短編(HP 女主)
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ヴォルデモートとの戦いが終結して約一年。
ハリーはある扉の前に立っていた。
そばにレトロな黄色い車が停めてある、小さな一軒家。
大きく深呼吸をすると、潮の匂いが肺に流れ込んできた。強烈な太陽の光が斜めからハリーを照りつけ、身体中の水分をじわりじわりと奪いとっていく。
ハリーは汗を拭いながら、左手に持った一枚の紙を見た。『ノック四回!』と紙の中央で文字が踊っている。ハリーは文字が指示する通り、目の前の扉を四回叩いた。
一歩下がると、壁に『セールスお断り』と書かれたシールが貼ってあるのに気がついた。こんな外れにもセールスが来るのかとぼんやりと思い、それに触れようとしたとき、ガチャリと扉が開いた。
中から顔を覗かせたのは、一人の女性だった。
「はじめまして。あの、僕ハリー・ポッターです。レア・レストレンジさんですか」
おずおずと告げたハリーの様子を、女性の深いブルーの瞳が、じっと見つめていた。女性は瞬きを一度し、そして小さく頷いた。「はじめまして。ミスタ・ポッター。暑かったでしょう、どうぞ中へ」
所作の端々からはどことなく品が感じとられ、彼女の着るゆったりとしたワンピースは、パーティードレスのようにも見えた。その青白い肌や歩くたびになびく真っ黒の髪は、彼女の繊細な美しさを際立たせていたが、夏色の広がるこの島にはあまり馴染んでいなかった。
彼女はハリーを部屋に案内するとすぐ、紅茶の準備をしてくるから座って待っていてと部屋を出ていってしまった。
ハリーは、くるりと部屋を見渡した。心地よい円形の部屋で、小さなテーブルとフカフカのソファが置いてあり、とても懐かしい感じがした。窓の側には壁掛け時計が一つと、風景画がいくつか。
ハリーはソファの端に腰掛け、彼女が戻ってくるのを待った。壁掛け時計の針はちょうど十七時を指したところだった。
パタパタと足音をさせながら戻ってきた彼女は、ソファの前に置かれたテーブルにカップを三つ置き、その内二つに紅茶を注いだ。そしてどこからか小さな木椅子を持ってきて、ハリーと向かい合うように座った。
「さて、改めて自己紹介をするわね。わたしの名前はレア・レストレンジです。あなたのご両親と名付け親とは同級生だった。本当にたくさんお世話になった。アー……もちろん、いろんな意味でね。そしてこの子はジャック。何度か会ったことあるでしょう?」
バサバサと音を立ててカラフルな大きな鳥が彼女の腕に止まった。シリウスからの誕生日ケーキを届けてくれた鳥だとすぐにわかった。
「はい。あの、それじゃ、やっぱり六年前シリウスはここにいたんですね」
「ほんの少しの間だけだけれどね。この部屋はその時彼のために作ったのよ。それで……」
それで、と彼女は視線を横に移動させ、「彼女はだあれ? もちろんご紹介いただけるのよね」とにこやかに告げた。
ハリーは驚いて何も言えなかった。
何もないところを見つめる彼女の目は、ムーディーの魔法の目のようにクルクルと動いているわけではなかったが、すべてを見透かしているかのようだった。
背中を汗が冷たく伝い落ちる。それが服の染みとなった時、彼女が見つめている場所とは反対の方向から、バサリと音がした。
「ご挨拶が遅れました。わたしはジニー・ウィーズリーです。勝手にお邪魔して本当にごめんなさい」
「ジニー!」
ハリーは思わず立ち上がってジニーの元へ駆け寄った。
「ハリー、ごめんなさい。でも彼女、わたしがいることに最初から気づいてたわ」
「最初から……?」
ハリーが振り返ると、彼女は困ったように眉を下げて笑っていた。
「冷めないうちにどうぞ」促されるまま、ジニーと並んでソファーに腰を下ろす。「今朝、やけに荷物の少ない二人組の観光客を乗せたってタクシー運転手をしている友人が教えてくれてね。ピンときた」
