落伍者、孤独に身を翳る
「さようなら」
訣別の言葉と共に、私の片足が何もない宙へとずれようとする。
これで全て終わり。私の罪と私の苦悩は、少なくともこの世界からは消え去り、私の魂と共に地獄へと堕ち去るのだ。
「貴女は今日にいたるまで」
エルが、顔を赤くして、傷付いた足を踏んばって、叫ぶ。
「何の罪も犯していないじゃないか!」
その言葉が耳から流れて頭の中で言葉になったとき、心臓を縛り付けた鎖が矢で貫かれ砕かれた、と感じた。自分への罪悪感と怒りで煮えていた心に冷たいものが流れてきて、奇妙な温度差に気持ち悪さを感じ、吐きたくなった。
—そして片足が完全に宙にずれて重心が外側にずれ、私は落ち始める。床を踏んでいた片足は傾き、かかとを軸に身体が床と平行になって、私の頭が床より下になった。真上に満月が見える。私の死を見届けている。愚かな罪人の自らによる死刑を見届けているんだ。まだ地面と衝突しないのかなと思った直後に、例えて言い表すならば巨人に体当たりされたような衝撃を感じた。不思議と痛みは無かった。視線が地面と平行になって、視界の半分を草の森が邪魔して、もう半分は、遠くに寺院の中庭の景色が見える。首が動かない。いつもなら簡単に首を起こせるのに、できない。手が、腕さえも、いつの日か寝相が悪くて自らの腕の血管を締めてしまった時と同じような感覚で、どこにあるかわからない。足もどこにあるかわからない。胴体も、どうなっているかわからない。なにもきこえない。温かさや冷たさも感じない。今こうして草が鼻に触れているのに、青臭い匂いも感じない。直感で、ああ、もう終わったと感じた。私の中でまだ視界だけが生きているけれど、それも終わりを告げる。視界がぼやけて、緑色は何だったのか分からなくなってきた。ボヤけにボヤけて色も分からなくなったころに、何かが動いた気がしたけれども、もう知るすべはない。そのうちにまっくろになった。まっくろな世界の中で、それでもなお、私の心の中だけは、熱く煮えたぎったものと冷たいものが突然混ざったような、まだ冷め切っていない奇妙な温度差のせいで気持ち悪かった。でも、もうすぐ私は死ぬ。そうしたら、この気持ちもなくなる。
ラス・アルミアという一人の罪人は、寺院の高層から転落し、寺院の中庭で草花に囲まれて息絶える。
——まっくろな世界の中で溶けゆく自らの意識のなかで、彼女はそう感じた。
◇◇◇
ラス・アルミアは中庭の石敷の歩道の端に落ちて顔が草花の生い茂る方を向いたまま気を失っている。頭から血を流して、石敷の歩道のあみだの溝を流れる。
「ラス、アルミアっ……!」
あしひき足を引き摺りながら、俺は中庭を降りる。彼女を見つけるや否や、転倒して這ってラスの元にたどり着く。石敷の歩道の溝に血が流れているのを見て瞳に涙が溜まり、手を彼女の口元にかざして呼吸を確かめて生きていることを確認し、一息の安堵をつく。ふたたび溝を流れる血に目が行き、緊迫感を覚える。服の袖を破り、彼女の頭に巻き付ける。勉強していたはずの応急処置の知識が記憶の大地にとっつらかって、思い出したいのに思い出せない自分にいらだって爪が食い込むほどに手を強く握りしめる。
「生きてくれ。申し訳なかったから、生きてくれ」
現在進行形で、俺の胴に胸に穴が拡がっているような気がする。俺の皮膚や神経系は穴の端っこに、振り絞られるような感じで追いやられているようで、辛い。そうして、この穴の拡がりはラス・アルミアの命の灯と同じなのだと気付いた。彼女が死んだときが穴が拡がりきるときで、そのとき俺は壊れてしまうだろう。いや、俺のことはどうでもいい。彼女は、とにかく助からなければいけない。俺の罪で、誰かが死ぬなんてことはあってはいけないから。
「止まってくれ、血が流れてこないでくれ……」
鼻水で息を詰まらせながらも、服を裂いた切れ端でラスの頭の傷を圧迫して、彼女の命がこの地上に留まるように願う。
「お願いです、お星さま。神様。俺を地獄に沈める代わりにラス・アルミアの命を留まらせてください……」
信じてもいない神に、らしくなくも縋る。
その時、俺の横を、透き通るような、細くてか弱い、風のような何かが吹いていった。
◇◇◇
真っ暗闇の世界、手首に目をやると大きくて重い鉛の枷がかけられている。足首も同じ。繋がれている鎖は暗闇の無限のはるか向こうへと繋がっているように見える。そうか、ラス・アルミアという一人の罪人はもう地獄にいるんだ、と私は思った。伝承や宗教の地獄とは違って何も見えないけど、きっとこれが真の姿なのかもしれない。
と、辺りの風景に違和感を覚える。完全な闇じゃなくなっている。いろがかわっている。かたちがかわっている。空間の実像そのものが変化しているように見える。ああ、暗闇は地獄じゃなくて、変わりゆく先の世界こそが地獄なのかな、と思った。
無限は石の壁と檻に囲まれた有限に、闇は壁に掛けられた松明のまとうダークオレンジへと、変化してゆく。世界が変化してゆくごとに、瞼をつむりたくなってくる。どうして。何故かはわからないけど、世界が変わりゆくごとに、吐き気が強くなる。
目をつむり、体育座りで膝を強く抱きしめて引き寄せ、脚の内側に顔を強く押し寄せる。いやだ、いやだ、いやだ。耐えきれなくなって、喉奥から熱くて苦い液がせりあがる。口の奥にまで来る。うっ。喉から口へ中身が溢れる。げええっ。喉に苦しい液が染みこんで灼ける。舌を熱い液が伝って、とても苦い。太ももが酸っぱくてまずい匂いになる。はぁ、はぁっ。身体全体が小刻みにふるえる。心がさむい。無意識に手が胸元に行く。胸に爪を突き立てて、抉るようにかきむしる。強く、ゆっくりと、指先の半分が入るような溝を作りながら、血の出るのを躊躇いもしないで、ただ気をそらして紛らわせるためだけに、かきむしる。
景色は完全に変わったのだろうか。目をつむって太ももに顔を埋めているから変わったかどうかはしらない。
けれども、ここが地獄ではないことは確からしい。
だって、ここは。
みんなが死んだ、あの地下室。
太ももに冷たいものが伝う。ああ、私、泣いている。この世界に神がいるかどうか、分からないけれど。死や魂をコントロールできる存在がこの世にいるなら、私はソイツを恨む。私の魂の永遠を、私の最悪の思い出の場所に閉じ込めるんだからな‼
でも、これも私の罪のせいかもしれない。ここは、私の罪が生まれた場所。激しくなった呼吸を、苦しいながらも整えようとする。罪が理由ならば、私は荒れたりしてはいけない。ここで、私の永遠を私の罪と一緒に過ごすんだ。
「ごめんね」
え?
