落伍者、孤独に身を翳る
黄金に灰を被せたような髪の女が階段を上がる。脚を無造作に上げて階段を昇り、足音を響かせている。
「グノーモン様」
階段を上がり終えた先に、銀色の龍が鎮座している。
「グノーモン様……。試練への道をお示しください」
冷たくてざらりとしている石床に膝をついて、ラス・アルミアは跪く。
しばし、静寂。
グノーモンが、琥珀色の眼差しで彼女の瞳を見る。
輝きが無い。
グノーモンは、太く長い竜の首を繰り返し横に振る。
「希望無き者に道は開かれぬ。瞳に光なき者に道を踏み出す資格は無し」
「そう、ですか」
彼女の気持ちが地の底に落ち込む。ラスが落胆し、瞳をぶるぶると震わせているのがありありとわかる。
「希望。希望。希望」
しきりに呟き、彼女は希望が何なのか、何なら希望たり得るかと一生懸命頭からひり出そうとしている。
希望の定義とはなんだろう。あいまいな希望の定義が彼女の頭を混乱させる。一日の銭だっただろうか。彼女のかつての仲間に手がかりがあるのか。希望とは、抱くものなのか、手放してしまうものなのか? いくら過去のことを考えても、彼女の暗雲たる記憶の中からは光を見出せなかった。
「希望、希望、希望……」
希望について思いを馳せる度に、自らが希望とは縁遠い存在だと叩きのめされる。寺院に来る前の彼女の人生は仲間こそあれど、闇の中を、小石にかじりついてでも這うような生であった。そこに光はなかった。仲間死んで自らが罪人となった今、どこにも光などない。彼女の人生には一片の光もない。彼女は、そんなふうに考えていた。
(ちがう)
(わたしの人生に、一片の光もない? 違うでしょ、今ここに、光がある。この寺院に、光がいる)
その光とは、エル・ハウェ。わたしに知識と温かさを与えてくれた存在。彼こそが、私の希望。だから、彼はこの世界に在るべきなのだ。
「いました……。希望が。エル・ハウェさんが」
一滴の泪を落として、ラスが希望を口にする。だが、グノーモンにはその瞳には依然として闇と陰りがある様に見えた。
(……まだ不完全。不安定。ラスの口にする希望は、彼女にとって不確かで、そして彼女自身が救われない)
グノーモンはその思考を口に出すべきか、悩んでいる。今まで数え切れぬ人に介入しては、その死を見送って来た。何百ものの人間が試練に挑戦しては成功することができず、自分の信じた希望に失望して嘆き、死んでいった。この寺院を出れた唯一人の人間を除いて。
(あの人も、私の声など必要とせずにこの寺院を出た。今回も、私は口をつぐもう)
「グノーモン様。私は、エル・ハウェさん、彼を希望にして試練に挑みます。彼にはこの世界に生きて欲しいから」
「そうか。……試練は、時として人の魂を壊す。気を付けるのだぞ」
竜が今まで見て来た何百人のなかで、試練の間を出た途端に、心を亡くした者がままいた。試練にて襲い掛かってくるのは、人間の昏く蓋をした心そのもの。
グノーモンの白い翼が広がり、飛翔体勢に入る。光を透通す翼膜に幾多ものの細い血管が映えて、白い翼膜に幾何学的な模様を浮かび上がらせる。翼は真っすぐに羽ばたき、翼の内側の硬質な空気の塊が押し出されてラス・アルミアの身体に押し寄せてくる。羽ばたくごとに押し出された空気が床と衝突して、四方へと広がる。竜の身体がひと羽ばたきごとに浮かび上がっていき、ラス・アルミアの真上に滞空する。竜が口を開き、喉が大きく膨らむ。刹那、音に聞こえぬほどの咆哮が響き渡る。鼓膜が痛くなって、ラス・アルミアが耳を塞いで顔をしかめる。そうしていると、床の中央にある六芒星の紋様が青白い光を纏い始め、光が集まって浮かび上がり、光の球となる。
「ラス・アルミア。その光についていけ。その先に試練への入り口がある」
ラス・アルミアが空を見上げ、憂いのある瞳で降りて来る竜を見つめる。
「ありがとうございます。 ……私の最後になすべきことを手引きしてくれてありがとうございます」
深々とした一礼のあと、ラス・アルミアは動き出した光球について階段を降りる。ラス・アルミアが影の中へと完全に隠れた後、竜はしばらくの間、階段の影から瞳を外すことはできなかった。
光球に導かれてラス・アルミアは一階に降り、昇り階段のすぐ横の壁の前に立つ。球が壁の中へスゥーッと入って消える。煉瓦状の壁が、ガコン、と音を立てて光球が入ったところを中心として人一人通れそうな縦長の長方形の溝が輪郭と成して浮かび上がる。そうして隠し扉が現れると、扉はひとりでに内側に開く。ラス・アルミアが扉の内側へと足を踏み入れると、一人通るのがやっとな窮屈で陰気な下り階段が果てしなく長く続き、はるか下にある漆黒に浸かっているように見える。
「試練は、この先……」
明かりの無い階段を、松明を手に、慎重に、一段づつ降りていく。試練はこの先なのに、既に自分が試されているような感触をラス・アルミアは感じている。足元を照らしながら、確かめながら、一歩、一歩、降りていく。
「ひっ」
手に持った松明の火の暴れるのに、ラス・アルミアが怖気づく。至って自然な現象に怯えてしまうほどに闇は深く、試練に向かう気持ちは萎縮していた。それでも、エル・ハウェを救わなければならないという気持ちのみが足を下へ、下へと進ませる。
隠し扉が遠くなり日の光の差さぬ完全な闇に沈んでしばらく経った頃、ラス・アルミアはついに試練の入り口らしきものに相まみえる。闇の中に、くっきりとした黄色の線が複数浮かびあがっていて、どうやら壁やら床やらに刻まれているようである。ラス・アルミアに対面する壁には複数の横線が上から下へと順序だった距離で並んでおり、それを一本の縦線がまっすぐ貫いている。縦線は天井と床それぞれの円の線に繋がっている。天井と床それぞれの円は同じ大きさであり、人一人が入れそうな広さである。
「これが……入口なの?」
ラス・アルミアはおそるおそる、円の中へと足を踏み入れる。片足。何も反応は起きない。両足を踏み入れた途端、ラス・アルミアは身体が重くなるのを感じた。
「うっ、ぷ……」
それだけではなく、気分も気持ち悪くなった。彼女は今、喉元に何かがこみ上げてきそうな気持ち悪さを感じて口元を抑える。彼女の精神に何かが侵食しているような感じにラス・アルミアは苛まれ、頭痛ができては次第に痛みを増していき、意識が明瞭ではなくなっていく。
「いっ、ぐうぅぅぅ……あああぁぁっ!」
頭を抱えて、地面にうずくまる。苦しんで悶える彼女は気づかないが、天井と床の円から霧のようなものが発生し、やがてその場を包み始める。ラス・アルミアはうずくまりながら、その場で霧に包まれて見えなくなった。
◇◇◇
「……ス……」
ねむい。なんだかあたたかい。
「……ラ…………」
ねむい。ほっといてよ。
「ラスー!」
「うおっ!?」
何者かが私の名前を呼びながらを強く揺さぶり、私のさっきまでの強烈な眠気が飛んでいった。驚いてすぐに起き上がり、おんぼろな木の板の壁を正面に向く。
「って……」
見覚えのある景色。ところどころ破損していて隙間から陽光が入ってくる、気休めの雨凌ぎにしかならないおんぼろ掘立小屋。そして、さっきのは聞き覚えのある声。
まさか。
ありえない。
私の心は最初、驚きと戸惑いで凍り付いた。それから徐々に、心の奥から温かいなにかがこみ上げてきて心を溶かし、瞳の底から涙がこみあげてくる。
おそるおそる、声のする方へと顔を向ける。
「どしたん、悪い夢かー?」
そこにいたのは、もうこの世にいるはずのない、私の掛け替えのない仲間たち。アル。ミリーシャ。リーテ。最年少で元気活発なアル。おっとりして落ち着きのあるミリーシャ。よく私と喧嘩したリーテ。
「どうして」
涙が頬を這いながら、声が口から漏れた。
「んー?」
私を起こしたリーテが疑問そうな顔で私を見つめてくる。
「おまえ、変なもの食べたんだろー」
「そんなわけないでしょ」
リーテの憎まれっ口に、つい口が反応してしまう。リーテはぽかんとしたような表情になった。
「うーん。本当にどうしたのねぇ、ラスちゃん。言葉と表情が合ってないよ」
ミリーシャが、おっとりとした怪訝な表情で私を心配する。
「んん……腹減ってるのか? 私の食うか?」
アルが硬くてボソボソとしたパンの食いかけを私によこしてくる。
なんだ、これは。私は寺院にいたはず。試練の入り口に立って、気分が悪くなって、それから……。
いや、この状況は本当なのだろうか。頬をつねる。
いたい。
わたしは、ずっとわるいゆめをみていた?
