レイニーブルー・コンチェルト
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#10 逡巡のロンド
街が本格的な冬の気配をまとい、クリスマスのイルミネーションで華やかにきらめき始める十二月の頭。
大きな吹き抜けのある洗練された商業ビルには、家路を急ぐ人々の足音と、もうすぐ訪れる聖夜、そして年末の特別な高揚感が満ちていた。
プレゼントを買ったら、受け取ってくれるだろうか。
そんな小さな願いを胸の内へ抱えながら、景奈はバッグの紐をぎゅっと握りしめた。
もうすぐクリスマス。
そして、大好きな彼の誕生日も近い。
手の届かないほど眩しい場所にいるあの人に、何か実用的なものを――それでも、自分の想いを少しだけ託せるような贈り物を渡したかった。
そんなことを考えながら、きらびやかなショップが並ぶ通路を歩いていると、ふわりと、深く澄んだ樹木の香りが鼻先を掠めた。
思わず足を止める。
そこには、木目の美しいディスプレイが印象的な、シックで洗練されたナチュラルコスメの店があった。
一つとして同じ木目のない木製キャップのボトルが並ぶ空間に、景奈の胸が小さく跳ねる。
伝統を重んじ、書道を愛し、静かな気品を纏うあの人に――これ以上ないほど似合いそうなブランドだと思った。
「贈り物ですか?」
優しく声をかけてくれた店員に、景奈は少し緊張しながら頷く。
「……はい」
「それでしたら、こちらのハンドクリームがおすすめですよ。樹木の香りが少し強めですので、夜、お休みになる前に付けていただくのが特におすすめです。一日の終わりに、森林浴をしているような気分になれますから」
――寝る前。
その言葉を聞いた瞬間、景奈の胸の奥がふわりと熱を帯びる。
試させてもらったクリームは、まるで深い森の中にいるような、温かく落ち着いた香りを放っていた。
その瞬間。
景奈の脳裏に浮かんだのは、あの白く美しい手だった。
長くしなやかな指。
鍵盤の上を迷いなく滑り、あの日レイニーブルーの下で、自分の胸を震わせた、あの綺麗な手。
毎日、目が回るほど忙しい日々を送る彼。
その手が、一日の終わりにこの香りへ包まれる瞬間を想像する。
寝る前にこのハンドクリームを付けて――その時、少しでも自分のことを思い出してくれたら。
そんな甘い願いが、不意に胸へ浮かんでしまう。
普段なら、「ファンの一人でしかない私には、そんな資格ない」と一歩引いてしまうくせに。
この時ばかりは。
そんなささやかで、それでいてとびきり甘い独占欲が胸に芽生えてしまうのを止められなかった。
景奈は少しだけ頬を熱くしながら、小さく微笑んだ。
綺麗にラッピングされた紙袋を、宝物のように大切に抱えて店を出る。
胸の奥は、じんわりとした幸福感で満たされていた。
――けれど。
駅へ向かう帰り道。
ポケットの中で、スマートフォンが小刻みに震える。
何気なく開いた画面。
SNSのトレンドに躍り出ていたのは、世間を揺るがす突然の熱愛報道だった。
画面の向こうで加速していく炎上。
SNSに溢れる容赦ない言葉。
そして、信じたくないような――傷つけられたCDや、怒りのまま晒された写真という悲しい現実。
あまりにも残酷な光景に、景奈は華やかな街の真ん中で立ち尽くした。
さっきまで温かかった胸が、急速に冷えていく。
めまいにも似た衝撃のなか、震える指でトーク画面を開く。
そこに残されていたのは、かつて真斗がくれた誠実な言葉と――十月のバラ園で、お互いに少し照れながら並んで写った、穏やかな二人の写真だった。
現実の濁流のなかで、その写真だけが小さな灯火のように優しく光っている。
ふと、バッグへ視線を落とす。
その奥には、さっきまで愛おしさに胸を焦がしながら選んでいたハンドクリームが、静かに眠っていた。
……まだ、これを手放すことはできなかった。
バッグの上からそっと触れた指先に、小さな箱の輪郭が伝わる。
彼に会うことを。
この贈り物を渡したいと願うことを
――どうしても、諦めることはできなかった。
『もし私の存在が、あの人の大切なものを壊してしまったら――』
画面の向こうの炎上が、冷たい現実となって胸へとのしかかる。
トップアイドルとしての彼の未来。
そして、『聖川家の長男』という、あまりにも大きな責任。
私の手の届かない世界で生きる彼の、その大切なものすべてを――自分のエゴが壊してしまう引き金になるかもしれない。
彼の人生を想う理性が、痛いほど胸を締めつける。
だけど。
どうしても消えてくれない、もうひとつの想いが、胸の奥から静かに溢れてくる。
『それでも――それでも、あの人に会いたい』
きらびやかなイルミネーションが、今はやけに冷たく目に刺さる。
痛いほどの冬の足音のなかで。