眉毛の辺りを掻きながら説明する彼女の様子を見て、ハリーの胸に懐かしさが込み上げた。自身の名付け親も、モリーに叱られているとき何度か同じようにしていたのを思い出したからだ。
「さて、前置きはなしにして、本題に入りましょう。今日はどんなご用件があって、はるばるこんなところまで来たのかしら。まさか、バカンスというわけではないでしょう?」
彼女の深いブルーの瞳にはハリーとジニーが映っていた。じっと見つめてくる彼女の視線が、ハリーの心を掻き分けてくる。
ハリーが上手く応えられずにいると、隣にいたジニーが「実は」と代わりに話し始めた。
「実は、一昨日グリモールド・プレイスの家を掃除していたらあなた宛ての手紙が出てきたんです。早く届けた方がいいと思って」
「手紙?」
「これです」とハリーは鞄から手紙を取り出し、テーブルに置いた。
彼女はゆっくりとそれを手に取った。繊細そうな細い指先が、ほんの少し震えている。
封筒に書かれた『魔法いたずら仕掛人から素晴らしき友、レア・レストレンジに送る』の文字を、彼女はしばらく見つめ、そして優しく撫でた。
彼女の深いブルーの瞳がキラキラと瞬いた。それは星が散りばめられた夜空のようだった。
彼女はぱちぱちと瞬きを幾度かしたのち、封を切り中を取り出した。
出てきたのは一枚の便箋だった。
彼女がそれに目を通している間、壁掛け時計の秒針の音だけが小さく響いていた。
ハリーも、ジニーも、そしてジャックでさえも、彼女の一挙一動を見逃すまいとしている、そんな緊張が部屋を包んだ。
次の瞬間、彼女は小さく声をあげて笑った。予想外の反応に、ハリーは拍子抜けしてジニーの方を見た。眉を顰めたジニーと視線が交わる。
「二人ともこれ中身見た?」と彼女がこちらに便箋を向けたが、何も書かれていなかった。インク染みひとつない。
「……白紙?」
ジニーが困ったようにハリーを見た。しかしハリーもなぜ手紙に何も書かれていないのか、わからなかった。この手紙を届けるよう言ったのは、他の誰でもない、シリウスなのだ。すべてが終わり落ち着いてからでいい、届けてほしい手紙があると、最期にハリーに託したのだ。
ハリーたちが困惑している様子を見て、彼女は「何か複雑な魔法がかけられてるのはわかるけれど、残念なことにわたしの杖はシリウスが持って行ってしまったから、解きたくてもできない」と肩をすくめながら笑った。
「ハリー……」
ジニーの視線を左頬に感じながらハリーは考えた。彼女に一言ことわって、便箋を手に取ってみる。
裏返しても、透かしてみても、本当に何も書いていない。
(きっと、レストレンジさんの言う通り、何か魔法をかけてあるんだ……複雑で……でも僕たちには解ける、そんな魔法を……)
そこで、ハリーの頭の中に一つの可能性が浮かんだ。この便箋は、どこからどう見ても何も書かれておらず、知らない人が見ても、『ただの紙』にしか見えない。
──そう、『ただの紙にしか見えない』のだ。
ハリーは杖を取り出し、便箋に軽く触れて言った。
「われ、ここに誓う。われ、よからぬことをたくらむ者なり」
すると、たちまち、杖の触れたところから、細いインクの線がクモの巣のように広がり始めた。それらは、紙上で絡まり合い、やがて意味のある形に姿を変えてゆく。
便箋の上に、薄い雲のようなものが立ち込めた。
そしてその中から、小さな光がいくつも飛び出してきて、ハリーたちの頭上で弾けた。光のかけらは、薄いピンク色の花弁へと姿を変え、再び雲の中に舞い降りていった。
次々と打ち上がる光と、ひらひらと舞う薄桃色の花弁。それは、とても美しい魔法だった。
──シリウス。
小さな声が聞こえたような気がしたが、自分の喉からでたものか、もしくは他の誰かのものだったのか、わからなかった。
次に、光を縫うように、雲の隙間から何かが飛び出してきた。それは、白い牝鹿だった。
その牝鹿は、ハリーたちの頭上を自由自在に駆け回った。
それは、ジニーの身体にぶつかり、ふわりと煙を立たせたあと、とても美しい白馬へと姿を変え、舞い散る花弁を器用に避けながら部屋中を駆け回っていった。
