落伍者、孤独に身を翳る
冷たい石床。曇天をラスが見上げている。手すりに沿う彼女の袖の布が風にたなびく。寺院のテラスの空気は静かで、重い。
「寒いな」
彼女の背後にてエルが身を震わせる。
「エルさん」
「最近……具合悪いのか?」
「ううん」
彼女が一際小さな白い息遣いを出して、ゆっくりと流れていく。
「私、ひどい人間だね」
エルは黙したまま。彼女の言をただ、待つ。
「私、思っちゃったんだ。生きたいって。でも……」
「生きるわけにはいかない、ってことか?」
ラスが言い淀み、唇の震えるのを察してエルが先回りする。こういう時、答は大抵これに収斂する。
「うん。みんな死んじゃった。だからね」
テラスの下をラスが見下ろす。———エルの胸を、切ない緊迫感が奔る。
ラスはふるふると首を振るわせ、足を後ろにずらす。
「はあ。だめだ」
儚げに右目をつむって、彼女がベンチに腰を下げる。
エルは何か言葉をかけようと口を開き、無音のままに口を閉ざす。
「思ったんだけど」
ラスが、ぽつり、と漏らす。開いている左の眼がエルに注がれる。
「エルって、やさしいんだね」
ざらりとして、泥々しい嫌な感触がエルの心を撫でた。
彼女に嫌悪感を、ではない。やさしい、という言葉にイヤなかんじがしたのだ。妙に懐かしくて、でもなんだか遠ざけていたい。なんとなく自分の手元に留め置かなければならないような気がしているが、それ以上に彼の足が彼女の紡いだ「やさしいんだね」という言葉から離れたがっている。まるで、自分が崩してしまった砂の城から目を背けるように。
気が付けば、彼の眼前には回廊の壁があった。90度回転、回廊に沿う。急な行動に驚く彼女を置き去りにして、目から零れる涙に掌で蓋をして。
西の空の雲が引いていく。エルの涙の眼を光と影の境界線が二分した。
「そうか……」
彼は思い出した。かつての自分を。
「そうだった、俺は……」
格差溢れる世に憤って勉強を始めた頃の、やさしかった自分を思い出したのだ。
知識をつければ高みに至れると、地位を得れば力を得れると。
頑なに信じて、走りぬいて。
迫りくる現実に、怯えて。
「そして、俺は……」
彼自身の手が震える。目を見開いて、手のひらを見つめて。頬が痙攣して、顔が強張る。
頑なに信じて、走りぬいて。
迫りくる現実に、怯えて。
感情を擦り減らして、精神は焼き鈍された鉄のように冷めていって。
最後には、虚構の孤高心のみを抱えた煤だらけの人形に成り果てた。
そうしてできあがったのが、現在のエル・ハウェ。
「俺は、俺はああああああああああああああ!!!!!!!」
彼は、彼自身の人生を嘆いた。
◇◇◇
飛び降りろうとした時、私の服の首の襟を指でひっかけ引っ張られたような気がした。細くてか弱い、透き通る色のかの指。
分かっている。仲間たちが本当に私の死を望んでいないことを。でもだからって、私が生きていくことを私が許せるとは思えない。だって、あの一瞬に仲間たちを忘れて幸せな未来を思い描いてしまったから。私の大罪が仲間の貌を伴って精神を侵食する。仲間は裏切れない。でも私の大罪は死を望んでいる。死という名の裁定を。
白く透き通るようになってしまった指に願いを乞う。「死なせて」と。
私の足はまだ手すりの内側にある。私の大罪は拭えない。それでも、私の首の裾を引っ張る微かな引力が私の死を望まない。
だったら、だったら、どうすればーーー……。
「どうすれば、私が死ぬのを許してくれるかな」
白く透き通る風が吹く。私の涙を攫って。
徒に罪を重ねても死を許してくれる筈はない。ただ塞込んでも死を許す切欠など来る筈がない。
なら、どうすればいいのか。
贖罪の道の果てにしか、答はないと。
唯一つの道に踏み出そうとする足を、黒い罪の手が引っ張っていた。
◇◇◇
暗い個室の中、エルは毛布の中で泣いている。
「あ、え、ひっく、えぉう……」
彼は、彼自身を裏切っていたことにいまさら気づいたのだ。
「あっ、うぅ、えぇ」
在り得た道全てを閉ざし、繋げておけたはずの縁を全て絶ち切って。
「うぅあ、ああぁあぁ」
あらゆる道の一つに過ぎない道のみを唯一つの道と断じて。
「あああぁぁぁぁぁ」
勝手に転び、勝手に泥にまみれ、それら全てをほかのせいにして。
「えぇっ、あぅ、ううぅぅぅ」
傷と泥だらけになって。
傷と泥の上に虚栄と傲慢を纏って。
虚栄と傲慢の重きに足を囚われて。
グノーモン寺院の地に停滞して。
今まで自分を築き上げたモノの脆きに自壊を始める。
◇◇◇
私のベッドで、私は罪の手に枷かけられた足首を撫でる。
道は見えた。だけれども、踏み出す為の資格がない。罪人に善人を導けようか。堕天使が天使導くことないのと同様に、罪人は善き人を導けない。
