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Bite -change-








久々に彼の体温を含んだその部屋の空気は

それまでの虚無感を滲ませたものとは、明らかに異なって



重く、鈍く



その存在を液体の中に沈み込ませるような

そんな、妙な質感を帯びていた






.






「… 飲める?」



彼をソファに座らせて

温かい紅茶をその目の前に置けば


彼はゆっくりそれに目を向けてから
頷くことも、首を振ることもなく

また、静かに視線を下げた







俯いたまま、

小さな呼吸と瞬きだけを繰り返す彼の顔を、じっと見つめると




彼はその状態のまま

静かに、口を開いた









「… おれ、
すてられたんだ」









… あくまで淡々と、抑揚なく

つい先程知ったばかりの事実が、その赤い唇から溢れる







「… うん、」








微かに揺れる、その黒髪

心臓の裏に感じる痛みを押さえ込んで
小さく相槌を打った









「… いらないんだって、おれ」









"母親に、捨てられたんです"









「… おれは、

ひとりでも、大丈夫なんだって」









夕日の差し込む、喫茶店の角席

そこで聞いた過去と重なる、彼の言葉





まるで、思い返すかのように
その日の記憶を私に伝える彼に

抉られたように、胸が痛んで





目の前で俯向く彼の首に、そっと腕を回して

その冷たい身体を、また抱き寄せた







何も、言わなかった







… いや、正確には

何も、言えなかった








これまでの私の退屈すぎる人生

けれどその中には、当たり前のように家族がいて



そんなありふれた"幸せ"の中で生きてきた私には

彼の気持ちは、到底分からない







だから、せめて





彼の身体から伝わる、微かな震えが止まるまで

彼が口にした苦い過去の記憶が、少しでも遠のくまで






彼を抱き締めていたいと、

そう、思ったんだ









彼の首に回した腕に、

またきゅっと力を入れた瞬間

ふと、
私の腕に、彼の手がかかって




ゆっくりと身体を離せば

その漆黒の瞳に、私が映る









「…… もう、噛まないから、」

「… え?」









じっと私を見据えたまま、

その瞳が、わずかに揺れた瞬間




すっと私の頬を、

その冷えた大きな手が包んで









「……………… 望叶、」









その赤い唇から、

私の名前が溢れれば







まるで、何かを愛おしむように目を細めて

淡く、でもはっきりと

彼は、言葉を紡いだ









.








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「………… 抱きたい」









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