夏の磯の香りに包まれて
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
宿に戻る頃には、空がほんのり茜色に染まり始めていた。
石畳の小道を歩く間にも、サリスはずっと市場でもらった食材を抱えて大事そうにしていた。
抱えているのは布袋二つ。中身は海藻、イカ、貝、刺身用の魚、ついでに海藻パンや干物のおまけまである。
「すごく嬉しいわ。こんなに新鮮な食材、地上ではなかなか手に入らないもの」
「冷静に考えて、だいぶもらいすぎた気がするけどな。袋の口、もう閉まってないぞ」
「ふふっ、でも無駄にはしないわ。ちゃんと調理して、美味しくいただくの」
その目はまさに戦闘モード──ではなく、料理モード。
エプロンを手にした時点で、サリスはスイッチが入る。
宿に着くとすぐ、調理場を借りて夕飯の支度が始まった。
厨房の一角、石造りの流しと薪のオーブン。調理器具はそこそこ揃っていて、旅先にしては上出来な環境だ。
俺はまな板の上でイカの下処理を始めつつ、チラチラとサリスの方を見る。
……なんというか、様になってる。
髪をまとめて、真剣な横顔で魚を捌いている姿は、昔の“王女”なんて想像できないくらい自然体だ。
サリスは元々、真面目で聡明な性格だ。一度教えたことはすぐ覚えるし、なにより手先が器用。
料理も裁縫も、俺よりよっぽど上手だ。
まさに才色兼備、ってやつだな。……俺にはもったいないくらい。
「レオ、イカはどうやって火を通すの? 焼く? 煮る? 揚げる?」
「イカは炒めてもうまいけど、今日は“いかめし”にしてみようか。詰め物をして炊き込むんだ。中にもち米と出汁、あと刻んだ海藻を混ぜて……」
「いかめし……! 初めて聞く料理だけど、美味しそう!」
サリスは目を輝かせて、イカの胴体を手に取った。
「この中に詰めるのね……まるで巾着みたい」
「そうそう。あと、煮込み用の出汁もとっとかないとな。魚のアラと昆布、それにちょっとだけ香草を……」
「お任せを。さっきの魚の頭と骨、ちゃんと取っておいたの」
──抜け目がないな。
もう、王女ってより板前だよ、サリスさん。
手際よく作業が進み、厨房は次第に良い香りに包まれていく。
出汁の香りと炊き込みの甘辛い匂いが、空腹中枢を直撃する。
「なあ、ところで……」
俺は手元の作業を続けながら、ふと思い出して訊いてみた。
「イカは怖いけど、タコは平気なのか?」
「えっ、タコ? ……うん、タコは怖くないわ」
「見た目、似てるだろ? 吸盤とか足とか」
「見た目じゃないの。アトランティスのタコたちは、とても賢いの。王家直属の偵察部隊だったのよ」
「……は?」
「どんな場所にも入り込めて、擬態もできるし、敵の行動を読むのも得意。伝令や探査もこなしてくれる優秀な部隊だったわ。頭に小さな王冠をつけた子もいて──」
いや、待て。
サリスは真顔で言っているが、今ものすごいことを聞かされた気がする。
「……人間より有能じゃねぇか、それ」
「ふふ。実際、一部の貴族たちよりよほど優秀だったかもしれないわ」
「…………」
あぶねえ。
今日、タコを買おうとしてたの俺だぞ。
「ちなみにイカは?」
「イカはね、賢い子もいたけど……すぐ裏切るの。気まぐれで、自分の都合で姿を変えてしまうから。特に巨大な個体は凶暴で、アトランティスでは禁忌とされてたわ」
禁忌……。
それを今、調理している俺たち。
一歩間違えば、泣かれてたかもしれない。
(……タコ、マジで買わなくてよかった)
一生、サリスの前でタコは食えない気がする。
ていうか、うっかり注文したら裏切り者扱いされかねん。
──そんなこんなで、料理は順調に完成へと近づいていった。
鍋の中で、イカが静かに煮込まれ、ふっくらと膨らんでいく。
サリスは時々湯気に顔をしかめながら、煮汁を掬っては味見し、「うん、美味しい」と微笑む。
「あとは盛り付けね。レオ、今日のお皿はどれにする?」
「この青磁の皿が涼しげでいいんじゃないか? 夏っぽいし」
「賛成。じゃあ、副菜はこの貝の和え物と、海藻のスープ……ふふ、まるで“夕餉の宴”みたいね」
「だな。お前が王女様の時も、こんな晩餐だったのか?」
