レイニーブルー・コンチェルト
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#1 星雨のプロローグ
華やかなホテルの宴会場は、今夜、特別な熱気に包まれていた。
ST☆RISHが主演を務める、新作ドラマの打ち上げパーティー。
会場内には無数のシャンパングラスが光を反射し、大役を終えたスタッフたちの高揚した笑い声がそこかしこで弾けている。
その眩い喧騒から逃れるように、会場の隅に身を潜めていた。
手の中のグラスに注がれたオレンジジュースは、周囲の黄金色の泡に比べて酷く幼く、私の所在なさをそのまま映しているようだった。
ここにいるのは、きらびやかな世界を動かすディレクターやプロデューサーたち。自分のような末端のデザイナーが紛れ込んでいい場所ではないのだ。
「……やっぱり、場違いすぎるな……」
小さく息を漏らし、壁に背を預ける。
今は小さなデザイン会社でウェブデザイナーとして、このドラマの特設サイト制作に携わっている。
かつてテレビ制作会社で、寝る間も惜しんでどろどろになりながら走り回っていた頃とは違う。今の私は、液晶画面のこちら側から、彼らの世界を静かに支えるだけの影のような存在だ。
ディレクターの厚意で手渡された招待状は、まるで別世界への切符みたいだった。
その中心で眩い光を浴びる彼らは、私とは違う空を生きる人たちだ。
――特に、聖川真斗は。
遠い星を見る時みたいに、ただ静かに憧れることしか出来ない。
そんな人だった。
記憶の底にある、青い春の断片が鮮やかに蘇る。
かつて私は、早乙女学園の映像コースに籍を置いていた。
課題制作のために組まれた、一度きりの合同撮影。アイドルコースの生徒を被写体にした、短いインタビュー映像。
あの日、レンズ越しに覗いた聖川真斗は、まだ今ほど完璧に完成されてはいなかったかもしれない。けれど、ただそこに静かに佇んでいるだけで、周囲の空気をピンと張り詰めさせるような、独特の気品を纏っていた。
ライトの光を吸い込む、切れ長の瞳。
ふとした瞬間に、すっと視線を上げる仕草。
言葉を選ぶときの、わずかな、けれど誠実な沈黙。
そのすべてが、息を呑むほどに綺麗だった。
モニターに映し出される彼の横顔を見つめながら、胸の奥がひどく熱く、騒がしく波打ったことを今でも覚えている。
もちろん、それは私だけの、一方通行の記憶。向こうは覚えてなどいるはずがない。大勢いた撮影スタッフの、その中の一人に過ぎないのだから。
「……はぁ」
届かない憧れを飲み干すように、グラスを傾ける。
ふと視線を向けた高い窓の向こう、夜の街は激しい雨に遮られ、まるで深い水の底にあるかのように ぼやけて見えた。
四月の生暖かい夜風が運んできた、激しい春の嵐。夜桜のピンクの花びらを無残に巻き込みながらガラスを叩く水滴が、まるで会場のきらびやかな光を拒むように静かに流れている。
(……まるで、私みたいだな)
光の届かない場所で、ただ彼らを見つめていることしかできない。
ため息を飲み込むように、もう一度グラスに口をつけた、その時だった。
会場の入り口付近が、にわかに波立つようにざわめき始める。
引力に逆らえず、反射的に視線を向けた。
端正に仕立てられた黒いジャケット。
一分の隙もない、凛とした立ち姿。
真っ直ぐに伸びた背筋。
――聖川真斗、その人だった。
ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
テレビの画面越しに見るよりも、ずっと、ずっと近い。
誰に媚びることもない静謐さを纏った彼は、私の記憶の中にいた少年よりも、言葉を失うほどに美しく洗練されていた。
関係者からの挨拶に丁寧に応じながら、彼が会場の動線を歩んでいく。
その途中だった。ふと、彼の涼やかな視線が、こちらの壁際へと流れた。
ほんの一瞬。時間にして、一秒にも満たない。
それだけのことなのに、私はたまらなくなって逃げ出したくなった。
見てはいけない、至高の存在を盗み見てしまったような罪悪感。
慌てて、弾かれたように目を逸らした。
床の絨毯の模様に視線を落とし、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように身を硬くする。
しかし、その瞬間だった。
「失礼」
