白紙の彼女
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あの昼下がり、空はやけに穏やかで、風も柔らかかった。
サリスが「お昼用のパンを買ってくるね」と、ふわりと笑ったのが最後の言葉だった。
俺は「一緒に行く」と言ったが、彼女は手を振って、「すぐそこのパン屋さんだし」と気軽に答えた。
その笑顔に、疑いなんて抱くはずがなかった。
……それが、間違いだったのかもしれない。
──あのとき、なぜ俺はついて行かなかった?
──なぜ、あの一瞬を止められなかった?
パン屋の前の通りで、馬車が制御を失った。
叫び声と悲鳴。
そして、サリスが身を投げ出して、幼い子どもを庇ったと聞いた。
頭を強く打ち、倒れたまま動かなかったと。
血に染まった石畳と、名前も知らない子どもが泣きじゃくっていたと。
俺が駆けつけたとき、すでに治癒魔法士がその場にいた。
だが、頭を打った影響は深く……彼女は、そのまま昏睡状態に陥った。
医者は「命に別状はない」と言った。
治癒魔法が間に合ったのは奇跡だと。
けれど、目を覚ますかどうかは、時間次第──と。
それからの二日間、俺はろくに眠れず、ずっとサリスのそばにいた。
彼女の手を握りながら、何度も何度も心の中で祈った。
「……どうか、戻ってきてくれ」
神でも精霊でも、誰でもいい。
この命を差し出してもいいから、彼女の笑顔をもう一度。
それだけが、願いだった。
そして、二日目の午後。
夢のような時間がやってきた。
「……ん、……っ」
その細い指が、ゆっくりと動いた。
まぶたが震え、淡い光のような瞳が、俺を見上げた。
「サリス……! サリス! 俺だ、レオだ!わかるか?」
ほとんど泣きそうになりながら、彼女の名を呼ぶ。
けれど──その目に浮かんだのは、安堵でも、喜びでもなかった。
不安。
恐れ。
そして、見知らぬ者を見るような、距離。
「……あの……あなたは……どなたですか?」
心臓を、凍える刃で一突きにされたような衝撃だった。
俺は何かの冗談かと思った。
すぐに笑って、「嘘よ」なんて言ってくれるんじゃないかと。
けれど、彼女の顔に浮かぶ困惑は、本物だった。
「ここはどこ……? 私……なぜ人間の姿に……? お父様は……海は……それに、この髪……?」
彼女は、自分の姿を見下ろしながら震えていた。
自分が人間の身体になっていることすら、覚えていない様子だった。
──俺のことも、覚えていなかった。
俺たちが過ごした日々も。
旅をした時間も。
海辺で交わしたキスも。
全部、全部……彼女の中から、消えていた。
「サリス……俺は、レオだ。お前の──」
言葉が、続かない。
何をどう言えばいい?
どこから、何を伝えればいい?
この手のぬくもりも、この部屋の色も、あの朝のスープも、
彼女には“知らない世界”になってしまったというのか。
サリスはベッドの上で、まるで迷子のように怯えていた。
その姿が、あまりにも悲しくて、あまりにも愛しくて、
俺はただ、膝をついたまま、その手をもう一度握った。
彼女が覚えていなくても、俺は覚えている。
世界がどう変わっても、この気持ちだけは、消せるものか。
「……大丈夫だ。お前が忘れても、俺が覚えてる。だから……一緒に、取り戻していこう」
そう、言うのが精一杯だった。