ハリーは、わくわくしながらそれを目で追った。目まぐるしくも美しいその光景を、一瞬たりとも見逃したくなかった。
打ち上がっていた光が全て花弁へと姿を変えたとき、その馬は静かに彼女の前に舞い降りた。
彼女はゆっくりとした動作で、その馬に触れた。
すると馬はその場でくるくると回転し、犬の姿へと変わった。そして、彼女の顔の近くまで歩いていき、頬の辺りをぺろぺろと舐めた。
ハリーは、シリウスの遺した美しい『悪戯』が始まってから、初めて彼女の顔を見た。その夜空のような瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
犬は、彼女の頬に体をくっつけ、何度か頬擦りをした後、ふわりと消えた。
テーブルの上に残された便箋には、少し角ばった文字で、『親愛なる君に──愛をこめて シリウス・ブラック』と記されていた。
**
シリウス・ブラックに初めて会ったのは、ホグワーツに入学する四年前、わたしたちが七歳の時だ。
当時、既にホグワーツに入学していた上の兄二人は一族の伝統通りスリザリンに組分けされたことに加え、成績も大変優秀で、誇り高きレストレンジ家に相応しい良き息子たちだった。それに比べ、注意力散漫で、何をやっても兄たちより上手くできないわたしは、レストレンジ家一の出来損ないであり、恥ずべき汚点といったところだろうか。両親は口を開けば優秀な兄たちを褒め称え、わたしには「なぜ言われた通りにできないのか」「兄たちは優秀なのに」とオウムのように繰り返すばかりだった。
長いお叱りの後、わたしはよく、本邸からは隠れた位置にある納屋に放り込まれた。
なかは薄暗く、いつも冷たい空気が漂っていたため、最初は恐ろしくて泣いていたが、子どもの順応力とは素晴らしいもので、何度か繰り返されるうちにそれもなくなった。
納屋に放り込まれた調度品や絵画たちが、わたしの散漫な注意力を引きつけたからだ。それらは、両親の望み通り納屋に籠っている方がわたしと両親、双方にとって良いことだと気づかせてくれた。
その日の夜、レストレンジ家主催のホームパーティにブラック家を招待していた。いつものように、わたしは両親からパーティーの間中は納屋から絶対に出るなと言いつけられていた。
パーティー開始から一時間は経っただろうか。本館から漂う華やかかつ刺々とした空気を感じつつ、屋敷しもべ妖精が置いていってくれた紅茶を口に含んだ。魔法のかかったそれらは、いつも心地よい温度が保たれていた。
ふと外に人の気配を感じた。
格子窓から様子を伺うと、黒い髪の少年が一人、納屋の周りを歩いていた。「シリウス・ブラックだ」と自分の声が納屋に響く。いつか両親が兄達に、ブラック家長男のくせにマグル文化に傾倒するはみ出し者だから絶対に関わるなと注意していた、あのシリウス・ブラック。
わたしは、その言葉に抱いた親近感と少しの好奇心から、いない人間として振る舞わなければならないことを忘れたフリをし、声をかけた。
「こんばんは」
シリウスは突然聞こえた声に驚いた様子であったが、わたしの存在に気がつくと「あー、勝手に入ってすみませんでした」と来た道の方に身体を翻した。きっとパーティーが嫌になって抜け出したのだろうということは想像するに容易かった。
わたしの中の好奇心が、再びわたしの口を動かす。
「よかったら一緒にお茶でもいかがですか」
意外にもシリウスはわたしの誘いに素直に応じた。パーティー会場に戻るよりはマシだと考えたのかもしれない。
わたし達は同い年で、その上似た家庭環境にあったためか、すぐに打ち解けた。話しているうちに時間が経ってしまっていたようで、壁に掛けた時計に目をやると、そろそろパーティーが終わる頃だった。
扉まで見送りながら、「あなたと話せて楽しかった。三年後、またホグワーツで会いましょう」と手を振ると、シリウスがわたしの方を振り向いて言った。
「僕は、絶対グリフィンドールに入る。うちはみんなスリザリンだけど、そんなくだらない伝統に付き従ってやる義理はないからね。君もあいつらの言いつけを馬鹿丁寧に守らなくたっていいんだ。僕等はみんな、自分の進む道は自分で決める権利があるんだから」