私の声じゃない。
誰かの声だ。
背筋が凍る。
だって、この声は————
苦しい体育座りから、顔を上げる。
リーテだ……。
リーテが起きて、うごいてる……。
怪我だらけで血だらけだけど、こっちを覗き込んでいる……。
リーテ……。
「りーて……いきてだのぉ……?」
鼻が鼻水でぐしゃぐしゃになる。泣いちゃう。抱きつきそうになって、リーテが血まみれの怪我だらけということを思い出して、寸前でとめる。
「りーてぇ、いだくないのぉ……?」
私の腕の裾で、リーテの血を拭く。いきてた。いきてだよぉ。
「いきてたぁりーてぇ、でもこんないたくなっちゃってぇ、まってねいまおうきゅうしょちしてやすもうよぉりーてぇ」
よかった。よかったよかったいきてたリーテけがをなおしてわたしといっしょにいきようリーテ
「あのね」
一心不乱に半ば正気を失いながらリーテの血を拭く私の肩を、リーテが強くつかむ。驚いて、血を拭く腕をとめる。
「あ、あ……いたかったの? ごめんね、でも」
「わたしはもう死んでるよ」
「え?」
ありえない。だっていまリーテがめのまえで
「もう一度言うよ? 私は死んだの」
「あ……ああ……」
そういうことか、そういうことなんだ……
「じゃあ、わたし、しんだからこっちきたんだぁ。そっかぁ。ふへへ。ここどこ?」
しんじゃったけど再会できてうれし。アルとミリーシャはどこだろ。
「そんで、ラス、おまえはまだ生きてる」
「え?」
素っ頓狂な声が出た。だってありえないんだもの。
「ありえないよ、リーテ。わたし、おっこちてしんじゃったもん」
「落っこちたけど生きてるって言ってんの。な、アル、ミリーシャ」
リーテの言葉を合図にしたかのように、リーテの背後でふたりがおきあがる。アル、まだ脳みそが見えてる。ミリーシャ、お腹に手を当てながら起き上がって来てる。
「ラス姉、リーテ姉のいう通りだよ。私たちは死んだけど、ラス姉は生きてる」
「それにしても、私たちをこんなにしたアイツはないわね。生きてたらグーパンひとつ、いや、うんと痛い目に合わしてやりたかったのにね、ね、リーテ」
「はは、ミリちゃんもそんなこというんだね……、でも同感だよ」
三人が会話してる。いきてるのに、しんでる? こんらんする。
「あ、えーっと……ラス。単刀直入にいうと、ここはおまえの精神世界だな」
あたりをみまわす。ここはみんなが息絶えていた地下室。たしかに、精神世界とかじゃなければ、私がここにいる説明がつかない。でも、なんでみんなは?
「どうして、みんながいるの?」
リーテが、アルとミリーシャに目配せをして、三人が一斉にいう。
「おまえを」
「ラス姉を」
「ラスちゃんを」
「「「たすけにきた」」」
たすけにきた? もしかして、死んだみんなの魂が?
「まだ信じられないような顔だな、ラス。ま、この世界は時間がいっぱいあるみたいだから腰を落ち着けて話そうか」
と、立ち上がっていたみんなが私のそばまで来て、地べたに座ろうとする。——スカートを整えようとして腹から手を放したミリーシャの腹の穴から腸がこぼれた。
「こぼれちゃう!」
急に心がきゅってなって、反射でミリーシャの腸を腹の穴に戻して、穴を手で塞ぐ。
「こぼれちゃダメ! ……ダメなんだから……」
脳裏に浮かぶのは、みんなが息絶えて死んだ姿。落ち着きかけていた呼吸がどんどん加速して、息が苦しくなる。ヒュッ、ヒュッ。全身が震える。それにまた気持ちが悪くなってきてる。うぅ、きもちわる……。
「大丈夫だって」
は、となって後ろを振り向く。リーテが私を抱いている。もう死んだはずの身体から温かさが伝わる。気持ち悪いのが引いて、身体の震えは収まってきている。呼吸が落ち着いてきた……。
「ミリ姉、私の服破るから穴塞いで」
「私からもお願いするよ、ラスがこれ以上怯える姿は見たくないんだ」
アルが服を裂いた布でミリーシャが腹の穴を塞いで、私に向き直る。
「ごめんね、ラスちゃん。注意が足りなかった。それと、ありがとう」
「いや、ミリちゃんが謝ることじゃないよ……」
ミリーシャの塞いだ腹の穴を見ながら、思う。これは私の罪なのだ、と。あの日、みんなの死体を前にして何もしなかった私の罪なのだ。……仲間たちが私を助けるといっても、私には罪があるのだから、助けられてはいけないのだろうな。
みんなのあの日の怪我そのままの姿を見回してから、私は両膝を地面につく。
「私から、言わなければならないことがあります」
死んだ三人が座って、私を見つめる。視線がいたい。
「私は、5月23日、あの日に、この地下室に連れられてきました。そして、みんなが息絶えてるところを見ました。……うっ」
口を押えて、こみ上げる吐き気をなんとかこらえる。リーテが心配そうに手を差し伸べようとしたけど、ミリーシャが止めた。
「ごめん。……みんなの死んだ姿を見て、私は頭が真っ白になって、気が付いたら抜け道から逃げ出していました。私は、みんなに対して何もしませんでした。仲間だったのに、家族も同然のみんなだったのに、私は、見捨ててしまいました。それが私の罪です。ごめんなさい」
頭を地面まで下げて、私の罪を謝罪する。赦されないのだから。
「えぇ? 悪くないわよ、ラスちゃんは」
悪くないはずがない。
「私は、みんなが死んだのにのうのうと生きて……こんなの良くないよね」
「いや、良いよ良い、生きてろよおまえは」
「ラス姉は思いつめすぎだよ」
「でも」
「はい、ストップ」
リーテが私の口を塞ぐ。
「もうこれ以上は言わせないよ、ラス」
私の口を塞ぐ手をどかそうとして、はたと私の手が止まる。果たして、私がリーテに抵抗する資格などあるのだろうか?
