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落伍者、孤独に身を翳る

 夜明け。エルが起きる。隣には、昨夜を共に過ごしたラスがまだ寝息を立てている。窓から外を見やる。巨大な霧の壁が今も聳え立っている。

「……そろそろ、ここを出る踏ん切りをつけないとな……」

「なに? エル……」

 薄目を開けたラスがベッドを這ってエルの膝に頭を置く。

「ああ、起きたか。ここを出るのは明日にしようかな、と思ってさ」

「急なんだね。ま、出ようと思ったらすぐに出たほうがいいもんね。後回しにしたら出るに出られなくなっちゃうし……うん、明日だね」

 ラスがエルに膝枕をしてもらいながら微笑む。その日の二人は荷物を整えたり、寺院の中の思い出の場所を巡ったりした。彼らが明日出ることをグノーモンに告げると、グノーモンは喉を鳴らし、寂し気に目を細めた。



 その夜、エルとラスは宿泊施設の浴室に入る。

「エル、これ何……?」

 目の前の湯気に怯えてか、ラスがエルの背中に隠れて服のすそを引っ張る。

「知らんのか。まぁこういうのは身分高い人の特権だからな。風呂だよ、風呂。お湯に浸かって身体を清めるの。明日出るんだし、身なりは綺麗なほうがいいだろ?」

「そっか。……清め方、教えて」

 エルは書物で学んだ風呂の入り方をラスに教え、二人で身を清める。風呂から上がったエルは髭をすっかりそり落として髪を整え、精悍な好青年の見た目になる。ラスは灰を被ったような髪の色味がすっかり抜けて、穢れ無き金色の髪を輝かせている。

「風呂って凄いね。身も心もあったまった」

「ああ。俺もここまで素晴らしいものだとは思わなかった」

 その後、二人はお互いの風呂上がりの温かさを忘れないうちに眠った。



 翌日の早朝、調理室。エルが簡単な料理をして、二人で朝食を摂る。

「そういえば、君と初めて顔を合わせたのはここだったな」

「思い出さないでよ。今となっては少し……恥ずかしいから」

 遠い目をするエルとは反対にラスは顔を赤め、椀に顔を隠そうとする。

「そうか。ラスと出会えた今なら、あれもいい思い出だ。……ヒヤッとしてたのは事実だが」

「うぅ、もう……。そんなこと言ってないで、さっさと食器洗ったら出るよ!」

 食べ終えたラスが強引に会話を打ち切り、食器を洗って荷物を手に調理室を出る。

「……今のは俺が悪かったか。さて、俺も行くか」

 エルも後片付けをし、手元の荷物を確かめる。当分の保存食と、寺院に来たときに手元に余った金。寺院からは少々の保存食を拝借しただけであり、他のものには手を付けていない。エルが調理室を出ようとしたとき、包丁が目に留まる。エルはしまい忘れた包丁を戻そうとして、初めてラスと会ったときのことをまた思い出す。

「あの時、俺はこれを抜いたんだっけか」

 感慨深そうに手元の包丁を眺める。

「エルーっ、そろそろ行かないと」

 ラスが彼を呼びに調理室に顔を出す。その顔を見てエルは、おう、と返事をして包丁を元あったところに仕舞った。

「さて、行くか。……いや、戻ろう。俺たちの現実に」

 二人が廊下に出る。

「グノーモンさんのところに挨拶にいこっ」

「ああ。……ん?」

 龍の咆哮が聞こえる。だが、今回の咆哮は4Fからではなかった。

「ねぇ、エル。これって、門のほうだよね?」

「ああ。わざわざ降りてきてくれたのかもしれない。……門の方に行こう」

 寺院の中を通り、門に一番近い礼拝堂の中に出る。エルがひし形の偶像を振り返る。寺院の中で初めて目に入った特徴的なオブジェクトだ。エルはそれについ手を伸ばす。

「じゃあな。また来るかもしれん」

 偶像に別れを告げ、エルはラスの後についてって礼拝堂を出る。



 霧の壁の手前でグノーモンが鎮座している。

「あ、いたいた。グノーモンさまー!」

 ラスが大きく手を振りながら龍に駆け付ける。そのまま抱きついて、彼女の笑顔が龍を見上げる。

「グノーモン様、本当に今までありがとう! あなたのおかげで私、私の過ちに気付けて……生きていられて……」

 彼女の声が徐々に鼻声になる。

「だから……だから……ほんとうに、ありがとう、ございました……!!」

 ラスの顔を涙と鼻水が流れる。その後は何も言えなくなってただただ、枯れぬ限り嗚咽する。



 彼女の涙が枯れて、龍から離れる。エルが龍を見上げる。

「グノーモン様。あなたが道を差し伸べてくださったことは忘れません。ラスを助けてくださったことも、様々な知識を授けてくださったことも忘れません。あなたは、何にも代えがたい我々の恩人です……!」