シリウスの言葉を聞いて、わたしはトロールの棍棒で頭を殴られたような衝撃を受けた。シリウスは、自らの意志で血に抗い、そして自分の道を切り開かんとしている。そんな人間と、両親の言う通りにただ黙って流されているだけの人間が同じなはずがない。わたしは今までの自分が恥ずかしくなった。そして彼の生き方や強さに憧憬の念を抱いた。
「わたしも、あなたみたいになれるかな」
「全ては君次第さ」
シリウスのグレーの瞳は一寸の揺るぎもなくわたしを捉えていて、彼が心からそう思ってくれているのだとわかった。シリウスが放つ光は、海に沈んだ太陽のようだと思った。暗く冷たい海の底をずっと輝き続けている。彼が「できる」と言えば何でもできるのだ。そんな気がした。
三年後、わたしはレイブンクローに組み分けされた。初めて自分の意志で選んだ。シリウスの跡を付いていくこともできたけれど、それでは納屋に籠っていた頃と何も変わらないままだと思ったのだ。
結果として、レイブンクローはわたしの肌に合っていたようで、とても居心地が良かった。少し時間はかかったが、気の合う友人も数人できた。
『シリウス・ブラックのことが好きなのか』
その友人達から、在学中幾度となく投げかけられたその問いに、わたしはいつも曖昧な、否定ともとれるような言葉を並べた。
わたしは昔からずるい人間で、見ないフリや聞こえないフリをするのが得意だった。それはわたしの体質のせいでも、自分を守るための予防線でもあった。
わたしの頭の中はいつも、たくさんの声で溢れていた。いつからと問われれば、生まれた時からと答えるほかない。それが誰かの心の声で、普通は聞こえないということ、また、それが聞こえているということに気づかれてはいけないということ。それに気づいたのは、わたしが三歳のときだ。
もちろん、ホグワーツに入学し魔法を学んだことで、その力もある程度制御できるようになった。
ただ、学年が上がるともに周囲が色気づき始めてきて、そういうふわふわとした心は、わたしがどれだけ気をつけていても、勝手に頭の中に流れこんできた。
そして、その声の向く先には大抵シリウスがいた。
女の子たちがシリウスを見つめる目は、キラキラと輝いていて、花の開花のように美しかった。
それを見るわたしの目にはその輝きはなく、ただの煤けた瞳があるだけだった。その瞳が持っているのは、自分たちの血の貴さや『我が君』に対する信心深さについて滔々と語る両親や兄たちと同じ色だけだっだ。
わたしは彼女たちのような花を咲かせることもできないまま、ただただ目を閉じた。きっと、シリウス・ブラックに対して抱いた憧憬の念が、何か違うものに変わってしまうのが怖かったのだ。
頬に残った温もりと、わたしを心配そうに見つめる若い二人の魔法使いのお陰で、漸くわたしは目を開けることができた。
過ぎ去った時間は二度とは戻らない。しかし、あの学び舎で彼らと過ごした七年間は確かにあって、わたしという存在を肯定してくれている。シリウス・ブラックの光は、今もわたしの足元を照らしてくれているのだ。
**
数年ぶりの訪問者を保護呪文の外まで送り届けたあと、レア・レストレンジは再び木椅子に腰を下ろし、手紙を手に取った。
目の前の小さく丸いテーブルの上には、カップが三つ。なかの紅茶は、ずいぶん前に冷めてしまっている。レア・レストレンジは三つの中から一つ手に取り、残りを一気に飲み干した。
「ばかものめが」と、絵画の住人の一人が言った。「今日はとても星が綺麗だわ」「うむ、実に良いな」とは、その斜向かいの住人達。
レア・レストレンジは、窓の横に飾られたその額縁の方を振り向いて笑い、そして頷いた。
『バーン』
夏を告げる音がした。
窓の外では、夜空にいっぱいに大輪の花が咲き乱れている。そういえば、シリウス・ブラックがハリーの元へ飛びたった時もこんな空だった。
ああ親愛なる君。この空を見るたび、きっとわたしは君を想うのだろうな。