耳に心地よく響く、低く澄んだ声音が、すぐ目の前でこぼれ落ちた。
弾かれたように顔を上げると、そこには、さっきまで遠くから見つめていたはずの聖川真斗が立っていた。
同じ空間にいるだけで十分だと思っていた。一目姿を見られただけで、今日ここに来た意味がある。
そう満足していたはずなのに、まさかその本人が目の前にいるなんて、にわかには信じられなかった。
「その……そちらに置かれている飲み物を取ってもよいだろうか」
彼は、私のすぐ隣にある、ドリンクが整然と並べられたテーブルをそっと指し示していた。
「あっ、はい……! すみません、遮ってしまって……!」
あわてて数歩身を引くと、彼は小さく、けれど丁寧に頭を下げた。
「ありがとう」
彼がグラスへと手を伸ばす。その指先を見た瞬間、私の胸がまた、ドクンと音を立てた。
鍵盤の上で複雑な旋律を奏でる、あの、白くて長く、節くれ立った繊細な指。
グラスの脚をそっと包み込むその所作までもが、まるで一つの芸術作品のように洗練されていて、見惚れることしかできない。
近い。
声が。
香りが。
用件は済んだはずだった。なのに、彼は立ち去ろうとはしなかった。
ふと、彼の深い藍色の瞳が、私の首から下げられたネームホルダーへと滑る。
『朝倉 景奈』
白いプラスチックのカードに印字された文字を、なぞるようにして、彼はわずかに目を細めた。
「朝倉さんは、このドラマの制作関係者なのか」
名前を、呼ばれた。
その音節が彼の唇から紡がれただけで、一瞬、本当に呼吸の仕方を忘れてしまった。
胸の奥から、どうしようもない熱がせり上がってくる。
「……ウェブ制作です。公式サイトのデザインを、少し担当させていただきました」
消え入りそうな声で、やっとの思いでそう答える。
「そうか」
聖川さんは深く、静かに頷いた。
「とても見やすいサイトだった。出演者の写真の使い方も丁寧で、作品の空気がよく伝わっていた。貴殿らの誠実な仕事に、深く感謝する」
嘘、だと一瞬思った。
まさか、彼がそんな隅々まで見てくれているなんて。
ただの宣伝媒体だと思わずに、私たちの込めた熱量を、受け取ってくれていたなんて。
「……ありがとう、ございます……」
言葉を絞り出すのが精一杯だった。そんな私を見て、聖川さんの涼やかな目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
その、張り詰めた氷が陽だまりに触れて、かすかに綻ぶような微笑みを見た瞬間。
私の世界から、完全に喧騒が消え去った。
用件は済んだはずだった。なのに、彼は立ち去ろうとはしなかった。
「……朝倉、さん」
ふいに、その唇からこぼれ落ちた私の名。
それは、彼がただネームホルダーを機械的に読み上げただけのものではなかった。ほんの少しだけ語尾を躊躇わせるように、そして、記憶の底にある何かを静かに手繰り寄せるように。
見上げる彼の眉が、わずかに中央に寄せられる。それは、霧の向こうにある過去の輪郭を追い求めるような、酷く切実な表情だった。
「以前、どこかで会ったことはあるだろうか」
世界が、一瞬だけ止まる。
ホテルのきらびやかな喧騒が、まるで遠い異国の出来事のように遮断され、私の耳には、ガラスを叩く激しい雨音と、うるさいほどの心音だけが響いていた。
「え……」
「いや、すまない。俺の気のせいかもしれぬが」
彼はそう言って、少し申し訳なさそうに長い睫毛を伏せた。
学生時代よりもずっと大人びた、落ち着きを払ったその仕草。けれど、その佇まいから滲み出る一分の隙もない気品は、あの頃と少しも変わっていなくて。
至近距離でその瞳に見つめられているという現実だけで、私の喉はカラカラに干からびそうだった。まともに呼吸をすることさえ、彼という存在の神聖さを汚してしまいそうで、怖くなる。
「……もしかして」
伏せられていた藍色の瞳が、再びまっすぐに私を捉えた。
「早乙女学園にいたか?」
どくり、と胸の奥が大きく跳ねた。
今度こそ、本当に息が止まる。
外を乱れ降る雨の音が、まるで世界の終わりを告げるかのように、遠く、深く、私の鼓動に重なっていく。
「……っ、え」
「映像コース」
低く、澄んだ声が、静かに夜の空気を震わせる。
「違っただろうか」
私は目を見開いたまま、金縛りにでもあったかのように、ただ数秒遅れて小さく頷くことしかできなかった。
