エメラルドの檻 ─番外編─【オリジナル夢】
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部屋の窓は曇っていた。外では雨が細く、静かに降り続いている。
石造りの宿の一室には、薄い湿気と、煮込みのような匂いと、そして微かに鼻をすする音が漂っていた。
「あ”ーーー…やっちまった…」
ぐずぐずと鼻声でうめきながら、レオは宿のベッドにそのまま倒れ込んだ。
旅を重ねて久しい彼の身体は丈夫なはずだったが、ここのところの天候には勝てなかった。
「レオ…やっぱり、風邪?」
サリスがそっとベッドの傍に腰を下ろし、心配そうに彼の顔を覗き込む。
額に手を当てると、彼女の手のひんやりとした感触に、サリスは少しだけ目を細めた。
「健康と、しつこさだけが俺の取り柄だったのに…」
「しつこいのは認めるのね?」
ぼやきつつ、顔を枕に埋めるレオ。
その背中を撫でるようにサリスは微笑みながら言った。
「最近、一週間ずっと雨続きだったものね。もう…昨日なんてずぶ濡れだったのに、ちゃんと乾かさないから…」
「……スイマセン…」
もはやぐぅの音も出ない。
サリスはすっと立ち上がり、ベッドサイドの毛布を彼の肩に掛ける。
「熱、高そうね……女将さんに言って、お薬もらって来るわね」
そう言って部屋を出ようとする彼女の袖を、レオは弱々しく掴んだ。
「……行くなよ」
囁くような声だった。
思わず立ち止まり、振り返ったサリスの瞳に、彼の寂しげな顔が映る。
いつもは少しぶっきらぼうで、そっけないくらいの彼が、こんなに頼りなく見えるなんて。
人は、弱ると本当にセンチメンタルになるものらしい。
「レオ?すぐ戻るから」
彼は何も言わず、首を横に振った。
「…わかったわ」
彼女はそっと戻ってきて、彼の傍に腰を下ろす。
「じゃあ、子守り歌を歌ってあげましょうね」
優しく微笑み、サリスは静かに唇を開いた。
⸻
“眠れ、眠れ 泡の子よ
潮のゆりかご 揺れるまま
珊瑚の森で 迷っても
泣かないで いつもそばにいるわ…”
⸻
部屋の中に、しっとりとした旋律が広がる。
雨の音すら、その声を包むように優しく静まりかえる。
「あぁ…その歌……」
レオがぼんやりとした顔でサリスを見上げた。
「アナベルにも……歌ってたよな」
「そうよ。小さい頃、よくお母様が歌ってくれたの…声も顔も、もうあまり覚えてないけれど、この歌だけは、ずっと覚えているの」
サリスは静かに目を伏せて言う。
レオは目を閉じながら、その声のぬくもりを全身で受け止めていた。
「……お前の歌は、あったかいな」
そう呟いた後、彼の呼吸が徐々に落ち着いていく。
サリスは彼の額にもう一度手を当てる。
熱はまだ下がっていないけれど、表情はどこか穏やかだった。
「……ねえ、レオ」
寝息混じりの彼に、そっと問いかける。
「治ったら……今度は私が、レオにシチューを作ってあげるわ」
返事はない。けれど、レオの唇がわずかに微笑んでいた。
サリスは彼の髪を優しく撫でながら、もう一度、小さな声で歌い始めた。
その夜、雨音と共に眠るレオの夢の中には、
どこか遠く懐かしい、波の音と、歌声が流れていた。
***
風邪を引いてから三日。
レオの顔色はようやく元に戻り、重かったまぶたの奥にも、いつもの鋭い光が戻ってきた。
だが、その表情にはどこか――いつもと違う、ふんわりとしたものが混じっていた。
原因はひとつ。
隣で「ふふっ」と鼻歌まじりに木のスプーンをかき混ぜている少女―― サリスの存在だった。
「……どうかしら。もうちょっとだけ……ぐつぐつさせた方がいいのかな?」
旅先の小さな宿の厨房。
女将の厚意で使わせてもらったそこは、決して広くはないが、窓辺から差し込む昼の光と、煮込まれたスープの香りに満ちていた。
鍋の中では、野菜とソーセージ、ハーブがふつふつと音を立てて煮え立っている。
「なあ、本当に俺がやろうか?」
レオがベッドからそろりと立ち上がると、サリスは慌てて片手を伸ばして止めた。
「だめよ!おとなしくしててって言ったでしょう。これは、私が作るの」
頬をふくらませて、ぷいとそっぽを向くサリス。
その動作すら愛おしいと思うのだから、回復したとはいえ、レオの“熱”は別の意味でまだ高いのかもしれなかった。
「そういや、お前が料理してるのって、実は珍しいよな」
「ええ。だって、いつもレオが作ってくれちゃうから。……でも今日は、お礼と、もうひとつ――」
「もうひとつ?」
「わたし、覚えてるの。“治ったらシチュー作る”って言ったこと。だから、ちゃんと約束守ってるの」
言いながら振り返ったサリスの頬は、ほんのり桜色だった。
それだけで、レオの胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……ああ、約束通りだな」
サリスが木のスプーンを持ち、味見をして「うん」と小さくうなずく。
「じゃあ、召し上がれ。レオ専用、私の“初めてのシチュー”よ!」
彼女は嬉しそうに一皿をよそい、目の前に差し出してきた。
レオはスプーンを取り、ゆっくりとそれを口へと運んだ。
口の中に、優しい塩味と野菜の甘み、ハーブの香りがふんわりと広がっていく。
「……うまい」
そう呟くと、サリスはぱぁっと花のように笑った。
「ほんと!?よかったぁ……!」
笑顔で胸に手を当ててほっとする彼女。
その様子を見つめながら、レオはふと、心の中でひとつの未来を思い描いた。
――もし、この日々がずっと続いたなら。
もし、彼女と家庭を持つことができたら。
朝はこんな風に、彼女の笑顔で目を覚まし、
昼には一緒に市場を歩き、
夜にはこうして小さなキッチンで笑い合いながら料理を作る――
レオは一口一口、味わうようにシチューを食べながら、その未来の景色を心に浮かべていた。
――きっと、こんなふうに過ごす毎日が、世界でいちばんの宝物になる。
「…… レオ?」
「……ん?」
サリスがじっと見つめてくる。
「すごく静かだから、まずかったのかと思ったわ。……もしかして、味が薄かった?」
「いや。美味すぎて、泣きそうになってただけ」
そう言うと、サリスは「ふふっ」とくすぐったそうに笑った。
そして、湯気の立つシチュー鍋を見て、またくるくると木のスプーンを回しながら呟く。
「レオ。今度は一緒に作りましょうね。……私、もっとお料理が上手になりたいの」
「……ああ、何度でも教えてやるよ。俺の隣でな」
心の中で、そっと言葉を重ねた。
“ずっと、お前の隣で”――ってな。
──Fin