アルが、ミリーシャが、リーテが、あのひせまいおりのなかでのうをさらけだしてちょうがまろびでて、まだあたたかいからだのまましんでいたのはゆめだったのか。
わたしひとりだけにげだして、やみよなにもみえぬもりをさまよって、くさとえだにいっぱいぶつかってきりきずをかさねて、いつしかおおきなきりのまえにたっていた、あれはゆめだったのか。
じいんのなかでひとりのおとこにであって、なにもしらなかったわたしにいろいろなことをおしえてくれて、でもわたしはそんなおとこをきずつけた、あれはゆめだったのか。
「いままでのは、ゆめ……?」
涙が溢れる。鼻と喉がつらくなる。よかった。いきてた。いままでのは、ゆめだったんだ。ありもしない日々だったんだ。いま、わたしはいきているなかまを目の当たりにしている。やばい。どうしよう。涙が多すぎて瞼を閉じてしまった。それでも涙は溢れ、顔は上を向いてしまう。嬉しくて、安堵して、なにより心が温かい。
泣き止まない私を、アル、ミリーシャ、リーテはしばらくの間そっとしていた。
「ごめんね。……ずっと、めざめのない悪夢をみていたみたい」
泣き止んだ私は、やっとみんなの顔を直視することができた。しょうじき、顔を見ただけで涙が出そう。うっ。ほら、またもう一筋の涙が流れた。
「そっか。まあ、ラスはここんとこよく働いてたし、半日くらいは休んでもいいかもね」
リーテに優しい言葉をかけられてしまう。そんなに心配させてたのか。ミリーシャからパンを貰おうとして、左肩が痛み出した。服を半脱ぎにして肌を露出させると、紫色の痣が左肩にあった。
「いたっ……」
「昨日の客、最悪だったよねー」
昨日の客? いったいいつのことだろう。長くて目の覚めない夢のせいで、昨日と言うものの時間が記憶の中のどこなのかよくわからない。
「そ、そうだね」
適当に相槌をうつ。娼館の客のことだろう。……そういえば、今日はいつだ?
「今日って、いつだったかしら……?」
「もう、今日のラス姉、変! 天夜暦229年の5月22日だよー」
「……え?」
心がきゅっとなった。……みんなが死ぬ日の、一日前だからだ。みんな、あしたしぬ。
ぶんぶんと頭を振る。ちがうの。ありえないの。だっていままでのできごとはゆめ。アルから聞いた日付が今日だとしてもおかしいところはない。わたしは、ゆめからさめて本来の人生を歩むだけ。
……本当にそうだろうか? 私の罪なんて、元からなかったのだろうか? 夢にしては生々しかった記憶が頭にこびりついて、離れない。
アルとリーテが働きに出かけ、わたしたちの小屋でミリーシャとふたりきりになる。私は、未だに身体に力が入らない。ずっと眠っていたような気がして、立ち上がるのも億劫だ。
「それにしても変ね。いままでだってこんなことは無かったし、本当に何か病気でも貰ったんじゃない?」
ミリーシャが未だに私の身体の心配をする。
「平気だって。夢見が悪すぎただけ。あと少ししたら動けるようになるから……そしたら、稼ぎに出るよ」
気丈にふるまう。だってなにもなかったんだから、私はすぐに元気にならなくちゃ。
「うーん……、話したくないならいいけど、どんな夢をみたの?」
全ては夢という名前の嘘偽りの記憶なのだから、まぁ、いいか。
私は、ファルネスの大霧までへと彷徨い、グノーモンの寺院で一人の男と出会い、色々あったことを話した。……三人が殺されたということは伏せて、心配かけまいと多少は脚色して。
でも、話の途中でミリーシャは怪訝な顔になったり。少し驚いたように瞳を大きくしたり。私が一通り話し終えたのちに、ミリーシャがこう言った。
「……うーん、なにか言ってないことがあったのね。きっと」
私が夢の内容を多少捻じ曲げて話してることを、ミリーシャは見抜いちゃう。もともと、ミリーシャは人の嘘や隠し事にはすぐ気づいちゃう。
「今話したので全部だよ、ミリちゃん」
目を伏しがちにして、あえて隠し事のあるオーラを伝える。こういうところにも、ミリーシャは敏感なのだ。
「わかったわ。んーと、寝てばっかりもあれだから少し歩きましょうか」
ミリーシャが立って、私に手を差し伸べる。私はその手を掴み、立ち上がる。掘立小屋のガタついたドアを叩き開けて、生ごみや吐瀉物などがそこかしこに散乱されている薄汚いスラムの細道を歩く。
「こういうときはね、なにもかんがえないでおひさまのしたを歩くのが一番いいのよ」
気にかけてくれている。ミリーシャはやっぱりミリーシャのままだ。
「ありがと、ミリちゃん。少しずつだけど、元気がでてきた」
もうすこしでスラムを抜けて、交易都市のはずれの森林地帯にでる。草や木々の葉がゆれて、心地いい音を奏でる。朝露の水滴が映えて、世界を光の粒々の反射で染め上げる。ああ、もう大丈夫だ。
……だいじょうぶ?