「ううん。もっと堅苦しかった。こうしてレオと並んで食べる方が、ずっと贅沢よ」
──……ほんと、ずるい。
*
『いかめし』
その料理を選んだ理由は、ちゃんとあった。
夕暮れ、海の光が窓辺に残るキッチンの空気。
いかめしの香ばしく甘い匂いが漂う中、サリスはテーブルを丁寧に整えている。
木のテーブルには、青磁の皿に盛られたふっくらとしたいかめし。
横には貝のマリネと、磯の香りが漂う海藻スープ、そして干した柑橘の薄切りが浮かぶ冷たい麦茶。
旅の途中のささやかな晩餐としては、上出来だ。
「……ねえ、レオ」
「ん?」
「どうして今夜、いかめしにしようと思ったの?」
サリスは不思議そうに俺の顔を覗き込む。
俺は頬をかきながら、少し照れたように答えた。
「前にさ、アマビエの話をしたろ?」
「ええ、東の海に現れる予言の妖精。髪が長くて、鱗のある……」
「そう。それから、“リュウグウ”の城とその城に住む”オトヒメ”様の話になった。あのあと、東方の文化についていろいろ語ったじゃねぇか。武具の違いとか、魔法じゃなくて“霊術”ってのがあるとか」
サリスはこくんと頷く。
目が少し輝いていた。
「あのときお前、すごく興味ありそうだったからさ。
いかめしっていうのは、その“東方の島国”の郷土料理なんだと。市場のおっさんが教えてくれた」
「そうだったのね……」
「だから、作ってみたくなった。お前に一番に食わせてみたかったんだ」
──一瞬、静かになった。
鍋の余熱が微かに鳴る音と、窓の外の潮騒。
サリスは黙ったまま、皿の上のいかめしを見つめた。
その姿を見て、俺は少しだけ不安になる。
もしかして、まだクラーケンのイメージが拭いきれてないんじゃ──
「……いただきます」
そっと、ナイフとフォークを手にしたサリスは、
迷いのない手つきで、いかめしを切り分け始めた。
胴体を真ん中からゆっくりスライスし、現れた中のもち米が、甘辛い煮汁を吸ってつややかに光っていた。
ほんのり磯の香りと、香草の風味。それが蒸気と一緒に立ちのぼる。
一口分を切り分け、フォークで口元へ運ぶ。
──そして、ひとくち。
「…………」
彼女の瞳が大きくなった。
「……美味しい」
ほんの囁きのような声。けれど、震えていた。
「もちもちしてて……それで、イカは柔らかくて、でも香ばしいの……お米がこんなに味を含むなんて。地上って、すごいのね……」
ゆっくり、ゆっくりと咀嚼して、目を閉じるサリス。
まるで味の記憶を体に刻んでいるようだった。
「……本当に、美味しい」
「気に入った?」
「うん。すごく」
その笑顔を見て、胸が温かくなった。
作ってよかったと思った。
「東方の島国に行くまでに……お箸の使い方、覚えなきゃね」
そう言って、サリスは照れたように笑った。
口元に少しだけ、煮汁がついている。
俺はそれを指でそっと拭ってやる。
「箸の練習なら、いつでもつき合ってやるよ。……俺、箸はちょっと得意だしな」
「ふふ、頼もしい」
「いずれは……その国の家庭料理も、一緒に作れたらいいな」
「うん。ふたりで、作って、食べて。……そんな旅、いいわね」
ふたりで食卓を囲む、そんな時間がずっと続けばいいと思った。
きっと世界中どこに行っても、たとえ異国の地でも。
こうして笑い合って、鍋の湯気に包まれながら、同じ味を分け合っていけるなら。
それだけで、十分だ。
「ねぇ、レオ」
「ん?」
「……今日の料理もすごく美味しかったけど、あなたが選んでくれたってことが、何より嬉しい」
「……そりゃ、反則だろ」
照れ隠しに、俺はわざと口を尖らせた。
するとサリスは、いたずらっぽく笑って立ち上がり、俺の頬にそっとキスをした。
「ごちそうさま。レオ、だいすきよ」
──もう、だめだ。
いかめしの味なんて、今となっては全部吹き飛んだ。
代わりに、胸の中には甘くて熱いものが満ちていく。
この夜のことを、俺はきっと、ずっと忘れない。
いかと米と、ちょっぴり煮汁が香る、小さなキッチンの晩餐。
それが、こんなにも幸せだったなんて。
──マリエッタの、海の香りに包まれた夜。
俺たちは満ち足りた心で、静かに手を繋ぎ、眠りについた。
──Fin
2/2ページ