「単刀直入に言うけどさ、」
リーテが唇をなめ、唾を飲み込む。
「お前、自分の絶望を自分の罪に置き換えて自殺を正当化してんだろ」
……え?
そうか?
そうだったのだろうか?
いやでも、これは私の赦されない罪。
……それならば、私に何ができたというのだろう。
あの時あの場で、何かできることはあった……はず……
……考えれば……考えるほど……
……確かに、私は何を考えていたんだろう。
刹那、白い矢が私の頭を貫いて私の古い凝り固まった思考が砕け散っていく、そんなイメージが私の頭を貫いた。そうだ、私は……
◇◇◇
みんなが死んだあの日、喉が渇ききっておぼろげな意識のまま、棒のような足を引き摺りながら私はみんなで一緒にすごした掘立小屋に辿り着いていた。陽は完全に堕ち、月明かりだけが帰路を照らしていた。死んだみんなを触った血だらけの手が煤を被り、埃まみれのものをどけて、転んで泥にまみれて、元が赤かったのか分からないくらいぐっちゃぐっちゃの黄土色と茶色の模様になっていた。
「アル?」
空っぽの心から飛び出た最初の声が、仲間の名前だった。
「ミリーシャ?」
私は探していた。寝るために身体にかける藁を除けて、そこに仲間の寝姿をみようとした。。
「リーテ?」
いつもならこの時間に誰も居ないはずがない。急用でもできたのかな、と思っていた。無意識に。そうして、みんなの分の明日の朝の飯がないことに気付く。
「アル、お腹空かしちゃうなぁ」
私の足は、その日は限界を迎えていた。みんなを探して屈んで膝を床板につけていた足をあげようとして、私は足がもつれて前のめりに転んだ。
「あ……」
自分が転んで、床に手をつく。手が目につく。ぐっちゃぐっちゃの模様になった手だ。
「……ちがう。ちがうちがう。みんなは、もうとっくに……」
フラッシュバック。あのせまい牢屋の中で、みんなは死んだ。
「嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
現実の奔流が、どうしようもない私を飲み込む。違う違う違う、と何度否定しても、私は現実に抗えなかった。私の思考は現実で塗りつぶされて、もはや、仲間たちが死んでいないという虚構をしんじることはできなくなった。たまらず、既に限界だったはずの足を無理やり立たせて、迫りくる絶望の衝動だけに背中を突き押されて、私は走った。
暗い森の中、衝動は収まって、過去になった運命という名の現実の揺るがなさの前に無力を感じて、もう動かない事実を前に、私は、静かになった絶望に沈んでいた。そして、生物なら抗うことのできない生理である睡眠に落ちる。
目が覚めると、朝だった。太陽が地平線から顔を出して、空をトロイメライの橙色に焼く。木々の葉々の交わり合う無数の小さな隙間から光がこぼれ、土の大地に摩訶不思議大量の模様を照らして作る。でも、私には、そんな模様たちなど見えなかった。夢など見なかった。瞼を開ける前、意識が戻ったとき私は、もはや目覚めても私のいきるべき世界は無いのだと感じていた。目が覚めても、暗い森のまま。目の前にうつる世界が、私には世界だと感じることができなかった。世界そのものが設置されたオブジェクトでしかなかった。太陽も、森の木々も、地べたを走り回る栗鼠も、ただそこにあるだけのオブジェクトにしか感じられなかった。ありていに言えば、その時の私の精神は死んでいたようなものだった。背中を木に預けて、その日は動かなかった。かつての仲間たちとの生活を思い出しては咽び泣き、無表情に宙を見つめるだけだった。
次の日また目覚めると、私は立った。私の脳裏には、仲間たちを殺した男の顔がまざまざと浮かんでいた。私の心は完全に黒くなって、憎悪と憤怒でいっぱいだった。それだけじゃない。私たちを抑圧したものすべてが憎い。男が憎い。いつもそうだった。私たち女は抑圧されていた。娼館のおかみはいつも兵士に強請られて払うべき金の3倍をいつも払わなければならなかった。だからおかみは壊れて私たちを酷使する羽目になった。わたしを買った客は大抵らんぼうで、何度死にかけたか。挙句の果てには、富豪が私たちの仲間を、一銭も払わずに、その命を蹂躙した。私が大好きだったものと私をいつもいじめているのは奴らだ。男どもだ。口から涎がでて、私はその時だけは自分のことを復讐に餓えた獣だと思い込んだ。
その時、背後から音がした。罠を確認しに来た猟師、男だ。私は石を拾い上げようとして、男と目が合った。視線が繋がって、私は恐怖した。頭を殴られた記憶が、胴を殴られた記憶が、腹を蹴られた記憶が、腕をねじ伏せられた記憶が、棒で脚を打たれた記憶が、暴力の記憶が、一斉に、痛みを伴って、身体と精神に再生された。耐えきれなくなって、吐きそうになって、寸前でこらえて、私は走った。男に背を向けて、走った。
気が付けば、私は森があけて足元が崖になっているところまで来ていた。遠くに、巨きな霧の柱が見える。足元の崖に目を見やる。かなり深く、落ちてしまえば死は免れないように見える。———私は崖の下を見ると、ほっとした。もし今落ちれば、重くて暑苦しい憎悪の感情も、仲間に対して何もできなかった後悔も、全て脱ぎ棄てて楽になれると思ったから。崖の下に私の落下する軌跡を見出すと、心の底から安心したような気持ちになれた。ならば、答はひとつしかない。嬉々として花園に足を踏み出すように私は、崖の先に向かって右足を上げた。
上げた右足で、私は後退っていた。どういう理屈で右足がなぜ下がったかは知らない。崖の下を覗く。急に心臓がきゅうってなって、目を逸らしたくなった。どうして。どうして。
それは、本能からの応答だった。魂の奥底からの叫びだった。私を形作る精神の心髄は、”生きたい”と、確かに言っていた。
