このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

落伍者、孤独に身を翳る

 寺院4F。私の第六感が、ラス・アルミアの叫びを聞いた。はっとして、私は四肢を走らせて崩落した壁の崖の下を見る。エル・ハウェが泣きながらラス・アルミアに応急処置を施している。ぐったりとして何の反応も示さないラス・アルミアの魂の色が、飛び降りる時まではくすんでいた灰色だったのに、今は光り輝いてみえる。死の間際で、ようやく彼女がポジティブな感情を持てたのだ。今、彼女は生きたいと叫んでいる。

 彼女を助けなければ、と4つの足が走り出す。四枚翼の銀翼を羽ばたかせる。剛翼は強き風を孕み、風が床と衝突し、円状に空気の波が広がってゆく。月を背にして、私は空へと上がってゆく。

 息を吸って、吐く。私がこれからするのは、極大の回復魔法だ。死に瀕した人間を甦らせる。飛んだ跡に私の魔力の線を引こう。銀翼を羽ばたかせて、空に円を描く。今度は円の中に六芒星を描く。最後に、円と六芒星の中央で滞空。息を吸う。吸う。吸う。吸う。肺の許すかぎり沢山吸って、息を止める。エル・ハウェが心配そうな目つきで見上げている。心配するな。ラス・アルミアは助かるぞ。

 ——咆哮。龍の言葉で呪文を唱えながら魔法陣を活性化させる。魔力の跡で描かれた魔法陣は光り輝いて徐々に宙を降りていき、ラス・アルミアを中心として地上に降りる。陣の内側が緑色の光に満たされる。

「気持ちいい……」

 エル・ハウェが呟いた。魔法陣から発生した小さな光の玉が無数に舞っては2人の肌に触れて吸収され、怪我が癒されてゆく。地にこぼれたラスの血を光の玉が集めて元あるべき体内へと押し戻してゆく。エルは自らの足に触れ、立つ。捻挫していたはずの足を不思議そうに触り、振る。ラスはすっかり傷は癒えたが、依然として眠ったままだ。



 魔法陣の輝きが鈍くなり、光の玉も少なくなる。魔法が終わる。

「エルよ」

 遥か遠い眼下にいるエルに声を掛ける。きょとんとした顔のエルがこちらを見上げる。

「その者の心の叫びを、私は聞いた。その者は生きたいと叫んでいる。あとは任せたぞ、エル・ハウェ」

「! 分かりました、グノーモン様」

 やけに素直になって、エルは彼女に向き合う。その後ろ姿を見届けて、私は寺院の4Fの崩落したホールに戻る。

「久々に疲れたな……」

 満月の光の下、龍はとてもひさしぶりに満足した顔で眠った。







      ◇◇◇







 精神世界の色が薄くなっていく。様々なものの輪郭がとけてゆく。

「ラス。もう行く時間だ」

 リーテがささやく。うん、と私は頷いてみんなといた掘立小屋をでる。そこは私たちの過ごしていたスラムとよく似ていたけど、ゴミ一つない綺麗な白い世界だ。みんなも掘立小屋からでてきて、私の背中を押してくれる。

「もう、私たちのいない世界でも大丈夫ね?」

 ミリーシャの心配そうな顔に、私はこう答える。

「うん。生き抜いてみせる!」

 でも、このときミリーシャにはもう大丈夫だよと言うような表情をみせたつもりだったけど、もしかしたらふりきれていない顔を見せてしまったのかも。

「ラス姉、これもってって」

 アルは、花の冠を私に差し出してきた。

「ありがとう」

 きれい。いい匂い。私は花の冠を被って、しっかりと前を見る。もはやほとんどの建物が白に消えて、一本の細い道の先の白い空間のなかに傷ついて眠っている私の身体だけがある。

「じゃあ」

 私はいちど振りかえって、

「わたし、いってくるね!」

 元気な声でさけんで、細い道を走って、私の身体にふれる。———刹那、わたしの身体や意識さえも光に包まれてとけていった。



      ◇◇◇



 見慣れた、石造りの天井だ。暖かい。布団に入っているみたいだ。元気になるくらい明るい。風が気持ちいい……窓があいている。膝に重さを感じる。上半身を起こすと、エルが私の膝元の布団に突っ伏している。いびきをかいているのが、膝で感じてわかる。どうしたのだろうと思って、記憶をたぐる。

 ああ、そうだった。わたしは落ちたんだ。4Fから落ちて、でも生きている。両手を確かめる。見たことのない傷痕がついていた。腹をたくし上げ脚までも確かめてみると、全身に傷痕がついていた。でもそれだけといえばそれだけで、身体は痛いところがないし血も出ていない。じゃあ、私は助かったんだ……。

 死にたいという気持ちはない。今の心はむしろ晴れ晴れとしていて、身体に羽が生えたように軽い。私のベッドに突っ伏しているエルをほっといて廊下に出る。そのまま宿泊施設を出る。草を踏む柔らかい心地。石の道を踏む固くて冷たい心地。ああ、生きている。寺院に入る。環状の通路は相変わらず暗い。決まった距離で甲冑が置かれていてこわい。甲冑のよこを通る時に心がすこしキュッとなるのも、今私がここにいるから。礼拝室だ。ひし形の偶像が大きな空間の真ん中に立っていて、威圧感を感じる。図書室だ。光の差さない部屋の中で厳かに本が並んでてかっこいい。4Fの崩れたホール、あそこにはいつもグノーモン様がいる。重い扉は、前にエルが開けたきりのままだった。開いた扉を通り、命の恩人と対面する。銀色の眼差しが、やさしく見つめてくれる。