 エルはラスと違って泣かなかったが、瞳に熱いものが込み上げてきているのを抑えるのに必死だ。

「二人の想い、しかと受け取った。我も二人が立ち直れて嬉しいぞ」

 龍の目には、二人の姿が輝いて見えた。髪舞うラスの姿は天使のごとし、エルの顔つきは神話の若き英雄が如し。

「本当に、立派になった」

 龍の目にこみ上げてくるものを誤魔化すために、グノーモンの首が霧の方に向く。

「二人で手を繋いだまま離すことなく霧を出るのだ。そうすれば、二人一緒に外の世界に戻れるぞ」

 門の外側に聳え立って、円筒状に寺院を囲うファルネスの大霧。二人を逃さず、外の世界の者の侵入を拒んだ巨壁。今や、その霧が二人に外の世界へと通じることを許している。

「さあ、旅たちのときだ。行くが良い」

 龍の言葉に背中を押されてエル・ハウェとラス・アルミアがお互いの手を取り合う。

「グノーモン様、機会があればまたここに顔を出してきます。……では、さようなら」

「グノーモン様、私、あなたに生かしてもらった命を大切にするね。……ばいばい、またね」

 二人は真っ直ぐに霧の壁を見据える。歩幅を揃えて、ゆっくりと、怯むことなく進んで。



 ーーー霧に入った。







「霧が濃くて君の顔が見えないな。さっさと出よう」

 エルがラスの手を強く握る。

「うん。ーーーあ、なんとなくだけど霧が薄くなってきてるかも。……ちょっと待って」

 ラスが制止をかけ、二人が立ち止まる。エルがラスの次の言葉を待っていると、ーーーすぅ、ーーーはぁ、といった深呼吸の音が聞こえた。

「やっぱり緊張するなあ。……私が諦めていた世界に帰ろうというのだから、かな」

 その言葉にエルは間を置いてかけるべき言葉を考える。今までのことを思い返し、かけるべき言葉をかける。

「過去は無くならない。絶望の日々を過ごしたことも忘れられない。だけれども、未来はずっといつだって俺達を待っている。ーーーさあ、これから築く未来を信じて受け入れよう」

 エルの手に引っ張られて、ラスが再び歩み始める。霧が薄れていき、徐々に周囲が明るくなる。最後の一歩を踏み出したとき、二人は気付く。長くて辛い霧を抜けたのだ、と。





 ーーー回生せし二人は、希望に身を照らす。















 エルの生まれ故郷であるラウーゴ村を囲う柵の外で、山の方から吹き下ろす清々しい風を感じながらラス・アルミアはひとり石を重ねる遊びをして退屈を紛らわしている。

「あ、今の風はとても気持ちよく感じる……。うん、私、生きてる」

 重ねた石が崩れたりまた積み直したりやっているうちに、エルが柵の門から出てくる。

「あ、エル。村のみんなはどうだった?」

 彼が現れるや、ラスは手に持っていた石を置いて彼に駆け付ける。エルは視線を地面に落とし、唇を固く結んでいる。少しして、涙が数滴零れ落ちる。

「駄目だった。父さん母さんは絶縁だって、領主さんは門前払い、神父さんにもけっこう怒られたよ……。もうこの村に帰ってこれる場所がねえ」

 固く結んだ唇が緩んだ瞬間、嗚咽が出る。涙を流して咳込むエルをラスはそっと優しく抱き締める。彼女は何も言わず、ただただ彼の嗚咽と気持ちを受け止める。



 やがてエルが泣き止んだ時、ちょうど旅の馬車がやってくる。二人はそれに乗り込む。次の目的地までの道中、エルがぽつりとささやき出す。

「……神父さん、あんなに怒ってたけど、でも最後にこう言ってくれたんだ。”罪はなくならない。でもそれは徳を積み重ねなくていい理由にはならない”だって」

 空を見上げるエル。その視線の先には神父さんがいるのかな、とラスは思った。

「俺、これからは周りの人々のためにも頑張りたい」

 エルは彼の神の言葉を脳内で反芻し心の中へ落とし込む。その様を見て、ラスはほっとしたような表情を浮かべる。

 



 次に訪れたのは交易都市の外れ、ラスがかつて仲間たちと過ごしていた地。幸いにも教会の牧師さんがお金のことは気にしなくていい、と墓地にラスのかつての仲間たちとラスの堕ろし子の簡易的な墓を立ててくれた。その墓の前で二人は手を合わせている。エルは真剣な顔つきで、ラスは瞳から涙を流しながら。

「これからは俺がラスを守り、支えていく。だからどうか安らかに眠ってくれ」

「仲間たちのみんな、私はもう大丈夫。だからみんなももう私のことを気にしなくていいよ。もし後の世があるなら、みんなが幸せに過ごせますように。……子供たち、堕としてごめん。後の世があって私がそこに逝ったら、いっぱい怒って。でもママはまだこの世でやるべきことを探したいから、待っててほしい。本当にごめん」