景奈の胸には、答えの出ない切ない想いだけが、静かに、静かに降り積もっていた。
街が本格的な冬の気配をまとい、クリスマスのイルミネーションで華やかにきらめき始める十二月の頭。
大きな吹き抜けのある洗練された商業ビルには、家路を急ぐ人々の足音と、もうすぐ訪れる聖夜、そして年末の特別な高揚感が満ちていた。
プレゼントを買ったら、受け取ってくれるだろうか。
そんな小さな願いを胸の内へ抱えながら、景奈はバッグの紐をぎゅっと握りしめた。
もうすぐクリスマス。
そして、大好きな彼の誕生日も近い。
手の届かないほど眩しい場所にいるあの人に、何か実用的なものを――それでも、自分の想いを少しだけ託せるような贈り物を渡したかった。
そんなことを考えながら、きらびやかなショップが並ぶ通路を歩いていると、ふわりと、深く澄んだ樹木の香りが鼻先を掠めた。
思わず足を止める。
そこには、木目の美しいディスプレイが印象的な、シックで洗練されたナチュラルコスメの店があった。
一つとして同じ木目のない木製キャップのボトルが並ぶ空間に、景奈の胸が小さく跳ねる。
伝統を重んじ、書道を愛し、静かな気品を纏うあの人に――これ以上ないほど似合いそうなブランドだと思った。
「贈り物ですか?」
優しく声をかけてくれた店員に、景奈は少し緊張しながら頷く。
「……はい」
「それでしたら、こちらのハンドクリームがおすすめですよ。樹木の香りが少し強めですので、夜、お休みになる前に付けていただくのが特におすすめです。一日の終わりに、森林浴をしているような気分になれますから」
――寝る前。
その言葉を聞いた瞬間、景奈の胸の奥がふわりと熱を帯びる。
試させてもらったクリームは、まるで深い森の中にいるような、温かく落ち着いた香りを放っていた。
その瞬間。
景奈の脳裏に浮かんだのは、あの白く美しい手だった。
長くしなやかな指。
鍵盤の上を迷いなく滑り、あの日レイニーブルーの下で、自分の胸を震わせた、あの綺麗な手。
毎日、目が回るほど忙しい日々を送る彼。
その手が、一日の終わりにこの香りへ包まれる瞬間を想像する。
寝る前にこのハンドクリームを付けて――その時、少しでも自分のことを思い出してくれたら。
そんな甘い願いが、不意に胸へ浮かんでしまう。
普段なら、「ファンの一人でしかない私には、そんな資格ない」と一歩引いてしまうくせに。
この時ばかりは。
そんなささやかで、それでいてとびきり甘い独占欲が胸に芽生えてしまうのを止められなかった。
景奈は少しだけ頬を熱くしながら、小さく微笑んだ。
綺麗にラッピングされた紙袋を、宝物のように大切に抱えて店を出る。
胸の奥は、じんわりとした幸福感で満たされていた。
――けれど。
駅へ向かう帰り道。
ポケットの中で、スマートフォンが小刻みに震える。
何気なく開いた画面。
SNSのトレンドに躍り出ていたのは、世間を揺るがす突然の熱愛報道だった。
画面の向こうで加速していく炎上。
SNSに溢れる容赦ない言葉。
そして、信じたくないような――傷つけられたCDや、怒りのまま晒された写真という悲しい現実。
あまりにも残酷な光景に、景奈は華やかな街の真ん中で立ち尽くした。
さっきまで温かかった胸が、急速に冷えていく。
めまいにも似た衝撃のなか、震える指でトーク画面を開く。
そこに残されていたのは、かつて真斗がくれた誠実な言葉と――十月のバラ園で、お互いに少し照れながら並んで写った、穏やかな二人の写真だった。
現実の濁流のなかで、その写真だけが小さな灯火のように優しく光っている。
ふと、バッグへ視線を落とす。
その奥には、さっきまで愛おしさに胸を焦がしながら選んでいたハンドクリームが、静かに眠っていた。
……まだ、これを手放すことはできなかった。
バッグの上からそっと触れた指先に、小さな箱の輪郭が伝わる。
彼に会うことを。
この贈り物を渡したいと願うことを
――どうしても、諦めることはできなかった。
『もし私の存在が、あの人の大切なものを壊してしまったら――』
画面の向こうの炎上が、冷たい現実となって胸へとのしかかる。
トップアイドルとしての彼の未来。
そして、『聖川家の長男』という、あまりにも大きな責任。
私の手の届かない世界で生きる彼の、その大切なものすべてを――自分のエゴが壊してしまう引き金になるかもしれない。
彼の人生を想う理性が、痛いほど胸を締めつける。
だけど。
どうしても消えてくれない、もうひとつの想いが、胸の奥から静かに溢れてくる。
『それでも――それでも、あの人に会いたい』
きらびやかなイルミネーションが、今はやけに冷たく目に刺さる。
痛いほどの冬の足音のなかで。
景奈の胸には、答えの出ない切ない想いだけが、静かに、静かに降り積もっていた。