宿命だった。
景奈は震える指先を彼の胸元に当て、ゆっくりと、けれど確かな力で、その温もりを押し返した。
「……ごめんなさい」
たった一言。
それだけの言葉が、ガラスの破片を飲み込むように、景奈自身の喉をズタズタに切り裂いていく。
押し返された真斗の腕が、縋るようにわずかに揺らいだ。
その微細な動揺に、彼を傷つけてしまったという事実に、景奈の目から限界を迎えた大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「私も……聖川さんが、大好きです」
震える涙声だった。
隠したかった本心。
それでも、彼のあの切実な告白に応えるためには、嘘をつくことなどできなかった。
「でも、お付き合いは、できません」
冬の夜が、恐ろしいほどの静けさに包まれる。
景奈は血が滲むほど強く唇を噛み、泣きじゃくりそうになるのを必死に堪えながら言葉を紡いだ。
「打ち上げの日、私を覚えていてくれたことも……雨に濡れた私に、あの温かいジャケットをかけてくれたことも。一緒に花火を見るために、息を切らして走って来てくれたことも……バラ園で、私のためにピアノを弾いてくれたことも……全部、全部、本当に嬉しかったです。一生の宝物です。だから、だからこそ……!」
息がうまく吸えない。
それでも、ここで終わらせなければならない。
彼の輝かしい未来を、自分の手で汚してしまわないために。
「ごめんなさい。……もう、会えません」
深く、深く頭を下げた景奈は、零れ落ちる涙を隠すように弾かれたように踵を返した。
「……っ」
待て。
行かないでくれ。
追わなければ。
その細い腕を掴んで、もう一度呼び止めなければ。
心の中では狂おしいほどにそう叫んでいるはずなのに、真斗の足は、まるで冷たい氷に縫い付けられてしまったかのようにその場から一歩も動くことができなかった。
遠ざかっていく、揺れるコートの裾。冬の冷たい街灯の光に滲んでいく、あんなにも愛おしい小さな背中。
コートのポケットの奥、今日彼女の笑顔を想って密かに忍ばせてきた、渡すことのできなかった小さな贈り物だけが、鉛のようにひどく重くその存在を主張している。
やがて、景奈の姿は家路を急ぐ人混みと、深く冷たい冬の夜へ溶けるように見えなくなってしまった。
あとに残されたのは、肌を刺すような十二月の寒さと、空っぽになった腕の中から零れ落ちてしまった、彼女の切実な熱の残滓だけ。
――もう、会えません。
哀しい決意に満ちたその声だけが、すべてが終わったことを告げる鐘の残響のように、真斗の胸の奥で冷たく鳴り続けていた。
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