ZINE[試し読み]


◇◇◇
二〇〇二年 十二月二十五日 午後八時



 見上げた先は、澄んだ星を遮らぬほど、曇りなき黒だった。朝方に落ちた固い霜が、未だ熔け切らない真夜。悴んだ手指には、赤紫が広がっている。
 クリスマスの横浜みなとみらいは、どうも人が賑やかで駄目だ。イルミネーションが燐く夜に連れ渋滞が重なり、巡回のパトカーも、とうとう亀の歩みになってしまっている。亀、否、鈍亀か。苦笑を顕、ほんの少しの前進も見通しが付かなくなった為、大人しくサイドブレーキを引く事にした。きっと皆、車に乗りながら横目でイルミネーションを愉しんでいるに相違ない。まあ、このくらい平和でいいのだ。クリスマス付近になると、どうしてもあの物騒な日を思い出す。忘れるはずがない。常、平和を願う職であるが、聖夜は特に、祈らずにはいられないのだ。もう、当時の惨劇は繰り返されるべきではない。俺は、温かなイルミネーションに包まれながら、渋滞で停車した車内で珈琲を啜る。旨い。
 流し込んだ珈琲が喉奥を過ぎた際、無意識、細い溜息が零れた。理由は明らか。時々生起する、不可解な現象に頭を悩まされているのだ。例の事件、惨劇の全容を思い出そうとする度。その記憶の輪郭が削られていく感覚。それだけじゃない、半年間休職している間に捜査本部は完全解体、奇麗さっぱり片付いて。それはもう、まるで、事件「そのもの」が無かったかのように。奇麗、さっぱり。
 その為、犯人は誰だったのか、どういった経緯で逮捕に至ったのか、その事件の全貌を俺は知らずにいる。いや、思い出せずにいると言った方が正しいだろうか。
―――あれは、二年前の今日だった。




◇◇◇
二〇〇〇年 十二月二十五日 午後十一時



 臭い、臭過ぎる。鼻を刺す血生臭さと、瞳に映り込んだ光景に、思わず吐き気を催した。幾度なく目の当たりにしたであろう死後の人間とは別に思える程。極めて残虐。これがもし人間の所業であるならば、到底、理解及ばぬカタストロフである。

「どういう状況だ、こりゃ」
「どうもなにも、臓物全部、ほじくり回されてますわ」
「それは言われなくても解る」

 なら何故言わせたのだ、と先に現場に到着していた柏原が不服そうな溜息をつく。仄か、薄い唇から続いた息が煙臭かった事から、また禁煙に失敗したのだと察した。
 現場は横浜みなとみらい。クイーンズスクエアの傍にあるホテルだった。外装はなんとか補強や塗装を繰り返し今風にして在るが、だいぶ古びた建物だと足を踏み入れ一目で解った。入口で料金をちらと見て来たのもあり、やれやれ納得がいく。

「そいで、大田はん、鑑識は? 一緒やないんでっか」
「イルミネーションの所為で渋滞に嵌ったらしい」
「嗚呼、今日はクリスマスでしたわな」

 柏原は「世間は呑気でええですわ」と嫌味な笑いを垂らしたきり。俺が何故、此処までスムーズに来れたかを問いはしない。それもそうだろう、なにせ俺と大田は同じマンションの隣人なのだから。今日は非番だったというのに、まさか近隣のホテルで殺人事件があったが為、直ぐ様駆け付けられる刑事が俺と隣人の彼だなんて。全く、海の見える分譲マンションを購入したはいいが、“歩きの距離”だからと非番に駆り出されるなど、考えてもみなかった。多分、これを声に出したなら、柏原もまた同様「俺もですわ」と煙草臭い唇を動かすに違いない。

「なあ、大田はん」
「なんだ」
「これ、何に見えます」
「なにって」

 ようやく鼻が、血みどろの臭い匂いに慣れて来た頃、誘われた柏原の指先をこの目に辿る。皺の寄ったシーツは、二人が愛を確かめあった証だろう。どれほど烈しく求め合ったのか、所々に飛び散った体液が、元は奇麗だったシーツに染みを作っていた。
―――それを例えるなれば、蝶々だった。数時間前まで肌を絡ませていた男女が、シーツの上に静か、肌色のまま其処にいて。大きく縦に腹部を裂かれたのち、ミミズのよう垂れて流れた大腸たちは。互い、赤い糸の如く結ばれている様。死して尚、共にあれと云う意なのか、尤も、定かではない。けれど、ひとつだけ確かな事は。“異常”。しかし、目の前に広がり帯びる異常は、紛れもなく、人間の手によって行われたの物だ。聖夜、イルミネーション燐く中で。煌々、煌々。開かずの鳥籠。閉め切った鍵内で優雅にまたたくは。