違う。そうじゃない。
本当にそうだとすれば、とうの昔から贖罪は許されざる罪として神の名のもとに禁じられているはずだ。
贖罪は地獄への架け橋。罪人が地獄に自ら飛び込むことを許す唯一の道。自ら足を踏み出して地獄に堕ちることこそわが心への解。贖罪は私にとっての、地獄に繋がる、自分にとっての救済。
だから、これからわたしがしようとしていることは罪に足枷かけられるようなことじゃない。
足が軽くなる。黒い指がほどけてゆく。
足を踏み出そう。これからわたしが歩む道は真っ白で、炎の中に入ってゆく道だから。
日は落ち月の光さえも支配しなくなった、寺院の宿泊施設の廊下を彼女は歩く。
カッ、コッ、カッ、コッ。
古びた靴の裏が冷たく床を打つ。ランタンの火が闇を拓いていく。
エル・ハウェが見せた謎の行動、私は救わねば。彼は苦しみ始めた。私が、やさしいって言った時に。
もしかしたら。
彼にも、絶望があるのかもしれない。或いは彼自身への失望か。
私は、人の心を知らない。私が知っているのは、人の姿をした獣の心だけ。彼は人間で、私はその心を分からない。それでも、私はやり遂げなければならない。
手の指先が震えて、冷える。
彼は、何かを思い出したように目を見開いて、怯えた。獣に追われる小動物のように、彼は何かに襲われた。おそらくそれは、彼の抱える恐怖なのかもしれない。トラウマなのかもしれない。彼の精神に深く癒着して切り離せぬ過去かもしれない。
いずれにせよ、彼が苦しむのなら私は彼を救わねばならない。
だって彼は善人だから。
だって彼は罪人ではないだろうから。
罪人である私には、贖罪として彼を救う義務がある。
「エル」
彼のベッドの中、毛布の中にうずくまった彼がいる。枕は濡れて、敷き布団は皺だらけの歪。目に光は無く、涙がランタンの光を反射するのみ。
怖い。彼の心に触れるのが怖い。今にも崩れそうな心に触れて、私が間違えて崩してしまうのが怖い。彼が崩れてしまうのが怖い。
白い道は、か細い。
「エル、何かあったか、聞かせてもらえない?」
細く脆い道を、踏み出す。
◇◇◇
……話したくない。ちょっと待ってくれ。
……分かった。くそっ、まだ涙が収まらない。
……ああ、なんで忘れていた。俺の最大の過ちを。
なんで、この記憶を封印していたんだろう。
言ってどうにかなるものじゃ…ない。
でも、向き合わないと。だから、君に……話す。
俺の生まれは、ラウーゴ村だ。
俺は農奴の子、本来なら自由な身ではいられない人間。
だけど、村の教会の先生が教育熱心な方でよ。村の子に文字を、数字を教えようとしていた。俺の村では知識ある者は領主に認められ、農奴を脱することができた。ま、年に一人読み書きできる人が出ればいい方だったがな。
俺は好奇心旺盛で、たくさん勉強した。勉強が好きだったんだ。
子供の頃のある日、村を災害が襲って。渦巻く暴風で作物がだめになった。
俺も領主もふくめて、村の数人かは王城に行った。王様に税の引き下げと援助をもとめるために。
そこで俺は見た。
他の地域から運ばれる大量の穀物、数多くの金銀財宝に飾られた謁見室。
王の地に、不足している物は何一つなかった。
俺たちは訴えた。当時の王に。
だが、受け入れられなかった。
それどころか、唾を吐き捨てた。農奴の土で城が汚れる、と。
俺は反発した。叫んで、じたばたして。でも謁見は終わり、俺たちは無理やり王都の壁の外に放り出された。その帰り道、先生は俺に言った。
知識は力、悔しさは原動力になる、と。このかくも格差激しき世界で生き残りたいなら学びなさい、と。
その時から、俺の学ぶ理由は変わった。この世界を救う為に、俺の力を捧げよう、と。
だが、それがいけなかった。俺の義憤は義務に変わっていった。義務は使命へと。使命は俺を縛り付け、他の一切の関りを勉学から切り離した。
俺の目には、村の同い年の友達が徐々に何知らぬ阿保共に見えてきた。俺の勉学を応援してくれた親も、寂れた村に停滞する大人に見えてきた。先生は教会の中で教えることしかしない怠惰者に、領主は体制の中でのらりくらりと生きてきた狸に。俺の目は狂っていた。……今の今まで気づいていなかった。
そもそも、試験に落ちたのは当然だった。俺が文字を覚えたのは10歳で、その頃には貴族は高度なことを学び始める。先生が受験を止めたのは当然だったんだ……っ。
俺は友達を罵った。親を罵倒した。先生を怒鳴った。領主に中指を突き立てた。
友達が異質なものを怖れるような目で離れていったのを思い出した……。
俺の前で頭を抱えてうずくまる親を忘れない……。
先生と領主の諦観の目が焼き付く……。
兵士として村を出てきた、俺に残された唯一の知り合いのロイスさえもここに来る前に振り払った……!