そっか。
そうなんだね。
私はまだ、私を死なせてくれない。
……でも。私は、こんなにも死にたい。
仲間が死んで、今の私には金も力も希望も、すべてが無い。心の底で絶望と悲しみと怒りがわだかまっていて、今わたしがここに生きているだけで精神が削れて辛い。
私は泣きながら、歩いた。胸の中に絶望を抱えたまま、生きたいと叫ぶ心を抑えながら歩いた。極限状態の私の中で、生きたい想いと死にたい願望が鬩ぎ合う。その鬩ぎ合いの余波が私の身体と心を削っていた。生きたいと願うたびに心臓が締まり、死にたいと思うたびに心が悲鳴を上げた。私は泣きながら、歩いた。生への希求と死への甘い誘いが鬩ぎ合って、私の精神は削れて行った。もはや言葉すら覚束ない精神の中で、何かが芽生えた。
そうだ、私は悪い……。
不意に、その言葉が口をついて出た。
あの時何もしなかったんだ。私は罪人なんだな。
在りもしないはずの罪が、私の中で大きくなっていた。死にたいという絶望が、私の精神を歪めて、私の中に罪の萌芽をつくった。
ファルネスの大霧に彷徨いこみ、エル・ハウェと出会う中でも、罪の意識は確実に私の精神を蝕み、罪のつぼみは次第に大きくなって、とうとう私のすべてを飲み干して満開に咲いた。
◇◇◇
「そうだったんだ」
いま初めて、自分の心の中にある異物に気が付いた。本来ならば在り得ないはずの罪の意識。
「わたしは、死ぬ必要があったんじゃない。ただそこに、死にたい気持ちと生きたい気持ちがあっただけだったんだ……」
世界の全てを呪い拒絶しながら死に向かう気持ちが私を支配する中で、僅かに残った『生存欲求』がしぶとく抗った。その中で『絶望』は『生存欲求』を断絶するために、罪を使った。
「死にたかったから罪を作ったんだ、私。気付かなかった……」
不思議な感覚だ。それまで私の心に張り付いてしつこく離れなかった死への義務感が、ベリベリと音を立てて気持ちよく剥がれていく。私の心が、身体が軽くなっていく。私の手や足を拘束していた、重苦しい鉛の鎖にひびが入って、あっけなく砕けていく。
周囲の景色があの日みんなが死んだ冷たい牢屋から、お日様の差し込む温かい私たちの家に変わる。みんなの見た目から怪我が消えて、まだ生きていた頃の健康な姿になっていった。
「思い出したか? ラス」
リーテが、ようやく気付いた私を察して声を掛けて来た。
「うん」
温かい日差しの中、木調の床に数滴の水滴が零れ落ちる。微かな嗚咽が漏れ出る。さっきまで冷め切っていた身体に熱が戻る。ずっとしていなかった、生きている実感が今になって思い出されている。私の喉や胃、腕や足などが私の身体の一部として確かに繋がれているという実感が温かみを帯びて感じられる。私のこころが全身に行き渡って末端までも動かしている。私は生の実感を噛みしめながら、そこにしばらく座する。手を握り、つま先を動かして、鼓動を感じる。仲間たちは私を囲んで、私を見守っている。
温かい沈黙の中で、私は口を開く。
「ねえ、みんな」
アル、ミリーシャ、リーテの顔を見回す。
「私、生きようと思うんだ」
巨大な絶望に懸命に抗った魂は、ようやく日の目をみる。闇の残骸から生存欲求の私は這い出て、ようやく光あふれる大地を踏みしめる。
「よかったぁ。生きてね、ラス姉ちゃん」
とアル。ミリーシャは私の手を握って、私の顔をみる。
「私たちは死んだ。もっと生きたかったけれど、もうどうにもならない。だから、私たちの願いの分だけ、ラスちゃんには生きてて欲しい」
私はミリーシャに返す。
「うん。私はこれから自分勝手に生きようと思うけど、それでもいいなら」
ミリーシャは涙を流しながら大きくうなずいた。リーテは何も言わずに、ただそっと私を抱きしめる。私も何も言わず、ただお互いの心の温かさだけを交わす。言葉を伝えなくても、この抱擁だけでリーテの気持ちが伝わってくる。私も、この抱擁でリーテに気持ちを伝える。お互いに顔を見つめ合って頷き合い、抱擁をほどく。
「さて」
今になって、後悔した。あの時、どうして私は飛び降りてしまったんだろう。そのおかげで、この精神世界から目覚める術が分からない。
「どうしよ」
現実世界に帰る方法に悩み始めた私に、リーテが言う。
「そりゃあ、まだギリギリお前は生きてるからな。あとは、あのエルって奴とグノーモン?っていう龍が何とかしてくれるのを待つしかねえんじゃね」
リーテの言葉に、一縷の望みを見つける。
「グノーモン様。そうだ、あの龍なら」
全てを超越した存在なら、きっと私の魂からの呼びかけに気付いてくれるかもしれない。だから、私は魂の底から精いっぱい叫ぼう。みんなのお家の掘立小屋から表に出る。スラムの狭い小路には、ただのゴミ一つも落ちていない。私たちのほかには何もいない。頭上に燦然と輝く太陽を見上げて、私は力の限り叫ぶ。
「生きたいから、蘇らせて!!!!!!!!!!!!」
訣別の言葉と共に、私の片足が何もない宙へとずれようとする。
これで全て終わり。私の罪と私の苦悩は、少なくともこの世界からは消え去り、私の魂と共に地獄へと堕ち去るのだ。
「貴女は今日にいたるまで」
エルが、顔を赤くして、傷付いた足を踏んばって、叫ぶ。
「何の罪も犯していないじゃないか!」
その言葉が耳から流れて頭の中で言葉になったとき、心臓を縛り付けた鎖が矢で貫かれ砕かれた、と感じた。自分への罪悪感と怒りで煮えていた心に冷たいものが流れてきて、奇妙な温度差に気持ち悪さを感じ、吐きたくなった。