なのに、まだおもい。
私にはなにか果たさなければならないことがあるような気がする。
ちがう。そんなものはない。全て夢だったのだから。
「ねぇ、やっぱり訊きたいことがあるの」
ミリーシャが私を背にしたまま立ち止まる。なんだろう。
「私ね、驚いてることがあるの。……男のこと、前向きに話せる子だったの、ラスちゃん?」
それを言われた時、私は凍り付いた。指の先に血が通っていないような感じがして、それでも動けなかった。頭が冷えて、痛くなった。息がろくにできなくなって、それでも唇はあまり動かない。私だけが急に凍土に放り込まれたかのように。
……何故かは分からない。あれ? 私って男のことを前向きに話してたっけ? 夢の中にしか存在しない、エル・ハウェのことを前向きに? そうか、夢の中の存在だからいいんだ。
「夢の中だけの存在だから、かな」
……
……
……
どうして、私はいま、わざわざ『夢の中”だけ”』と強調した?
やばい。急に後ろめたくなってきた。足が重くなって、今にも地面に沈みそうだ。もうほんの少しでも手を動かすことができない。明るく光り輝いていたはずの世界が徐々に光度を下げていき、やがて視界は青白いモノトーンにそまる。
私はこわい。
私の首を、もう一人の私がつかんではなさない。そのわたしは、わたしにこういう。
『わたしの罪をわすれるな。エル・ハウェをわすれるな。あのひ、脳が露出したアルを。殴打されまくって痣だらけの血まみれのまま死んだリーテを。腸がまろびでて血まみれだったミリーシャをわすれるな。そして、すべてせおって地獄へと身を投げ捨てに行くんだ』
そう囁いてくるもう一人の私は私の身体に溶け込む。思考が、侵食される。夢ではもう済ませられない。夢なのに。夢じゃない。夢じゃ在り得ない。
ここは”試練”で、覆ることのない現実の地続きだ。グノーモンの寺院も、エル・ハウェも、ぜんぶ真実で。ここは、”試練”が見せる幻の世界。
泣きたくなったが、既に涙は泣ききって涸れている。取り戻した元気が抜けていって、天地が横に回転する。柔らかい草花が私の側頭部を受け止めて、潰れる。
柔らかったはずの草花の大地が固く、冷たくなっていく。青空は暗く窮屈な石の天井に変わり、限りなく解放されていた空間は岩の壁に囲まれた狭く淀んだ空間に変わる。辺り一面を照らしていた日光が松明の火に置き換わり、少しの範囲しか照らさない。この狭い空間の中で、更に檻に囚われていることに気が付く。
———目の前に立っていたミリーシャがどさりと倒れる。
「ミリー、シャ?」
絶望に奪われていた力がその時だけは身体に戻って、すぐに倒れたミリーシャの元に駆け付ける。ミリーシャは伏せたような恰好になっていて、様子が詳しくは分からない。……でも、しっているきがする。
喉奥に強烈な異物感を感じて、熱くて気持ち悪い液を吐いた。
ミリーシャをひっくりかえしたら、ちょうがまろびでていた。
ふりかえると、アルがのうをさらけだしていた。
アルのそばでリーテがあなをほったかっこうのままちをながしてうごかなくなっている。
よくみるとさんにんのふくがだれかにひっぱられたかのようにのびていたぬがされそうになったんだそれでひっしにていこうしてとじこめられてころされて
ここでしんだんだ
あの日、わたしは富豪につかまってここに押し込まれたんだ。それで、檻に閉じ込められてすぐ、みんなが死んでるのを見てわたしはにげた。手を合わせもしないで、ただおどろいておびえてなきわめいて。こころがぐちゃぐちゃになってあたまがまっしろになって、それでなにもしないままにげたんだ。
あのあと、なかまたちはどうなった? からだは、どうなった? いまもここにねむっている……?
わたしがほっといたのがわるい。なかまだったのに、死体さえもたすけられない私がわるい。たすけようとすら思いつきもしなかったわたしがわるい。
まだ気持ち悪い液がついたままの歯で無意識のうちに腕を噛みしめて血を流す。
どうして、わたしだけいきてるんだろう……
刹那、空間が”切り替わった”。
仲間の死体と陰湿な地下室が嘘のように消えて、今は水滴を人が入れるような大きさにした中身のような空間の中にいる。
何の仕業かはわかっている。
『ラス・アルミア。ようこそ、試練の間へ』
振り返る。少し距離を置いたところに、ある日覗いた川の水面に映る自分の姿と同じ姿をした人間がそこにいた。
「あなたが、さっきの様子を見せたのか」
拳が怒りに震えて仕方ない。私の目つきは激情に尖り、喉仏からは憤怒のあまりの呻き声が漏れる。
「気分、良くないんだけど」
『……すまなかった。だが”あれ”は試練に挑む者の自覚に足りないものを補うための助け船のようなもので、”試練”に備わっている機能なのだ』
つまり、さっきの様子の中に私の心に足りないものがあるとこいつはいいたいのか。正直、怒りと悲しみで溢れそうになって仕方ないが、ここはこらえざるをえないだろう。
『それでは、ラス・アルミア。貴女に試練を問おう』
エル・ハウェの為に、ここはもう下がれない。
『”生”とは何なりや』
刹那、思考が凍り付いた。”生”。”生”? まず”生”の何を答えればいい? ”生”をどう答えればいい? あまりにも取っ掛かりが無さすぎて分からない。あまりにも漠然で曖昧とした、巨大すぎるテーマを突き付けられて答えろと言われてもどうしようもない。
「あ、え、ええと……」
問いの訳の分からなさと自分の頭の足りなさに時折呻いてしまう。視線が空を泳いでしまう。幾ら思考を巡らせても、ただの一つの言葉さえも出てこない。浮かむ瀬無き思考の果てに、答を掴めるはずがない。
『最後の助け舟を出そう』
私と同じような姿をした”ソレ”は私を見かねてのことなのか、口を開く。
『先ほどの問いに関してだが、”試練”はなにも絶対の答を求めているわけではない。その答えを通じて、回答者その人の生き様や生に対する姿勢を見極めるのだ』
私を形どった貌にはめ込まれた、私のものではないような瞳が威圧の刃を私に突き付ける。手足が一瞬にして凍ったような錯覚に陥り、胃の中に何かが溜まって吐きたくなるような苦しみを覚える。
「生き様……?」
ようやくおうむ返しにするその言葉に思考を巡らせる。……”アレ”が言ったことを察するに、私は私の人生を通じて答をいわなきゃならない。
私の人生? 地べたを這うような生活、それさえも仲間か死に、私一人だけその後の意味のない生を送って、何もない人生から何を答えろというのか。意味のない答で、”試練”が満足するわけがない。
今までの人生を思い起こす。……物心ついたときは薄汚い孤児院にいて、あまりにも虐待がひどかったから一人逃げ出して、仲間たちと出会ってあの小屋に住み始めて、でも稼げる腕が無かったから身体を売って、仲間が死んで一人に戻って、仲間を見捨てて彷徨い、ここに辿り着いた。……誰一人救えていない。善行などただひとつもしていない。私の生き様なんて、塵芥ほどの価値もない生だ。
ここの”試練”は、私などのような者には門前払い程度のものだったのだ。もうあきらめよう。
「私の生は、身体を売って稼ぎ、常に強者に媚びへつらうか逃げるかしかない、善行をただひとつもできなかった、何もいいところがない生でした」
