夏の磯の香りに包まれて
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──夏。
潮風に乗って魚と香草の香りが混じり合い、鼻腔をくすぐる季節。
港町マリエッタは朝から活気に満ちていた。
通りには威勢のいい掛け声が飛び交い、陽光を浴びた魚の鱗がまばゆいほどに輝いている。いわば、魚好きには夢のような市場だ。
そんな中を、俺とサリスはゆっくり歩いていた。
手をつなぐでもなく、ただ横に並んで。けど、彼女の袖が時々俺の腕に触れる。それだけで、もう十分だった。
サリスはと言えば──まるで目を輝かせる猫みたいに、市場のあちこちをきょろきょろ見ている。
焼き魚の香りに足を止め、干物に顔を近づけ、煙の上がる鉄板に釘付けになり……。
見ているこっちが楽しくなってくるほど、彼女は市場の熱気と香りにうっとりしていた。
その姿を横目に、俺は内心で小さくため息をつく。
(なんだか……腹が減ってきたな)
不思議なことに、サリスと出会ってから俺の食欲はえらく増した。
以前は旅の最中、水さえあれば数日は平気だったってのに。最近じゃ朝昼晩、しっかり食って、間食までする始末。
この前もつい言ってしまった。
「俺、お前といるせいで三食食わなきゃ持たない身体になった。責任取ってくれよ」
するとサリスは少し得意げに、けれど真顔でこう言った。
「あら、健全なる精神は健全なる身体に宿るのよ。良いことじゃない」
冗談のつもりだったんだが……なんか妙に説得力があって、ちょっと怖かった。
たぶん“王族の教養”とかそういうやつだ。
そんなことを思いながら、俺は魚の並ぶ露店を眺めていた。
今夜の夕食に何を作るか考えながら──気分は完全に主夫である。
「アジの香草焼きもいいけど、たまには煮つけも……いや、汁物も欲しいな。鯛の骨を出汁にして……」
かつて血と鉄の匂いに包まれた日々を思えば、いまの俺は平和そのものだ。
それに、こんなふうに献立を考える時間すら、心地よく思える。
そうやってぼんやりしていたら──
サリスが俺の服の裾を控えめに、ちょん、と引っ張った。
「ねぇ、レオ……あれって……」
妙に不安げな声だった。
視線を追ってみれば──そこには、大量のイカがずらりと並んでいた。
「……あれって、クラーケン? 海の魔物の……」
……いや待て。
サリスの顔が真剣すぎる。あれは完全に“警戒態勢”に入ってる。
「いやいや、あれは普通のイカだよ。魔物じゃないって」
「クラーケンの……幼体とか、じゃなくて?」
「違う。幼体どころか、クラーケンだったら市場の屋台が全部吹っ飛んでる」
「でも、あの脚……ちょっと似てる。昔、乳母に言われたの。クラーケンは人魚を食べるから、近づいちゃダメって……」
真顔だ。しかもやや引き気味。
こりゃ本気でビビってる。
──まぁ、たしかに。
クラーケンってのは、海に棲む巨大な魔物。触手で船を沈める、魚を丸呑みにする、人魚を食べる……って伝説まであるらしい。
最近ではめっきり数は減ったらしいが、街のギルドでは時々討伐依頼も出ているとか。
「……食ってみるか?」
「え"っ」
「イカ。煮ても焼いても刺身でも美味いぞ」
「クラーケンって、食べられるの?時々人間も飲み込まれてるって聞くのに…?」
「いや、イカな。普通のイカ。それとクラーケンは食用じゃない。臭くて硬くて、食えたもんじゃないって話だ」
しばらくサリスはイカを見つめ、真剣に思案していたが──やがてこくりと頷いた。
「……レオが美味しいって言うなら、信じるわ」
あまりに素直に言うもんだから、俺の心臓が跳ねた。
なにそれ可愛すぎない? 海の王女ってこんなに純粋だったっけ??