「ラス・アルミアか。おぬしの魂の叫び、きこえておったぞ」

「グノーモン様。あなたが助けてくれたんですね」

「私にできるのはここまでだ。それに、今のお前は良い目をしておる。あとの人生は、もはやお前のものだ」

「はい! ありがとうございました!」

 傷痕を擦りながら頭を下げて感謝をのべる。龍は微笑んで、それからとぐろをまく。その場を後にして、寺院を取り巻く防壁の上の通路に上る。霧の壁が眼前に広がり、風が気持ちいい。

「確か、ここの階段でエルに石を投げられたっけ」

 ついこの前のことのはずなのに、もう遠い過去みたい。

 通路の上に仰向けになって、快晴の青を見上げる。ああ、濃くて明るい青が視界いっぱいに広がっている。

 空を見上げてしばらくして、目の端っこから涙が一滴流れ落ちる。その涙をきっかけに、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。



 リフューズド・ブルー、拒絶された青。私がかつて拒絶したはずの、世界の空の青さが今も変わらずそこにあった。



 私は、みんなが死んでしまった絶望で死を望んだ。死を望むということは、この青い空の下で生きることを拒むということ。

「あ、あああっ、あっ……ご、ごごめ……うっああああん……うあああっ」

 とめどなく溢れてくる涙をぬぐいながら、まともに動かない口を動かして謝罪の言葉を紡ごうとする。私はいちどこの空を裏切った。誰に対しても平等なはずの空の下を生きることを拒んだ。申し訳がたたない。きっと空の青は何も思わないだろう。ただただ、私のほうが申し訳ないのだ。だから、許しを乞う言葉を紡ごう。

「ごめっ、なさいいい。つっ、つぎはいき、るからぁ。あああぁあ……。こんどは、うらぎらないっ」

 一時間ほどだろうか。私はそこで泣きながら空に対して謝った。流す涙が尽きて気持ちも落ち着いた頃に見上げる空も、やはり青かった。



      ◇◇◇



 ここは水滴に閉じ込められたような世界の中。”試練の間”の中、目の前には私と同じ姿をした”試練”の意思が立っている。

「また来たか、ラス・アルミア。こんどは何を答えるか、聞かせてもらおう」

 私は口を開く。私は今までのことを話す。家族がいなくて仲間たちと過ごしていたこと。仲間たちが死んで、私が死を望んだこと。それでも生きたくて、在りもしない罪を作ってまで死のうとしたこと。……そして、亡くなった仲間たちの魂と、グノーモン様とエル・ハウェに救ってもらったこと。そして、次の言葉で締めくくる。

「今までの私の人生の積み重ねの上に立って、私は私の生を勝手に生きる。それが、私なりの”生”の答えだよ!」

 今の私の顔はどうなっているんだろう。答えきったとき、私の心は限りなく広がる青い空のように清々しく晴れ渡った。私と同じ姿をしている”試練”の頬がすこし、ほころんだ。

「受け取ったぞ、あなたの答え。あなたは試練に合格した、これより自由だ」

 水滴のような空間がひび割れ、光に満ちた扉が開かれる。

「以降、寺院の出入りは自由です。また悩める時も来ていただいて構いません」

 試練の意思はそれだけ言い置くと、霧となって消えた。

「じゃ、寺院に帰りますか」



 光に満ちた空間を抜け出して、元の狭くて暗い隠し階段に出る。

 信じられないな。もう、私は自由に寺院を出れる身なんだな。一見して何の変化も無い自分の身体を手で確かめながら、階段を上がる。———その先に、エル・ハウェがいた。



       ◇◇◇



 ラスが階段を上ってきた。その眼差しに、もはや一片の曇りは無い。彼女の髪はもはや灰を被っていない、眩い黄金に見える。———この俺とは、まさしく対極にいる人間になった。

「エル! 待っててくれたんだ」

 俺を見つけるなりラスが笑顔になって駆けよってくる。俺はひるんでしまって、二歩くらい後退る。この俺には、彼女に触れていい道理はないのだ。

「おめでとう、ラス・アルミア。死ぬのを思いとどまってくれて、生きることを選んでくれてありがとう」

 俺のせいで死ななくて良かった、と心の中で付け加える。

「私はもう、何にも縛られない。死んだ仲間の願いの分だけ、私の心の底から望む分だけ、好きに生きてやる」

 満面の笑顔でラスが言い放つ。———彼女がそう言うということは……

「何にも縛られない、ということは……俺にも縛られない、ということか?」

「そうだね。私は、もう自分の生死や行動をほかのせいにしない。なるべく自分の意思で決めるさ」

「ということは、この前の発言も取り消すというのか」

 お互いの自殺を止め合ったあの昼。その時の彼女の言葉を思い出しながら訊く。

「そだね。取り消すよ」

 笑顔で返される。ついに俺は安堵した。この罪人に生きるべき道理はなくなった。

「では、見送ろう。貴女の新たな人生の船出に幸あらん」

「え、何言ってんの」

 ラスがきょとんとした顔になる。

「え? そうだったか、出るのは後と言うことか」

 早とちりしてしまった。彼女には彼女のタイミングというものがある。自分はせめて目苦しい自分の死体を見せないよう、見送ってから死ぬとしよう。

「ねえ、エルはいつ試練に挑むのさ」

「自分が試練に挑む道理はありません。罪人の身なれば、外の世界に出ていいわけがありません」

 彼女が俺に縛られないならば、もう正直な心の内を話してしまってもいいだろう。

「自分に関わる全ての人を苦しめ、あまつさえ貴女を死に瀕させようとした俺の居場所など、どこにもないのですから。……それに、貴女はもう私には縛られないとおっしゃった」

