人魚伝説に溺れる男
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「ごめん、サリス。……嫌なこと、思い出させちまって。
俺が、もっと早く気づけていれば……」
心の底から、そう思った。
彼女は、いつも俺のことを気にかけてくれる。
気丈に振る舞い、笑ってくれる。
でもそれは、ほんとうに“平気”だったからじゃない。
優しいからこそ、自分の傷を隠していた。
俺を心配させないように、痛みをしまい込んで。
あの夜。
あの暗い倉庫で、檻の中にいた彼女が震えていたのは、
ただ寒かったからじゃなかった。
──あのまま、“何か”に解体されるかもしれない恐怖。
──どこにも逃げ場のない、言葉にならない孤独。
──誰かの都合で“命の値段”をつけられる、屈辱。
そのすべてを、サリスはたったひとりで、黙って耐えていたんだ。
なのに俺は、何も知らず。
ただ「大丈夫か」なんて、薄っぺらな言葉しかかけられなかった。
胸が痛い。
喉の奥が焼けつくように熱い。
今さら、何を悔やんだところで、何も戻らない。
それでも俺は、彼女に──謝りたかった。
本当の意味で、何も守れなかったあの夜のことを。
だけど──
「……っ」
言いかけたその瞬間。
白くてしなやかな指が、そっと俺の唇に触れた。
サリスだった。
彼女の指先は、まるで風のように静かに、俺の言葉を塞いだ。
見上げると、彼女は微笑んでいた。
目元には、わずかに光る雫。
それでも、その涙さえ光に溶けるような、あたたかな笑みだった。
「もう、いいの。……謝らないで」
「でも──」
「レオが“あの時”にいてくれたことが、私にはすべてだったの」
その一言に、息を呑んだ。
「怖かった……けれど、あなたの声が、手が、瞳が……あの檻の中の私に、光をくれたの」
「……」
「何も知らなくたって、よかったの。
あなたが見つけてくれたこと、助けてくれたこと。
それ以上、何を望むの?」
俺は、言葉を失った。
胸の奥が、ゆっくりとほどけていく感覚。
こんなにも優しくて、こんなにも強い彼女が──
その傷を抱えながらも、俺を思いやってくれている。
こんな存在を、誰が傷つけていいと言える?
こんな命を、誰が奪っていいと思うんだ?
「……くそ、ほんと……お前ってやつは……」
不覚にも、涙が滲んだ。
男のくせに、こんな場所で。
でもサリスは、そっと笑った。
「もう……ほんと、あなたって案外泣き虫よね。
でも、レオのそういうところ──大好きよ」
その一言で、また胸がいっぱいになった。
俺は、彼女をそっと抱きしめた。
図書館の片隅。
誰にも聞かれない、誰にも邪魔されない、たったふたりだけの世界で。
「サリス。……もう一度言う」
「え?」
「……俺は、お前を守る。
どんな相手が現れても、どんな理由があっても。
お前のことだけは、絶対に俺が守る」
彼女の身体が、小さく震えた。
でも、それは恐れじゃなかった。
俺の言葉が、ちゃんと届いた証。
「だから、怖い時は隠すな。辛い時は、ちゃんと言え。お前が泣くくらいなら、俺が泣く。
お前が倒れるくらいなら、俺が代わる。
だから──」
言葉が詰まりかけた喉を、必死に押し開いた。
「……お前が、お前でいられるように。
俺が、そばにいる」
サリスはもう、何も言わなかった。
ただ、俺の胸に顔をうずめて、
そっと、そっと両手で背中を抱き返してきた。
図書館の外では、風が静かに窓を叩いていた。
ページをめくるように。季節が変わるように。
ふたりの時間が、そっと流れていく。
城下町の午後。いつもと変わらない昼下がり。
だけど俺にとって、今日という日は──きっと、一生忘れられない日になる。
“守る”という言葉が、ただの決意じゃなく、俺の生きる意味に変わった日。
そして、彼女の心が少しだけ俺に預けられた日。
静かな図書館の一角で、俺は「人魚伝説」の本をそっと棚に戻した。
もう、伝説なんて必要ない。
──だって、俺の“伝説”はここにいる。
*
図書館を出ると、外の空気はすっかり夕方の匂いに変わっていた。
橙から藍へと溶けていく空。
