人魚伝説に溺れる男
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正直言うと、俺は本ってものにそこまで縁がない。
旅の途中で情報を集めるために地図を広げたり、行商人の記録帳を覗いたりはしても、自分から図書館に足を運ぶなんて、人生で数えるほどしかなかった。
でも今日は、サリスが「調べたいものがあるの」と言うから、ついてきた。
……いや、断れるわけないんだけどな。
目の前で、彼女はまるで宝石を見つけた子どもみたいに、目を輝かせて棚の奥へと進んでいく。
天井が高くて、まるで古い城の中にいるみたいな静けさだ。
陽光が色硝子を通って床に模様を描いていて、その中でふわりと揺れる栗色の髪。
──見惚れるな、俺。
「レオも、好きな本を見つけて読んでいていいわよ」
そう言い残して、彼女は静かに駆け出した。
気がつけば、小さな精霊の挿絵が描かれた本を何冊も両手に抱えている。
ふう、と軽く息を吐いて、俺は適当な棚を眺める。
興味のあるジャンルといえば──やっぱり武具か、歴史か、それとも……。
その時、ふと目についたのが、一冊のやけに装丁が凝った古本だった。
『人魚伝説 ─水辺で暮らす美しき水妖─』
……なんだこれ。
まるで吸い寄せられるように、その本を手に取ってページを開いた。
⸻
『人魚は水域に棲み、人と魚の特徴を併せ持つ美しい種族である。肌は真珠のように白く、髪は金、銀、赤毛など様々である』
……確かに。
横目でそっとサリスを見やる。
今は人間の姿をしてるけど、あのとき、海で見た彼女は──
あのエメラルドの尾鰭、銀糸のような髪。まるで絵本から抜け出たような……
『また、人魚は時折、洪水、嵐、難破船、溺死といった危険な出来事と関連付けられる。他の民間伝承では、彼女たちは慈悲深く、または恵みを与える存在とされ、人間と恋に落ちることもある』
……恋ね。
思わず、ページを閉じかける指が止まる。
まさに、俺とサリスのことじゃないか。
けど……
“嵐”や“溺死”って。
なんか物騒じゃないか?
俺は惹かれた。いや、惹かれ“続けてる”。
あのとき海で歌うサリスに、
檻の中の怯えた瞳に、
触れた声に、指に、髪に……
全部、俺の中に今も確かにある。
ページをパラパラとめくる。
『セイレーン』『シレーヌ』『メロウ』……
地方によって呼び名も姿も微妙に違うらしい。
……そういえば昔、船乗りの爺さんが酒場で言ってた。
「人魚の歌を聞いたら、操舵手も船もろとも海の底さ」って。
……そんなことあるかよ。
サリスの歌を聞いたとき、俺は沈まなかった。
救われたんだ。あの歌に。
でも、次の一文を読んで──俺は思わず息をのんだ。
『ある地域では、人魚の血肉、特に心臓や尾鰭を食すと不老不死になると云われており、血液一滴でも万病に効くとされ──』
……は?
ページが指の中でふるえた。
気づいたら、ガタンと本を閉じていた。
「……っ」
まさか。
まさか──彼女が捕まっていた理由って。
誰かが、そんな目的で? あの身体を? 命を……?