 それを聞いたラスは少し沈黙して、それからうなずいた。

「じゃあ、私もでなーい」

 太陽のような屈託のない笑顔で、彼女が言い放つ。

「え?」

「貴方がここを出ないのなら、私もでなーい。ここを出るなら、貴方と一緒にでる!」

 なんでだ。もう俺には縛られないんじゃなかったか。嘘ついたのか。

「ふふ、嘘をついたわけじゃないよ。これは私の決断。私の人生には貴方がいて欲しいと思ったから」

 駄目だ。そう言おうとして口を開いたが衝撃のあまり声が出ず、開いた口が塞がらないままだった。

「死んだ仲間たちには私の人生に居て欲しかったように、貴方も私の人生に居て欲しい。確かに貴方はひどいことをしたかもしれないけれど、それ以上に私にとっては与えられたもののほうが多かった。これからの新たな仲間としていて欲しいんだ、エル」

 優しく目を細めて、ラスが手を差し伸べてくる。だが、この手はとれない。なぜなら。

「無理だ。一片の汚れもなき貴女と、罪に塗れて汚れた俺とじゃ釣り合いが合わない」

 差し伸べられた手を避けるように後退る。彼女の汚れなき手を自らの手で汚してしまうわけにはいかない。

「大丈夫だって、エル」

 ラスが一歩二歩進んで、俺の手を掴む。

「わたしはね、優しい心を持ったエルに居て欲しいの。だから、何度でも貴方に手を差し伸べるよ」

「で、でも、俺は優しくなんて……」

「あら、貴方の言う”一片の汚れなき私”が言ってるんだから大丈夫よ」

 そのとき一瞬だけ俺の鼓動が激しくなって、風が凪いだかのようにラスの息遣い以外が意識に入らなくなった。頭の中でも思うように言葉が紡げず、硬直したように動けなくなってしまった。彼女はいたずらっぽく笑って、それから真面目な顔をして俺に向かい合う。

「この寺院ではじめてであったころ、私と貴方は敵同士だった。でも時間を重ねていくうちに、私たちは仲間になったんだ。私は貴方から教えられ、お互いに自分の思いをぶつけ合ってお互いを救い合おうとした。私たちは色々あった。その中で私は貴方の中に優しい心を見つけた。その優しい貴方は私にとって救いになったの。生きる活力になったの。だから、私は貴方にいかなる罪があろうとも、やさしい貴方を救いたい。そして仲間である貴方と一緒にこれからを生きていきたいと思うようになったの。あなたが本当に悪い人ならわたしは一緒にいることを望まないよ。……これは私からのお願い。もう、貴方の心を罪の中に閉じ込めておかないで」

 そのとき、彼女が俺の心に触れたような気がした。現実の彼女の手は俺の手を掴んだままだというのに。罪で凝り固まった心を、やさしく撫でてくれている気がする。まるで、子供のころに手を繋いだ母親の手のように暖かい。ああ、こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。……でも。

「そ、それでも」

 反論しようとして、ラスに手で口を塞がれる。光差す眼差しでラスが俺に言う。

「逃げないで。お願いだから」

 逃げないで、という言葉が耳を通ったとき、一瞬だけ足場が揺らいだ。

「逃げる……? 違います、これは罪贖えぬなりの贖罪なのです」

「違うよ。そっちに進んでも何一つ罪は贖えないし、世界が良くなるわけじゃない」

「で、でもっ」

「何か根拠があって、君は君自身に罪を押し付けているの?」

 ラスの眼が鋭くなって、俺は狼狽えた。だが、根拠ならある。根拠があるから、俺は罪を贖う道を選んだんだ。

「俺の過去の話を聞いただろう? 故郷の皆にひどいことをして、捨てて来たんだ」

 それを聞いた彼女は少し間をおいて、俺に手を差し伸べて来た。

「じゃあ、謝りに行こう。一緒に」

 俺は驚いて、目を見開いた。一瞬だけ、こっちの道の方が眩しいと思った。心が震える。だけれども……。

「今更、なにも」

「あのね、エル。君は人を殺したわけでも、誰かを殺されたわけでもない。ただ、人との接し方を間違えただけ」

 彼女が言葉を紡ぐたびに、俺が本当は間違っていたんじゃないかという気持ちが芽生えてくる。彼女が俺に歩み寄ってくるたびに、彼女の踏んだ道が輝いて見えてくる。ただ、それでも大きな罪の感覚は残っている。

「じゃあ教えてくれ。俺に圧し掛かる、この大きな罪の感覚はなんなんだ? 大きく大きく膨れ上がって、どうしようもないんだ。これが小さな罪だとは思えないんだ!」

 滲んだ涙と鼻水と唾をまき散らして、整理のつかない感情をラスにぶつける。

「それは、たぶん後悔なんじゃないかな。私も経験あるもの。ずっと私が悪いって自分を責めていたことが、きちんと向き合ったら何でもないことだったってことがあった」

 ラスの眼差しが優しくなる。

「でも、エルはその気持ちを解決する方法を今までずっと知らなかったんだね」

「あ……ああ……」

 ラスが、彼女が、両手を俺の脇下に通して抱きしめてくる。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 こん、こん……と背中を手のひらで心地良くたたいてくる。それから、陽だまりのような声で彼女はこう言った。



「エルの罪は、エルが思っているほど大きくないよ」



 ずっと苦しかった。誰も俺を理解してくれていない気がしていた。世界に疑問を持ったあの日から、俺の視線とみんなの視線がすこしずれているような気がして、周りの人々に反発した。さいしょは些細な事だったかもしれない。でも、俺は周りに理解してもらう努力を怠けていて、自分勝手に辛くなっていたんだ。こんなに単純なことだとラス・アルミアに言われるまで気づかなかった。俺には、俺に向き合う勇気が足りなかったんだ。みんなと向き合っても理解されなくても構わないという覚悟が足りなかったんだ。勇気と覚悟、このふたつを諦め続けたせいで俺はこんなところまで来てしまった———。