俺は中途半端だな……。農奴にも、市民にも、貴族にもなりきれないまま、自分をこの世の誰よりも高貴な存在だと思い込んで、成りきって。
何者にもなれなかった。俺は。全てハリボテだったんだ、俺が自分で塗り固めた自分の虚像は。
自分の虚像の為に、俺は自分の今までの関り全てを断ち切った。
いまのじぶんには、もう、なにもない。
ここにいるのは、愚者だ。
◇◇◇
私は困惑している。彼の細く訴えた言葉を脳内で反芻する。
彼には帰ることのできる場所がある。彼を受け入れてくれる人もいる。彼を最後まで見捨てなかった人もいる。彼は帰れる。誰かがいる場所へ帰れる。
そもそも、一つののぞみが潰えたくらいだ。誰も彼から何も奪っていない。彼は何も奪われていない。
このグノーモンの寺院の深い霧を抜けて、馬車に乗って村まで戻って、みんなに頭下げて、帰れる居場所に帰ればいいじゃないか。
何もなくなったわけでもないのに、彼は全て無くなったかのように嘆いている。
でも、私は人の心を知らない。私が知るのは人の形をした獣の心だけ。だから、私は彼が悲しんで嘆いている本当の理由をわからない。
それでも、彼の心を悲しみから救えなければいけない。
では、彼は何故悲しんでる? 私の仲間だったらどう思うだろう。家族を、友を、恩師を捨てる気持ちはどんなものだろう。捨てたくて捨てたんじゃないのか。私の仲間ならどう考えるだろう。私は捨てたことない。私の仲間ならそんなことはしない。だから、私にはわからない。でも、彼にとっては悲しいんだ。だったら、悲しむ必要のないことを伝えればいい。あなたが思っているそれは、少なくとも私にとっては恥じることではあっても悲しむべきことじゃない。彼が希望を持てるように、固く念入りに言葉を紡いで、彼に繋がる救いの一本の糸にしよう。
「大丈夫だよ。エル、貴方は愚者じゃない」
「その、こん、きょは」
そうだ、エルは愚者じゃない。ここに来て、彼は私に色々なことを教えてくれた。話を聞いてくれた。私を生かしてくれた。
色々なことを教えてくれる人が愚者である筈がない。話を聞いてくれる人が愚者である筈がない。私を生かしてくれる人が愚者である筈がない。エルが愚者である理由なんてないんだ。
「仲間たちの亡骸をおいてここに逃げて来たわたしを、目に見える男がすべて敵に見えたわたしを、あなたはそれでもわたしといっしょにいることをえらんでくれた。わたしにいろいろなことをおしえてくれた。わたしのはなしをきいてくれた。わたしをいかしてくれた。わたしの目には、あなたは愚者として写っていない」
エルはうろたえて、身体全体、そして声帯を震わす。
「で、でも、同い年のやつらの目には、親の目には、先生と領主の目には、おれは愚者として写ってるんだ。自分の分をわきまえない、自分の身の程を知らない、そして平然と自分の大事なものを捨てる莫迦として。そ……それは、俺が、愚者じゃない、というのは」
目をうろつかせて、手は震えて、声は涙声に。未だ彼は深い悲しみの中にいる。彼は自分が神だと勘違いしたドブネズミであることに自ら気が付いた。気が付いて、彼の過去を振り返った。そこにできていたのは、自分が振りまいてきた罪と言う名の汚れが一本の道となった彼の人生だった。彼はそのことに絶望し、悲しみ、彼自身を愚者という名の監獄に押し込めようとしている。
それでも、私は彼を救おう。彼を愚者という名の監獄から引っ張り出すのだ。
「私にとって、あなたは仲間以外の人間ではじめて私に優しくしてくれた人間。既に終わった私の人生に、それでも光を差してくれた人間。だから、あなた自身を愚者と呼ぶのはやめて」
「でも……、俺の過去は……」
涙の量が一層あふれてくる。もう一息かもしれない。彼の罪のある過去から彼自身を解放させれば、彼は救われる。彼の罪は彼自身によって贖罪可能だと、まだ罪人の自責を脱ぎ捨ててもと居た世界に戻れると教えてあげなければいけない。
私は彼のベッドの上に腰を落とし、彼の頭を膝にのせて抱える。彼の髪の流れに沿って撫でていく。
「……ラスぅ……」
「ね。それに、あなたの罪は、あなた自身によって償えると私は思うの。このグノーモンの寺院の深い霧を抜けて、馬車に乗って村まで戻って、みんなに頭下げて、そしたらあなたはもう罪人じゃなくなると思うの」
そうだ。彼の罪は、まだ引き返せる罪だ。彼自身がそのことを自覚してくれればいい。
「……あたまをさげて、どうにかなる問題じゃない……」
彼の声に少し怒気が混じっている。さっきよりも身体の震えが少し大きくなっている。
「あなたはなにも奪われていない。なにも失っていない。ただ少しの間、あなたの家族と友人と大人たちを遠ざけてしまっただけ。だから、今度はあなたが彼らに歩み寄ればいい」
彼の涙の啜り声が止まる。私の膝をつかむ彼の手の震えが大きくなる。
「……それで、贖えると思っているのか」
彼の精神が上向いてきている。最後の一声で、彼は完全に立ち直り明るい未来を歩めるようになる。その背中を、私が押すんだ。
「贖えるよ。あなたの思っている絶望は、あなたの思っているよりも軽い」
「……軽い?」