ハリーはある扉の前に立っていた。
そばにレトロな黄色い車が停めてある、小さな一軒家。
大きく深呼吸をすると、潮の匂いが肺に流れ込んできた。強烈な太陽の光が斜めからハリーを照りつけ、身体中の水分をじわりじわりと奪いとっていく。
ハリーは汗を拭いながら、左手に持った一枚の紙を見た。『ノック四回!』と紙の中央で文字が踊っている。ハリーは文字が指示する通り、目の前の扉を四回叩いた。
一歩下がると、壁に『セールスお断り』と書かれたシールが貼ってあるのに気がついた。こんな外れにもセールスが来るのかとぼんやりと思い、それに触れようとしたとき、ガチャリと扉が開いた。
中から顔を覗かせたのは、一人の女性だった。
「はじめまして。あの、僕ハリー・ポッターです。レア・レストレンジさんですか」
おずおずと告げたハリーの様子を、女性の深いブルーの瞳が、じっと見つめていた。女性は瞬きを一度し、そして小さく頷いた。「はじめまして。ミスタ・ポッター。暑かったでしょう、どうぞ中へ」
所作の端々からはどことなく品が感じとられ、彼女の着るゆったりとしたワンピースは、パーティードレスのようにも見えた。その青白い肌や歩くたびになびく真っ黒の髪は、彼女の繊細な美しさを際立たせていたが、夏色の広がるこの島にはあまり馴染んでいなかった。
彼女はハリーを部屋に案内するとすぐ、紅茶の準備をしてくるから座って待っていてと部屋を出ていってしまった。
ハリーは、くるりと部屋を見渡した。心地よい円形の部屋で、小さなテーブルとフカフカのソファが置いてあり、とても懐かしい感じがした。窓の側には壁掛け時計が一つと、風景画がいくつか。
ハリーはソファの端に腰掛け、彼女が戻ってくるのを待った。壁掛け時計の針はちょうど十七時を指したところだった。
パタパタと足音をさせながら戻ってきた彼女は、ソファの前に置かれたテーブルにカップを三つ置き、その内二つに紅茶を注いだ。そしてどこからか小さな木椅子を持ってきて、ハリーと向かい合うように座った。
「さて、改めて自己紹介をするわね。わたしの名前はレア・レストレンジです。あなたのご両親と名付け親とは同級生だった。本当にたくさんお世話になった。アー……もちろん、いろんな意味でね。そしてこの子はジャック。何度か会ったことあるでしょう?」
バサバサと音を立ててカラフルな大きな鳥が彼女の腕に止まった。シリウスからの誕生日ケーキを届けてくれた鳥だとすぐにわかった。
「はい。あの、それじゃ、やっぱり六年前シリウスはここにいたんですね」
「ほんの少しの間だけだけれどね。この部屋はその時彼のために作ったのよ。それで……」
それで、と彼女は視線を横に移動させ、「彼女はだあれ? もちろんご紹介いただけるのよね」とにこやかに告げた。
ハリーは驚いて何も言えなかった。
何もないところを見つめる彼女の目は、ムーディーの魔法の目のようにクルクルと動いているわけではなかったが、すべてを見透かしているかのようだった。
背中を汗が冷たく伝い落ちる。それが服の染みとなった時、彼女が見つめている場所とは反対の方向から、バサリと音がした。
「ご挨拶が遅れました。わたしはジニー・ウィーズリーです。勝手にお邪魔して本当にごめんなさい」
「ジニー!」
ハリーは思わず立ち上がってジニーの元へ駆け寄った。
「ハリー、ごめんなさい。でも彼女、わたしがいることに最初から気づいてたわ」
「最初から……?」
ハリーが振り返ると、彼女は困ったように眉を下げて笑っていた。
「冷めないうちにどうぞ」促されるまま、ジニーと並んでソファーに腰を下ろす。「今朝、やけに荷物の少ない二人組の観光客を乗せたってタクシー運転手をしている友人が教えてくれてね。ピンときた」
眉毛の辺りを掻きながら説明する彼女の様子を見て、ハリーの胸に懐かしさが込み上げた。自身の名付け親も、モリーに叱られているとき何度か同じようにしていたのを思い出したからだ。