言った。自分の生を正直に述べた時、自分の心を表面の荒い石で擦りつけるような感じがした。汚点だらけの生を述べなければならなくて、自分の心は正直滅入った。
私と同じような姿をした”ソレ”は、呆れたように溜息をついた。
『当然、それでは不合格だ』
「ほかにどう説明できましょう?」
暫しの間、沈黙が流れる。”ソレ”は憐れむような目つきで私の瞳をじっと見てくる。それが耐えられなくて、ただひたすらに視線をそらす。
『何回でも挑める。今はただ考える時間がいるだろう』
考える時間? 意味のない時間だ。自分の心の中で、何かが終わる。思考は闇そのものになり、ただ目の前にある現実すべてがどうでもいいものになる。無意味、無価値。ああ、私はなんでここに来てたんだろ。ただ一人の人間すら救えない。私の生が無意味で無価値だから、エル・ハウェも、誰も救えないんだ。
……いい加減、終わりにしよう。
「ここから出させて」
◇◇◇
「作戦を練っている間に、ラスが入ったのか」
光宿さない瞳で、エルは試練に続く隠し扉を見ながら独り言ちる。日は沈んで、彼の持つ松明と満月しか明かりはない。
「……ん?」
足音が、闇の底から聞こえてくる。上がってきている音。おそらくはラス・アルミアが上がってくる音。
闇から彼女の顔が現れる。彼の頬に冷や汗が一滴。
「どうだった?」
答の分かり切っている問いを出す。彼女の、もはや空虚としか言合せられないような無表情を見れば答なんて分かりきっているものを。
「失格。それ以外に何もない」
それきりエルから視線を外して彼女は彼を横切り、二階へとつづく階段を昇る。——その彼女の腕を、エルは、ほぼ直感で、ほぼ反射で、掴む。彼女が危ういと感じたから。階段の中腹で、エルがラスを止めている。
「どこに行くんだ……?」
日は沈んで、彼の持つ松明と満月しか明かりはない。
「高いところ」
早口で答え終わるより早く、ラス・アルミアは掴まれた腕を振りほどこうとする。階段を上がる脚に力を入れて、腕を左右にできるだけ強く振る。彼女が階段を1つの段上がろうとしたとき、エルは引っ張られて足の安定を失い、階段を踏み外す。彼は転倒し、掴んだ腕と松明を放す。松明は階段を転がり落ち、石の床に激突して明かりが消える。ここぞとばかりにラス・アルミアは階段を一気に駆け上がる。
「まってくれ……」
痛みに耐えて情けないぐらい弱い声を振り絞りながら、エルは立ち直って階段を駆け上り、彼女の足音を頼りにラスを追う。暗い中で壁にぶつかり、歩くたびに転倒した足が軋んで激痛が響きながらも、エルは耐えて彼女を追う。三階へと繋がる階段を見つけ、昇り、長い回廊を走り、天まで届きそうな狭い階段を四肢を活用して獣のように駆けあがり、また長い回廊を息が途切れ途切れながらも突っ走り、体重の全てをかけて重い重い扉を開ける。
……風が吹いている。冷たい風が吹いている。天井は無く壁はところどころ崩落しており、石の床が広がる、月の光が眩い空間の中、ラス・アルミアは正に崩落した壁の隙間、石の地面の端に立っている。その先に床は無い宙で、踏み外せば墜落するしかない。
龍は、ただラス・アルミアの方を見て佇んでいるのみ。動く気配はない。
風が吹いている。いつもなら落ち着いて聞こえただろう風音が、この時だけはやかましい。そう感じながら、エルは足を引き摺ってラス・アルミアに近づく。一歩、一歩。それでも、彼女との距離はまだ遠い。ふと、エルは彼女を止めない竜が気になった。
「グノーモン様っ、なぜ止めないのですかっ」
龍の視線が彼の方に動く。
「私は他の者にあまり干渉しない。命をどうするかは、その者の決断に因るのみ」
その眼差しは、どこかしおらしく、龍という伝説には相応しくないくらい無力だった。
一歩、一歩、怪我していない右足で左足を引き摺りながらも彼女に近づく。それでもエルとラスの距離は、まだ手が届かない。
「ラス、やめるんだ」
自分が言えた義理じゃないと自覚しながらも、エルは彼女に呼びかける。
「自殺なんて、君には相応しくないマネはやめてくれ」
「そこで止まって」
エルの足が止まり、彼女に向けて伸ばそうとした腕も止まる。
静かだ。凪いでいる。満月に見下ろされて、彼と彼女は向き合っている。
「俺は、君が死ぬべきだとは思わないんだ。いや、むしろ、死んじゃだめだ」
「なんで?」
ラス・アルミアの瞳は、もうエルを捉えてなんかいない。ただ彼女自身の足元を、生と死を分ける、石の床が途切れているところを見つめるだけだった。
「仲間がみんな死んだらそりゃ、悲しくなって死にたくなるかもしれないけど。でも、君は俺なんかよりずっと善人で、だからむしろ生きるべきだと思うんだ」
「資格がないのに?」
ラスが、彼女自身を突き放すように言う。彼女の眉間に皺がたまり、彼女の身体全体が震えている。——そして、今まで堰き止めていたものが溢れ出す。
「私は仲間を見捨てた。仲間の遺体をあの場所からどうしようと考えず、ただ私だけが私自身の自分勝手な恐怖に従って、おめおめと今日まで生きてしまったんだ!!!!」
初めての、怒りの告白。
「だから、だから。私は、そんな自分の罪を、こんなに重い罪を背負ってまで生きていようとは思えない。私は、私の罪によって死ぬべきなんだ!!」
あまりの苛烈さに、エルがたじろぐ。その隙に、ラスは荒れた呼吸を整えようと、乱れた髪を直しながら深呼吸する。
「さようなら」
訣別の言葉と共に、ラス・アルミアの片足が何もない宙へとずれようとする。
エルが、足の痛みを忘れてラスのもとへ駆け寄ろうとする。その一瞬だけ、エルの頭が全部真っ白になって、たったひとつの疑問だけが真っ白な世界にくっきりと刻まれている。—そして、頭から口に流れ込み、口から迸り出ようとする。
「貴女は今日にいたるまで」
片足がもうつま先から後ろは宙に浮いた頃に、エルが叫ぶ。
「何の罪も犯していないじゃないか!」
—そして片足が完全に宙にずれて重心が外側にずれ、ラスの身体が落ち始める。
「グノーモン様」
階段を上がり終えた先に、銀色の龍が鎮座している。
「グノーモン様……。試練への道をお示しください」
冷たくてざらりとしている石床に膝をついて、ラス・アルミアは跪く。
しばし、静寂。
グノーモンが、琥珀色の眼差しで彼女の瞳を見る。
輝きが無い。
グノーモンは、太く長い竜の首を繰り返し横に振る。
「希望無き者に道は開かれぬ。瞳に光なき者に道を踏み出す資格は無し」
「そう、ですか」
彼女の気持ちが地の底に落ち込む。ラスが落胆し、瞳をぶるぶると震わせているのがありありとわかる。
「希望。希望。希望」
しきりに呟き、彼女は希望が何なのか、何なら希望たり得るかと一生懸命頭からひり出そうとしている。
希望の定義とはなんだろう。あいまいな希望の定義が彼女の頭を混乱させる。一日の銭だっただろうか。彼女のかつての仲間に手がかりがあるのか。希望とは、抱くものなのか、手放してしまうものなのか? いくら過去のことを考えても、彼女の暗雲たる記憶の中からは光を見出せなかった。
「希望、希望、希望……」