頭部に強い衝撃。そのまま私は、地面に衝突。
見上げると、エルが立っていた。泣きながら怒って。
◇◇◇
こいつは何を言った? 俺の絶望を、軽いだと? 自らかつての大切なものを捨て去ってしまったということに気付いて自覚して俺は悲しくなった。自分が恨めしくなった。俺は自分の人生に絶望した。自分が正しいと信じて、周りが間違っていると信じて進んで来た人生の旅路が己が罪にまみれていたと気付いた時には、もう取返しはつかなくなっていた。罪の赤黒い色で家路は塗りつぶされて見えなくなり、己が足は虚栄の泥にまみれ固められて動かなくなっていた。思い出の中の誰もいない寺院の中で、俺は己が罪を一人寂しく嘆くしかない。俺の心に希望はない。あるのは絶望と後悔と罪悪感と自分への失望だけ。悲しい負の感情だけで俺は成り立っている。そんな俺を見て、ひとり嘆くしかない寂しい男の元にこいつはやってきて、俺の絶望を軽いと言った。それが今言う言葉か。俺が己が罪を悔いている姿勢をこいつは踏みにじった。俺が自ら地獄に向かうしかないと諦観したのをを無碍にした。だから許せない。赦さない。
「俺のことを何も知らないでそうほざくか、この愚者が!」
ラスは呆然とした目つきで俺を見る。なんだその目は。人の心を土足で踏み荒らすのが悪い。
涙をぬぐいながら、俺はこみ上げる怒りを口に吐いた。
「その目は何だ」
「え、その」
「人が苦しみ悲しんでいるときに、軽い絶望と言うのはなんだ、なんだ、なんだ!」
身体の衝動を抑えきれず、部屋の卓上にあった本を掴んで地面にたたきつける。俺の手をラスの首へと近づける。
「なぜだなぜだなぜ言ったなぜ言ったお前は俺よりも偉いのかああああ!」
ガシ、と彼女の首を掴んで締めようとする。締め付ける力を徐々に強めていって、彼女がか細い呻き声をあげる。
「俺の悲しみは、俺の絶望は、重い! この世界の何よりもな!」
と、ラスの足の裏が俺の腹に触れていることに気が付いた。力強く蹴りだされて俺は首から手を離し、冷たい地面に背中をぶつけた。背中の痛みをこらえながら立ち上がると、彼女の姿は無くなっていた。
「俺の気持ちを軽いとのたまうだけでなく、俺を傷めつけやがって……ああ、なんだよおおおおおお!!!!!」
怒りが爆発し、机を倒し、枕を投げ、シーツをビリビリに破り、壁に拳をぶつけた。怒りが収まらず、破壊が加速する。机の脚を折り、枕を爪で裂き、破ったシーツを部屋中に散らし、破れた壁の穴を抉る。叫びながら壊す。壊す壊す壊す。
怒りが収まった頃には、空は一等星が位置を変えていた。一時間ほどくらい経ったのだろうか。破れて読めない本、抉れて羽毛が飛び出て眠れないベッド、外から暑さ寒さを呼ぶ壁の大穴。もう役目を果たせない机。全て、俺の怒りが壊した。
そうだ。この破壊は俺の怒りそのものだ。俺の悲しみそのものだ。ラス・アルミアが余計なことをしたから。俺の心を踏みにじったから。だから、結局はあいつも俺の世界には要らない―――。
『い ら な い ?』
何かが耳元で囁いた。同時に心臓が痛くなって、思わず跪く。驚いて振り返るが、誰も居ない。
いや、ちがう。
おれが、ここにいるじゃないか。
『そ う や っ て い ま ま で も す て て き た』
……ちがう。あれは、ラスが俺の心を踏みにじったのが……
『父 は? 母 は? 友は?お隣の人たちは?先生は領主はロイスは』
ちがう。いや、ちがうのがちがう。おれはまたおなじことを……
心臓が、こころが、いたい。
『ラ ス ア ル ミ ア も』
こころがこわれそうでいたい。……おれ、は……
ラスの首を絞めた時、彼女は泣いていた。
『ま た す て た ね』
おれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいラスごめんごめんおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいラスアルミアごめんおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれラスごめんラスごめんラスごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
——再び重ねた罪が、瞳の光を消す。
◇◇◇
負の感情の黒色に塗れた精神が、暗く冷たい湖の底に重く沈んだ。男は今や重ねた罪を自覚し、自分の首に枷かけられた鎖が地獄まで続いていることに気が付いた。全てを救うべく天を目指す上り坂を歩いていたつもりが、世の中のこと何一つ見えぬ愚者だと自覚して初めて自分仕掛けの色眼鏡をとったとき、彼は下り坂を歩いていて後ろには罪の足跡が続いていた。そして、彼はもう自分の内に正しさと希望を見出すのを止めた。
自分を罪人だと決めつけた女は在りもしない贖罪の道を歩き出して踏み外して、そして地獄に転落する錯覚をする。彼女の脳内の瞳に映るのは、死と言う名の処刑台への道。たった一つの、しかし彼女にとって大きな事件が今だに尾を引いて彼女に錯覚と幻覚を見せ続けている。仲間たちの死の事実が、彼女に罪と死の幻を見せ続けて歩かせ続け、人生と命の断崖へと彼女を導いている。