「いらっしゃい!そこの兄さん、そこの嬢ちゃん、見る目があるねぇ! 今日入ったばかりの特大アカイカ、刺身も焼き物も絶品だよ!」
呼び止められたのは、市場のど真ん中で一際目立つ元気な店主が営む魚屋だった。
威勢のいい声に押されて、俺たちは思わず足を止めた。
「ほら、奥にあるこの殻付きの貝も新鮮でね。煮ても焼いても海の香りがそのまんま味わえる! それからこれ、珍しい海藻なんだけどさ──」
──気づいたら、大荷物になっていた。
魚、貝、海藻、干物に塩辛、さらにその場で捌いてくれた刺身まで。
「これ、全部でいくら?」
「……そうだな、ふたりの仲睦まじい笑顔に免じて……タダ、とはいかねぇけど、半額でどうだい?」
「いや、ちょっと待て、それはさすがに……」
「いいの、レオ。ありがたくいただきましょう」
──サリスが微笑むと、店主は顔を真っ赤にして照れていた。
なんだろう、この魔性の人魚感。人間の街でも容赦ないぞ、こいつ。
市場を離れて、ふたりで歩いていると、改めて俺は荷物の量に驚いた。
「……俺たちが買った分より、明らかに多くもらってないか?」
「え? そうだったかしら? 私、何もしてないわよ」
本人はまるで無自覚らしい。無邪気に首をかしげるその仕草に、また惚れ直しそうになる。
だけど、これには慣れてきた。どこに行っても、だいたいサリスの笑顔が最強である。
──そういえば、昔こんな話を聞いたっけな。
王女時代、彼女の元には貴族たちからの求婚が絶えなかったらしい。
正式にアラリオンとの婚約が決まった後も、諦めきれない男どもが何人もいたそうで……中には、夜中に城の寝室まで侵入してきた輩もいたとか。
「聞いただけで殺意が芽生えた」と当時の俺は本気で呟いたもんだが、今でもその気持ちは変わらない。とっくの昔にサリスに夜這いをけしかけようとしたその愚かな輩は、王直々、然るべき重い処罰を受けたらしいが、俺がその場にいたら絶対半殺しにしていた。いや、たぶん海の藻屑にしていたと思う。
けれど、サリスはそんな過去をさらりと語っていた。
『きっとみんな、私の“王女”って立場に惹かれただけよ』
……それは違うと思う。
確かに立場に惹かれた者もいただろうが、彼女の微笑みや、どこか儚げで、けれど芯の強さを感じさせるその存在に惹かれた者も多かったはずだ。
アラリオン──あの男だって、間違いなく本気だった。
初めて会ったとき、俺はサリスを巡って彼と剣を交えた。
命を賭けて、想いをぶつけ合った。
でもきっと今なら、敵対せずとも落ち着いて話せる……そんな気がしている。
「あいつ、今頃何してるんだろうな……」
街の喧騒の中、ふと空を見上げてそう呟く。
もしかしたら、あいつも今頃、人間の世界を歩きながら、サリスとの思い出を振り返っているのかもしれない。
けれど──悪く思うなよ。
俺がサリスに惚れたのも、
彼女が俺を選んでくれたのも、
それは誰にも否定できない、揺るがない事実だから。
「レオ?」
「ん」
「……なんだか、急に遠い目してたから」
「ちょっと昔を思い出しただけ」
「ふふ、旅をしてると、思い出も増えていくわね」
そう言って、サリスは俺の腕にそっと手を添える。
ふと気づけば、通りすがりの老夫婦が俺たちを見て、にこにこと微笑んでいた。
「ほら見て、若いご夫婦、仲睦まじいねぇ」
──またか。
もう何度目になるか分からないけど、「夫婦に間違われる」のはだいぶ慣れてきた。
サリスがクスクス笑って、「また言われたわね」と囁いてくる。
俺はと言えば、毎度のことながら、頬のどこかがほんのり熱い。
「……俺たち、まだ夫婦じゃない」
「うん。でも“まだ”よね?」
サリスはにっこり笑って、そっと俺の手を握り直す。
そう、“まだ”だ。
だけど、その言葉が持つ未来に、俺は確かな温もりを感じていた。