—そして片足が完全に宙にずれて重心が外側にずれ、私は落ち始める。床を踏んでいた片足は傾き、かかとを軸に身体が床と平行になって、私の頭が床より下になった。真上に満月が見える。私の死を見届けている。愚かな罪人の自らによる死刑を見届けているんだ。まだ地面と衝突しないのかなと思った直後に、例えて言い表すならば巨人に体当たりされたような衝撃を感じた。不思議と痛みは無かった。視線が地面と平行になって、視界の半分を草の森が邪魔して、もう半分は、遠くに寺院の中庭の景色が見える。首が動かない。いつもなら簡単に首を起こせるのに、できない。手が、腕さえも、いつの日か寝相が悪くて自らの腕の血管を締めてしまった時と同じような感覚で、どこにあるかわからない。足もどこにあるかわからない。胴体も、どうなっているかわからない。なにもきこえない。温かさや冷たさも感じない。今こうして草が鼻に触れているのに、青臭い匂いも感じない。直感で、ああ、もう終わったと感じた。私の中でまだ視界だけが生きているけれど、それも終わりを告げる。視界がぼやけて、緑色は何だったのか分からなくなってきた。ボヤけにボヤけて色も分からなくなったころに、何かが動いた気がしたけれども、もう知るすべはない。そのうちにまっくろになった。まっくろな世界の中で、それでもなお、私の心の中だけは、熱く煮えたぎったものと冷たいものが突然混ざったような、まだ冷め切っていない奇妙な温度差のせいで気持ち悪かった。でも、もうすぐ私は死ぬ。そうしたら、この気持ちもなくなる。
ラス・アルミアという一人の罪人は、寺院の高層から転落し、寺院の中庭で草花に囲まれて息絶える。
——まっくろな世界の中で溶けゆく自らの意識のなかで、彼女はそう感じた。
◇◇◇
ラス・アルミアは中庭の石敷の歩道の端に落ちて顔が草花の生い茂る方を向いたまま気を失っている。頭から血を流して、石敷の歩道のあみだの溝を流れる。
「ラス、アルミアっ……!」
あしひき足を引き摺りながら、俺は中庭を降りる。彼女を見つけるや否や、転倒して這ってラスの元にたどり着く。石敷の歩道の溝に血が流れているのを見て瞳に涙が溜まり、手を彼女の口元にかざして呼吸を確かめて生きていることを確認し、一息の安堵をつく。ふたたび溝を流れる血に目が行き、緊迫感を覚える。服の袖を破り、彼女の頭に巻き付ける。勉強していたはずの応急処置の知識が記憶の大地にとっつらかって、思い出したいのに思い出せない自分にいらだって爪が食い込むほどに手を強く握りしめる。
「生きてくれ。申し訳なかったから、生きてくれ」
現在進行形で、俺の胴に胸に穴が拡がっているような気がする。俺の皮膚や神経系は穴の端っこに、振り絞られるような感じで追いやられているようで、辛い。そうして、この穴の拡がりはラス・アルミアの命の灯と同じなのだと気付いた。彼女が死んだときが穴が拡がりきるときで、そのとき俺は壊れてしまうだろう。いや、俺のことはどうでもいい。彼女は、とにかく助からなければいけない。俺の罪で、誰かが死ぬなんてことはあってはいけないから。
「止まってくれ、血が流れてこないでくれ……」
鼻水で息を詰まらせながらも、服を裂いた切れ端でラスの頭の傷を圧迫して、彼女の命がこの地上に留まるように願う。
「お願いです、お星さま。神様。俺を地獄に沈める代わりにラス・アルミアの命を留まらせてください……」
信じてもいない神に、らしくなくも縋る。
その時、俺の横を、透き通るような、細くてか弱い、風のような何かが吹いていった。
◇◇◇
真っ暗闇の世界、手首に目をやると大きくて重い鉛の枷がかけられている。足首も同じ。繋がれている鎖は暗闇の無限のはるか向こうへと繋がっているように見える。そうか、ラス・アルミアという一人の罪人はもう地獄にいるんだ、と私は思った。伝承や宗教の地獄とは違って何も見えないけど、きっとこれが真の姿なのかもしれない。
と、辺りの風景に違和感を覚える。完全な闇じゃなくなっている。いろがかわっている。かたちがかわっている。空間の実像そのものが変化しているように見える。ああ、暗闇は地獄じゃなくて、変わりゆく先の世界こそが地獄なのかな、と思った。
無限は石の壁と檻に囲まれた有限に、闇は壁に掛けられた松明のまとうダークオレンジへと、変化してゆく。世界が変化してゆくごとに、瞼をつむりたくなってくる。どうして。何故かはわからないけど、世界が変わりゆくごとに、吐き気が強くなる。
目をつむり、体育座りで膝を強く抱きしめて引き寄せ、脚の内側に顔を強く押し寄せる。いやだ、いやだ、いやだ。耐えきれなくなって、喉奥から熱くて苦い液がせりあがる。口の奥にまで来る。うっ。喉から口へ中身が溢れる。げええっ。喉に苦しい液が染みこんで灼ける。舌を熱い液が伝って、とても苦い。太ももが酸っぱくてまずい匂いになる。はぁ、はぁっ。身体全体が小刻みにふるえる。心がさむい。無意識に手が胸元に行く。胸に爪を突き立てて、抉るようにかきむしる。強く、ゆっくりと、指先の半分が入るような溝を作りながら、血の出るのを躊躇いもしないで、ただ気をそらして紛らわせるためだけに、かきむしる。
景色は完全に変わったのだろうか。目をつむって太ももに顔を埋めているから変わったかどうかはしらない。
けれども、ここが地獄ではないことは確からしい。
だって、ここは。
みんなが死んだ、あの地下室。
太ももに冷たいものが伝う。ああ、私、泣いている。この世界に神がいるかどうか、分からないけれど。死や魂をコントロールできる存在がこの世にいるなら、私はソイツを恨む。私の魂の永遠を、私の最悪の思い出の場所に閉じ込めるんだからな‼
でも、これも私の罪のせいかもしれない。ここは、私の罪が生まれた場所。激しくなった呼吸を、苦しいながらも整えようとする。罪が理由ならば、私は荒れたりしてはいけない。ここで、私の永遠を私の罪と一緒に過ごすんだ。
「ごめんね」
え?