あれからどれほど泣いただろうか。気が付けば、日は既に高く昇っていた。今日の太陽は全く隠れていないにもかかわらず、輝きが足りないような気がする。もう涙は出ない。泣こうとも思わない。俺の人生が急に平坦になって、あとは崖に飛び込むだけのような気がする。元々死ぬために寺院に来たのだが、あの時でさえこんな感じはしなかった。自分の中で解は既に自分は罪人の一つだけで、他の思考など無駄な気がする。
死のう。
もう死のう。
せめて罪人のつとめとして彼女に一言謝ってから死のう。
◇◇◇
泣いて、神に祈り、懺悔した。彼に蹴られて拒否されて、私は礼拝室に駆け込んだ。ひし形の黄金を見た時、私はあれに懺悔しなきゃと思った。贖罪は失敗した。私に残された道など一本もない。泣いて、泣いて泣いて泣いて、神と仲間に謝って謝って謝った。涙と喉が枯れて私が立ち上がったとき、私が入ってきたとき開けたドアから風が吹いてドアがはためいていた。あそこが、私の死への転落の道。それは道と呼べる代物ではなく、奈落そのものと思える。何故だろう、死へと向かう時、私の魂と身体が軽い。
さあ死のう。
この世界には何も残されていない。
エルに拒否された。みんないない。だれもいない。今までの罪の分を背負って死のう。
◇◇◇
アーチ状の弧を描いた回廊。エルは、ラスが踏みしめた埃の足跡を辿って礼拝室に向かう。途中で、ラスの足跡が二つになった。礼拝堂とは逆の方向で、それは階段に向かっていた。階段を駆け上がって、三階に向かう。テラスの手すりに近づくラスの後姿がみえた。
「ラス。俺は、あなたに謝らなくてはならない」
エルは下に伏せがちな瞳を震わせながら上に上げて、眼差しをラスに向けて逸らさないようにする。自分は罪人だから、これは義務だからと自分に言い聞かせて強制してその場に彼自身を立たせている。
「あなたは自分を救おうとしてくれたにも拘わらず、俺はあなたを拒絶した。あなたの言葉を否定した。俺はあなたの救いを振り払った」
ラスは振り返らない。何も答えない。埃被った黄金の髪がなびくだけ。
「以上だ。そして、俺はこの世界から永久に離れる」
黄金の髪が一際強く揺れる。その横をエルが横切って、手すりに上ろうと右足をかける。
「……なに、やってるの?」
そこで、はじめてラスの声がでた。驚きと、戸惑いの声。
エルは答えない。手すりに両手でつかまって、もう片方の足を床から手すりにあげようとする。
ラスが走り出して、エルを抱え、後ろに引き戻す。手すりから引き戻されたエルの身体が宙を舞って、ラスを押しつぶす。
「がっ……ぐあぁ……」
エルの身体に潰されて、ラスが呻き出す。
「なぜ……なぜ俺を死なせなかった……?」
ラスは答えない。代わりに、痛む身体をおして立ち上がり、フラフラと手すりに近づく。
「何をしようとしてるんだ、ラス?」
ラスが手すりに右足をかける。エルが走り出す。
「あなたは駄目だあああああああああ!!」
彼女の腕を引っ張って、腰に手を回して引き戻す。
「駄目だ……駄目なんだ……」
「どうして……どうして? エル……」
戸惑い、パニックになり、涙を流すラス・アルミア。
エルは、自身の罪悪感の筵の中でこう考えていた。
(ラス・アルミアは善き人間。罪なき人間。その者の自殺の背を押してしまったなら、俺は引き戻さなければならない。この世界に必要なのは、俺のような罪人ではなく彼女のような善人なのだから)
「あなたは、善い人間です。でも、俺はそんなあなたを拒絶してしまった。死ぬべきは……俺なのです」
腕の中からラスを離してやり、手すりに近づくエル。その腕を、ラスが両手で捕まえる。
「——違う! 私が罪人なの! 仲間をあの世に置き去りにして、あなたの心を壊れるまでに傷つけた! あなたは人に何かを与えることができる人間。この世界に居るべきは、あなた。私じゃない!」
そして彼女は乞う。
「わたしを死なせて!」
そして彼は願う。
「あなたは生きてください。そして、俺を死なせてください」
背筋を伸ばしてエルが手すりに近づこうとする。ラスの彼を捕まえる力がより一層強く増し、しかし未だ弱い全力のままで彼を引き戻そうとする。
「放してください。……俺は、現世にも、天国にも、煉獄にも、地獄にも、浄土にも、輪廻にさえも、いていい場所は無いんです。あなたが慈悲をかけてくださっているのは嬉しいのですが……俺は、慈悲を受けていい人間じゃない」
微かにしか抑揚のつかない、感情の無い平坦な声。
(私は、あなたを止める為にはどうすればいいのかな……)
死を決意して揺るがないエル・ハウェ。彼を生かすためには、今、何が必要なのだろうか。彼女は思案する。
(力では解決しない。どのみち、私は弱い。……)
たった一つの、しかし既に失敗した案しか思いつかなかった。
(言葉じゃ無理だ……。私は彼を傷つけた……)
他の案は? 彼を止める為には、どうすれば——
彼の死よりも、彼にとって大事なものはないのだろうか。……全てを捨てて無くした彼にとっては、もう本当にないのだろうか?
