人魚伝説に溺れる男
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宿に戻るころには、空はすっかり夜の帳に包まれていた。
城下町の石畳に、街灯の橙色がぽつぽつと灯る。
人通りもまばらになり、行き交う人々の足音がやけに静かに響いていた。
「……ただいま」
部屋に入ると、サリスが小さく呟いた。
自分の家でもないのに、そう言うところがなんだか可愛くて、
俺は苦笑しながらドアを閉めた。
暖炉には薪がくべてあって、柔らかな灯りが部屋を照らしている。
あたたかい匂いと、外気との差にふっと肩の力が抜ける。
「レオ、ちょっと座ってて。紅茶、淹れるわね」
「……ああ、じゃあ俺は本を整理しておくよ」
ベッド脇の小さな丸テーブルに、サリスが借りた本を積み直していく。
どれも分厚くて、重たい魔導書や伝承集だ。
けど、彼女の目がまたあのときのように輝いていて、
その光を見るだけで疲れなんて吹き飛ぶ気がする。
「ふぅ……お待たせ。今夜はベリーの葉のお茶よ。香り、好きでしょ?」
「好き。……っていうか、なんで知ってるんだ?」
「いつもあなたが飲んだ時に“ふーっ”て幸せそうな顔をするから。見ててわかるのよ」
そう言って、湯気の立つカップをそっと差し出してくる。
口元には、ふわりと優しい笑み。
「……ありがとな」
小さく礼を言ってカップを受け取り、ひと口啜ると、
甘酸っぱくて、どこか懐かしい味が広がった。
───
夜が更けていく中で、ふたりはベッドに腰を下ろし、借りてきた本を少しずつめくっていく。
「ねえ、レオ。この“風の民と月の神話”っていう本、見て?
ここに“風と契約を結んだ乙女”が出てくるの」
「へえ……“風と契約”? ……なんか、心当たりあるな」
「ふふっ、でしょ?」
本の中の乙女が竪琴を奏で、風を従えて歌う場面。
それはまるで、サリスそのものだった。
サリスは読みながら、足を小さく揺らしたり、
ときどき声に出して文章を読んだりする。
その声が心地よくて、俺はうとうとしかける。
「……寝ちゃだめよ。読み聞かせのつもりじゃないんだから」
「……いや、違う。お前の声が心地いいんだよ」
「もう……じゃあ、眠くなるまで隣にいて。ちゃんと聞いててね」
「もちろん」
気がつけば、俺たちは並んで座ったまま、互いの肩によりかかっていた。
あたたかい紅茶。
ふたり分の吐息。
パチパチと薪のはぜる音。
──こんな夜が、ずっと続けばいいのに。
サリスがページをめくる指を止めた。
「ねえ、レオ。さっきの伝説の話だけど……」
「ん?」
「“キスをすれば、水の中でも息ができる”って、
……レオが言ってくれたから、私も信じてみたくなったの」
「……そうか」
「私、もう海の中じゃ生きられない。精霊の加護もないし、尾鰭もない。
でもね……あなたがいてくれたら、地上で、こうして生きていくことができる気がするの」
その言葉は、まるでそっと心に触れる風みたいだった。
俺は静かに、サリスの髪に手を伸ばす。
その栗色の髪を、やさしく撫でながら囁いた。
「だったら……俺は、お前にとっての空気になってやる」
「え?」
「お前が生きるために、必要なものになる。
誰よりも近くで、お前を支えていく。
だから……これからも、俺の隣にいてくれ」
サリスは目をぱちくりさせたあと、くすっと笑った。
「ふふっ、レオのそういうところ、ほんとにずるいわ」
「そりゃどうも」
「……でも、嬉しい。ありがとう。レオ」
そして、彼女はそっと俺の肩にもたれてきた。
本は閉じられ、灯りが落とされる。
部屋の中には、静かな夜と、おだやかな鼓動が流れていた。
彼女は眠たそうに目を閉じたまま、小さく口を開いた。
「明日も、一緒に何か読みましょうね……今度は、海の精霊の話……」
「……ああ。楽しみにしてる」
俺は彼女の髪に唇を寄せ、そっと一言、心の奥から告げた。
「おやすみ、サリス」
そして今夜もまた、伝説より甘くて、
日記にも残せないほど静かな幸福が、俺たちの間にそっと灯った。
──この物語に、誰かの注釈も、書き加えも必要ない。
このぬくもりがあれば、それでいい。
サリスと生きる、今日という一日が──
俺にとっての、たったひとつの“真実”だから。
────
おまけ
────
朝。
まだ陽も昇りきらないうちに、俺は目を覚ました。
昔の名残だ。
兵士時代、何よりも先に目を覚まして、装備の手入れをし、周囲の安全を確認するのが習慣だった。
今となっては戦場じゃないし、剣の代わりに温かい寝床と──
隣には、小さく寝息をたてているサリスがいる。
そんな平和な朝。
軽く背伸びをして、肩のこりをほぐす。
ふと視線を落とした枕元──
「……ん?」
一枚の紙が置かれていた。
俺の名前も、何の言葉も書かれていない。
ただ、手描きのイラストが一枚。
妙に丸い輪郭に、長い髪……これは、魚の鱗か?いや、ウロコ柄……?手足が三本ずつ?
なんかシュールだな……。
「……アマビエ……か?」
昨日話していた、東方の妖精の名前が頭をよぎる。
確かに、「疫病を予言し、絵を見せれば健康になる」っていう──
だが問題は。
なぜサリスが、こんなにも的確にその姿を描けるのかである。
……いや、というか俺、姿の詳細言ってなかったよな?
そもそも絵なんて見せてないし、説明も断片的だったし……
「まさか……お前、妖精にでも教わったのか?」
それとも、精霊経由で情報が降りてきたのか?
いやいや、まさか、とは思うが──
「……親戚だったり、しないよな?」
一瞬、そんな突拍子もない可能性が頭をよぎって、俺は思わず吹き出した。
「……ふっ、ククッ……サリスか……!」
絵の端に、可愛らしい小さなハートが描かれていたのを見て、
すぐに作者が誰かなんてわかる。
どうやら、昨夜こっそり描いて枕元に置いていったらしい。
「……まったく、どこまで本気なんだか……」
でも、なんだかんだでうれしい。
このゆるい妖精の絵が、
俺にとっては、どんな護符よりも効果がありそうだった。
俺はその絵を、大切に胸元にしまった。
そして、まだ眠っている彼女の方へ、そっと目をやる。
「ありがとな、サリス。今日も元気でいられそうだ」
朝焼けの色が、カーテンの隙間から差し込む。
穏やかな一日の始まり──
それは、小さな妖精の絵と、元・人魚の少女の、優しい魔法から始まった。
──to be continued...