 年甲斐も無く、俺は泣き喚いた。



 彼女は、ただ俺を抱きしめて撫で続けた。





       ◇◇◇



 エル・ハウェはあれから私の胸元で一日中泣き続けて、そのあと眠った。彼に必要な言葉は、ただ単純で核心をついた言葉なのだった。きっと彼は、ずーーーっとそんな言葉を誰かから投げかけられたかったのかもしれない。彼の思想を、彼の性格を認められたうえで本心をぶつけて欲しかったのかもしれない。でもたまたまそうはならなくて、今日まで引き摺ってきてしまったのかもしれない。

「でも、こんなに泣いたんだからもう大丈夫だよね」

 すー…すー…と呼気を立てていびきするエル。その表情には、どこか安らぎを感じる。彼の頭を撫でて、鼻先を指でちょんとする。







 いつしか私も眠っていたらしい。野菜スープの香りにつられて、瞼をあける。

「える。おはよおー」

「おはよう」

 私はベッドに運ばれていたらしい。ひんやりとした石壁の狭い室内で、ふたりいっしょにスープを啜る。

「ねぇ、エル。もう大丈夫そ?」

 彼の表情を覗き込んで、投げかけてみる。

「ああ。大丈夫……だと思う。しょうじき言って、まだ自分の罪が本当に取り返しのつくものなのか、まだ納得いかないところはあって……本当に君に言われたことが全てなのかわからない……でも、少なくとも、俺はもう逃げない」

 まだ怯えているような表情だ。でも、その瞳の奥底にはしっかりと光が宿っている。私は微笑んで、野菜スープを啜る。



       ◇◇◇



 夜、寺院の草むらに風で撫でられながら月を見上げる。ラス・アルミアが俺に言ってくれた言葉が今も心に溶け込んでいる。彼女は聖女だ。あんなに死にたかった俺を言葉で蘇らせてくれた。俺は、彼女に気付かされた。俺の罪の正体は、人間関係のズレから生じた臆病と怠慢だったのだと。これからの俺はもう、ひとと自分がちがうことに怖れない。向こうからくるのを待つんじゃない、こっちから踏み出してゆくんだ。そう誓って、草むらの中を一歩一歩、力強く踏みしめる。



 ……だが、草むらから石敷の道へと踏み込むところで、突然として足の力を弱めた。———引っ掛かったのだ。俺はまだ解決していない。もうひとつの問題がある。



 俺は、やっぱり、”正しい答”を諦めきれない。



 又不安になる。心臓の鼓動が加速する。あの日王都で感じた、世界への違和感。どの宗教を漁っても納得できなかった、”絶対の教え”。それを、今一度、追い求めたい自分がいる。でも大丈夫か? また前の自分に元通りになってしまわないか? 追いかけることでまた失うのならば、いっそここで足を止めて永遠に追わない方がいいのでは?

「そもそも、”正しい答”そのものは一体どういうものなんだ……? ただ宗教や道徳を追えば得られるものなのか? それとも思考の果てに辿り着く……? 俺が追い求めているものって何なんだろうか……?」

 途端に怖くなった。ここでまた追い求めてしまったら、ラスに、彼女にさえ見捨てられるんじゃないかって。でもこの気持ちを諦めきれないなら、また人を捨て……

「違う!!」

 それは違う。”正しい答”を諦めきれない。でも、やっと得た彼女との繋がりも捨てない。彼女に理解してもらうのを怠けたくない。ラスに理解されないことを怖れたくない。自分が今抱いている気持ちを彼女と共有したい。脚が震える。過去を思い出す。みんなに酷いことを言って捨てて来た過去を。でもこれからは違う。ちゃんと人と向き合って、答を追い求めよう。



 自分自身に襲い掛かる臆病と怠慢の萌芽を振り払いながら、俺は寺院に踏み入る。さあ今ここから、長きにわたる俺の人生のひとつの問いに決着をつけよう。







 朝になってラスが起きる。

「あ、エル。おはよーよぉ……。試練は、まだだっけ?」

 寝ぐせであらぬ方向へと伸びきっている髪を揺らしながら訊いてくる。

「いや……。申し訳ないけど、試練に挑むのはもう当分かかると思う」

「あぁ……まだ整理ついてないかんじ?」

「いや、それはすこし違う。……聞いて欲しい、俺が子供のころから思っていたことを。俺の人生の根っこに根付いた問題を」

 椅子を引いて座る。深呼吸してから、話を始める。

「俺は、”正しい答”を知りたいんだ。ひとがどうあるべきでひとがどうするべきかという問いの解を見つけたいんだ」

 ラスがすこし考えて、首を傾げる。

「よくわからないけど……アメル教とかの教えみたいな感じ?」

「近いかもしれない。でも、俺はもうアメル教を信じられない。ラス、孤児院にシスターがいたんだろ。その人から宗教の教えを初めて聞いた時、どう感じた?」

「ああ……。うーん」

 ラスが、脳の奥底に埋もれてしまった記憶を発掘しようと沈黙し、思い出したかのように顔を上げる。その頬には、一筋の涙が伝っている。

「ああ、そうだった。身がしびれた。この世界には神がいて神が様々なことをお決めになったと聞いていた。シスターが神の教えだといって教えていたことば全てに全能感がのっていて特別に聞こえた。守っていれば救われる。信じていれば正しくあれると。まるで超常の力に温かく包むように守られているとさえ感じた。でもほどなくしてシスターが壊れてからは信じる気持ちは消え失せたけどね」