「さて、前置きはなしにして、本題に入りましょう。今日はどんなご用件があって、はるばるこんなところまで来たのかしら。まさか、バカンスというわけではないでしょう?」
彼女の深いブルーの瞳にはハリーとジニーが映っていた。じっと見つめてくる彼女の視線が、ハリーの心を掻き分けてくる。
ハリーが上手く応えられずにいると、隣にいたジニーが「実は」と代わりに話し始めた。
「実は、一昨日グリモールド・プレイスの家を掃除していたらあなた宛ての手紙が出てきたんです。早く届けた方がいいと思って」
「手紙?」
「これです」とハリーは鞄から手紙を取り出し、テーブルに置いた。
彼女はゆっくりとそれを手に取った。繊細そうな細い指先が、ほんの少し震えている。
封筒に書かれた『魔法いたずら仕掛人から素晴らしき友、レア・レストレンジに送る』の文字を、彼女はしばらく見つめ、そして優しく撫でた。
彼女の深いブルーの瞳がキラキラと瞬いた。それは星が散りばめられた夜空のようだった。
彼女はぱちぱちと瞬きを幾度かしたのち、封を切り中を取り出した。
出てきたのは一枚の便箋だった。
彼女がそれに目を通している間、壁掛け時計の秒針の音だけが小さく響いていた。
ハリーも、ジニーも、そしてジャックでさえも、彼女の一挙一動を見逃すまいとしている、そんな緊張が部屋を包んだ。
次の瞬間、彼女は小さく声をあげて笑った。予想外の反応に、ハリーは拍子抜けしてジニーの方を見た。眉を顰めたジニーと視線が交わる。
「二人ともこれ中身見た?」と彼女がこちらに便箋を向けたが、何も書かれていなかった。インク染みひとつない。
「……白紙?」
ジニーが困ったようにハリーを見た。しかしハリーもなぜ手紙に何も書かれていないのか、わからなかった。この手紙を届けるよう言ったのは、他の誰でもない、シリウスなのだ。すべてが終わり落ち着いてからでいい、届けてほしい手紙があると、最期にハリーに託したのだ。
ハリーたちが困惑している様子を見て、彼女は「何か複雑な魔法がかけられてるのはわかるけれど、残念なことにわたしの杖はシリウスが持って行ってしまったから、解きたくてもできない」と肩をすくめながら笑った。
「ハリー……」
ジニーの視線を左頬に感じながらハリーは考えた。彼女に一言ことわって、便箋を手に取ってみる。
裏返しても、透かしてみても、本当に何も書いていない。
(きっと、レストレンジさんの言う通り、何か魔法をかけてあるんだ……複雑で……でも僕たちには解ける、そんな魔法を……)
そこで、ハリーの頭の中に一つの可能性が浮かんだ。この便箋は、どこからどう見ても何も書かれておらず、知らない人が見ても、『ただの紙』にしか見えない。
──そう、『ただの紙にしか見えない』のだ。
ハリーは杖を取り出し、便箋に軽く触れて言った。
「われ、ここに誓う。われ、よからぬことをたくらむ者なり」
すると、たちまち、杖の触れたところから、細いインクの線がクモの巣のように広がり始めた。それらは、紙上で絡まり合い、やがて意味のある形に姿を変えてゆく。
便箋の上に、薄い雲のようなものが立ち込めた。
そしてその中から、小さな光がいくつも飛び出してきて、ハリーたちの頭上で弾けた。光のかけらは、薄いピンク色の花弁へと姿を変え、再び雲の中に舞い降りていった。
次々と打ち上がる光と、ひらひらと舞う薄桃色の花弁。それは、とても美しい魔法だった。
──シリウス。
小さな声が聞こえたような気がしたが、自分の喉からでたものか、もしくは他の誰かのものだったのか、わからなかった。
次に、光を縫うように、雲の隙間から何かが飛び出してきた。それは、白い牝鹿だった。
その牝鹿は、ハリーたちの頭上を自由自在に駆け回った。
それは、ジニーの身体にぶつかり、ふわりと煙を立たせたあと、とても美しい白馬へと姿を変え、舞い散る花弁を器用に避けながら部屋中を駆け回っていった。
ハリーは、わくわくしながらそれを目で追った。目まぐるしくも美しいその光景を、一瞬たりとも見逃したくなかった。
打ち上がっていた光が全て花弁へと姿を変えたとき、その馬は静かに彼女の前に舞い降りた。
