青藍と天鵞絨
【繰り返す約束】
「先生は、僕を選んで後悔とかしてませんか?」
唐突なリンハルトの問い掛けに、ベレトはきょとんとした。
それまではベッドの上で甘えてくるリンハルトの髪を撫でていたベレトだったが、その手を止め、「どうしたんだ、急に」と、不思議そうに問い返す。
眠る前の穏やかな時間、二人で他愛のない話をするのはいつものことだったが、今日のは少し、毛色が違う気がした。
「よく言うじゃないですか、人生の選択がどうとかって」
リンハルトは欠伸まじりに言いながら、ベレトの膝に頭を載せたまま、彼を見上げる。
「もし先生が僕らの学級を担任してなかったら、そもそもこうしてる未来はなかったかもしれないですし」
「……そうかも、しれないな」
あの時、『黒鷲の学級』を選ばなければ。
あの時、エーデルガルトを護ることを選ばなければ。
あの時、リンハルトからの求婚を受け入れなければ。
今こうして、隠居後の生活を堪能していることはなかったかもしれない。まあ、堪能出来るまでには、散々色々、あったけれど。
「それに、先生って結構色んな人からもててたじゃないですか」
もっと撫でてくれと言わんばかりに、リンハルトはベレトの手に擦り寄る。
「他の人を選ぶ選択肢もあったんじゃないかなぁって」
「無いな」
「そうですか……って、いや、あの」
即答するベレトに、リンハルトは思わず身体を起こし、珍しく狼狽えるような表情を見せた。
「何となくそう来るとは思ってましたけど……返事が早くありません?」
「無いものは無いんだ」
なおもきっぱりとベレトは言う。
「将来を共に過ごすならお前が良いと、俺はずっと思っていたから。……後悔なんてしていないよ」
そう言って、ベレトは柔らかく微笑んだ。
「何か不安になることでもあったか?」
「そういうわけじゃ、……ああ、もう」
リンハルトは何故だか悔しそうな顔をして、ベレトに抱きついた。
「先生って、本当に僕が好きですね」
ベレトは笑いながら、リンハルトを抱き締め返す。
「ああ。ずっと昔からな」
「……僕もですよ」
リンハルトはそう言って、ベレトの肩に顔を埋めた。
強く抱き締められるのを感じながら、ベレトはしばらく、優しくリンハルトの背中を撫でていた。
「……そろそろ寝ようか」
伴侶の身体を気遣うように、ベレトは言った。
「明日は近くの街に市が立つそうだし、買い出しに行こう」
それを聞いて、リンハルトが顔を上げる。
「本の行商人も来ますかね」
「来るといいな」
出不精のリンハルトだが、ベレトと出掛けるのは嫌ではないらしい。
嬉しそうな彼の顔に、ベレトは少しほっとした。
「楽しみだなぁ……何か、お茶請けになるような甘いものもあるといいですね」
「そうだな。紅茶も買い足しておかないと」
「……ねえ、先生」
不意に、リンハルトがぽつりと、呟くようにベレトを呼んだ。
「ん?」
「くだらない話ついでに、もう一ついいですか?」
「……どうした?」
リンハルトの口調に、何となく心がざわめいて、ベレトは静かに訊ねる。
「……もし、明日目が覚めた時に、もう一度人生をやり直すことになっていたら……」
リンハルトは一呼吸置いて、ベレトを見る。
その眼差しは、どこか頼りなげで。
まるで、幸せを失うことを、恐れているような。
「……その時も、また、僕を選んでくれますか?」
「……ああ」
ベレトは、深く頷いた。
「約束するよ。俺は何度だって、お前に会いに行くから」
「……ふふ」
リンハルトは満足げに、けれどくすぐったそうに笑って、頷き返した。
「ありがとうございます、先生」
「どういたしまして」
今度こそ、安心してくれたらいい。
ベレトはそう思いながら、またリンハルトの髪を撫でた。
「愛してるよ、リンハルト」
「僕も愛してますよ、先生」
互いに口付けて、二人はベッドに潜り込む。
広いベッドの上で、彼らは身を寄せ合うようにして、眠りについた。
互いが互いを離さぬよう、抱きしめ合いながら。
*****
赤狼の節。
士官学校に赴任してから半年が経ち、ベレトもようやく教師としての職に慣れてきた。
最近では生徒との交流で茶会を開くようにもなり、そこでしか聞けない生徒たちからの話が密かな楽しみともなっている。
「あ、先生~!」
と。
元気の良い声が聞こえて、ベレトは思わず振り返った。
「もう、アンったら〜」
視線の先には、元気良く手を振るアネットと、くすくすと笑うメルセデスがいた。
「名前を呼ばなきゃ、どの先生かわからないじゃない?」
「あ、そっか……ベレト先生ー!」
どうやら自分が呼ばれていたらしい。
そう気付いたベレトは、小走りで二人に駆け寄った。
「どうしたんだ?」
「あのね先生!」
アネットはいそいそと、小さな包みを取り出す。
甘い匂いがするそれは、どうやら菓子が包まれているらしい。
「これ、良かったら食べて貰えませんか?」