 二人が手を合わせ終え、墓地を去ろうとしたときに通りすがった他人どうしの会話が二人の耳に届く。

「……この都市の領主、若い女性の連続誘拐、凌辱殺人事件が明るみに出て失脚したらしいわよ」

「聞いたよ。今は王立騎士団に捕まって裁判を待つ身らしいね。宗教との兼ね合いもあって十中八九、死刑になるだろうと聞いてる」

 その会話を聞いたラスが立ち止まる。遅れてエルも立ち止まり、ようやくラスの内心を察する。

「……今の会話、もしかしてラスの仲間を殺した人のことか?」

 表情の固くなったラスが、こくり、と頷く。

「そうか、あいつ、死ぬんだ」

「……大丈夫か?」

 エルが彼女の肩に手を置く。その肩は最初は震えていたが、徐々に落ち着きを取り戻す。

「本当なら、私の手で裁きを与えてやりたかった。……でも、あいつがどこか他所でその大罪にふさわしい重罰を受けるならそれでいい。私は私の人生を生きるって決めたんだ、あいつみたいな奴に構う道理なんてないんだから」

 その表情はまだ固いままだったが、瞳を見れば心がすでに決まっていることがわかる。

「そうか。では王都に向かおう」

 





 二人が王都に辿り着いて数日後。王都外れの道をエル・ハウェとラス・アルミアの二人に加えてもう一人が一緒に歩いている。

「うおおおおおーーー、俺はお前が生きてくれて嬉しいよおおー〜!」

 その声の主はロイスである。エル・ハウェからはすでに謝罪を受け、彼を許している。ーーーそれどころか、エルが生きていることに感銘して毎日嬉し泣きをする始末である。

「そのセリフ、何度目だよ。それに今はラスと一緒に魔女に面接に行くの。お前までついてこなくていいから!」

「だって、だって……、もうお前から目を離すのが怖いんだよ!」

 エルとロイスの会話をラスは温かい目で見守っている。かつての仲間たちと過ごした日々を思い出し、友と一緒にいられることの尊さを身に沁みて感じているからである。

「もう魔女の工房の前まで来たぞ! もう散々たくさん話したからいいだろ!」

「……わかった、俺は仕事に戻る。俺の家は好きに使っていいからなー!」

「俺たちは魔女の元に住み込みで働くつもりだって何度言えばわかるんだ! もうお前におんぶにだっこしないって何度も言ってるんだ!」

 ロイスが人混みの向こうへと離れていき、仕事に戻っていく。

「うるさいやつが消えたな。……さて、ラス、一緒に行くぞ」

「うんっ。エルと働けるの、楽しみ」

 二人一緒に扉に手をかけ、未来への道を拓くーーー















 龍が歌う。寺院4F、天井が崩落して開けたホールで、祝福の言葉を歌に乗せて歌っている。

『やってるな、グノーモン。良い歌だ』

 そこに現れたのは、輪郭の定まらない人影。グノーモンが歌を中断して、人影の方へ首を動かす。

「”試練”か。ここまでやってくるのは珍しいな」

『まあな。あの二人が脱出に成功したんで、ちょいと話したくなった』

「エル・ハウェとラス・アルミアか。……あの二人は自分の内に答があった。ただ、絶望に暮れていたうちには見つからなかった。ーーー生きる希望というのは、前を向こうとしない限り湧いてこないものだな」

『ああ。よくあの殺し合っていた二人がまさか夫婦になるとは思わなんだ。それに、か弱いはずの魂が三つもラスの後を追いかけて飛んできたのにも驚いたな。……グノーモン、さっきまで歌っていた歌は良い歌だが、どういう歌だ?』

 グノーモンが喉を鳴らし、天を仰ぐ。

「祝福の歌だ。エルとラスの回生する様子に触発されて歌い始めた。……だが、ただ二人のみに捧げる歌ではない。ーーー私は元より全ての人類を憂いていた。でも気づいた。ただただ憂うばかりではいけないと。だから霧の外を出れぬ身にできることをと考えて、全ての人類に捧げる祝福の祈りの歌を歌うことにしたのだ。既に死した者にも、罪に塗れた者にも、幸せの中にある者にも、徳を積みし者にも、全ての人類に捧ぐ祈りの歌を」

『そうか。……続きを聞きたい。歌ってくれないか』

 龍が歌う。龍より全ての人類に捧げられしは祝福の歌。”試練”は心地よく聞き入り、暖かい陽光が辺り一面に差し込む。新緑の葉が舞い、鳥も共に歌う。歌の終わりを、龍は次の言葉で締めくくる。







             我が祝福を、あなたにも捧げる。



                ーーーfinーーー
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