 ラスが最後に紡いだ言葉とは裏腹に、彼女の涙の光が、まだ信じたい気持ちがあることを証明するように光っていた。

「それなんだよ、それ。俺もかつてはアメル教を信じていた。でもアメル教が腐っていたのを、俺はこの眼で見た。だからアメル教が信じられなくなって、他の宗教に縋ろうとした。でも調べれば調べるほど、どの宗教にも後ろ暗い歴史があって完璧には思えなかった。きっと俺は、この世界に、完璧な”ただしいおしえ”があってほしいんだ。おれは、子供の時感じた、あの衝動を、今でも追いかけている」

 そう言い切ったとき、俺の瞳は子供のように澄み切っていた。この話を聞いた彼女は、少し頭の中を整理して、うなずいた。

「いいじゃん、エル。でも少しだけね」

 彼女にも見たい世界がある。あまりこちらの都合でここに長居は出来ない。——でも、とにかく許しは得られた。

「ありがとう」

 と感謝の言葉を紡いでお辞儀をする。——このお辞儀、いつぶりにやったんだろう。まるで身体が昨日までとは別のように、生まれ変わったみたいに清々しい。

「どういたしまして、エル」

 彼女が光あふれる笑顔で返す。ああ、そうだ。俺たちは生まれ変わった。だから新しい器の身体に入れ替わったかのように気持ちよい。さあ、あとは俺の問題に決着をつけよう。







 といっても、何から手を付ければいいのかわからない。”ただしいこたえ”の探求を最後にやったのは、官僚試験への勉強が本格的に始まる少し前だった。あの頃の俺はとても荒れていた。俺が歴史や宗教に造詣の深いことを利用して教会や国立の図書館になんとか入り込み、文献を色々読み漁っていた。どこにも感動する教えは無かった。細かい理屈をこねまわしたものだったり、頭を空にして偶像を崇拝したものだったり、文献には色々書かれていたけれど、”ただしいおしえ”はどこにも見つけられなかった。だから俺は咽び泣き、大いに暴れてロイスを困らせ、最後に縋る道として世直しも兼ねて偉い人に会う為に官僚試験を目指したんだった。偉い人に会えば何かが手に入るかもしれないと信じていた。今となってはもう叶わない。……でも、この寺院に入って、グノーモン様やラス・アルミアと交流を重ねていく中で無意識にひとつの仮説が浮かび上がった。今なら仮説を言語化できる。ひとり長い回廊を歩きながら、つぶやく。

「”ただしいおしえ”って、自分の中にあるのかな」

 なんでこう思ったのだろう。

「死の淵から蘇ったラス・アルミアは聖女のように眩しく、清らかだった。彼女の様子を根拠にするなら、”ただしいおしえ”は自分と向き合うことで得られるものかな?」

 思考を口に出して、頭の中を整理する。

「でも、”ただしいおしえ”は自分一人だけのものじゃない。そうあるべきじゃない。俺自身の答えはもういい。自分にもう言い訳しないんだから。でもここまでじゃ答にはまだ足りない」

 窓から吹く風で髪がふわりと舞い上がる。

「彼女が聖女に見えたのは、俺に手を差し伸べてくれたから。忘れられない。”ただしいおしえ”のことを俺は今まで唯一視してきたけれど、もしかしたら人間の数ほどあるのかもしれない」

 頭を横に振り、先ほどの言葉に疑問符をつける。

「いや、そんなに沢山あるものじゃないかもしれない。それには絶対性がないとだめだ。そうじゃなきゃ理想には程遠い」

 立ち止まって、昇り階段を見やる。

「複雑だけれど単純で美しいものなのかな、答は」

 真理に近づいているかは分からない。どこから探ればいいのか分からない。ならば、ひとつひとつ片付けていこう。図書室に入り、執筆室に入る。埃だらけの机を手で払い、引き出しを引っ張る。羊皮紙がたくさんある。本来ならば無駄遣いしたくなかったのだが、まあ必要なことに使うんだからいいだろう。ペン先をインクに浸し、羊皮紙の真っ新な生地に筆先を入れる。”ただしいおしえ”に必要な要素とは何なのか。それを書き出してゆく。最初は2つしか思い浮かばなかった。人の罪と義務。でも不意に手が動いて、紙の中のツリーがどんどん繋がって大きくなっていった。いつしか、羊皮紙5枚全て埋めてしまっていた。

「紙があるのとないのとでは違うな」

 紙に書いた言葉の中で、最も多くの要素と繋がった言葉、それは”基準”だった。

「悪人となるも、善人となるも、あらゆる教えの中には基準があり、それを超えるか超えないかで決まる……」

 例えば貧しい者に施しをすれば善人だとか、義務さえ果たせれば天国に行けるとか、些細なことが地獄に堕ちる悪行だったりとか。”基準”の次に多くの要素と繋がったものは、”救い”。一定の基準さえ超えれば、あらゆる多くの教えでは善人には善いことがあると教えられている。”救い”の内容は死後の世界だとか神からの祝福だとか抽象的な表現が多い。———このふたつを総合すると、一定の基準さえ超えれば善人となり救いが与えられるということだ。

「だが、何かしっくりと来ない。救われる為に善人になるのか?」

 それでは目の前に人参をぶら下げられた馬だ。”救い”という報酬の代わりに人々に善人になる事を求めている。道徳も倫理も似たようなもので、良い人にしていれば良いことがあるとなんとなく言われている。いい人にしていれば良いことがあるという幻想ばかりがある。けど、”ただしいおしえ”とはそんなものじゃないような気がする。