彼女はゆっくりとした動作で、その馬に触れた。
すると馬はその場でくるくると回転し、犬の姿へと変わった。そして、彼女の顔の近くまで歩いていき、頬の辺りをぺろぺろと舐めた。
ハリーは、シリウスの遺した美しい『悪戯』が始まってから、初めて彼女の顔を見た。その夜空のような瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
犬は、彼女の頬に体をくっつけ、何度か頬擦りをした後、ふわりと消えた。
テーブルの上に残された便箋には、少し角ばった文字で、『親愛なる君に──愛をこめて シリウス・ブラック』と記されていた。
**
シリウス・ブラックに初めて会ったのは、ホグワーツに入学する四年前、わたしたちが七歳の時だ。
当時、既にホグワーツに入学していた上の兄二人は一族の伝統通りスリザリンに組分けされたことに加え、成績も大変優秀で、誇り高きレストレンジ家に相応しい良き息子たちだった。それに比べ、注意力散漫で、何をやっても兄たちより上手くできないわたしは、レストレンジ家一の出来損ないであり、恥ずべき汚点といったところだろうか。両親は口を開けば優秀な兄たちを褒め称え、わたしには「なぜ言われた通りにできないのか」「兄たちは優秀なのに」とオウムのように繰り返すばかりだった。
長いお叱りの後、わたしはよく、本邸からは隠れた位置にある納屋に放り込まれた。
なかは薄暗く、いつも冷たい空気が漂っていたため、最初は恐ろしくて泣いていたが、子どもの順応力とは素晴らしいもので、何度か繰り返されるうちにそれもなくなった。
納屋に放り込まれた調度品や絵画たちが、わたしの散漫な注意力を引きつけたからだ。それらは、両親の望み通り納屋に籠っている方がわたしと両親、双方にとって良いことだと気づかせてくれた。
その日の夜、レストレンジ家主催のホームパーティにブラック家を招待していた。いつものように、わたしは両親からパーティーの間中は納屋から絶対に出るなと言いつけられていた。
パーティー開始から一時間は経っただろうか。本館から漂う華やかかつ刺々とした空気を感じつつ、屋敷しもべ妖精が置いていってくれた紅茶を口に含んだ。魔法のかかったそれらは、いつも心地よい温度が保たれていた。
ふと外に人の気配を感じた。
格子窓から様子を伺うと、黒い髪の少年が一人、納屋の周りを歩いていた。「シリウス・ブラックだ」と自分の声が納屋に響く。いつか両親が兄達に、ブラック家長男のくせにマグル文化に傾倒するはみ出し者だから絶対に関わるなと注意していた、あのシリウス・ブラック。
わたしは、その言葉に抱いた親近感と少しの好奇心から、いない人間として振る舞わなければならないことを忘れたフリをし、声をかけた。
「こんばんは」
シリウスは突然聞こえた声に驚いた様子であったが、わたしの存在に気がつくと「あー、勝手に入ってすみませんでした」と来た道の方に身体を翻した。きっとパーティーが嫌になって抜け出したのだろうということは想像するに容易かった。
わたしの中の好奇心が、再びわたしの口を動かす。
「よかったら一緒にお茶でもいかがですか」
意外にもシリウスはわたしの誘いに素直に応じた。パーティー会場に戻るよりはマシだと考えたのかもしれない。
わたし達は同い年で、その上似た家庭環境にあったためか、すぐに打ち解けた。話しているうちに時間が経ってしまっていたようで、壁に掛けた時計に目をやると、そろそろパーティーが終わる頃だった。
扉まで見送りながら、「あなたと話せて楽しかった。三年後、またホグワーツで会いましょう」と手を振ると、シリウスがわたしの方を振り向いて言った。
「僕は、絶対グリフィンドールに入る。うちはみんなスリザリンだけど、そんなくだらない伝統に付き従ってやる義理はないからね。君もあいつらの言いつけを馬鹿丁寧に守らなくたっていいんだ。僕等はみんな、自分の進む道は自分で決める権利があるんだから」