「蝶々か」
「さいですわ、ほんでこれが多分。犯人からのメッセージですわな」
「見せろ」
「そない、ぶん取らんともあげますわ。あ、鑑識に回してくださいよ」

 呆れの溜息を溢す柏原を他所、俺は、白い布手袋を嵌めては、早速。半ば彼から奪い取ったそれを視界に収める。だが、慌て取り上げたわり、脳内処理は追いつかない。これは一体なんだ。手にしたのは、メモ帳の端切れ。其処には、解読不能な文字の羅列が並んでいる。決して読めないという訳ではないのだ。ただ、意味が解らない。とうとうお手上げになった俺は、首を傾いで彼に問う。

「柏原、これ、理解できたか」
「理解もなにも………ねえ。あ、鑑識が到着したらしいですわ。それも一緒に視て貰いましょか」
「………そうだな」

―――二人で喰うモンブランは旨かったか?

 暗号と言えるのか、なんなのか。俺は、不可解なメモ紙を現場に到着した鑑識へと回した。星々が降る聖夜、指先が悴む。聖夜は大嫌いだ。



◇◇◇
二〇〇〇年 十二月二十六日 午前九時



「大腸蝶々結び捜査本部、本事件を担当する阿部だ! 大田、現場報告!」

 警部の阿部が、喉が千切れそうな程に声を張り上げ、パイプ椅子が並べられた簡易の捜査本部室に罵声を飛ばした。

「大田ア! 寝てんじゃねえぞ! 糞ボケ腑抜け! チンカス!」

 頭ごなしに振り下ろされる罵声は、下手したら鼓膜を突き破る程。もしも破けてしまったら、迷わず労災扱いにしてやる。それくらい、部屋に詰め込まれた刑事皆の肩が一瞬で真っ直ぐになる大声は、凄まじく強烈なのだ。
 あの夜、紅の蝶々を目にしてからと云うもの、白色のベッドに転がった二人の姿が、脳裏離れずにいる。現場を鑑識に任せたのち、最低限必要な報告をあげ、自宅へ戻っても尚。赤く染まった惨劇が、脳味噌を支配してならない。

「申し訳ありません、報告します」

 別に寝ていた訳じゃない。巡った蝶々が脳に張り付き、その他の情報を堰き止めている。しかし、警部の阿部からは、顔を突っ伏して寝ていたように見えたらしい。まあ、ここで反論したならば、さらなる罵声を飛ばされる事だ。大人しく従うが身の為だと、ここに集められた皆が思っている。俺は背筋を伸ばして立ち上がり、黒革の手帳を開いて読み上げるのだ。不意、自分でも苦笑してしまうほど汚い文字は、幼少の頃から変わらずある唯一。自分の字が嫌いな為、パソコンという便利な代物が普及してからと云うもの、ペンを持つ事は無くなったのだが。どうも警察手帳だけは、インクを握る他ない。

「十二月二十五日、二十三時丁度。みなとみらいのホテルで、腹部を破かれた男女二人を発見。身元は既に割れており、ホテル近辺クイーンズスクエアで働く佐藤仁、同建物内勤務、河本涼子と判明」
「状況と死亡推定時刻」
「はい。破かれた腹部から飛び出した互いの大腸が、蝶々結びになった状態を柏原と共に発見。死亡推定時刻は、エアコンの空調の所為で幅あり。十七時から二十二時の間との見解、以上です」

 引かぬ冷や汗と共、報告を終え早々に自席へ腰を下ろすと、周りが一斉にざわつき始める。それもそうだ、まさかわざわざ聖夜を狙ってこんな猟奇殺人が行われようとは夢にも思っていなかったろう。そんなざわつきの中。幾声に交じって訊こえるのは、柏原に対しての声である。「柏原も現場に行ったのか」「相当やばい事件じゃねえか」そんな風に。小さな声でも、彼の耳には届いている事だ。其処でちらと横目、当人を覗いてみたのだが、特段、飄々としている様はいつも通り。
しかし、ざわめきの最中、皆を総一括にするのではなく、彼のみに罵倒が飛ぶのは、なかなかな理不尽で。