希望について思いを馳せる度に、自らが希望とは縁遠い存在だと叩きのめされる。寺院に来る前の彼女の人生は仲間こそあれど、闇の中を、小石にかじりついてでも這うような生であった。そこに光はなかった。仲間死んで自らが罪人となった今、どこにも光などない。彼女の人生には一片の光もない。彼女は、そんなふうに考えていた。
(ちがう)
(わたしの人生に、一片の光もない? 違うでしょ、今ここに、光がある。この寺院に、光がいる)
その光とは、エル・ハウェ。わたしに知識と温かさを与えてくれた存在。彼こそが、私の希望。だから、彼はこの世界に在るべきなのだ。
「いました……。希望が。エル・ハウェさんが」
一滴の泪を落として、ラスが希望を口にする。だが、グノーモンにはその瞳には依然として闇と陰りがある様に見えた。
(……まだ不完全。不安定。ラスの口にする希望は、彼女にとって不確かで、そして彼女自身が救われない)
グノーモンはその思考を口に出すべきか、悩んでいる。今まで数え切れぬ人に介入しては、その死を見送って来た。何百ものの人間が試練に挑戦しては成功することができず、自分の信じた希望に失望して嘆き、死んでいった。この寺院を出れた唯一人の人間を除いて。
(あの人も、私の声など必要とせずにこの寺院を出た。今回も、私は口をつぐもう)
「グノーモン様。私は、エル・ハウェさん、彼を希望にして試練に挑みます。彼にはこの世界に生きて欲しいから」
「そうか。……試練は、時として人の魂を壊す。気を付けるのだぞ」
竜が今まで見て来た何百人のなかで、試練の間を出た途端に、心を亡くした者がままいた。試練にて襲い掛かってくるのは、人間の昏く蓋をした心そのもの。
グノーモンの白い翼が広がり、飛翔体勢に入る。光を透通す翼膜に幾多ものの細い血管が映えて、白い翼膜に幾何学的な模様を浮かび上がらせる。翼は真っすぐに羽ばたき、翼の内側の硬質な空気の塊が押し出されてラス・アルミアの身体に押し寄せてくる。羽ばたくごとに押し出された空気が床と衝突して、四方へと広がる。竜の身体がひと羽ばたきごとに浮かび上がっていき、ラス・アルミアの真上に滞空する。竜が口を開き、喉が大きく膨らむ。刹那、音に聞こえぬほどの咆哮が響き渡る。鼓膜が痛くなって、ラス・アルミアが耳を塞いで顔をしかめる。そうしていると、床の中央にある六芒星の紋様が青白い光を纏い始め、光が集まって浮かび上がり、光の球となる。
「ラス・アルミア。その光についていけ。その先に試練への入り口がある」
ラス・アルミアが空を見上げ、憂いのある瞳で降りて来る竜を見つめる。
「ありがとうございます。 ……私の最後になすべきことを手引きしてくれてありがとうございます」
深々とした一礼のあと、ラス・アルミアは動き出した光球について階段を降りる。ラス・アルミアが影の中へと完全に隠れた後、竜はしばらくの間、階段の影から瞳を外すことはできなかった。
光球に導かれてラス・アルミアは一階に降り、昇り階段のすぐ横の壁の前に立つ。球が壁の中へスゥーッと入って消える。煉瓦状の壁が、ガコン、と音を立てて光球が入ったところを中心として人一人通れそうな縦長の長方形の溝が輪郭と成して浮かび上がる。そうして隠し扉が現れると、扉はひとりでに内側に開く。ラス・アルミアが扉の内側へと足を踏み入れると、一人通るのがやっとな窮屈で陰気な下り階段が果てしなく長く続き、はるか下にある漆黒に浸かっているように見える。
「試練は、この先……」
明かりの無い階段を、松明を手に、慎重に、一段づつ降りていく。試練はこの先なのに、既に自分が試されているような感触をラス・アルミアは感じている。足元を照らしながら、確かめながら、一歩、一歩、降りていく。
「ひっ」
手に持った松明の火の暴れるのに、ラス・アルミアが怖気づく。至って自然な現象に怯えてしまうほどに闇は深く、試練に向かう気持ちは萎縮していた。それでも、エル・ハウェを救わなければならないという気持ちのみが足を下へ、下へと進ませる。
隠し扉が遠くなり日の光の差さぬ完全な闇に沈んでしばらく経った頃、ラス・アルミアはついに試練の入り口らしきものに相まみえる。闇の中に、くっきりとした黄色の線が複数浮かびあがっていて、どうやら壁やら床やらに刻まれているようである。ラス・アルミアに対面する壁には複数の横線が上から下へと順序だった距離で並んでおり、それを一本の縦線がまっすぐ貫いている。縦線は天井と床それぞれの円の線に繋がっている。天井と床それぞれの円は同じ大きさであり、人一人が入れそうな広さである。
「これが……入口なの?」
ラス・アルミアはおそるおそる、円の中へと足を踏み入れる。片足。何も反応は起きない。両足を踏み入れた途端、ラス・アルミアは身体が重くなるのを感じた。
「うっ、ぷ……」
それだけではなく、気分も気持ち悪くなった。彼女は今、喉元に何かがこみ上げてきそうな気持ち悪さを感じて口元を抑える。彼女の精神に何かが侵食しているような感じにラス・アルミアは苛まれ、頭痛ができては次第に痛みを増していき、意識が明瞭ではなくなっていく。
「いっ、ぐうぅぅぅ……あああぁぁっ!」
頭を抱えて、地面にうずくまる。苦しんで悶える彼女は気づかないが、天井と床の円から霧のようなものが発生し、やがてその場を包み始める。ラス・アルミアはうずくまりながら、その場で霧に包まれて見えなくなった。
◇◇◇
「……ス……」
ねむい。なんだかあたたかい。
「……ラ…………」
ねむい。ほっといてよ。
「ラスー!」
「うおっ!?」
何者かが私の名前を呼びながらを強く揺さぶり、私のさっきまでの強烈な眠気が飛んでいった。驚いてすぐに起き上がり、おんぼろな木の板の壁を正面に向く。
「って……」
見覚えのある景色。ところどころ破損していて隙間から陽光が入ってくる、気休めの雨凌ぎにしかならないおんぼろ掘立小屋。そして、さっきのは聞き覚えのある声。
まさか。
ありえない。
私の心は最初、驚きと戸惑いで凍り付いた。それから徐々に、心の奥から温かいなにかがこみ上げてきて心を溶かし、瞳の底から涙がこみあげてくる。
おそるおそる、声のする方へと顔を向ける。
「どしたん、悪い夢かー?」
そこにいたのは、もうこの世にいるはずのない、私の掛け替えのない仲間たち。アル。ミリーシャ。リーテ。最年少で元気活発なアル。おっとりして落ち着きのあるミリーシャ。よく私と喧嘩したリーテ。
「どうして」
涙が頬を這いながら、声が口から漏れた。
「んー?」
私を起こしたリーテが疑問そうな顔で私を見つめてくる。
「おまえ、変なもの食べたんだろー」
「そんなわけないでしょ」
リーテの憎まれっ口に、つい口が反応してしまう。リーテはぽかんとしたような表情になった。
「うーん。本当にどうしたのねぇ、ラスちゃん。言葉と表情が合ってないよ」
ミリーシャが、おっとりとした怪訝な表情で私を心配する。
「んん……腹減ってるのか? 私の食うか?」
アルが硬くてボソボソとしたパンの食いかけを私によこしてくる。
なんだ、これは。私は寺院にいたはず。試練の入り口に立って、気分が悪くなって、それから……。
いや、この状況は本当なのだろうか。頬をつねる。
いたい。
わたしは、ずっとわるいゆめをみていた?