いや。
いや……。
(違う)
違う。
(ここに……まだ、私がいる)
そう、ラス・アルミアがいる。
(……なんで……?)
エル・ハウェを止める為の唯一の手掛かりが、彼と同じく死を決意したラス・アルミア。彼女は、その結論に辿り着いた。唯一の正解、崖っぷちに落ちていた命綱を拾い上げた。
だが、その辿り着いた結論にラス・アルミアは瞳を震わせる。歯を噛みしめて、動機を抑えようとする。自分で心臓を掴んでいるような苦しさを感じている。
「……なぜ……」
彼女の瞳が潤う。罪人である自分が生きていいはずはないのに、よりにもよって罪人の存在だけが彼を救う唯一の手掛かり、という皮肉。
(……なら、こうすればいい)
彼を、騙す。
彼を騙して、罪に正直でいる。
「だったら、あなたが死んだら私も死ぬ。その代わり、あなたが生きてこの寺院を出るなら私も生きて出る」
早口でまくしたてる。エルが彼女を引き離そうとりきむ力が緩む。
(嘘だ。エルが寺院を出るとき、彼の背中を霧の向こう側へと押し出して私はここに残る。ここに残って死ぬ)
ラスは、光沢のない瞳をエルに向ける。
エル・ハウェは絶望した。
(しなせてくれない)
死ぬしかない罪人に、ラス・アルミアは枷をかけた。エル・ハウェはもう死ぬことができない。彼女が生きている限り、彼女を自殺させないように生きる必要がある。でも、それは……。
(不要な延命……。ただいたずらに罪から逃れるという罪を重ねるだけ……)
太陽の輝きが、妙に足りない。心臓の位置する部位がちくちくと痛む。呼吸が荒いような気がする。エルは、精神と連動した身体の不調の発露を感じる。
(でも、それでも彼女の命は俺が罪を重ねるに値する……)
彼女は正しい存在で、死んではいけない存在。心の根底にそう刻み込んだエルは、鈍く重い口を開ける。
「わかった。お前を死なせない為に俺も生きる」
(そして、俺はお前と別れた瞬間に人知れず死ぬ)
エル・ハウェは、彼女の人生から彼自身がいなくなった時に、彼女からかけられた枷をといて自ら死のうと決心した。
死の未来しか見えていなかった二人。だけれどもお互いの存在が枷となって、崖から墜落するのを許さない。それぞれの存在はこの誰も来ない寺院の中で時間を過ごすうちに大切になっていって、いつしかそれぞれの我が望みよりも優先すべき宝物になっていたのだ。宝物は枷となりて、お互いの首を繋ぎ、離れさせなくしていた。
「寒いな」
彼女の背後にてエルが身を震わせる。
「エルさん」
「最近……具合悪いのか?」
「ううん」
彼女が一際小さな白い息遣いを出して、ゆっくりと流れていく。
「私、ひどい人間だね」
エルは黙したまま。彼女の言をただ、待つ。
「私、思っちゃったんだ。生きたいって。でも……」
「生きるわけにはいかない、ってことか?」
ラスが言い淀み、唇の震えるのを察してエルが先回りする。こういう時、答は大抵これに収斂する。
「うん。みんな死んじゃった。だからね」
テラスの下をラスが見下ろす。———エルの胸を、切ない緊迫感が奔る。
ラスはふるふると首を振るわせ、足を後ろにずらす。
「はあ。だめだ」
儚げに右目をつむって、彼女がベンチに腰を下げる。
エルは何か言葉をかけようと口を開き、無音のままに口を閉ざす。
「思ったんだけど」
ラスが、ぽつり、と漏らす。開いている左の眼がエルに注がれる。
「エルって、やさしいんだね」
ざらりとして、泥々しい嫌な感触がエルの心を撫でた。
彼女に嫌悪感を、ではない。やさしい、という言葉にイヤなかんじがしたのだ。妙に懐かしくて、でもなんだか遠ざけていたい。なんとなく自分の手元に留め置かなければならないような気がしているが、それ以上に彼の足が彼女の紡いだ「やさしいんだね」という言葉から離れたがっている。まるで、自分が崩してしまった砂の城から目を背けるように。
気が付けば、彼の眼前には回廊の壁があった。90度回転、回廊に沿う。急な行動に驚く彼女を置き去りにして、目から零れる涙に掌で蓋をして。
西の空の雲が引いていく。エルの涙の眼を光と影の境界線が二分した。
「そうか……」
彼は思い出した。かつての自分を。
「そうだった、俺は……」
格差溢れる世に憤って勉強を始めた頃の、やさしかった自分を思い出したのだ。
知識をつければ高みに至れると、地位を得れば力を得れると。
頑なに信じて、走りぬいて。
迫りくる現実に、怯えて。
「そして、俺は……」
彼自身の手が震える。目を見開いて、手のひらを見つめて。頬が痙攣して、顔が強張る。
頑なに信じて、走りぬいて。
迫りくる現実に、怯えて。
感情を擦り減らして、精神は焼き鈍された鉄のように冷めていって。
最後には、虚構の孤高心のみを抱えた煤だらけの人形に成り果てた。
そうしてできあがったのが、現在のエル・ハウェ。