私の声じゃない。
誰かの声だ。
背筋が凍る。
だって、この声は————
苦しい体育座りから、顔を上げる。
リーテだ……。
リーテが起きて、うごいてる……。
怪我だらけで血だらけだけど、こっちを覗き込んでいる……。
リーテ……。
「りーて……いきてだのぉ……?」
鼻が鼻水でぐしゃぐしゃになる。泣いちゃう。抱きつきそうになって、リーテが血まみれの怪我だらけということを思い出して、寸前でとめる。
「りーてぇ、いだくないのぉ……?」
私の腕の裾で、リーテの血を拭く。いきてた。いきてだよぉ。
「いきてたぁりーてぇ、でもこんないたくなっちゃってぇ、まってねいまおうきゅうしょちしてやすもうよぉりーてぇ」
よかった。よかったよかったいきてたリーテけがをなおしてわたしといっしょにいきようリーテ
「あのね」
一心不乱に半ば正気を失いながらリーテの血を拭く私の肩を、リーテが強くつかむ。驚いて、血を拭く腕をとめる。
「あ、あ……いたかったの? ごめんね、でも」
「わたしはもう死んでるよ」
「え?」
ありえない。だっていまリーテがめのまえで
「もう一度言うよ? 私は死んだの」
「あ……ああ……」
そういうことか、そういうことなんだ……
「じゃあ、わたし、しんだからこっちきたんだぁ。そっかぁ。ふへへ。ここどこ?」
しんじゃったけど再会できてうれし。アルとミリーシャはどこだろ。
「そんで、ラス、おまえはまだ生きてる」
「え?」
素っ頓狂な声が出た。だってありえないんだもの。
「ありえないよ、リーテ。わたし、おっこちてしんじゃったもん」
「落っこちたけど生きてるって言ってんの。な、アル、ミリーシャ」
リーテの言葉を合図にしたかのように、リーテの背後でふたりがおきあがる。アル、まだ脳みそが見えてる。ミリーシャ、お腹に手を当てながら起き上がって来てる。
「ラス姉、リーテ姉のいう通りだよ。私たちは死んだけど、ラス姉は生きてる」
「それにしても、私たちをこんなにしたアイツはないわね。生きてたらグーパンひとつ、いや、うんと痛い目に合わしてやりたかったのにね、ね、リーテ」
「はは、ミリちゃんもそんなこというんだね……、でも同感だよ」
三人が会話してる。いきてるのに、しんでる? こんらんする。
「あ、えーっと……ラス。単刀直入にいうと、ここはおまえの精神世界だな」
あたりをみまわす。ここはみんなが息絶えていた地下室。たしかに、精神世界とかじゃなければ、私がここにいる説明がつかない。でも、なんでみんなは?
「どうして、みんながいるの?」
リーテが、アルとミリーシャに目配せをして、三人が一斉にいう。
「おまえを」
「ラス姉を」
「ラスちゃんを」
「「「たすけにきた」」」
たすけにきた? もしかして、死んだみんなの魂が?
「まだ信じられないような顔だな、ラス。ま、この世界は時間がいっぱいあるみたいだから腰を落ち着けて話そうか」
と、立ち上がっていたみんなが私のそばまで来て、地べたに座ろうとする。——スカートを整えようとして腹から手を放したミリーシャの腹の穴から腸がこぼれた。
「こぼれちゃう!」
急に心がきゅってなって、反射でミリーシャの腸を腹の穴に戻して、穴を手で塞ぐ。
「こぼれちゃダメ! ……ダメなんだから……」
脳裏に浮かぶのは、みんなが息絶えて死んだ姿。落ち着きかけていた呼吸がどんどん加速して、息が苦しくなる。ヒュッ、ヒュッ。全身が震える。それにまた気持ちが悪くなってきてる。うぅ、きもちわる……。
「大丈夫だって」
は、となって後ろを振り向く。リーテが私を抱いている。もう死んだはずの身体から温かさが伝わる。気持ち悪いのが引いて、身体の震えは収まってきている。呼吸が落ち着いてきた……。
「ミリ姉、私の服破るから穴塞いで」
「私からもお願いするよ、ラスがこれ以上怯える姿は見たくないんだ」
アルが服を裂いた布でミリーシャが腹の穴を塞いで、私に向き直る。
「ごめんね、ラスちゃん。注意が足りなかった。それと、ありがとう」
「いや、ミリちゃんが謝ることじゃないよ……」
ミリーシャの塞いだ腹の穴を見ながら、思う。これは私の罪なのだ、と。あの日、みんなの死体を前にして何もしなかった私の罪なのだ。……仲間たちが私を助けるといっても、私には罪があるのだから、助けられてはいけないのだろうな。
みんなのあの日の怪我そのままの姿を見回してから、私は両膝を地面につく。
「私から、言わなければならないことがあります」
死んだ三人が座って、私を見つめる。視線がいたい。
「私は、5月23日、あの日に、この地下室に連れられてきました。そして、みんなが息絶えてるところを見ました。……うっ」
口を押えて、こみ上げる吐き気をなんとかこらえる。リーテが心配そうに手を差し伸べようとしたけど、ミリーシャが止めた。
「ごめん。……みんなの死んだ姿を見て、私は頭が真っ白になって、気が付いたら抜け道から逃げ出していました。私は、みんなに対して何もしませんでした。仲間だったのに、家族も同然のみんなだったのに、私は、見捨ててしまいました。それが私の罪です。ごめんなさい」
頭を地面まで下げて、私の罪を謝罪する。赦されないのだから。
「えぇ? 悪くないわよ、ラスちゃんは」
悪くないはずがない。
「私は、みんなが死んだのにのうのうと生きて……こんなの良くないよね」
「いや、良いよ良い、生きてろよおまえは」
「ラス姉は思いつめすぎだよ」
「でも」
「はい、ストップ」
リーテが私の口を塞ぐ。
「もうこれ以上は言わせないよ、ラス」
私の口を塞ぐ手をどかそうとして、はたと私の手が止まる。果たして、私がリーテに抵抗する資格などあるのだろうか?