アルが、ミリーシャが、リーテが、あのひせまいおりのなかでのうをさらけだしてちょうがまろびでて、まだあたたかいからだのまましんでいたのはゆめだったのか。
わたしひとりだけにげだして、やみよなにもみえぬもりをさまよって、くさとえだにいっぱいぶつかってきりきずをかさねて、いつしかおおきなきりのまえにたっていた、あれはゆめだったのか。
じいんのなかでひとりのおとこにであって、なにもしらなかったわたしにいろいろなことをおしえてくれて、でもわたしはそんなおとこをきずつけた、あれはゆめだったのか。
「いままでのは、ゆめ……?」
涙が溢れる。鼻と喉がつらくなる。よかった。いきてた。いままでのは、ゆめだったんだ。ありもしない日々だったんだ。いま、わたしはいきているなかまを目の当たりにしている。やばい。どうしよう。涙が多すぎて瞼を閉じてしまった。それでも涙は溢れ、顔は上を向いてしまう。嬉しくて、安堵して、なにより心が温かい。
泣き止まない私を、アル、ミリーシャ、リーテはしばらくの間そっとしていた。
「ごめんね。……ずっと、めざめのない悪夢をみていたみたい」
泣き止んだ私は、やっとみんなの顔を直視することができた。しょうじき、顔を見ただけで涙が出そう。うっ。ほら、またもう一筋の涙が流れた。
「そっか。まあ、ラスはここんとこよく働いてたし、半日くらいは休んでもいいかもね」
リーテに優しい言葉をかけられてしまう。そんなに心配させてたのか。ミリーシャからパンを貰おうとして、左肩が痛み出した。服を半脱ぎにして肌を露出させると、紫色の痣が左肩にあった。
「いたっ……」
「昨日の客、最悪だったよねー」
昨日の客? いったいいつのことだろう。長くて目の覚めない夢のせいで、昨日と言うものの時間が記憶の中のどこなのかよくわからない。
「そ、そうだね」
適当に相槌をうつ。娼館の客のことだろう。……そういえば、今日はいつだ?
「今日って、いつだったかしら……?」
「もう、今日のラス姉、変! 天夜暦229年の5月22日だよー」
「……え?」
心がきゅっとなった。……みんなが死ぬ日の、一日前だからだ。みんな、あしたしぬ。
ぶんぶんと頭を振る。ちがうの。ありえないの。だっていままでのできごとはゆめ。アルから聞いた日付が今日だとしてもおかしいところはない。わたしは、ゆめからさめて本来の人生を歩むだけ。
……本当にそうだろうか? 私の罪なんて、元からなかったのだろうか? 夢にしては生々しかった記憶が頭にこびりついて、離れない。
アルとリーテが働きに出かけ、わたしたちの小屋でミリーシャとふたりきりになる。私は、未だに身体に力が入らない。ずっと眠っていたような気がして、立ち上がるのも億劫だ。
「それにしても変ね。いままでだってこんなことは無かったし、本当に何か病気でも貰ったんじゃない?」
ミリーシャが未だに私の身体の心配をする。
「平気だって。夢見が悪すぎただけ。あと少ししたら動けるようになるから……そしたら、稼ぎに出るよ」
気丈にふるまう。だってなにもなかったんだから、私はすぐに元気にならなくちゃ。
「うーん……、話したくないならいいけど、どんな夢をみたの?」
全ては夢という名前の嘘偽りの記憶なのだから、まぁ、いいか。
私は、ファルネスの大霧までへと彷徨い、グノーモンの寺院で一人の男と出会い、色々あったことを話した。……三人が殺されたということは伏せて、心配かけまいと多少は脚色して。
でも、話の途中でミリーシャは怪訝な顔になったり。少し驚いたように瞳を大きくしたり。私が一通り話し終えたのちに、ミリーシャがこう言った。
「……うーん、なにか言ってないことがあったのね。きっと」
私が夢の内容を多少捻じ曲げて話してることを、ミリーシャは見抜いちゃう。もともと、ミリーシャは人の嘘や隠し事にはすぐ気づいちゃう。
「今話したので全部だよ、ミリちゃん」
目を伏しがちにして、あえて隠し事のあるオーラを伝える。こういうところにも、ミリーシャは敏感なのだ。
「わかったわ。んーと、寝てばっかりもあれだから少し歩きましょうか」
ミリーシャが立って、私に手を差し伸べる。私はその手を掴み、立ち上がる。掘立小屋のガタついたドアを叩き開けて、生ごみや吐瀉物などがそこかしこに散乱されている薄汚いスラムの細道を歩く。
「こういうときはね、なにもかんがえないでおひさまのしたを歩くのが一番いいのよ」
気にかけてくれている。ミリーシャはやっぱりミリーシャのままだ。
「ありがと、ミリちゃん。少しずつだけど、元気がでてきた」
もうすこしでスラムを抜けて、交易都市のはずれの森林地帯にでる。草や木々の葉がゆれて、心地いい音を奏でる。朝露の水滴が映えて、世界を光の粒々の反射で染め上げる。ああ、もう大丈夫だ。
……だいじょうぶ?