「い、いました……」
情けないほどに震えた声が、ドレスアップした人々の笑い声にかき消されそうになる。
私は必死に、胸のパニックを抑え込もうと指先を握りしめた。
「え、覚えて……いらっしゃるんですか」
そう問いかけることすら、烏滸がましい気がして、言葉の後半は喉の奥に消えた。
覚えてなどいるはずがない。あの頃の私は、数多いる学生スタッフの中の、名前もなき一人の「影」に過ぎなかったのだから。言葉を交わした記憶だって、片手で数えるほどしかない。
けれど、聖川さんは、その涼やかな目元をほんの少しだけ細めたのだ。
「やはりそうか」
その声音は、冷たい雨の夜にはあまりにも温かく、穏やかだった。
「以前、一度だけ撮影をしたことがあるだろう。インタビュー形式の課題映像だったはずだ」
視界が、白く明滅する。
覚えている。彼が、あの、世界の中心にいるはずの人が、どうして。
「カメラ横で、何度も構図を確認していたな」
聖川さんはふ、と、冬の陽だまりが氷を溶かすような、微かな笑みを唇に浮かべた。
「貴女がひどく真剣な顔をしていたので、印象に残っている」
胸の奥が、ぎゅうと締め付けられて、痛い。
嬉しいとか、信じられないとか、そんな言葉では到底足りないほどの感情の濁流が押し寄せて、膝の力が抜けてしまいそうだった。
液晶のこちら側で、ただ遠い星を見つめるように生きてきた10年間が、今、この一瞬にすべて凝縮されていく。
「あの時は……ありがとうございました」
私はなんとか、泣き出しそうな喉を震わせて言葉を絞り出した。
「聖川さんに協力してもらえたおかげで、あの課題、すごく評判が良くて……」
「そうだったのか」
聖川さんは、どこか安堵したように、静かに、優しく頷いた。
「なら、良かった」
そして、彼は一歩、私との距離を詰めるようにして、もう一度、私を見つめた。
ホテルの照明を浴びた右目の下のほくろが、息を呑むほど艶やかに揺れる。
「……朝倉さん」
美しく調律されたピアノの低音のように、深く、静かに、私の名前が夜に響く。
「貴女は、あの頃から人を見る目が丁寧だった」
喉の奥が、熱い塊で詰まった。
彼にとっては、ただの何気ない、過去の記憶に対する率直な感想だったのかもしれない。
けれど、私にとっては――。
あの過酷な制作会社で、心も体もすり減らして潰れかけたあの日々も。
「私には、デザインの才能なんてない」と、暗い部屋で膝を抱えて泣いた夜も。
徹夜明けの始発列車、冷たい窓ガラスに頭を預けながら、押し殺した涙で視界を滲ませた朝も。
そのすべてが、この、聖川真斗という人のたった一言で、まるで奇跡のように報われていく。
私の生きてきた不器用な軌跡の全部を、彼はその気高い手で、そっと抱きしめて、肯定してくれたのだ。
「……そんな、こと」
涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪え、言葉を失う私を見て、聖川さんは少しだけ困ったように、けれどどこか愛おしそうに目を伏せた。
「すまない。急に昔の話をして、貴女を困らせてしまったな」
「いえ……っ」
小さく、激しく首を振る。
困ってなどいない。むしろ、この深い水の底のような雨の夜が、永遠に続けばいいのに。
もっと、聖川さんの声を聞いていたい。もっと、この贅沢な時間を貪っていたい。
そんな資格なんて、どこにもない裏方の私なのに、「もっとこの声を聞いていたい」という贅沢な願いが、胸の奥から止めどなく湧き上がってくる。
その時だった。
遠くから、私たちの平穏を破るような、華やかな声が彼を呼んだ。
「聖川さーん! 写真お願いしまーす!」
「はい、今行きます」
聖川さんはそちらへ一度視線を向け、そして、名残惜しさをほんの少しだけその藍色の瞳に宿しながら、再び私をまっすぐに見つめた。
「朝倉さん」
「……はい」
「また、話せると嬉しい」
柔らかく、まるで静かに降る雪のように落とされたその言葉に、私はしばらく、まともな返事すらできなかった。ただ、去りゆく彼の、凛とした背中を見つめることしかできなくて。
彼が光の中心へと戻っていったあとも。
外の激しい雨音が、すべてをかき消そうと鳴り響く中でも。
私の胸の奥には、優しく名前を呼ぶ、あの低く澄んだ声だけが、いつまでも、いつまでも、熱い余韻を残して響き渡っていた。