 そこまで考えて、ハッとする。ーーーそうなのだ。俺は宗教や倫理に”ただしいおしえ”を求めて探究していたのだが、実際は逆だったのかもしれない。

 考えてみれば当然だった。~~すれば救われるとか、〜〜しなければ地獄に落ちないとか、そういう教えは単純で人々に分かりやすく、かつ簡単に救いが得られるものだった。言い方を変えれば、人々にとって都合の良い教えが歴史を生き残ってきたのだ。一見戒律が厳しそうな宗教でも、”ルールを守りさえすれば救われる”という点に変わりはない。

 俺が求めているのはそんな教えじゃない。俺はそこに救いがなくても良かった。ただ、人間が人間として美しくあるにはどうしたらいいかを知りたかっただけなのだ。

 そうだ。俺は清く正しく美しい人間を求めていた。自分もそうなりたいと願っていた。歴史上に伝え聞く聖人君主のようになりたかった。ーーー自分の足で立ち、自らの考えを以て人々に生き方を教えた彼らのように。

 不意に、涙が紙に溢れる。ああ、頭をクリアにして考えてみれば単純なことだったのだ。美しい人間を目指すことそのものが救いであり、美しい理想の世界こそが神なのだから。

 その”答”は普遍的にして、宗教や倫理を超えた先にあるものだった。究極の理想を追い求めること。その”答”を自覚出来るものは数少ない。その”答”に向かってゆける者はもっと少ない。

「……そうか。神とは、”答”とは……」

 不意に、心の中の奥深くから光が溢れた気がした。人々の心の中に”神”はいる。”神”とは人間の思い描いた理想の存在、理想の世界なのだから。それぞれの思い描く”神”に近づく為に足掻く、それこそが俺の見出した”答”。

「俺にとっての”神”、それは……」

 子供の頃から抱き続けてきたイメージ、それは人間としての穢れが一切なく立ち振舞全てが美しい人間。いかなる問題にも正しい姿勢で立ち向かい、どんな苦労をも厭わない存在。正に聖人と呼ぶべき存在。

「そうか、だから俺は今まで随分遠回りをしたのか……」

 ”神”に近づきたかった少年は、その存在に近い者を探し求めたかった。”神”になるために方法を求めた。いつしか”神”を忘れてただ虚栄心のみが心を支配してしまったかつての少年、それがエル・ハウェ。それが俺。

「……思い出せた。これで、ちゃんと立てる。これからはもう忘れない。ちゃんと背筋を伸ばして歩いていくさ」

 自分に誓うように独り言ちる。涙はいつしか止まり、涙で濡れた紙面を陽光が照らしている。







「待たせたな、ラス。明日、試練に挑むよ」

 ろうそくの明かりを頼りに晩御飯を摂りながら、目の前のラスにそう告げる。

「もう? 早いね。……でもエルの顔を見れば、もう大丈夫だって思える。いつになくニコニコしてるもん!」

「そうか? ……そうだな、今日は本当にいい日だよ」

「ねえねえ、”ただしい答”ってなにー? 教えてほしいな」

「それはまたあと。試練が終わったら教えるさ」

「……ふふ。待ってるよ」







 翌日、俺は試練の入口につながる深い階段を下りて入口に立ち、”試練”に入る。一度意識を失い、目覚めると身体が小さくなっていた。周りには懐かしい景色が広がっていた。ーーー村の教会の中だ。

「ようこそ、エルくん。今日もお祈りとお勉強をしていきましょう」

 神父さんが俺に向かって微笑んでいる。懐かしい笑顔。ーーーどうやら俺の子供時代を再現しているらしい。つまり、俺が捨てた世界を再現しているのだ。今更ながら、罪悪感が募る。

「そうか。そういうことか。……神父様、ひとつだけ聞きたいことがあります」

「なんだね? 言ってご覧」

 かつて俺が裏切った人の面影を前にして、口の動きが重くなる。つばを飲み込んで、その先の言葉を紡ぐ。

「今からでも、やり直すことが赦されるでしょうか?」

 神父さんはキョトンとした様な顔をして考え込み、ーーーそして、体の輪郭が薄れていく。

「どうやら、今のあなたに過去を振り返らせる必要はないようだな」

 神父さん、だったものは今や俺と同じ姿に変わっている。俺の身体も、もとの大人の姿にもどっている。周囲の景色は一変し、廃城のような場所に変わっている。太陽は上っているのか沈んでいるのかどっちなのかは知らないが地平線から少しだけはみ出ている

「ということは、もう答を持ってきているんだろ? 聞かせてくれ」

 眼の前にいる存在はそのへんの瓦礫に腰掛けて、俺の瞳を見つめてくる。ーーーその瞳は、すべてを見通しそうなほどに深い。

「……どこから話すか」

 少し考えて、話の筋道を立てる。

「まず。俺は傲慢さと虚栄心を抱えてしまったせいで家族を、友達を、恩師を、自ら捨ててしまった。これはたしかに悪い。でも、ラス・アルミアが教えてくれたんだ。ーーーまだ、立ち直れると。まだ人生に絶望するほどじゃないと。俺は、これからはお互いに理解し合うことを恐れない、躊躇わない。相手に歩み寄るということを大切にしていこうと思う。この寺院を出たら、まずはみんなに謝りに行こうと思っているんだ」

「……いい顔になった。充分合格だよ。でも、まだあるんだろう?」

 はは、と少し微笑んで、顔がこわばる。

「そこまでお見通しか。元々話すつもりだったし、いいでしょう」

 舌なめずりをし、目の前の俺の姿をした”試練”に顔を向ける。大丈夫だ、今の俺には神に向かう道が見えている。ーーー胸が開く感覚がする。

「……ずいぶん遠回りをした」

 ほう、と”試練”が首を傾ける。

「……小さい頃の俺は親に連れられてよく教会に通っていたんだ。俺はそれが毎回楽しみでならなかった。ーーー俺は神父さんに会い、その言葉とその動作とを頭の中に焼き付けていたかった。何故なら、その頃の俺の世界の中で一番美しく見えた人間が神父さんだったから」