なのに、まだおもい。
私にはなにか果たさなければならないことがあるような気がする。
ちがう。そんなものはない。全て夢だったのだから。
「ねぇ、やっぱり訊きたいことがあるの」
ミリーシャが私を背にしたまま立ち止まる。なんだろう。
「私ね、驚いてることがあるの。……男のこと、前向きに話せる子だったの、ラスちゃん?」
それを言われた時、私は凍り付いた。指の先に血が通っていないような感じがして、それでも動けなかった。頭が冷えて、痛くなった。息がろくにできなくなって、それでも唇はあまり動かない。私だけが急に凍土に放り込まれたかのように。
……何故かは分からない。あれ? 私って男のことを前向きに話してたっけ? 夢の中にしか存在しない、エル・ハウェのことを前向きに? そうか、夢の中の存在だからいいんだ。
「夢の中だけの存在だから、かな」
……
……
……
どうして、私はいま、わざわざ『夢の中”だけ”』と強調した?
やばい。急に後ろめたくなってきた。足が重くなって、今にも地面に沈みそうだ。もうほんの少しでも手を動かすことができない。明るく光り輝いていたはずの世界が徐々に光度を下げていき、やがて視界は青白いモノトーンにそまる。
私はこわい。
私の首を、もう一人の私がつかんではなさない。そのわたしは、わたしにこういう。
『わたしの罪をわすれるな。エル・ハウェをわすれるな。あのひ、脳が露出したアルを。殴打されまくって痣だらけの血まみれのまま死んだリーテを。腸がまろびでて血まみれだったミリーシャをわすれるな。そして、すべてせおって地獄へと身を投げ捨てに行くんだ』
そう囁いてくるもう一人の私は私の身体に溶け込む。思考が、侵食される。夢ではもう済ませられない。夢なのに。夢じゃない。夢じゃ在り得ない。
ここは”試練”で、覆ることのない現実の地続きだ。グノーモンの寺院も、エル・ハウェも、ぜんぶ真実で。ここは、”試練”が見せる幻の世界。
泣きたくなったが、既に涙は泣ききって涸れている。取り戻した元気が抜けていって、天地が横に回転する。柔らかい草花が私の側頭部を受け止めて、潰れる。
柔らかったはずの草花の大地が固く、冷たくなっていく。青空は暗く窮屈な石の天井に変わり、限りなく解放されていた空間は岩の壁に囲まれた狭く淀んだ空間に変わる。辺り一面を照らしていた日光が松明の火に置き換わり、少しの範囲しか照らさない。この狭い空間の中で、更に檻に囚われていることに気が付く。
———目の前に立っていたミリーシャがどさりと倒れる。
「ミリー、シャ?」
絶望に奪われていた力がその時だけは身体に戻って、すぐに倒れたミリーシャの元に駆け付ける。ミリーシャは伏せたような恰好になっていて、様子が詳しくは分からない。……でも、しっているきがする。
喉奥に強烈な異物感を感じて、熱くて気持ち悪い液を吐いた。
ミリーシャをひっくりかえしたら、ちょうがまろびでていた。
ふりかえると、アルがのうをさらけだしていた。
アルのそばでリーテがあなをほったかっこうのままちをながしてうごかなくなっている。
よくみるとさんにんのふくがだれかにひっぱられたかのようにのびていたぬがされそうになったんだそれでひっしにていこうしてとじこめられてころされて
ここでしんだんだ
あの日、わたしは富豪につかまってここに押し込まれたんだ。それで、檻に閉じ込められてすぐ、みんなが死んでるのを見てわたしはにげた。手を合わせもしないで、ただおどろいておびえてなきわめいて。こころがぐちゃぐちゃになってあたまがまっしろになって、それでなにもしないままにげたんだ。
あのあと、なかまたちはどうなった? からだは、どうなった? いまもここにねむっている……?
わたしがほっといたのがわるい。なかまだったのに、死体さえもたすけられない私がわるい。たすけようとすら思いつきもしなかったわたしがわるい。
まだ気持ち悪い液がついたままの歯で無意識のうちに腕を噛みしめて血を流す。
どうして、わたしだけいきてるんだろう……
刹那、空間が”切り替わった”。
仲間の死体と陰湿な地下室が嘘のように消えて、今は水滴を人が入れるような大きさにした中身のような空間の中にいる。
何の仕業かはわかっている。
『ラス・アルミア。ようこそ、試練の間へ』
振り返る。少し距離を置いたところに、ある日覗いた川の水面に映る自分の姿と同じ姿をした人間がそこにいた。
「あなたが、さっきの様子を見せたのか」
拳が怒りに震えて仕方ない。私の目つきは激情に尖り、喉仏からは憤怒のあまりの呻き声が漏れる。
「気分、良くないんだけど」
『……すまなかった。だが”あれ”は試練に挑む者の自覚に足りないものを補うための助け船のようなもので、”試練”に備わっている機能なのだ』
つまり、さっきの様子の中に私の心に足りないものがあるとこいつはいいたいのか。正直、怒りと悲しみで溢れそうになって仕方ないが、ここはこらえざるをえないだろう。
『それでは、ラス・アルミア。貴女に試練を問おう』
エル・ハウェの為に、ここはもう下がれない。
『”生”とは何なりや』
刹那、思考が凍り付いた。”生”。”生”? まず”生”の何を答えればいい? ”生”をどう答えればいい? あまりにも取っ掛かりが無さすぎて分からない。あまりにも漠然で曖昧とした、巨大すぎるテーマを突き付けられて答えろと言われてもどうしようもない。
「あ、え、ええと……」
問いの訳の分からなさと自分の頭の足りなさに時折呻いてしまう。視線が空を泳いでしまう。幾ら思考を巡らせても、ただの一つの言葉さえも出てこない。浮かむ瀬無き思考の果てに、答を掴めるはずがない。
『最後の助け舟を出そう』
私と同じような姿をした”ソレ”は私を見かねてのことなのか、口を開く。
『先ほどの問いに関してだが、”試練”はなにも絶対の答を求めているわけではない。その答えを通じて、回答者その人の生き様や生に対する姿勢を見極めるのだ』
私を形どった貌にはめ込まれた、私のものではないような瞳が威圧の刃を私に突き付ける。手足が一瞬にして凍ったような錯覚に陥り、胃の中に何かが溜まって吐きたくなるような苦しみを覚える。
「生き様……?」
ようやくおうむ返しにするその言葉に思考を巡らせる。……”アレ”が言ったことを察するに、私は私の人生を通じて答をいわなきゃならない。
私の人生? 地べたを這うような生活、それさえも仲間か死に、私一人だけその後の意味のない生を送って、何もない人生から何を答えろというのか。意味のない答で、”試練”が満足するわけがない。