華やかなホテルの宴会場は、今夜、特別な熱気に包まれていた。
ST☆RISHが主演を務める、新作ドラマの打ち上げパーティー。
会場内には無数のシャンパングラスが光を反射し、大役を終えたスタッフたちの高揚した笑い声がそこかしこで弾けている。
その眩い喧騒から逃れるように、会場の隅に身を潜めていた。
手の中のグラスに注がれたオレンジジュースは、周囲の黄金色の泡に比べて酷く幼く、私の所在なさをそのまま映しているようだった。
ここにいるのは、きらびやかな世界を動かすディレクターやプロデューサーたち。自分のような末端のデザイナーが紛れ込んでいい場所ではないのだ。
「……やっぱり、場違いすぎるな……」
小さく息を漏らし、壁に背を預ける。
今は小さなデザイン会社でウェブデザイナーとして、このドラマの特設サイト制作に携わっている。
かつてテレビ制作会社で、寝る間も惜しんでどろどろになりながら走り回っていた頃とは違う。今の私は、液晶画面のこちら側から、彼らの世界を静かに支えるだけの影のような存在だ。
ディレクターの厚意で手渡された招待状は、まるで別世界への切符みたいだった。
その中心で眩い光を浴びる彼らは、私とは違う空を生きる人たちだ。
――特に、聖川真斗は。
遠い星を見る時みたいに、ただ静かに憧れることしか出来ない。
そんな人だった。
記憶の底にある、青い春の断片が鮮やかに蘇る。
かつて私は、早乙女学園の映像コースに籍を置いていた。
課題制作のために組まれた、一度きりの合同撮影。アイドルコースの生徒を被写体にした、短いインタビュー映像。
あの日、レンズ越しに覗いた聖川真斗は、まだ今ほど完璧に完成されてはいなかったかもしれない。けれど、ただそこに静かに佇んでいるだけで、周囲の空気をピンと張り詰めさせるような、独特の気品を纏っていた。
ライトの光を吸い込む、切れ長の瞳。
ふとした瞬間に、すっと視線を上げる仕草。
言葉を選ぶときの、わずかな、けれど誠実な沈黙。
そのすべてが、息を呑むほどに綺麗だった。
モニターに映し出される彼の横顔を見つめながら、胸の奥がひどく熱く、騒がしく波打ったことを今でも覚えている。
もちろん、それは私だけの、一方通行の記憶。向こうは覚えてなどいるはずがない。大勢いた撮影スタッフの、その中の一人に過ぎないのだから。
「……はぁ」
届かない憧れを飲み干すように、グラスを傾ける。
ふと視線を向けた高い窓の向こう、夜の街は激しい雨に遮られ、まるで深い水の底にあるかのように ぼやけて見えた。
四月の生暖かい夜風が運んできた、激しい春の嵐。夜桜のピンクの花びらを無残に巻き込みながらガラスを叩く水滴が、まるで会場のきらびやかな光を拒むように静かに流れている。
(……まるで、私みたいだな)
光の届かない場所で、ただ彼らを見つめていることしかできない。
ため息を飲み込むように、もう一度グラスに口をつけた、その時だった。
会場の入り口付近が、にわかに波立つようにざわめき始める。
引力に逆らえず、反射的に視線を向けた。
端正に仕立てられた黒いジャケット。
一分の隙もない、凛とした立ち姿。
真っ直ぐに伸びた背筋。
――聖川真斗、その人だった。
ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
テレビの画面越しに見るよりも、ずっと、ずっと近い。
誰に媚びることもない静謐さを纏った彼は、私の記憶の中にいた少年よりも、言葉を失うほどに美しく洗練されていた。
関係者からの挨拶に丁寧に応じながら、彼が会場の動線を歩んでいく。
その途中だった。ふと、彼の涼やかな視線が、こちらの壁際へと流れた。
ほんの一瞬。時間にして、一秒にも満たない。
それだけのことなのに、私はたまらなくなって逃げ出したくなった。
見てはいけない、至高の存在を盗み見てしまったような罪悪感。
慌てて、弾かれたように目を逸らした。
床の絨毯の模様に視線を落とし、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように身を硬くする。
しかし、その瞬間だった。
「失礼」
耳に心地よく響く、低く澄んだ声音が、すぐ目の前でこぼれ落ちた。
弾かれたように顔を上げると、そこには、さっきまで遠くから見つめていたはずの聖川真斗が立っていた。