「柏原ぁ! チンポ切られてえか! 次、居眠りこいてみろ、二度と女抱けねえ身体にしてやるからな!」

 阿部の罵倒もお構い無し。どこか掴みどころのない退屈そうな表情を浮かべ、瞼を擦る柏原ときたら、本当にいい度胸をしている。相当、刑事に向いているなと同僚として見習うべきだろうか。そうして、俺と視線が重なるや否や、彼は緊迫する空気を諸共せず、大きな欠伸をひとつして。気だるい様で微笑を覗かせるのだった。

「そういや思い出しましたわ」
「なんだ、報告漏れは阿部警部にどつかれるぞ。早めに言っておけ」
「いや、大田はん。いっちゃん好きな食べもん、モンブラン、でしたわな」
「…………」
「ありゃ、俺の記憶違いでっか」
「……記憶違いだよ」

 柏原は「そら、えらいすんまへんな」と視線を背ける、不敵な笑みをそのままに。――かつて、柏原が事件絡みで記憶違いをした事は一度もない。それが、この飄々と余裕に浸る、なんともふてぶてしい男が、数々の事件に駆り出される理由であるのだから。警部の阿部も、嫌々ながら彼を事件に配置するのには、相応の価値を見越しての事である。俺は、無意識に湧いた冷や汗をどうにか乾かす術を探った。背中にシャツが張り付いて、気分が悪い。



◇◇◇
二〇〇二年 十二月二十五日 午後八時二〇分



 渋滞が進まず、珈琲が温くなった頃。こんこん、と控え目に窓を叩く音で我に返った。先ほどから固い霙が降って来た事もあり、続いたノックに反応が遅れる。咄嗟、助手席側の窓に目を配ると、後輩の久保山が忙しないジェスチャーで「鍵を開けてくれ」と指を動かしていた。指先は、凍える寒さより既、赤紫が広がっている。俺が細い溜息をひとつついたあと仕方なく施錠すれば、瞬間、アウターに付いた雪すら払わず勢い良く助手席に飛び込んで来るので、思わず悪態をつく手前。飛び出しかけた舌打ちを無理やり喉奥へ押し込むのだった。

「雪くらい払え。それに、お前の為に停まっていた訳じゃない」
「いいじゃないっすか、固い事は言いっこなし、世の中助け合い、“愛”で出来てるんすから」
「馬鹿馬鹿しい」

 イルミネーションの所為。相変わらず進んでも鈍亀なパトカーは、未だ前進と停車を繰り返している。その間、歩きではあるが同じく巡回をしていた後輩の久保山に偶然遭遇したのだった。
 全く、歩きの巡回なのだから、車では融通の利かない繁華街や店中を注視して貰いたい所。そもそも、車なら一人で運転出来る、巡回のパトカーに二人も必要ないのだ。恐らくは、ただ暖を取りに来ただけと容易に想像できるが、さっさと持ち場へ戻って欲しい。聖夜で皆が浮かれ気な反面、警戒を怠りたくはないのだ。
 のち、俺は温くなった珈琲へ唇を充てながら、彼に促し掛けようと口を開いた時である。それはまだ出ぬ声を遮り、彼より先に投げられた。

「太田さん、そんな怖い顔してどうしたんすか。クリスマスっすよ、もっと浮かれていきましょうよ」

 突然。暖房の利いた車内が、まるで吹雪に晒されたよう、酷く凍えるほどに。身体の芯から、熱が奪われる感覚。―――何故、それほど悠長でへらへら笑って居られるのか、てんで理解出来ない。残虐卑劣、衝撃的な事件が起きた二年前の聖夜。
 そもそもだ、皆、クリスマスが近づくに連れ、厳戒体制を取るであろうこの日に。特段、上から注意喚起の命が出なかった事も可怪しい。朝一の定例で告げられたのは「クリスマスで浮かれた若者の補導をしろ」と云う、なんとも腑抜けた物。
 俺は、こめかみに頭痛の前触れを感じながら、助手席で大股を開き腰かけて居る久保山に問う。

「久保山」
「なんすか」
「何故そう余裕で居られる……忘れたのか、クリスマスだぞ、あの大腸蝶々結び事件が起きたクリスマスだ。お前だって覚えてるだろう、柏原が消えた二年前、俺は」

 やや緊迫した声色の所為、彼は眉をひそめた。そうして声を繋ぐ途中である。それは、久保山の言葉にぴしゃり、千切られるのだ。―――閃光のよう、頭痛が走る。

「誰すか、柏原って」


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試し読みのため、ここまでになります。
WEBでの試し読みのため横書きゴシックですが、本ですと縦書き明朝仕様です。
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