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青藍と天鵞絨

【星明かりの下で二人】

いつだって、彼が自分に向けてくれる視線は優しい。
「リンハルト」
自分を見掛けた時に声をかけてくれるその声と表情は穏やかで、出会ったばかりの頃の、鉱石のような硬質さは微塵も感じられない。
最初は理由が分からなかった。
でも、いつからかそれを、独り占めしたいと思うようにもなった。
「先生」
彼の傍には、よく人が集まる。
不思議な雰囲気の人だと言うのに、彼を慕う人は多かった。生徒のみならず、教師や騎士団の面々も、彼を慕っていた。
自分もその中の一人だと気がつくのに、それほど時間はかからなかった。
けれどそれはつまり、自分は彼にとって、あくまでも大勢の中の一人にしか過ぎないのだと、気がつくのと同義だった。
彼の優しい眼差しと声を独り占めしたいと、何となく思うようになったのはその頃からだ。
今まで大して欲しいものも無かったのに、彼のことだけは、全てを余さず理解して、自分のものにしてしまいたい。
修道院に来た頃の硬質さも、慣れてきた頃の柔らかさも、周囲に向ける優しい視線も、彼が持つ不思議な紋章も、ベレトというその人そのものも、全てを知りたくて、全てが欲しくて仕方ない。
彼が欲しかった。
リンハルトは、ベレトに恋をしていた。





*****





壁の花という形容詞は本来女性に使う言葉だが、もし男性に使っても良いとするのなら、今のリンハルトがまさしくそれだ。
仲睦まじい男女たちが、華やかな笑顔で大広間に舞い踊るのを見ながら、リンハルトは小さく欠伸を漏らす。
理論上は踊れるからと参加はしてみたものの、やはり今ひとつ乗り気になれない。正直面倒臭い。
よく知りもしない女子から、何故だかちらほら声は掛けられたが、リンハルトは適当にかわして逃げてしまった。
親友であるカスパルがいれば少しは気が紛れそうなものなのに、彼は恐らく、今日のご馳走に夢中になっているに違いない。
―――適当なとこで抜け出そう。
そう考えていると、不意に女生徒たちの黄色い声が耳に入った。
「ねえ、あれ、ベレト先生じゃない?」
一人の女生徒が指差した方向に、リンハルトも視線を向ける。
黒い外套が、大広間にひらめく。
クロードに手を取られ、戸惑ったような顔をしながら大広間の中心へと引きずり出される担任を見て、リンハルトは目を丸くした。
「先生、クロード君と踊るのかな」
誰かが興味津々と言った様子で囁いた。
『こういうのは、慣れてないんだ』
リンハルトは知っている。
ベレトはつい最近、白鷺杯の指導のために、舞踏を覚えたばかりだということを。
ベレトを引きずり出したクロードは、気取った表情でお辞儀をしてみせてから、楽しそうに笑ってベレトと向かい合わせになった。
ベレトはやれやれと言いたげな表情で、流されるままにクロードと踊り始める。
同じぐらいの背丈の男性二人、片や慣れた様子の青年と、片や覚束無い足取りの青年の組み合わせに、何人かの少女は好奇の目を向けて、ひそひそと話をしているようだった。
「あの二人、仲良いのかな」
そんなことはない、と、リンハルトは内心思う。
ベレトは誰とだって仲が良い。
裏を返せば、誰とも特別仲が良いわけではない。
リンハルトがずっと観察してきたベレトは、そんな人物だ。
気づけば、何だか酷く寂しいような、上手く言葉に出来ない感情が胸を占めていて、リンハルトは眉を顰めた。
あの場でベレトを独り占めしているのが自分ではないことが、とても悔しく感じられて、そこでようやく自分が”嫉妬”しているのだと、初めて気がつく。
けれどリンハルトに、二人へ割って入るようなことは出来なかった。
そんな権利は、自分にはない。
リンハルトもまた、ベレトにとって、特別な存在ではないのだから。
やがて舞踏会の音楽が鳴り止み、ホールで踊っていた人々も、ゆっくりと足を止める。
真っ先に動き出したのは、エーデルガルトだった。
共に踊っていた男性へ恭しく礼をするや否や、彼女は真っ直ぐベレトとクロードの元へ向かい、二人の間に割って入ったのである。
クロードはあっさりベレトを離すと、睨むエーデルガルトに対し、からかうように笑った。
当のベレトと言えば、何を考えているのかわからないような表情できょとんとしている。
ディミトリがそんなベレトに声をかけ、何やら楽しそうに話し始めていた。
―――次の曲が始まったら、きっとベレトは、エーデルガルトと踊るに違いない。
それを見るのも何となく憂鬱に感じられて、リンハルトはそっと会場から抜け出した。