背中に冷たい汗がつっと流れた。
倉庫の暗闇。
檻の中で震えていたサリスの姿が、まざまざと蘇る。
あの時、俺が通り過ぎていたら。
あの瞳に気づけなかったら。
──出会えていなかったら。
そう考えた瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられた。
(……守らなくては、俺が)
本の内容なんて、全部迷信かもしれない。
でも、世界中のどこかには、それを信じて、サリスのような存在を──
その時だった。
「レオ? 何を読んでるの?」
耳元に、聞き慣れた声。
振り返ると、両手に本を抱えたサリスが首をかしげていた。
「面白い本、見つかった?」と、彼女の栗色の髪がふわりと揺れる。
その無邪気な笑顔に、俺は動揺を隠すのがやっとだった。
「あ、いや……ちょっと、な」
「ふふ、怪しい」
彼女が笑って、俺の持っていた本を覗き込む。
「……あら、“人魚伝説”?」
「いや、あの、違くて、その……」
「ううん、大丈夫。なんだか、くすぐったいけど、うれしい」
彼女はそう言って、そっと本の背表紙に触れた。
まるで、そこに自分の物語が書かれているとでも言うように──。
でも俺は知ってる。
本に書かれている伝説より、ずっと尊くて、ずっと美しい存在が目の前にいるってことを。
人魚は、確かにいる。
俺が見た。触れた。言葉を交わし、手を取って──
今、隣に立つこの彼女が、その“証”だ。
だけど世界は、それを知らない。
いや──知っていても、都合よく忘れようとするか、
あるいは、都合よく利用しようとする。
もしも、もしもだ。
サリスが人魚だったこと、そして人間になったことが、今ここにいるような学者や、王族や、もっと悪質な商人たちに知れたら。
“奇跡”と称して、誰かがその身体を解明しようとするかもしれない。
“神秘”と囁いて、血や涙の一滴まで買い取ろうとするかもしれない。
人魚から人間になった少女──
その命には市場価値があると、本気で信じる連中がこの世には確かにいる。
そう思っただけで、喉が乾いた。
俺は横目でサリスを見た。
彼女は本の世界に夢中になっている。妖精の書、精霊の呼び名、遥か南の星神伝承……
その瞳は、子どものように好奇心で光っていた。
(──こんなにも、あたたかい存在なのに)
誰かの欲望で、汚されるかもしれない。
その想像が、胸の奥をぞわりと這った。
その時だった。
「レオ? ……大丈夫? 難しい顔してるわ」
振り返ると、サリスが立っていた。
抱えていた本を胸元に下ろし、心配そうに俺を見上げている。
「あ、ごめん。考え事してた」
そう答えると、サリスは少し寂しげに、目を伏せた。
「そう……」
その声が、ひどく脆く聞こえた。
彼女は少し間をおいて、小さく呟いた。
「レオには言ってなかったけれど……あの日、檻に入れられた時、私……聞いたの」
その声には、震えがあった。
「『この人魚の女は薬になる。今夜売れなくても、バラせば金になる』──って。
あの人たち、私のことを……まるで、まるで……ッ」
そこから先の言葉が詰まり、サリスは持っていた本を胸にギュッと抱きしめた。
肩が、かすかに揺れていた。
その姿を見て、何かが胸の奥で壊れそうになった。
あの時、檻の中で怯えていた彼女に、
どんな想いが押し寄せていたのか。
どんな絶望の中に、独り取り残されていたのか。
どうして俺は、あの夜、もっと早く──もっと強く──
(違う。今思い悔やんだって、意味がない)
今、隣にいるこの彼女を、
これからも守ることに意味がある。
……そういえば。
かつてのサリスの婚約者、アラリオンも、似たようなことを言っていた。
”『人間は醜い。
僕達の海を汚し、自らの欲望のために同胞を攫い、弄び、殺す』”
彼の瞳に宿っていたあの怒りは、
憎しみではなく、絶望だったのかもしれない。
きっと彼は、同胞を、人魚を、目の前で奪われたことがあるのだろう。
その血の記憶が、彼をあそこまで硬く、冷たくした。
そして、あの時──
俺を試すように剣を向けてきたのも、
彼なりの“償いを選ばせるため”の方法だったのかもしれない。
「……サリス」
俺は静かに彼女の肩に手を置いた。
「お前は、誰のものにもならない。
お前は“物”じゃない。たとえ世界中がそう言ったって──
俺が、お前の味方でいる。絶対に」
彼女は、目を見開いて、俺の瞳をじっと見つめた。
しばらくの沈黙のあと、小さく息を吐きながら、
サリスはふっと微笑んだ。
「……レオは時々、とても強い言葉を使うのね」
「そうか?」
「でも、嬉しいわ。…ありがとう」
そう言って、サリスは胸元の本を抱きしめたまま、そっと俺に寄りかかってきた。
館内の静けさに、彼女の体温と、髪から香る花のような匂いがやけに鮮やかだった。
図書館の静かな一角。
誰もいない、この本棚の奥で。
俺は彼女を、そっと、そっと抱きしめた。
まだ震えていた背中が、次第に温もりを取り戻していく。
本に書かれている伝説なんてどうでもいい。
彼女は、ここにいる。
生きて、笑って、俺の名前を呼んでくれる。
それだけで、いい。