アネットはそう言って、ベレトに包みを手渡す。
「貰っていいのか?」
「はい!もちろん!」
アネットの嬉しそうな笑顔に、ベレトも思わずつられて微笑んだ。
「ありがとう。甘いものは好きなんだ」
「本当ですか!?良かった〜!」
「渡せて良かったわねえ、アン」
メルセデスはそう言って、優しく笑う。
「うん!実はそのお菓子、昨日私とメーチェで作ったんです!あっ、て言っても、私はちょっと手伝っただけで、ほとんどメーチェが作ったんですけど……」
「そんなことないわ、アンもとっても頑張ってたじゃない〜」
「ありがとう、二人とも」
メルセデスが手伝っているなら、恐らく食べられないことはないだろう、と、ベレトは内心安心する。
アネットは真面目な頑張り屋だが、たびたび失敗をしでかすのだ。そう、例えば、砂糖と塩を間違えたり、とか。
「だが、どうして俺にこれを?」
ベレトがふと不思議に思って訊ねると、メルセデスとアネットは顔を見合わせて、笑い合った。
「だって、先生にはいつもお世話になってるもの〜。たまには恩返ししなくちゃ、ね?」
「うんうん!先生が私たちのクラスの担任になってくれて良かったです!」
「そうか……」
『青獅子の学級』の担任になって、半年。
自分にとっても生徒にとっても色々なことがあったが、彼女たちは、自分を指導者として認めてくれているということなのだろう。
それならば尚更、受け取らない訳にはいかなかった。
「ありがとう、メルセデス、アネット。後で大事にいただくよ」
「感想、後で教えてくださいね!」
「引き留めちゃってごめんなさいねえ。どこかに行くところだったんでしょう?」
メルセデスにそう言われ、ベレトははっとする。
今日は約束がある。それも、ベレトから誘いをかけた約束だ。
「ああ。それじゃまた、授業でな」
「はーい!」
ベレトは菓子をしまい込むと、急いで待ち合わせ場所に向かった。
修道院のテラスに置かれた四阿で、待ち合わせ相手の彼は、眠気を堪えるようにしながら、ぼんやりとテーブルに頬をついている。
「リンハルト」
ベレトが慌てて駆け寄ると、リンハルトは小さく欠伸してから、笑った。
「遅かったですね。もうちょっとで寝ちゃうところでしたよ」
「すまない……」
「いえ、大して待ってませんから」
どうやら怒ってはいないらしい。
それにしても、と、リンハルトは手際良くお茶を入れるベレトを見ながら訊ねる。
「お茶会に呼んで貰えるのは嬉しいですけど、どうして急に……」
「今日は7日だろう」
良い香りの立ち昇るハーブティーを二人分注いで、ベレトは微笑んだ。
「誕生日おめでとう、リンハルト」
リンハルトはしばらくきょとんとしていたが、ようやく事態を把握すると、興味深げな顔をしてみせた。
「他学級の僕の誕生日まで覚えてたんですか?先生って、案外マメですね」
「そうか?」
カレンダーにわざわざ印まで付けていた、などとは言えないし、言わない。
リンハルトはハーブティーを一口飲んで、「美味しいです」と微笑む。
「他の生徒の誕生日も、こうやってお祝いしてるんですか?」
「タイミングが合えば、な」
「ふぅん」
「……なあ、リンハルト」
自分もハーブティーを飲みながら(実はあんまり好みではないのだが)、ベレトはそれとなく切り出す。
「そろそろ、うちの学級に来ないか?」
リンハルトはぱちくりとまばたきすると、悪戯っぽく笑ってみせた。
「先生って、本当に僕のこと好きですね」
ベレトは思わず噎せた。
ハーブティーを零さぬようカップを置いて呼吸を整えていると、リンハルトがきょとんとしながら「違うんですか?」と言った。
「前から熱心に誘ってくれるんで、てっきりそうなのかと」
「いや……」
「ハーブティーもあんまり好きじゃないですよね」
「んんっ?」
「わざわざ僕のために選んでくれてるんだと思ってましたけど」
「…………」
何と誤魔化したものだろう。
ぼんやりしているようで確信をついてくるから侮れないのだ、彼は。
ベレトは少し迷ってから、嘘にはならない範囲で答えることにした。
「いや……その、生徒に好意を抱いている、という風に言ってしまうのは、教師としてどうなんだろう、と……」
「別に僕は構わないんですけどね」
リンハルトはしれっと言ってのけるが、それは果たして、どういう意味なのか。
彼が本音しか言わないと分かっているからこそ、踏み込んで聞くのが、何となく怖い。
ベレトが思わず黙り込んでしまうと、リンハルトが何かを察したように微笑んだ。
「まあ、考えておきますよ。他ならぬ先生の頼みですからね」
「ああ、そうしてくれると嬉しい」
「……ちゃんと覚えててくれたみたいですし」
「え?」
リンハルトの呟きに、ベレトは思わず目を丸くする。
リンハルトは、「いえ、何でもないですよ」と、悪戯っぽく笑った。
何度だって待ってますよ。
貴方が会いに来てくれるまで。