*****





会場を抜け出したリンハルトは、女神の塔へと足を運んだ。
特に理由があったわけではない。
強いて言えば、何となくベレトも此処に来るような気がしたからだ。
多くの人から慕われるベレトだが、彼自身は、自ら人と深く関わろうとはしていないようだった。
声を掛けたり、相談を持ち掛ければ付き合ってはくれるものの、自分から踏み込んでくるわけではない。
そんな彼なら、そのうちあのお祭り騒ぎから抜け出して、一人になるために人気の無いところまで来るのではないか、と、リンハルトは思ったのである。
(……根拠は無いんだけどね)
誰ともなく独りごちる。
敢えて言うなら、確かめたかった。
自分がどれくらい、ベレトを理解出来ているのか。
余さず彼を理解したいと思っていながら、実はちっとも分かっていなかったのだとしたら、自分の恋には見込みがない気がする。
だからと言って、ベレトの来そうなところで待っているこの行為が、果たして正しいのかどうかは、分からない。
正直なところ、ベレトに対する感情は、リンハルトにとって、何もかもが初めてだった。
貴族らしさも平民らしさもなく、浮世離れした雰囲気を持つベレトは、誰に対しても淡々としていて、今ひとつ感情が読めない。
それを神秘的と捉えるものもいれば、気味悪がるものもいたし、大人びていると捉えるものもいた。幼いのだと捉えるものもいた。
リンハルトは、といえば、興味深いという気持ちが先立ったのは確かだ。
研究対象としてはこの上ない存在であることは間違いなく、実際好奇心と知識欲は抑えきれない。
あわよくば研究させて貰えないかなぁとは思っているのだが、未だ機会には恵まれていなかった。
研究対象としての興味だったはずが、どうして恋愛感情まで芽生えたのか、自分でも甚だ疑問だ。
今までこんな感情を誰かに抱いたことがなかったものだから、初めは何が何だかよく分からずに、酷く戸惑った。
これが世間一般で言う”恋”だと気が付いた時、最初に抱いた感想は、「面倒なことになった」である。
好きだの嫌いだの、駆け引きだの身分だの、リンハルトにとって”恋愛”とは、とにかく面倒事の印象しかなかった。
将来は嫌でも家督を継がされるであろう家のことを考えると、どうせ婚姻も政略結婚だ。
自分には不要だし、縁遠いものだと思っていたのに。
(……でも、先生になら、いいかな)
ベレトになら。
ベレトに対してなら、この感情を抱き続けていても良い。
リンハルトにとって、ベレトが特別な存在であるように。
リンハルトもまた、ベレトの特別な存在になりたかった。
―――不意に、足音が聞こえた。
リンハルトは何気無く振り返り、驚く。
見えた姿は、間違いなく、待っていた彼だ。
リンハルトは思わず、
「先生、遅いですよ」
と、声を掛けてしまう。
驚くベレトの表情に、何となく心を擽られて、リンハルトは笑った。