 日が昇る。”試練”が続きを聞きたいと言わんばかりに前のめりになり、目を大きくして向けてくる。

「僕はただ美しくて正しい人間を追い求めたかった。罪を犯さず、ただひたすら誠実に、酒にも薬にも溺れることなくみんなを照らす存在だった、あの神父さんのような人になりたかった。ーーーこの気持ちは子供の頃からずうっと抱えてた。でも、自覚できたのはつい昨日のことなんだ」

 暖かい風が俺の頬を撫でる。新緑の葉が空を舞う。今まで俺の心の奥深くに仕舞っていたものをさらけ出す、胸が開くような感覚が心地良い。

「でも、みんなで王に嘆願しに行ったあの時、頭を地面に擦り付けて王に泣きながら嘆願した神父さんを見て俺は、勝手に失望したんだ。これは情けない姿だ、と思って。はは、笑えるよな。自分の中で出来上がった理想の像と違うだけでキレるなんて俺は勝手だったな。……俺の落伍が始まったのは、その時からだ。自覚はなかったが、他に自分の理想となるべき人や偶像を探し求めていた。周りの人々は理想足り得ないから拒絶した。本当は自分の心の中にずうっと”神”はいたのにな」

「それで、今のお前にとってその神父はどんな人なんだ?」

 ”試練”の問いに俺は微笑む。

「俺の目指すべき人で、俺の”神”だ。良く考えたら、みんなのために頭を下げられるってとてもかっこいいことなんだな。あの頃の俺は目が節穴だったな」

 ”試練”が頬を緩ませて、こっくりと頷く。

「そうか。……だけど私はここの”試練”でね。君の考えていること、感じていることは分かっちゃうんだ。ーーー君の”神”は、いや、君の目指したい”神の世界”は、まだ余白が残っている」

「分かるか、”試練”。そうなんだ。あの時、俺は心の底から神父さんのような人を尊敬した。だけど、同時にこうも思った。ーーー神父さん以外にも素晴らしい人間がいるんじゃないか。まだ見ぬこの広い世界に多様な人間が生きていて、もしかしたら神父さんとは違うタイプの素晴らしい人間がたくさんいるかもしれない。……、もし、それぞれの素晴らしい人たちの素晴らしいところを集めていけば、理想郷ができるんじゃないかって俺は、たしかに、無意識のうちに、あのときに、ーーー夢想した」

 俺の頭の中には、心が美しい聖人君主の人々だけが住まう世界、ーーー美しい島の景色が浮かんでいる。

「俺が夢想した、神々の住まう世界をこう名付けよう。”浄世界”と」

 周囲に差し込む日光が、焼け付くほどの眩しさになって輝く。遠くに見える木々は闇の不気味さを脱して青々しい姿を表してゆく。

「……浄世界、か。だが、難しいのではないか? いや、不可能と言えるのではないかな、その世界を目指すのは」

「”試練”の言いたいことはわかる。この世には数多の人間がそれぞれの性格に基づき、それぞれの感情を抱いて生きているのだから。それぞれお互いを損ないながら生きている者も未だ多い。また、人は生来の欲がこびりついていて容易には変われない。この俺でさえ、まだ心の何処かに前みたいな黒い気持ちが仕舞われているのだから。ーーーだが、人類は知っている。まだ言葉のない混沌の時代から今に至るまで人類が発展してきたことを。この城だってそうだ。目に眩き麗城を築けるほどまでに発展してきた。はるか昔には想像もつかなかったことだ。想像できなかったことさえをも叶える人類だ。胸の内に抱く夢想の世界を叶えられないわけがないだろう」

 俺の背中で太陽が昇る。おのが影は狭まり、暖かい風が木の葉を乗せて流れてゆく。

「……信じているんだな、人類を」

「ああ。千万年かかるだろうけども、それでも目指すさ」

 ”試練”に対して、とびきりの笑顔になって言ってやった。最低でも千万年はかかるだろう。下手をすると千万年よりも長い、途方もない時間がかかるかもしれない。当然俺は生きてはいまい。それでも、誰かが思いを受け継げば、夢への道はきっと閉じないだろう。太陽ははるか遠い。だが、いつかきっとあそこに人類が辿り着く日もくるだろう。

 ああ、清らかな気分だ。ーーーそう思っていると、”試練”が不意に言葉を漏らす。

「やっと、話せたな。エル・ハウェ」

「……え?」

 最初は”試練”が何を言わんとしているのか分からなかった。それでも、胸の奥から暖かいものが込み上げてくるのを感じる。自分が今立っている石造りの地面に数滴の涙の染みができる。

「……ん? なん、でっ……」

 視界が滲む。鼻から水が出る。ひっく、と喉が鳴る。何で俺は泣いてる?