同じ空間にいるだけで十分だと思っていた。一目姿を見られただけで、今日ここに来た意味がある。
そう満足していたはずなのに、まさかその本人が目の前にいるなんて、にわかには信じられなかった。
「その……そちらに置かれている飲み物を取ってもよいだろうか」
彼は、私のすぐ隣にある、ドリンクが整然と並べられたテーブルをそっと指し示していた。
「あっ、はい……! すみません、遮ってしまって……!」
あわてて数歩身を引くと、彼は小さく、けれど丁寧に頭を下げた。
「ありがとう」
彼がグラスへと手を伸ばす。その指先を見た瞬間、私の胸がまた、ドクンと音を立てた。
鍵盤の上で複雑な旋律を奏でる、あの、白くて長く、節くれ立った繊細な指。
グラスの脚をそっと包み込むその所作までもが、まるで一つの芸術作品のように洗練されていて、見惚れることしかできない。
近い。
声が。
香りが。
用件は済んだはずだった。なのに、彼は立ち去ろうとはしなかった。
ふと、彼の深い藍色の瞳が、私の首から下げられたネームホルダーへと滑る。
『朝倉 景奈』
白いプラスチックのカードに印字された文字を、なぞるようにして、彼はわずかに目を細めた。
「朝倉さんは、このドラマの制作関係者なのか」
名前を、呼ばれた。
その音節が彼の唇から紡がれただけで、一瞬、本当に呼吸の仕方を忘れてしまった。
胸の奥から、どうしようもない熱がせり上がってくる。
「……ウェブ制作です。公式サイトのデザインを、少し担当させていただきました」
消え入りそうな声で、やっとの思いでそう答える。
「そうか」
聖川さんは深く、静かに頷いた。
「とても見やすいサイトだった。出演者の写真の使い方も丁寧で、作品の空気がよく伝わっていた。貴殿らの誠実な仕事に、深く感謝する」
嘘、だと一瞬思った。
まさか、彼がそんな隅々まで見てくれているなんて。
ただの宣伝媒体だと思わずに、私たちの込めた熱量を、受け取ってくれていたなんて。
「……ありがとう、ございます……」
言葉を絞り出すのが精一杯だった。そんな私を見て、聖川さんの涼やかな目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
その、張り詰めた氷が陽だまりに触れて、かすかに綻ぶような微笑みを見た瞬間。
私の世界から、完全に喧騒が消え去った。
用件は済んだはずだった。なのに、彼は立ち去ろうとはしなかった。
「……朝倉、さん」
ふいに、その唇からこぼれ落ちた私の名。
それは、彼がただネームホルダーを機械的に読み上げただけのものではなかった。ほんの少しだけ語尾を躊躇わせるように、そして、記憶の底にある何かを静かに手繰り寄せるように。
見上げる彼の眉が、わずかに中央に寄せられる。それは、霧の向こうにある過去の輪郭を追い求めるような、酷く切実な表情だった。
「以前、どこかで会ったことはあるだろうか」
世界が、一瞬だけ止まる。
ホテルのきらびやかな喧騒が、まるで遠い異国の出来事のように遮断され、私の耳には、ガラスを叩く激しい雨音と、うるさいほどの心音だけが響いていた。
「え……」
「いや、すまない。俺の気のせいかもしれぬが」
彼はそう言って、少し申し訳なさそうに長い睫毛を伏せた。
学生時代よりもずっと大人びた、落ち着きを払ったその仕草。けれど、その佇まいから滲み出る一分の隙もない気品は、あの頃と少しも変わっていなくて。
至近距離でその瞳に見つめられているという現実だけで、私の喉はカラカラに干からびそうだった。まともに呼吸をすることさえ、彼という存在の神聖さを汚してしまいそうで、怖くなる。
「……もしかして」
伏せられていた藍色の瞳が、再びまっすぐに私を捉えた。
「早乙女学園にいたか?」
どくり、と胸の奥が大きく跳ねた。
今度こそ、本当に息が止まる。
外を乱れ降る雨の音が、まるで世界の終わりを告げるかのように、遠く、深く、私の鼓動に重なっていく。
「……っ、え」
「映像コース」
低く、澄んだ声が、静かに夜の空気を震わせる。
「違っただろうか」
私は目を見開いたまま、金縛りにでもあったかのように、ただ数秒遅れて小さく頷くことしかできなかった。
「い、いました……」
情けないほどに震えた声が、ドレスアップした人々の笑い声にかき消されそうになる。