*****





リンハルトの予想通り、ベレトは人混みを避けて静かな場所に出てきたらしかった。
自分の予想が当たったのも相まって、少しばかりはしゃいだ様子のリンハルトを、ベレトは穏やかな目で見つめていた。
二人でしばらく話し込んでいると、ふと、ベレトが思い出したように、
「舞踏会には戻らないのか?」
リンハルトは首を横に振ってみせる。
「いやあ、やっぱり理論上踊れるのと実際に踊るのは別物ですよ……僕には向いてません」
リンハルトがそう言うと、ベレトは不思議そうな顔をしてみせた。
「白鷺杯では優勝したのにな」
「あれは多分まぐれです」
リンハルトは肩をすくめてから、悪戯っぽく笑った。
「もしくは、先生の指導内容が良かったんですかね」
「そう言われても、大したことは出来なかった気がするんだが」
「一緒に踊ってくれたじゃありませんか」
リンハルトの言葉に、何故だかベレトは気恥しそうな表情を浮かべた。
「……初めてだったからな。お前の足を踏まないように必死だった」
そうだ、と、リンハルトは思い出す。
修道院の庭で、白鷺杯の練習という名目で、オルゴールの演奏ではあったけれど。
ベレトが初めて踊った相手は、リンハルトなのだ。
その事実に、まだ少しだけ抱えていたもやもやとした嫉妬が、ようやく晴れたような気がした。
「……先生と踊れるなら、戻ってもいいんですけどね」
リンハルトが呟くように言うと、ベレトは一瞬目を丸くした
「……また揉みくちゃにされそうだな」
「先生、人気者ですもんねえ」
駄目か、と、リンハルトが諦めかけたその時だった。
「だから、」
と。
ベレトが、そっと手を差し出した。
「ここでなら」
思いがけない言葉に、リンハルトは思わず何度か瞬きした。
ベレトは真面目な顔をしていて、どうやら冗談でも何でもないらしい。
いや、ベレトが冗談を言うのを、リンハルトは聞いたことがなかった。
彼はいつだって真面目で、真摯に誰かと向き合っている。
リンハルトがずっと目で追い掛けていた彼は、少なくともそうだった。
「……良いんですか?」
「リンハルトが、嫌じゃなければ」
確かめるように聞き返した言葉に対する、返事がそれだった。
リンハルトは思わず微笑みながら、ベレトの手を取り、向かい合わせになる。
「僕が踊りたいって言ったのに、嫌なわけないじゃないですか」
ベレトも、安心したように微笑む。
大広間から微かに漏れ聞こえてくる音楽に合わせて、二人はゆっくりとステップを踏み始めた。
薄暗い塔の中を、月光と星明かりが照らしている。
華麗とは言えないけれど、互いを気遣うような足取りが、二人の距離をより近くする。
星々の光を受けたベレトの髪が、きらきらと光っていて、まるで藍晶石のようだと、リンハルトは思った。
(…………あ、)
一瞬、雲で隠れた月光が、再び二人の間に射し込んだ時だった。
夜にしては明るい光の下で見えた、ベレトの眼差しの色合いに、リンハルトは思わず目を見開く。
いつだって、彼が自分に向けてくれる視線は優しい。
けれど、今は。
今、この瞬間のベレトの瞳は―――リンハルトが知る中で、どの相手に対してよりも優しく、甘やかさを含んでいた。
それはまるで、愛しい者を見るかのような。
恋しい相手を、見るかのような。

―――自分は、とっくに望むものになれていたのかもしれない。

「……先生って、案外顔に出ますね」
「……ん?」
リンハルトの一言に、ベレトは戸惑ったような表情を見せた。
「な、何がだ……?」
「内緒です」
どうやら、ベレト本人は気が付いていないらしい。
リンハルトは笑いを堪えるようにしながら、くるりと身を翻し、ベレトも慌てて着いて行った。
「次の機会に、教えてあげますよ」
だから、このままもう少し踊っていましょうよ、と。
そう言うリンハルトに、ベレトは黙って頷いた。





リンハルトは、ベレトに恋をしている。
彼の優しい眼差しと声を独り占めして、彼の存在を余さず理解し、自分のものにしてしまいたいと思うほどには。
誰とも違う不思議な雰囲気も、時折見せる柔らかな笑みも、ベレトというその人そのものも、全てを知りたくて、全てが欲しくて仕方がない。
―――けれど。
『まだ早い』
そう言ってリンハルトを窘めた彼は、言葉通り、まだそれらを許してはくれないのだろう。
それでも、リンハルトは構わなかった。
ベレトが自分の想いを受け入れてくれるまで。
ベレトの想いを自分が教えて貰えるで。
いくらだって待てる。
ベレトに対してならこの感情を、ずっと抱き続けていても良いと思っていたから。
いつかは許してくれると、ベレトは確かにそう言ったのだから。

リンハルトにとって、ベレトは特別な存在だった。
そして自分も、ベレトにとっては特別な存在なのだと、リンハルトは気が付いてしまった。





彼らは、恋をしている。
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