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青藍と天鵞絨

【星降らぬ夜に一人】

星辰の節の夜、冷え込む空気から身を守ろうと、ドロテアは肩にかけたショールをかき合わせた。
暗い足元を踏み外さぬように、ゆっくりと一段ずつ、階段を昇っていく。
かつて士官学校があった頃は、ロマンチックな逸話と愛を囁き合う恋人同士で彩られていた、女神の塔。
けれど、今では人の気配など、ほとんどない。
唯一、変わり者である彼を除いて。
「リンくん」
ドロテアの声に反応するように、緑の髪がさらりと揺れた。
「ここにいたのね」
リンハルトは窓にもたれかかったまま、気だるげな視線だけを、ちらりとドロテアに寄越した。
「やあ、ドロテア」
そう言って、彼はまた窓の外へ目を戻す。
やけに素っ気ない様子が気にかかりつつも、ドロテアは気遣うように声を掛ける。
「そんなところで寝てたら、窓から落ちちゃうわよ?」
「僕だって起きてることはあるよ」
そういうリンハルトの声は、どことなくぼんやりしていて、宙に浮いている。
ドロテアは何となく落ち着かない気持ちになりながら、気丈な振りをして、リンハルトの傍に歩み寄った。
「何か用?」
リンハルトは星空を見上げたまま、隣へと並ぶドロテアに訊ねた。
ドロテアには星の見方などわからない。だから、リンハルトが何を見ているのかもわからない。
ただ夜空には、星と月が浮かんでいるだけだ。
「ハンネマン先生が探してたわよ」
「ああ……後で行くよ」
「ええ」
会話が途切れても尚、ドロテアは立ち去らなかった。
それに気づいたリンハルトが、ようやく不思議そうな表情をドロテアに向ける。
その表情がよく知る眠たげな青年のものであるのを見て、ドロテアは内心、密かにほっとした。
「どうかした?」
「ううん」
ドロテアは軽く首を振ってみせる。
「リンくんは今、何を考えてるのかしら、って思って」
「何をって……大したことじゃないよ」
そう言って、リンハルトはまた星空を見上げた。
「この時期のリンくん、誰にも何も言わずにふらっといなくなること、多いじゃない?」
ドロテアは、探りを入れるようにしながら訊いてみることにする。
「エーデルちゃんたちも、心配していたし……何か悩み事とか、あるんじゃないかしらって、」
「……四年前に」
「え?」
と。
リンハルトが、不意にドロテアの言葉を遮る。
「先生と、此処で約束したんだよね」
「……先生と?」
「そう」
彼らの間で『先生』とだけ呼ぶ人は、決まってたった一人だ。
『黒鷲の学級』の担任であり、『黒鷲遊撃軍』の指揮者となるはずであった人。
四年前に行方不明となり、未だに誰も再会出来ていない、慕うべき恩師。
そう言えば、と、ドロテアは、ふと四年前の今日を思い出す。
士官学校の舞踏会が開かれた、あの日。
クロードが、壁の花と化していたベレトを引きずり出したのをきっかけに、生徒たちは自分も自分もと言わんばかりに、彼と踊りたがった。
ドロテアも、冗談めかしてベレトの手を取り、踊って貰った……のだが。
「……って、待って」
そんなことよりも、もっと大変なことを聞いたような気がする。
「四年前って……」
「舞踏会の日だね」
「あ、あなた達もしかして、舞踏会のあとにここで逢ってた……の?」
「そうだけど?」
事も無げに言うリンハルトに、ドロテアは思わず口を抑えてしまう。
あの頃の女神の塔と言えば、恋人たちが将来を誓い、愛を囁く、そんな場所だったわけで、つまり。
「……あなたたちがそんな仲だったとは、知らなかったわ……」
驚くドロテアを尻目に、リンハルトはなんでもないことのように、
「まあ、僕の片思いなんだけどね」
「えっ?」
「先生もそうだと思うけど」
「ちょ、ちょっと待ってリンくん」
ドロテアはリンハルトを押し留め、大きく息を吐く。
「貴方たち、いったいどういう関係だったの?ちょっと、そこから説明してくれないかしら……?」
「だから、今言った通りだよ」
窓に頬杖をつきながら、リンハルトは言った。
「僕は先生に興味があったけど、まだ早いって、ずっとかわされてて。先生も、僕に興味……いや、あれは好意だったな、うん。はっきりとは言ってくれなかったけど、確かに先生は、僕を好きだったと思う」
「…………」
「つまりは、そういうことだよ」
ドロテアは額を抑えながら、リンハルトの話を、自分の中で整理する。
「えっ、と……リンくんは先生が好きで、先生がリンくんを好きなことも、リンくんは知ってるってこと?」
「そういうことになるね」
そういうことも、何も。
ドロテアは思わず、大きく肩を下ろして脱力してしまう。
「それって、片思いとは言わないんじゃないかしら……?」
「どうかなあ。先生の口から直接確かめたわけじゃないし……ふぁあ……」
リンハルトは軽く肩を竦め、小さく欠伸を漏らす。
「まあ、僕がここにいるのは、そんなわけだよ」
「そんなわけって……」
「先生は、約束を破ったりしないからね」
リンハルトは真面目な顔で言う。
「機会は僕が作るって言っちゃったんだけど、覚えてたら、来てくれるかもしれないし」
「……リンくん」
ドロテアは、思わず何も言えなくなってしまった。
今まで、毎年。
彼は、ここで一人、ベレトを待っていたのだろう。
来るとか来ないとか、行方が知れないだとか、そんなことはさておいて。
ただ、約束したから、と。
会いたい人が来るのを、待ち続けていたのだと、ドロテアは思い知らされた。
(……まるで、歌劇の恋物語だわ)
いや。
きっとそんな、安っぽい”作りもの”ではない。
自分の頭に巡った、数々の歌物語を打ち消して、ドロテアはあらためてリンハルトの横顔を見つめ直した。
リンハルトは、また星空を眺めていた。
「もう、大分冷える頃じゃない?」
不意に、リンハルトがドロテアに向かって言った。
「ハンネマン先生には、ちゃんと僕から言いに行くからさ。君は、もう戻った方が良いよ」
リンくんはどうするの、とは、聞けなかった。
彼はきっと、夜が明けるまで待つつもりなのだと、ドロテアは何となくそう思った。
「ええ……ええ。そうするわ」
これ以上彼の邪魔をしていたくなくて、ドロテアはそっと後ずさる。
「リンくんも、風邪を引かないようにね?」
「ありがとう。おやすみ、ドロテア」
「おやすみなさい」
ドロテアはそう告げると、音を立てぬように静かに、けれど出来るだけ早く、階段を降りていくことにした。
星空を眺めているリンハルトは、きっとベレトとの記憶に、想いを巡らせているに違いない。
自分の恋模様でもないのに、そのことが何だか無性に切なくて、ドロテアは少し、泣きたくなってしまったのだった。
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