シリウスの言葉を聞いて、わたしはトロールの棍棒で頭を殴られたような衝撃を受けた。シリウスは、自らの意志で血に抗い、そして自分の道を切り開かんとしている。そんな人間と、両親の言う通りにただ黙って流されているだけの人間が同じなはずがない。わたしは今までの自分が恥ずかしくなった。そして彼の生き方や強さに憧憬の念を抱いた。
「わたしも、あなたみたいになれるかな」
「全ては君次第さ」
シリウスのグレーの瞳は一寸の揺るぎもなくわたしを捉えていて、彼が心からそう思ってくれているのだとわかった。シリウスが放つ光は、海に沈んだ太陽のようだと思った。暗く冷たい海の底をずっと輝き続けている。彼が「できる」と言えば何でもできるのだ。そんな気がした。
三年後、わたしはレイブンクローに組み分けされた。初めて自分の意志で選んだ。シリウスの跡を付いていくこともできたけれど、それでは納屋に籠っていた頃と何も変わらないままだと思ったのだ。
結果として、レイブンクローはわたしの肌に合っていたようで、とても居心地が良かった。少し時間はかかったが、気の合う友人も数人できた。
『シリウス・ブラックのことが好きなのか』
その友人達から、在学中幾度となく投げかけられたその問いに、わたしはいつも曖昧な、否定ともとれるような言葉を並べた。
わたしは昔からずるい人間で、見ないフリや聞こえないフリをするのが得意だった。それはわたしの体質のせいでも、自分を守るための予防線でもあった。
わたしの頭の中はいつも、たくさんの声で溢れていた。いつからと問われれば、生まれた時からと答えるほかない。それが誰かの心の声で、普通は聞こえないということ、また、それが聞こえているということに気づかれてはいけないということ。それに気づいたのは、わたしが三歳のときだ。
もちろん、ホグワーツに入学し魔法を学んだことで、その力もある程度制御できるようになった。
ただ、学年が上がるともに周囲が色気づき始めてきて、そういうふわふわとした心は、わたしがどれだけ気をつけていても、勝手に頭の中に流れこんできた。
そして、その声の向く先には大抵シリウスがいた。
女の子たちがシリウスを見つめる目は、キラキラと輝いていて、花の開花のように美しかった。
それを見るわたしの目にはその輝きはなく、ただの煤けた瞳があるだけだった。その瞳が持っているのは、自分たちの血の貴さや『我が君』に対する信心深さについて滔々と語る両親や兄たちと同じ色だけだっだ。
わたしは彼女たちのような花を咲かせることもできないまま、ただただ目を閉じた。きっと、シリウス・ブラックに対して抱いた憧憬の念が、何か違うものに変わってしまうのが怖かったのだ。
頬に残った温もりと、わたしを心配そうに見つめる若い二人の魔法使いのお陰で、漸くわたしは目を開けることができた。
過ぎ去った時間は二度とは戻らない。しかし、あの学び舎で彼らと過ごした七年間は確かにあって、わたしという存在を肯定してくれている。シリウス・ブラックの光は、今もわたしの足元を照らしてくれているのだ。
**
数年ぶりの訪問者を保護呪文の外まで送り届けたあと、レア・レストレンジは再び木椅子に腰を下ろし、手紙を手に取った。
目の前の小さく丸いテーブルの上には、カップが三つ。なかの紅茶は、ずいぶん前に冷めてしまっている。レア・レストレンジは三つの中から一つ手に取り、残りを一気に飲み干した。
「ばかものめが」と、絵画の住人の一人が言った。「今日はとても星が綺麗だわ」「うむ、実に良いな」とは、その斜向かいの住人達。
レア・レストレンジは、窓の横に飾られたその額縁の方を振り向いて笑い、そして頷いた。
『バーン』
夏を告げる音がした。
窓の外では、夜空にいっぱいに大輪の花が咲き乱れている。そういえば、シリウス・ブラックがハリーの元へ飛びたった時もこんな空だった。
ああ親愛なる君。この空を見るたび、きっとわたしは君を想うのだろうな。
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