私は必死に、胸のパニックを抑え込もうと指先を握りしめた。
「え、覚えて……いらっしゃるんですか」
そう問いかけることすら、烏滸がましい気がして、言葉の後半は喉の奥に消えた。
覚えてなどいるはずがない。あの頃の私は、数多いる学生スタッフの中の、名前もなき一人の「影」に過ぎなかったのだから。言葉を交わした記憶だって、片手で数えるほどしかない。
けれど、聖川さんは、その涼やかな目元をほんの少しだけ細めたのだ。
「やはりそうか」
その声音は、冷たい雨の夜にはあまりにも温かく、穏やかだった。
「以前、一度だけ撮影をしたことがあるだろう。インタビュー形式の課題映像だったはずだ」
視界が、白く明滅する。
覚えている。彼が、あの、世界の中心にいるはずの人が、どうして。
「カメラ横で、何度も構図を確認していたな」
聖川さんはふ、と、冬の陽だまりが氷を溶かすような、微かな笑みを唇に浮かべた。
「貴女がひどく真剣な顔をしていたので、印象に残っている」
胸の奥が、ぎゅうと締め付けられて、痛い。
嬉しいとか、信じられないとか、そんな言葉では到底足りないほどの感情の濁流が押し寄せて、膝の力が抜けてしまいそうだった。
液晶のこちら側で、ただ遠い星を見つめるように生きてきた10年間が、今、この一瞬にすべて凝縮されていく。
「あの時は……ありがとうございました」
私はなんとか、泣き出しそうな喉を震わせて言葉を絞り出した。
「聖川さんに協力してもらえたおかげで、あの課題、すごく評判が良くて……」
「そうだったのか」
聖川さんは、どこか安堵したように、静かに、優しく頷いた。
「なら、良かった」
そして、彼は一歩、私との距離を詰めるようにして、もう一度、私を見つめた。
ホテルの照明を浴びた右目の下のほくろが、息を呑むほど艶やかに揺れる。
「……朝倉さん」
美しく調律されたピアノの低音のように、深く、静かに、私の名前が夜に響く。
「貴女は、あの頃から人を見る目が丁寧だった」
喉の奥が、熱い塊で詰まった。
彼にとっては、ただの何気ない、過去の記憶に対する率直な感想だったのかもしれない。
けれど、私にとっては――。
あの過酷な制作会社で、心も体もすり減らして潰れかけたあの日々も。
「私には、デザインの才能なんてない」と、暗い部屋で膝を抱えて泣いた夜も。
徹夜明けの始発列車、冷たい窓ガラスに頭を預けながら、押し殺した涙で視界を滲ませた朝も。
そのすべてが、この、聖川真斗という人のたった一言で、まるで奇跡のように報われていく。
私の生きてきた不器用な軌跡の全部を、彼はその気高い手で、そっと抱きしめて、肯定してくれたのだ。
「……そんな、こと」
涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪え、言葉を失う私を見て、聖川さんは少しだけ困ったように、けれどどこか愛おしそうに目を伏せた。
「すまない。急に昔の話をして、貴女を困らせてしまったな」
「いえ……っ」
小さく、激しく首を振る。
困ってなどいない。むしろ、この深い水の底のような雨の夜が、永遠に続けばいいのに。
もっと、聖川さんの声を聞いていたい。もっと、この贅沢な時間を貪っていたい。
そんな資格なんて、どこにもない裏方の私なのに、「もっとこの声を聞いていたい」という贅沢な願いが、胸の奥から止めどなく湧き上がってくる。
その時だった。
遠くから、私たちの平穏を破るような、華やかな声が彼を呼んだ。
「聖川さーん! 写真お願いしまーす!」
「はい、今行きます」
聖川さんはそちらへ一度視線を向け、そして、名残惜しさをほんの少しだけその藍色の瞳に宿しながら、再び私をまっすぐに見つめた。
「朝倉さん」
「……はい」
「また、話せると嬉しい」
柔らかく、まるで静かに降る雪のように落とされたその言葉に、私はしばらく、まともな返事すらできなかった。ただ、去りゆく彼の、凛とした背中を見つめることしかできなくて。
彼が光の中心へと戻っていったあとも。
外の激しい雨音が、すべてをかき消そうと鳴り響く中でも。
私の胸の奥には、優しく名前を呼ぶ、あの低く澄んだ声だけが、いつまでも、いつまでも、熱い余韻を残して響き渡っていた。
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