「ずっと、小さい頃から心の真ん中にあったものをようやく話せたんだ。そうもなろう」

「”試練”……ッッ。あ、こんなッ、ところ見せて、ごめん、な……ッッッ!」

 声が溢れる。涙が滝のように流れる。そうか。俺は今までずっとこの思いを誰にも、本当の意味で明かしていなかった。自分の心を明かす、というのはこんなにも嬉しいことなんだ。



 涙が止まり、喉が乾く。やっとまともに”試練”を見れるようになる。

「泣いているところを見せてすまなかったな」

 ”試練”は微笑み、俺に最後の念押しの言葉をかける。

「今のお前は、前のような傲慢と虚栄心にまみれた男に戻らないと言えるか?」

「ああ、戻らないと誓う。人はお互いに話し合い、尊重し合わなければいけない。まずは他人に歩み寄り、分かり合う努力をする。今までの罪を贖う。自分の”浄世界”の理想は、今は後回しだ」

 目の前の俺と同じ瞳を真っすぐ見つめて、答える。俺と同じ瞳が微笑む。

「おかげでいい話が聞けた。こんなこと、今まで数多の者が挑んできた”試練”の中でも初めてだ。……エル・ハウェ。お前はこれで出入りが自由だ。霧の中を真っ直ぐ進むと良い。また、何かあればいつでもここに帰ってきて良いぞ。ーーー寺院は、悟りし者にこそ開放される」

 刹那、”試練”の世界が光に溢れる。周囲の景色が光に融けて、ただ太陽のみが白い空間の中に浮かぶ。その太陽も終いには融け、ーーー全てが白になった。







 気がつけば、真っ暗闇な階段の一番下に突っ立っていた。俺は階段の上を仰ぐ。階段の段に足をかける。ゆっくり、ゆっくりと一段ずつ上る。一段ずつ、一段ずつ、ゆっくりと、我が理想へと近づこう。



        ◇◇◇



 彼女の足跡は地獄に連なる道を逸れた。彼は見失っていたはずの道に戻り、天を仰いだ。死の気配はもうない。それぞれ、おのが心の奥深くに仕舞われていた真実の思いを見つけ出して、前に進むことを選んだ。この二人は哀しき歴史の連理を脱したのだ。ーーー彼らの進む道の先には、光溢れる世界が待っている。



        ◇◇◇



 エルが細長い階段を上り切ると、いきなりラスが抱きつく。そのとき、エルの目に蘇芳色の光が差す。

「おつかれさま、エル。もう夕方だし、晩御飯にしよっ」

「ああ。腹が減った。ご飯にしよう」







 夕餉に、エルは”試練”であったことと自分の思いを全てラスに話した。

「”浄世界”……。確かに、千万年ぐらいかけないと難しそうだね」

「ああ。人の根っこに根付いた欲望はかなり取り除きにくいからな。だが、俺はやる。目指さないと始まらないからな」

 エルが、ふっ、と微笑む。その一瞬を見逃さなかったラスは満面の笑顔で彼を見つめる。

「それで、これからどうしようかな? 私は、ここを出たら外の広い世界を知りたい。それで不幸のうちにある人を救うために私にできることを考えるんだ。」

 エルは、スープの湯気を通して見るラスの笑顔がなんだか眩しく見えた。目を細めながら彼女に返事する。

「俺は学びたい。自分の理想に近づくためにも。様々な知識に触れて、自分がどうあるべきかを追究したい。……君と一緒に旅をして学ぶというのも良いな」

「んぐ、んぐ……ぷはっ。そうすると、お金どうしよかな。……私、貯金ないんだよね。あんな暮らししてたし」

 ラスがスープを飲み干し、口を手の甲で拭う。二人が長い心の苦しみを脱したあとには、現実的な悩みが待っていた。

「そうだよなあ。……また魔女の下でバイトするかな。キツいけど魔法が学べて給料もいいんだよな」

「私も手伝いたいなぁ。……金が溜まったらどこにいこうかな、エル?」

「湖の中でも世界一深いとされるアルトゥネス湖に行こうか、隣国アレキザルドにあるヴェー教最大の礼拝堂アールシュトウム見に行くか……悩むな」

 隣国、の言葉にラスの耳が動く。

「ん? 隣国? アレキザルド語はできるよ」

 ラスの意外な特技の告白に、エルが瞳を丸める。

「おいおい、本当にできるのか? 俺は書く方ならそれなりにできるが……」

「本当にできるって。 ーーー【基本コースは300パルク。追加オプションは600パルクになります】。……あ、前の仕事の口癖で言っちゃった」

 口からつい出た言葉に後悔してか、ラスが目を覆う。無理もない。ラスが外国語を使う機会といえば、”そういう仕事”をするときだったのだから。

「気に病む必要はない、ラス。それに……すごいな。俺は字に書くのは得意だが、話す方はさっぱりだから、君に話し言葉を教えてもらいたいな」

 エルがラスの手を取り、彼女の目を見つめる。ラスの頬が紅潮して、思わず視線をそらす。それから彼女は歯を食いしばってなんとかエルと視線があうようにする。

「……あのさ、エル。私たち、色々あったけど今はこうして卓を囲めてるじゃん。……私、貴方に会ってから色々なことを感じるようになったの。最初は敵に見えて憎くて仕方なかったけど……。い、いまは……ッ」

 言い淀むラス。その様子を見て、エルはついに悟る。それと同時に、彼の心の中でひとつの答えが出る。ーーーもはや彼女の人生と俺の人生は連理であり、俺もそれを望んでいると。

「エル、私には貴方が必要なの。あなたが試練に挑んでいる間はあなたがいなくて寂しくなって、あなたが帰って来てくれて嬉しいの。……好きになっちゃったの、エルのこと」

 ラスが言い切ったときエルが席を立ち、彼女を抱き締める。

「俺達は色々あった。だが、この寺院で積み重ねた体験が俺達を引き合わせてくれた。ーーー俺からも応えるよ、ラス。好きだ、俺の人生にいてくれ」

「うん。だからあなたも私の人生にいてね、エル」

 二人は熱いハグを交わす。食べ終わった食器は重ねられている。



 その夜、ふたりは同じ部屋の同じベッドの上で一緒に眠りに就いた。
7/8ページ
スキ