今までの人生を思い起こす。……物心ついたときは薄汚い孤児院にいて、あまりにも虐待がひどかったから一人逃げ出して、仲間たちと出会ってあの小屋に住み始めて、でも稼げる腕が無かったから身体を売って、仲間が死んで一人に戻って、仲間を見捨てて彷徨い、ここに辿り着いた。……誰一人救えていない。善行などただひとつもしていない。私の生き様なんて、塵芥ほどの価値もない生だ。
ここの”試練”は、私などのような者には門前払い程度のものだったのだ。もうあきらめよう。
「私の生は、身体を売って稼ぎ、常に強者に媚びへつらうか逃げるかしかない、善行をただひとつもできなかった、何もいいところがない生でした」
言った。自分の生を正直に述べた時、自分の心を表面の荒い石で擦りつけるような感じがした。汚点だらけの生を述べなければならなくて、自分の心は正直滅入った。
私と同じような姿をした”ソレ”は、呆れたように溜息をついた。
『当然、それでは不合格だ』
「ほかにどう説明できましょう?」
暫しの間、沈黙が流れる。”ソレ”は憐れむような目つきで私の瞳をじっと見てくる。それが耐えられなくて、ただひたすらに視線をそらす。
『何回でも挑める。今はただ考える時間がいるだろう』
考える時間? 意味のない時間だ。自分の心の中で、何かが終わる。思考は闇そのものになり、ただ目の前にある現実すべてがどうでもいいものになる。無意味、無価値。ああ、私はなんでここに来てたんだろ。ただ一人の人間すら救えない。私の生が無意味で無価値だから、エル・ハウェも、誰も救えないんだ。
……いい加減、終わりにしよう。
「ここから出させて」
◇◇◇
「作戦を練っている間に、ラスが入ったのか」
光宿さない瞳で、エルは試練に続く隠し扉を見ながら独り言ちる。日は沈んで、彼の持つ松明と満月しか明かりはない。
「……ん?」
足音が、闇の底から聞こえてくる。上がってきている音。おそらくはラス・アルミアが上がってくる音。
闇から彼女の顔が現れる。彼の頬に冷や汗が一滴。
「どうだった?」
答の分かり切っている問いを出す。彼女の、もはや空虚としか言合せられないような無表情を見れば答なんて分かりきっているものを。
「失格。それ以外に何もない」
それきりエルから視線を外して彼女は彼を横切り、二階へとつづく階段を昇る。——その彼女の腕を、エルは、ほぼ直感で、ほぼ反射で、掴む。彼女が危ういと感じたから。階段の中腹で、エルがラスを止めている。
「どこに行くんだ……?」
日は沈んで、彼の持つ松明と満月しか明かりはない。
「高いところ」
早口で答え終わるより早く、ラス・アルミアは掴まれた腕を振りほどこうとする。階段を上がる脚に力を入れて、腕を左右にできるだけ強く振る。彼女が階段を1つの段上がろうとしたとき、エルは引っ張られて足の安定を失い、階段を踏み外す。彼は転倒し、掴んだ腕と松明を放す。松明は階段を転がり落ち、石の床に激突して明かりが消える。ここぞとばかりにラス・アルミアは階段を一気に駆け上がる。
「まってくれ……」
痛みに耐えて情けないぐらい弱い声を振り絞りながら、エルは立ち直って階段を駆け上り、彼女の足音を頼りにラスを追う。暗い中で壁にぶつかり、歩くたびに転倒した足が軋んで激痛が響きながらも、エルは耐えて彼女を追う。三階へと繋がる階段を見つけ、昇り、長い回廊を走り、天まで届きそうな狭い階段を四肢を活用して獣のように駆けあがり、また長い回廊を息が途切れ途切れながらも突っ走り、体重の全てをかけて重い重い扉を開ける。
……風が吹いている。冷たい風が吹いている。天井は無く壁はところどころ崩落しており、石の床が広がる、月の光が眩い空間の中、ラス・アルミアは正に崩落した壁の隙間、石の地面の端に立っている。その先に床は無い宙で、踏み外せば墜落するしかない。
龍は、ただラス・アルミアの方を見て佇んでいるのみ。動く気配はない。
風が吹いている。いつもなら落ち着いて聞こえただろう風音が、この時だけはやかましい。そう感じながら、エルは足を引き摺ってラス・アルミアに近づく。一歩、一歩。それでも、彼女との距離はまだ遠い。ふと、エルは彼女を止めない竜が気になった。
「グノーモン様っ、なぜ止めないのですかっ」
龍の視線が彼の方に動く。
「私は他の者にあまり干渉しない。命をどうするかは、その者の決断に因るのみ」
その眼差しは、どこかしおらしく、龍という伝説には相応しくないくらい無力だった。
一歩、一歩、怪我していない右足で左足を引き摺りながらも彼女に近づく。それでもエルとラスの距離は、まだ手が届かない。
「ラス、やめるんだ」
自分が言えた義理じゃないと自覚しながらも、エルは彼女に呼びかける。
「自殺なんて、君には相応しくないマネはやめてくれ」
「そこで止まって」
エルの足が止まり、彼女に向けて伸ばそうとした腕も止まる。
静かだ。凪いでいる。満月に見下ろされて、彼と彼女は向き合っている。
「俺は、君が死ぬべきだとは思わないんだ。いや、むしろ、死んじゃだめだ」
「なんで?」
ラス・アルミアの瞳は、もうエルを捉えてなんかいない。ただ彼女自身の足元を、生と死を分ける、石の床が途切れているところを見つめるだけだった。
「仲間がみんな死んだらそりゃ、悲しくなって死にたくなるかもしれないけど。でも、君は俺なんかよりずっと善人で、だからむしろ生きるべきだと思うんだ」
「資格がないのに?」
ラスが、彼女自身を突き放すように言う。彼女の眉間に皺がたまり、彼女の身体全体が震えている。——そして、今まで堰き止めていたものが溢れ出す。
「私は仲間を見捨てた。仲間の遺体をあの場所からどうしようと考えず、ただ私だけが私自身の自分勝手な恐怖に従って、おめおめと今日まで生きてしまったんだ!!!!」
初めての、怒りの告白。
「だから、だから。私は、そんな自分の罪を、こんなに重い罪を背負ってまで生きていようとは思えない。私は、私の罪によって死ぬべきなんだ!!」
あまりの苛烈さに、エルがたじろぐ。その隙に、ラスは荒れた呼吸を整えようと、乱れた髪を直しながら深呼吸する。
「さようなら」
訣別の言葉と共に、ラス・アルミアの片足が何もない宙へとずれようとする。
エルが、足の痛みを忘れてラスのもとへ駆け寄ろうとする。その一瞬だけ、エルの頭が全部真っ白になって、たったひとつの疑問だけが真っ白な世界にくっきりと刻まれている。—そして、頭から口に流れ込み、口から迸り出ようとする。
「貴女は今日にいたるまで」
片足がもうつま先から後ろは宙に浮いた頃に、エルが叫ぶ。
「何の罪も犯していないじゃないか!」
—そして片足が完全に宙にずれて重心が外側にずれ、ラスの身体が落ち始める。