「俺は、俺はああああああああああああああ!!!!!!!」
彼は、彼自身の人生を嘆いた。
◇◇◇
飛び降りろうとした時、私の服の首の襟を指でひっかけ引っ張られたような気がした。細くてか弱い、透き通る色のかの指。
分かっている。仲間たちが本当に私の死を望んでいないことを。でもだからって、私が生きていくことを私が許せるとは思えない。だって、あの一瞬に仲間たちを忘れて幸せな未来を思い描いてしまったから。私の大罪が仲間の貌を伴って精神を侵食する。仲間は裏切れない。でも私の大罪は死を望んでいる。死という名の裁定を。
白く透き通るようになってしまった指に願いを乞う。「死なせて」と。
私の足はまだ手すりの内側にある。私の大罪は拭えない。それでも、私の首の裾を引っ張る微かな引力が私の死を望まない。
だったら、だったら、どうすればーーー……。
「どうすれば、私が死ぬのを許してくれるかな」
白く透き通る風が吹く。私の涙を攫って。
徒に罪を重ねても死を許してくれる筈はない。ただ塞込んでも死を許す切欠など来る筈がない。
なら、どうすればいいのか。
贖罪の道の果てにしか、答はないと。
唯一つの道に踏み出そうとする足を、黒い罪の手が引っ張っていた。
◇◇◇
暗い個室の中、エルは毛布の中で泣いている。
「あ、え、ひっく、えぉう……」
彼は、彼自身を裏切っていたことにいまさら気づいたのだ。
「あっ、うぅ、えぇ」
在り得た道全てを閉ざし、繋げておけたはずの縁を全て絶ち切って。
「うぅあ、ああぁあぁ」
あらゆる道の一つに過ぎない道のみを唯一つの道と断じて。
「あああぁぁぁぁぁ」
勝手に転び、勝手に泥にまみれ、それら全てをほかのせいにして。
「えぇっ、あぅ、ううぅぅぅ」
傷と泥だらけになって。
傷と泥の上に虚栄と傲慢を纏って。
虚栄と傲慢の重きに足を囚われて。
グノーモン寺院の地に停滞して。
今まで自分を築き上げたモノの脆きに自壊を始める。
◇◇◇
私のベッドで、私は罪の手に枷かけられた足首を撫でる。
道は見えた。だけれども、踏み出す為の資格がない。罪人に善人を導けようか。堕天使が天使導くことないのと同様に、罪人は善き人を導けない。
違う。そうじゃない。
本当にそうだとすれば、とうの昔から贖罪は許されざる罪として神の名のもとに禁じられているはずだ。
贖罪は地獄への架け橋。罪人が地獄に自ら飛び込むことを許す唯一の道。自ら足を踏み出して地獄に堕ちることこそわが心への解。贖罪は私にとっての、地獄に繋がる、自分にとっての救済。
だから、これからわたしがしようとしていることは罪に足枷かけられるようなことじゃない。
足が軽くなる。黒い指がほどけてゆく。
足を踏み出そう。これからわたしが歩む道は真っ白で、炎の中に入ってゆく道だから。
日は落ち月の光さえも支配しなくなった、寺院の宿泊施設の廊下を彼女は歩く。
カッ、コッ、カッ、コッ。
古びた靴の裏が冷たく床を打つ。ランタンの火が闇を拓いていく。
エル・ハウェが見せた謎の行動、私は救わねば。彼は苦しみ始めた。私が、やさしいって言った時に。
もしかしたら。
彼にも、絶望があるのかもしれない。或いは彼自身への失望か。
私は、人の心を知らない。私が知っているのは、人の姿をした獣の心だけ。彼は人間で、私はその心を分からない。それでも、私はやり遂げなければならない。
手の指先が震えて、冷える。
彼は、何かを思い出したように目を見開いて、怯えた。獣に追われる小動物のように、彼は何かに襲われた。おそらくそれは、彼の抱える恐怖なのかもしれない。トラウマなのかもしれない。彼の精神に深く癒着して切り離せぬ過去かもしれない。
いずれにせよ、彼が苦しむのなら私は彼を救わねばならない。
だって彼は善人だから。
だって彼は罪人ではないだろうから。
罪人である私には、贖罪として彼を救う義務がある。
「エル」
彼のベッドの中、毛布の中にうずくまった彼がいる。枕は濡れて、敷き布団は皺だらけの歪。目に光は無く、涙がランタンの光を反射するのみ。
怖い。彼の心に触れるのが怖い。今にも崩れそうな心に触れて、私が間違えて崩してしまうのが怖い。彼が崩れてしまうのが怖い。
白い道は、か細い。
「エル、何かあったか、聞かせてもらえない?」
細く脆い道を、踏み出す。
◇◇◇
……話したくない。ちょっと待ってくれ。
……分かった。くそっ、まだ涙が収まらない。
……ああ、なんで忘れていた。俺の最大の過ちを。
なんで、この記憶を封印していたんだろう。
言ってどうにかなるものじゃ…ない。
でも、向き合わないと。だから、君に……話す。
俺の生まれは、ラウーゴ村だ。
俺は農奴の子、本来なら自由な身ではいられない人間。
