白紙の彼女
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あの日から、サリスの記憶は戻らなかった。
どれだけ話しかけても、どんなに優しく触れても、
彼女は“俺”という存在を、遠くの誰かのようにしか見なかった。
いや、それでも最初よりはずっと……ずっと、やわらかくなった方だ。
最初は怖がっていた。ベッドに身を引き、俺の顔をまともに見ようともしなかった。
でも、今は違う。
彼女は俺の名を呼ぶ。「レオさん」と。
俺が差し出したカップを受け取ってくれるし、
日が落ちたあとの道を一緒に歩くこともある。
だが、それは“恋人”ではなかった。
知らない人に対する、丁寧で礼儀正しい距離。
サリスの視線は、どこか一線を引いていた。
今日も、あたたかな昼下がりだった。
陽の光が、カーテンの隙間から床を照らし、テーブルには焼きたてのパンが並んでいる。
俺は小さく深呼吸してから、言った。
「……もう少し、俺と一緒に旅を続けてくれないか?」
パンをちぎっていたサリスの手が、ぴたりと止まる。
しばらくして、彼女は静かに言った。
「……レオさん。このまま私のそばにいても、あなたに迷惑をかけるだけです」
顔を上げた彼女の目は、穏やかで、でも決して揺れていなかった。
「私には……この世界が分からないんです。
ここがどこなのか、自分が誰なのかも曖昧で。
でも、あなたと一緒にいればいるほど、
“忘れてしまったこと”が、あなたを傷つけてるような気がするの」
彼女の手が、膝の上できゅっと握られる。
「……私はこのまま、この街に残ります。私のことはどうか忘れて……、
レオさんは……どうぞ、旅を続けてください。」
…嘘だ。こんなのってあるかよ。
お前のことを忘れろって?そんなの無理に決まってる。
なぁ、神様。
もし、俺の願いが届くのなら、
彼女を、サリスを返してくれ。
彼女が何をした?
それとも、あんたらが俺に求めているのは、
過去の罪への報いか?
「本当に…ごめんなさい。今までいろいろ、ありがとうございました」
深々と頭を下げる彼女。その肩は小さく震えていた。
それは、彼女なりの“別れよう”だった。
俺は、うまく言葉を返せなかった。
「そうか」なんて強がりも、「嫌だ」なんてすがりも出てこない。
ただ、胸の中がひどく冷たくなっていくのを感じた。
「分かった」と言って立ち上がった足は、妙に軽く、
けれどそのくせ、何歩歩いても全然前に進んでいないような感覚だった。
─────
気がつくと、暗闇にいた。
音もなく、光もない。
何も見えない。何も聞こえない。
立っているのか、倒れているのかすら分からない。
心が、どこか遠くへ離れていくような感覚だけが、じわじわと残っていた。
「……サリス」
声に出してみても、何の反響もない。
もう、届かないのか。
もう、終わりなのか。
ここにいるのに、彼女がいない。
名前を呼んでも、目を合わせてくれない。
触れても、愛を知らない目で「どなたですか」と言われる。
そんな現実に、心が削れていく。
静かに、確実に、崩れていく。
そのとき。
どこからともなく、柔らかな声が響いた。
──レオ? 朝ごはん出来てるわよ。
……え?
鼓膜に染み入る、聞き慣れた声。
風の音と、湯気の立つ音と、パンをちぎる小さな音と一緒に、
サリスの声が、明るく、楽しげに響いた。
「起きてる?もう…珍しくお寝坊さんね。
今日はね、女将さんがたくさんパンを焼いてくれたのよ。お裾分けもらっちゃった」
その声に導かれるように、まぶたを開くと──
そこに、サリスがいた。
朝の光に包まれて、栗色の髪を緩く編んだまま。
キッチンの前で、俺に向かって笑っていた。
「レオ〜?」
おーい、生きてますか〜?と言うような仕草で、俺の目の前で手をひらひらと振る。
まるで、夢の中のあの暗闇を追い払うように。
「……どうしたの? 泣いてるの?」
そう言って、サリスはすっと俺に近づき、
その細い指で、俺の目尻をそっと拭った。
温かくて、優しくて。
その触れ方が、たまらなく懐かしくて──
俺は、たまらずその手を掴んでしまった。
強く。必死で。もう二度と離さないと、そう言うように。
「……俺のこと、思い出したのか?」
声が震えた。
情けないくらい、泣きそうな声だった。
けれど、サリスはきょとんとした顔で、くすっと笑った。
「やだわレオったら。私がいつ、あなたのことを忘れたのよ?」
その一言に、胸が熱くなって、喉が詰まった。
夢だと気づいたのは、その時だった。
でも、いい。
こんなにもあたたかくて、優しい夢なら。
何度でも、また見たいと思った。