西の空に浮かぶ雲は、どこかゆっくりとした時間の流れをたたえていて──
まるで俺たちの帰り道を、空ごと見守ってくれているようだった。
サリスは、両手いっぱいに本を抱えた俺の隣で、ほんの少しスキップするように歩いている。
「たくさん借りちゃった!宿に戻ったら、どれから読もうかしら……迷うわね」
栗色の髪が風に揺れて、頬にやわらかくかかる。
目はきらきらしていて、何を考えているのか、ひと目でわかった。
──可愛い。
そう思ったのを隠すように、俺は腕に抱えた本のバランスを直す。
「ごめんね、持たせちゃって……私が借りたのだから、私も持つわ」
申し訳なさそうに眉を下げたその顔に、どうしようもなく弱い。
「いいさ、これぐらい」
実際、軽くはない。だが重くもない。
剣を振って鍛えたこの腕は、こういう時のためにある。
サリスはうれしそうに小さく笑ってから、ふと何かを思い出したように口を開いた。
「ありがとう、レオ。……ところで、あの本には他にはどんなことが書かれていたの?」
あの本──「人魚伝説」のことだ。
少し歩を緩め、記憶をたどる。
「んー……『人魚の涙は真珠になる』って話とか、
『人魚にキスをされると水中でも息ができるようになる』……とか?」
「まぁ!」
サリスがぱっと目を見開いた。
おとぎ話の続きを聞く子どもみたいに、頬を染めて笑う。
「涙が真珠になるだなんて……素敵ね」
「……ああ、そうだな」
だけど、俺は知ってる。
その“真珠になる”ような涙を、彼女がどんな場所で流したのか。
海ではなく、地上の倉庫で。
檻の中で、誰にも届かない場所で。
綺麗だった。
でも、それが生まれた理由が──苦しかった。
「……なぁ、サリス」
「うん?」
「お前の涙が真珠になるって話、信じるか?」
「ふふ……半分だけ、かしら」
「半分?」
「真珠になるかはわからないけど……
でも、レオが私の涙を“宝物”みたいに見てくれるのは、本当だから」
頬を染めながら、視線を伏せるその仕草に、
胸の奥が、陽だまりみたいに温かくなった。
「……それなら、全部信じてやってもいいな。俺だけは」
その言葉に、サリスは顔を上げ、
沈みゆく夕陽をその瞳に映して、ふわりと笑った。
「じゃあ……“キスをしたら、水の中でも息ができる”っていう伝説は?」
「それも、信じる」
俺は迷わず、そう答えた。
「お前と一緒なら、どこでも息ができる気がする。
たとえ深海でも、嵐の中でも……お前がいるなら、生きていけるって思えるんだ」
その瞬間、サリスの足がふと止まり、俺の袖をそっと引いた。
「……じゃあ、試してみる?」
「え?」
「水の中じゃないけど……」
そう言って、サリスは静かに俺に顔を寄せてくる。
その唇が、頬にふれたのはほんの一瞬。
──なのに、心臓が跳ねた。
「……これで、水の中でも息ができるわね」
いたずらっぽく微笑むその顔には、もうさっきまでの涙の影はなかった。
「……なぁ、それは反則だろ」
「うふふ、レオが言ったんじゃない。“キスしていいか”って」
「ま、まあ……そうだけどさ……」
やれやれ。
この旅路の中で、俺の心拍を一番乱すのは、やっぱり彼女だ。
夕焼けの街を、肩を並べて歩く。
重たい本も、さっきの涙も、
今のこの空気の中で、静かに溶けていく。
ふたりで紡ぐのは、もう誰かの伝説じゃない。
俺たち自身の物語だ。
「……あっ、そういえば」
ふと思い出したように、俺が口を開く。
「東方の島国では、アマビエっていう妖精がいるらしくてな。
病気の流行を予言するんだと」
「まぁ、すごい!」
「でな、その姿を絵に描いて人に見せると、健康になるらしい。
──あれも“人魚の仲間”みたいなもんかもな」
「アマビエ……ふふ、可愛い響きね。
私も描いてみようかしら。レオのために、ね?」
「お、それはありがたい。健康のお守りになるなら、毎晩枕元に飾る」
サリスが笑う。
その声が、夜風にほどけて、俺の心をそっとなでた。
今日という日が──
これからのすべての日々の中でも、特別な一日になる気がした。
俺の隣に、“伝説より確かな存在”がいる。
それだけで、世界はもう、信じるに足る場所だと思えた。
