エメラルドの檻 ─番外編─【オリジナル夢】
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朝靄の立ちこめる港町の宿。その窓辺に、一羽のカモメが羽音を立てて舞い降りた。
ちょうどそのとき、サリスはレオと一緒に朝食の準備をしていた。まだ湯気の立つスープと、焼きたてのパンの香ばしい匂い。ふたりは静かに言葉を交わしながら、ゆっくりとした朝を楽しもうとしていた。
「…あら?」
サリスがふと気づく。窓辺にとまったカモメが、首に巻かれた細い貝殻の飾り紐に、何かをくくりつけている。
「レオ、あの子──何か運んできたみたい」
レオが立ち上がり、窓をそっと開ける。カモメは驚く様子もなく、まるで自分の役目をわかっているかのように、大人しく彼の手に小さな巻物を渡した。
それは、まるで海の中から届いたような淡い藍色の羊皮紙だった。濡れてもにじまない不思議な素材。文字はすべて、サリスにしか読めない、海底王国で用いられる古の文字で綴られていた。
彼女は指先で紙をなぞると、懐かしげに目を細めた。
「…お父様から、だわ」
「王様?」
レオが少し身を乗り出す。サリスはこくんと頷いた。
「ええ。たまにこうして……地上では滅多に声を交わせない分、手紙を送ってくれるの。精霊の風に乗せて、海辺の鳥たちに託して──ね」
サリスは椅子に腰掛けると、そっと手紙を広げ、流れるような筆跡を黙読し始めた。
────
サリスティアへ。
春の波は静かにおまえの歌を想い出させる。
地上の空気は肌寒くはないか。
病みやすい体で、無理をしていないか。
毎朝、王宮の泉に映る月を見ながら、おまえが幸せであることを祈っている。
…このような手紙を送るのも、不器用な父の自己満足かもしれぬな。
おまえが選んだ道、おまえが選んだ相手、
私は今でも、すべてを誇りに思っている。
ただ──
苦しい時は、強がらなくていい。
涙が出るなら、海を思い出せ。
おまえの居場所は、いつでもここにもある。
オーケアノスより
────
その手紙はまるで、潮騒のように静かに胸を満たすものであった。
「……優しいお父様ね」
そう呟くと、サリスはそっと頬に手をあてて微笑んだ。海底に暮らす王は、地上の出来事に直接干渉することはできない。それでもこうして、娘を想い、何よりも“幸せでいてくれ”と願い続けているのだ。
そして──
サリスが巻物の最後に目をやると、小さく追伸が記されていた。そこだけ筆跡が妙に太く、少し力が入っている。
────
追伸:
レオよ。
娘を泣かせるな。
守ると誓ったなら、命をかけて守れ。
それができぬのなら、次に会った時に覚悟しておけ。
────
「……うわ、これは……」
横から覗き込んだレオが苦笑いする。読めないはずの文字なのに、何か直感的に察してしまう迫力があった。
「なんとなく伝わってきた気がする。俺、睨まれてるな、これ……」
サリスは吹き出した。
「ふふっ、でも心配してくれてるのよ。お父様なりに──」
「いや、充分伝わってる。肝に銘じておくよ……王様の威圧感、紙越しでも凄いんだな」
サリスはそんなレオの反応を楽しそうに見てから、再び手紙を丁寧に巻いた。しっかりと結び、胸元の袋にそっと仕舞う。
その様子を見て、レオはふと思った。
(……ああ、あの人の中では、サリスは今でも“娘”なんだな)
人魚の王女としてではなく、
父にとっては、いつまでも海の光のように大切な“娘”。
「俺も、もっとしっかりしないとな」
小さく呟いたその声に、サリスが首をかしげた。
「何か言った?」
「いや、なんでもない。ただ……これからも全力で守るって、改めて決めただけさ」
サリスは微笑んで、彼の手にそっと指を重ねる。
「……信じてるわ。あなたの言葉も、あなたの手も」
カモメは一声、空へと鳴いて、いつのまにか窓辺を去っていた。
海と空をつなぐ、その白い羽は、今日もきっとどこかで王の想いを運んでいる。
その想いが届いたこの朝は、どこかいつもより温かく感じられた。
*
カモメが去った後、レオは荷物をまとめに席を外していた。
静まり返った部屋の中、サリスは窓辺に座り、朝の光を受けながら、藍色の巻紙を前に小さく息をついた。
「……ふふ。お父様ってば、昔から変わらないわね」
紙の手触りは、海の中の記憶を思い出させる。しっとりと指になじむその質感は、海底王国にしか存在しないものだった。
サリスは、小さな巻紙と、海の貝殻で作られた筆を取り出し、ゆっくりと地上の朝を描き始めた。
────
お父様へ
カモメが運んでくれた手紙、確かに受け取りました。
思いがけない贈り物に、思わず笑みがこぼれました。
地上の風は、今日も優しく吹いています。
あなたが心配してくださるほどには寒くもなく、私は元気に過ごしています。
レオの作る料理は、どれもとても美味しいのです。
スープには優しさが、パンにはぬくもりが、そして時折つくってくれる煮込みには…
私の知らない、地上の香りがたくさん詰まっています。
彼はよく笑い、そして時々、不器用に黙り込みます。
でもその静けさの中には、いつも私への想いがあると感じます。
お父様、
あなたの言葉は、地上にいても私を包んでくれるようでした。
私の歩んでいるこの道は、間違っていなかったのだと、改めて思えました。
どうか、またこうして手紙をください。
たとえ声に出せなくても、想いはきっと届くと知っています。
愛をこめて──
あなたの娘、
サリスティアより
────
封を閉じたその瞬間、部屋の中に一陣の風が吹いた。
貝殻の飾り紐がそっと舞い、窓辺の外には、ふたたびあのカモメの姿があった。
「お願いね」
そっと包んだ手紙を渡すと、カモメは一声鳴き、銀の軌跡を描いて空へと舞い上がった。
*
遥か遠く、海の底。
アトランティスの宮殿──静寂の間。
荘厳な玉座の前に、白銀の髪をなびかせた王がひとり立っていた。
黄金の王冠を戴き、蒼のマントを羽織ったその姿は、まるで海そのものの威厳を宿しているようだった。
「……来たか」
従者が恭しく差し出した巻紙を、オーケアノス王は慎重に手に取る。
封を解き、静かに目を通したその瞬間──
ほんの、ほんのわずかに。
その厳格な顔に、柔らかな笑みのようなものが浮かんだ。
まるで、冬の海が一瞬だけ春を思い出したかのように。
「……あの娘め。レオの料理を褒めるとはな」
誰に語るでもなく、ひとりごちるように呟いたその声は、確かにあたたかさを帯びていた。
が、その瞬間──
控えていた従者たちが一斉に顔を見合わせた。
「……今、王が……お笑いに……?」
「え、笑ったよな? あの“海の威厳”オーケアノス様が?」
「こ、これは天変地異の前触れか? 地殻が揺れるぞ……!?」
ざわつき始める従者たちをよそに、オーケアノス王は静かに手紙を巻き戻し、胸元の箱に大切にしまった。
そして、一言。
「……娘の幸せを願って、何が悪い」
その言葉は誰にも聞こえなかったが、部屋の空気がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
───
その夜──
アトランティスの海は不思議と静かで、
星々が深海にまで降りてくるような、穏やかな光をたたえていたという。
──Fin
