白紙の彼女
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
目が覚めた瞬間、胸の奥がぎゅうっと締めつけられた。
天井の木の梁、外から聞こえる鳥の声。
窓の隙間から入る朝の光が、揺れるカーテンを淡く染めている。
ゆっくりと目を閉じて、呼吸を整える。
……夢、だったんだな。
サリスが俺を忘れてしまう夢。
「どなたですか?」と、悲しい目で見つめてきたあの表情が、今も脳裏に焼き付いている。
わかっている。現実じゃない。
なのに、胸の奥がずっとざわついていた。
リビングに行くと、サリスがいつも通りテーブルを整えていた。
栗色の髪を肩でまとめて、白いエプロンのリボンを器用に結んでいる。
その何気ない仕草にさえ、愛しさがこみあげてくる。
「おはよう、レオ。今日はね、オムレツにしてみたの。ちゃんと火加減見たから!」
「……ああ。うまそうだ」
頷きながら椅子に座ると、サリスがふっと微笑んだ。
その笑顔を見ただけで、胸のざわつきが少しずつ溶けていく気がした。
──忘れてなんかいなかった。
目の前にいるサリスは、俺の知っている“サリス”だった。
けれど、あの夢の残り香は思いのほか深く、簡単には消えてくれなかった。
パン屋の前の石畳、倒れたサリスの姿、
「この髪……」と震えていたあの手。
現実には起こっていない。そう分かっているのに──
「レオー、ミルク切らしちゃったから買いに行ってくるわ」
その言葉に、全身がビクッと強張った。
サリスがミトンを外しながら振り返る。
いつも通りの無邪気な笑顔だ。
だが俺は、あの夢を思い出してしまった。
パン屋へ向かう途中、彼女が倒れた場所。
何度も後悔した場所。
抱きしめた腕の中で、彼女が“俺を知らなかった”場所。
正夢になんて──させるもんか。
「っ待ってくれ!俺が行く。お前は留守番していてくれ」
予想以上に強い声が出て、自分でも驚いた。
サリスは目をぱちぱちと瞬かせて、きょとんとした顔でこっちを見る。
「えっ?でもすぐそこだし……もしかして、この間わたしがミルクと間違えてヨーグルトを買ってきたから信用ない?」
「……違う。そうじゃないんだよ」
なんて説明すればいい?
夢の話だなんて、馬鹿げて聞こえるだろう。
でも、ほんの数分のあいだに、すべてが変わってしまうかもしれない。
たったひとりで出かけたその先で、彼女がもう“俺を知らない顔”をするようになるかもしれない。
そんな恐怖が、身体に根を張っていた。
「……何となく、お前をひとりにさせたくない」
言葉にすると、ほんの少しだけ楽になった気がした。
嘘じゃない。これが本音だ。
けれど、サリスはその言葉にふっと目を細め、
まるで全部お見通しだと言わんばかりに、にこりと微笑んだ。
「じゃあ、一緒に行きましょう!」
「え?」
「ふたりなら、ミルクも間違えないわ。ね?」
そう言って、俺の手を取った。
その手は、夢の中と同じくらい温かかった。
でも、しっかりと現実を生きている、今のサリスの手だった。
俺の“恐れ”を、彼女は知らないはずだ。
けれど、それでも“ひとりにしない”と、自然に応えてくれる。
そういうところが、サリスなんだ。
並んで歩く道は、特別なことなんてないいつもの街角。
でも、俺にとってはこの上ない奇跡だ。
信号を渡る時も、手を繋いで歩くこの瞬間が、
たまらなくいとおしい。
パン屋の横を通るとき、少しだけ足がすくんだ。
でも、手のひらに感じるぬくもりが、
「もう大丈夫だよ」と、俺を支えてくれた。
ミルクを買って、帰る道すがら。
サリスがふと立ち止まり、小さく呟いた。
「……ねぇレオ、もしも、わたしがあなたのことを忘れてしまったら……どうする?」
ドキリとした。
あまりにも夢と重なる問いかけだった。
けれど、今はもう迷わない。
俺は彼女の手をしっかりと握り直して、こう言った。
「そのときは、また初めから始めるよ」
「え?」
「名前も、旅も、歌も、笑顔も──全部、一からやり直す。
……だって、お前が俺を忘れても、俺はお前を愛してるから」
サリスの目が、ふわっと見開かれる。
次の瞬間、照れくさそうに、けれど嬉しそうに笑った。
「……うん。そのときは、また“はじめまして”って言ってね」
「“綺麗な歌声ですね”から始めるよ」
「ふふ、じゃあ次はもう少し、お淑やかな人魚姫を演じてみようかしら?」
「やめとけ。たぶん3日でボロが出る」
「まぁ!失礼ね」
いつも通りの、何気ない会話。
でも、俺はこの時間を二度と手放したくないと思った。
何が起きても、何を失っても。
俺はきっとまた、彼女に出会って、恋をして、愛するだろう。
何度でも。
そう思いながら、俺たちは並んで歩いた。
小さな紙袋の中には、瓶入りのミルクと、女将さんからのおまけのパン。
俺の心の中には、あの夢を乗り越えた、確かなぬくもり。
そして、何よりも──
彼女の手があった。