「単刀直入に言うけどさ、」
リーテが唇をなめ、唾を飲み込む。
「お前、自分の絶望を自分の罪に置き換えて自殺を正当化してんだろ」
……え?
そうか?
そうだったのだろうか?
いやでも、これは私の赦されない罪。
……それならば、私に何ができたというのだろう。
あの時あの場で、何かできることはあった……はず……
……考えれば……考えるほど……
……確かに、私は何を考えていたんだろう。
刹那、白い矢が私の頭を貫いて私の古い凝り固まった思考が砕け散っていく、そんなイメージが私の頭を貫いた。そうだ、私は……
◇◇◇
みんなが死んだあの日、喉が渇ききっておぼろげな意識のまま、棒のような足を引き摺りながら私はみんなで一緒にすごした掘立小屋に辿り着いていた。陽は完全に堕ち、月明かりだけが帰路を照らしていた。死んだみんなを触った血だらけの手が煤を被り、埃まみれのものをどけて、転んで泥にまみれて、元が赤かったのか分からないくらいぐっちゃぐっちゃの黄土色と茶色の模様になっていた。
「アル?」
空っぽの心から飛び出た最初の声が、仲間の名前だった。
「ミリーシャ?」
私は探していた。寝るために身体にかける藁を除けて、そこに仲間の寝姿をみようとした。。
「リーテ?」
いつもならこの時間に誰も居ないはずがない。急用でもできたのかな、と思っていた。無意識に。そうして、みんなの分の明日の朝の飯がないことに気付く。
「アル、お腹空かしちゃうなぁ」
私の足は、その日は限界を迎えていた。みんなを探して屈んで膝を床板につけていた足をあげようとして、私は足がもつれて前のめりに転んだ。
「あ……」
自分が転んで、床に手をつく。手が目につく。ぐっちゃぐっちゃの模様になった手だ。
「……ちがう。ちがうちがう。みんなは、もうとっくに……」
フラッシュバック。あのせまい牢屋の中で、みんなは死んだ。
「嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
現実の奔流が、どうしようもない私を飲み込む。違う違う違う、と何度否定しても、私は現実に抗えなかった。私の思考は現実で塗りつぶされて、もはや、仲間たちが死んでいないという虚構をしんじることはできなくなった。たまらず、既に限界だったはずの足を無理やり立たせて、迫りくる絶望の衝動だけに背中を突き押されて、私は走った。
暗い森の中、衝動は収まって、過去になった運命という名の現実の揺るがなさの前に無力を感じて、もう動かない事実を前に、私は、静かになった絶望に沈んでいた。そして、生物なら抗うことのできない生理である睡眠に落ちる。
目が覚めると、朝だった。太陽が地平線から顔を出して、空をトロイメライの橙色に焼く。木々の葉々の交わり合う無数の小さな隙間から光がこぼれ、土の大地に摩訶不思議大量の模様を照らして作る。でも、私には、そんな模様たちなど見えなかった。夢など見なかった。瞼を開ける前、意識が戻ったとき私は、もはや目覚めても私のいきるべき世界は無いのだと感じていた。目が覚めても、暗い森のまま。目の前にうつる世界が、私には世界だと感じることができなかった。世界そのものが設置されたオブジェクトでしかなかった。太陽も、森の木々も、地べたを走り回る栗鼠も、ただそこにあるだけのオブジェクトにしか感じられなかった。ありていに言えば、その時の私の精神は死んでいたようなものだった。背中を木に預けて、その日は動かなかった。かつての仲間たちとの生活を思い出しては咽び泣き、無表情に宙を見つめるだけだった。
次の日また目覚めると、私は立った。私の脳裏には、仲間たちを殺した男の顔がまざまざと浮かんでいた。私の心は完全に黒くなって、憎悪と憤怒でいっぱいだった。それだけじゃない。私たちを抑圧したものすべてが憎い。男が憎い。いつもそうだった。私たち女は抑圧されていた。娼館のおかみはいつも兵士に強請られて払うべき金の3倍をいつも払わなければならなかった。だからおかみは壊れて私たちを酷使する羽目になった。わたしを買った客は大抵らんぼうで、何度死にかけたか。挙句の果てには、富豪が私たちの仲間を、一銭も払わずに、その命を蹂躙した。私が大好きだったものと私をいつもいじめているのは奴らだ。男どもだ。口から涎がでて、私はその時だけは自分のことを復讐に餓えた獣だと思い込んだ。
その時、背後から音がした。罠を確認しに来た猟師、男だ。私は石を拾い上げようとして、男と目が合った。視線が繋がって、私は恐怖した。頭を殴られた記憶が、胴を殴られた記憶が、腹を蹴られた記憶が、腕をねじ伏せられた記憶が、棒で脚を打たれた記憶が、暴力の記憶が、一斉に、痛みを伴って、身体と精神に再生された。耐えきれなくなって、吐きそうになって、寸前でこらえて、私は走った。男に背を向けて、走った。
気が付けば、私は森があけて足元が崖になっているところまで来ていた。遠くに、巨きな霧の柱が見える。足元の崖に目を見やる。かなり深く、落ちてしまえば死は免れないように見える。———私は崖の下を見ると、ほっとした。もし今落ちれば、重くて暑苦しい憎悪の感情も、仲間に対して何もできなかった後悔も、全て脱ぎ棄てて楽になれると思ったから。崖の下に私の落下する軌跡を見出すと、心の底から安心したような気持ちになれた。ならば、答はひとつしかない。嬉々として花園に足を踏み出すように私は、崖の先に向かって右足を上げた。
上げた右足で、私は後退っていた。どういう理屈で右足がなぜ下がったかは知らない。崖の下を覗く。急に心臓がきゅうってなって、目を逸らしたくなった。どうして。どうして。
それは、本能からの応答だった。魂の奥底からの叫びだった。私を形作る精神の心髄は、”生きたい”と、確かに言っていた。
そっか。
そうなんだね。
私はまだ、私を死なせてくれない。
……でも。私は、こんなにも死にたい。
仲間が死んで、今の私には金も力も希望も、すべてが無い。心の底で絶望と悲しみと怒りがわだかまっていて、今わたしがここに生きているだけで精神が削れて辛い。
私は泣きながら、歩いた。胸の中に絶望を抱えたまま、生きたいと叫ぶ心を抑えながら歩いた。極限状態の私の中で、生きたい想いと死にたい願望が鬩ぎ合う。その鬩ぎ合いの余波が私の身体と心を削っていた。生きたいと願うたびに心臓が締まり、死にたいと思うたびに心が悲鳴を上げた。私は泣きながら、歩いた。生への希求と死への甘い誘いが鬩ぎ合って、私の精神は削れて行った。もはや言葉すら覚束ない精神の中で、何かが芽生えた。
そうだ、私は悪い……。
不意に、その言葉が口をついて出た。
あの時何もしなかったんだ。私は罪人なんだな。
在りもしないはずの罪が、私の中で大きくなっていた。死にたいという絶望が、私の精神を歪めて、私の中に罪の萌芽をつくった。
ファルネスの大霧に彷徨いこみ、エル・ハウェと出会う中でも、罪の意識は確実に私の精神を蝕み、罪のつぼみは次第に大きくなって、とうとう私のすべてを飲み干して満開に咲いた。
◇◇◇
「そうだったんだ」
いま初めて、自分の心の中にある異物に気が付いた。本来ならば在り得ないはずの罪の意識。
「わたしは、死ぬ必要があったんじゃない。ただそこに、死にたい気持ちと生きたい気持ちがあっただけだったんだ……」
世界の全てを呪い拒絶しながら死に向かう気持ちが私を支配する中で、僅かに残った『生存欲求』がしぶとく抗った。その中で『絶望』は『生存欲求』を断絶するために、罪を使った。
「死にたかったから罪を作ったんだ、私。気付かなかった……」
不思議な感覚だ。それまで私の心に張り付いてしつこく離れなかった死への義務感が、ベリベリと音を立てて気持ちよく剥がれていく。私の心が、身体が軽くなっていく。私の手や足を拘束していた、重苦しい鉛の鎖にひびが入って、あっけなく砕けていく。
周囲の景色があの日みんなが死んだ冷たい牢屋から、お日様の差し込む温かい私たちの家に変わる。みんなの見た目から怪我が消えて、まだ生きていた頃の健康な姿になっていった。
「思い出したか? ラス」
リーテが、ようやく気付いた私を察して声を掛けて来た。
「うん」
温かい日差しの中、木調の床に数滴の水滴が零れ落ちる。微かな嗚咽が漏れ出る。さっきまで冷め切っていた身体に熱が戻る。ずっとしていなかった、生きている実感が今になって思い出されている。私の喉や胃、腕や足などが私の身体の一部として確かに繋がれているという実感が温かみを帯びて感じられる。私のこころが全身に行き渡って末端までも動かしている。私は生の実感を噛みしめながら、そこにしばらく座する。手を握り、つま先を動かして、鼓動を感じる。仲間たちは私を囲んで、私を見守っている。
温かい沈黙の中で、私は口を開く。
「ねえ、みんな」
アル、ミリーシャ、リーテの顔を見回す。
「私、生きようと思うんだ」
巨大な絶望に懸命に抗った魂は、ようやく日の目をみる。闇の残骸から生存欲求の私は這い出て、ようやく光あふれる大地を踏みしめる。
「よかったぁ。生きてね、ラス姉ちゃん」
とアル。ミリーシャは私の手を握って、私の顔をみる。
「私たちは死んだ。もっと生きたかったけれど、もうどうにもならない。だから、私たちの願いの分だけ、ラスちゃんには生きてて欲しい」
私はミリーシャに返す。
「うん。私はこれから自分勝手に生きようと思うけど、それでもいいなら」
ミリーシャは涙を流しながら大きくうなずいた。リーテは何も言わずに、ただそっと私を抱きしめる。私も何も言わず、ただお互いの心の温かさだけを交わす。言葉を伝えなくても、この抱擁だけでリーテの気持ちが伝わってくる。私も、この抱擁でリーテに気持ちを伝える。お互いに顔を見つめ合って頷き合い、抱擁をほどく。
「さて」
今になって、後悔した。あの時、どうして私は飛び降りてしまったんだろう。そのおかげで、この精神世界から目覚める術が分からない。
「どうしよ」
現実世界に帰る方法に悩み始めた私に、リーテが言う。
「そりゃあ、まだギリギリお前は生きてるからな。あとは、あのエルって奴とグノーモン?っていう龍が何とかしてくれるのを待つしかねえんじゃね」
リーテの言葉に、一縷の望みを見つける。
「グノーモン様。そうだ、あの龍なら」
全てを超越した存在なら、きっと私の魂からの呼びかけに気付いてくれるかもしれない。だから、私は魂の底から精いっぱい叫ぼう。みんなのお家の掘立小屋から表に出る。スラムの狭い小路には、ただのゴミ一つも落ちていない。私たちのほかには何もいない。頭上に燦然と輝く太陽を見上げて、私は力の限り叫ぶ。
「生きたいから、蘇らせて!!!!!!!!!!!!」