だけど、村の教会の先生が教育熱心な方でよ。村の子に文字を、数字を教えようとしていた。俺の村では知識ある者は領主に認められ、農奴を脱することができた。ま、年に一人読み書きできる人が出ればいい方だったがな。
俺は好奇心旺盛で、たくさん勉強した。勉強が好きだったんだ。
子供の頃のある日、村を災害が襲って。渦巻く暴風で作物がだめになった。
俺も領主もふくめて、村の数人かは王城に行った。王様に税の引き下げと援助をもとめるために。
そこで俺は見た。
他の地域から運ばれる大量の穀物、数多くの金銀財宝に飾られた謁見室。
王の地に、不足している物は何一つなかった。
俺たちは訴えた。当時の王に。
だが、受け入れられなかった。
それどころか、唾を吐き捨てた。農奴の土で城が汚れる、と。
俺は反発した。叫んで、じたばたして。でも謁見は終わり、俺たちは無理やり王都の壁の外に放り出された。その帰り道、先生は俺に言った。
知識は力、悔しさは原動力になる、と。このかくも格差激しき世界で生き残りたいなら学びなさい、と。
その時から、俺の学ぶ理由は変わった。この世界を救う為に、俺の力を捧げよう、と。
だが、それがいけなかった。俺の義憤は義務に変わっていった。義務は使命へと。使命は俺を縛り付け、他の一切の関りを勉学から切り離した。
俺の目には、村の同い年の友達が徐々に何知らぬ阿保共に見えてきた。俺の勉学を応援してくれた親も、寂れた村に停滞する大人に見えてきた。先生は教会の中で教えることしかしない怠惰者に、領主は体制の中でのらりくらりと生きてきた狸に。俺の目は狂っていた。……今の今まで気づいていなかった。
そもそも、試験に落ちたのは当然だった。俺が文字を覚えたのは10歳で、その頃には貴族は高度なことを学び始める。先生が受験を止めたのは当然だったんだ……っ。
俺は友達を罵った。親を罵倒した。先生を怒鳴った。領主に中指を突き立てた。
友達が異質なものを怖れるような目で離れていったのを思い出した……。
俺の前で頭を抱えてうずくまる親を忘れない……。
先生と領主の諦観の目が焼き付く……。
兵士として村を出てきた、俺に残された唯一の知り合いのロイスさえもここに来る前に振り払った……!
俺は中途半端だな……。農奴にも、市民にも、貴族にもなりきれないまま、自分をこの世の誰よりも高貴な存在だと思い込んで、成りきって。
何者にもなれなかった。俺は。全てハリボテだったんだ、俺が自分で塗り固めた自分の虚像は。
自分の虚像の為に、俺は自分の今までの関り全てを断ち切った。
いまのじぶんには、もう、なにもない。
ここにいるのは、愚者だ。
◇◇◇
私は困惑している。彼の細く訴えた言葉を脳内で反芻する。
彼には帰ることのできる場所がある。彼を受け入れてくれる人もいる。彼を最後まで見捨てなかった人もいる。彼は帰れる。誰かがいる場所へ帰れる。
そもそも、一つののぞみが潰えたくらいだ。誰も彼から何も奪っていない。彼は何も奪われていない。
このグノーモンの寺院の深い霧を抜けて、馬車に乗って村まで戻って、みんなに頭下げて、帰れる居場所に帰ればいいじゃないか。
何もなくなったわけでもないのに、彼は全て無くなったかのように嘆いている。
でも、私は人の心を知らない。私が知るのは人の形をした獣の心だけ。だから、私は彼が悲しんで嘆いている本当の理由をわからない。
それでも、彼の心を悲しみから救えなければいけない。
では、彼は何故悲しんでる? 私の仲間だったらどう思うだろう。家族を、友を、恩師を捨てる気持ちはどんなものだろう。捨てたくて捨てたんじゃないのか。私の仲間ならどう考えるだろう。私は捨てたことない。私の仲間ならそんなことはしない。だから、私にはわからない。でも、彼にとっては悲しいんだ。だったら、悲しむ必要のないことを伝えればいい。あなたが思っているそれは、少なくとも私にとっては恥じることではあっても悲しむべきことじゃない。彼が希望を持てるように、固く念入りに言葉を紡いで、彼に繋がる救いの一本の糸にしよう。
「大丈夫だよ。エル、貴方は愚者じゃない」
「その、こん、きょは」
そうだ、エルは愚者じゃない。ここに来て、彼は私に色々なことを教えてくれた。話を聞いてくれた。私を生かしてくれた。
色々なことを教えてくれる人が愚者である筈がない。話を聞いてくれる人が愚者である筈がない。私を生かしてくれる人が愚者である筈がない。エルが愚者である理由なんてないんだ。
「仲間たちの亡骸をおいてここに逃げて来たわたしを、目に見える男がすべて敵に見えたわたしを、あなたはそれでもわたしといっしょにいることをえらんでくれた。わたしにいろいろなことをおしえてくれた。わたしのはなしをきいてくれた。わたしをいかしてくれた。わたしの目には、あなたは愚者として写っていない」
エルはうろたえて、身体全体、そして声帯を震わす。
「で、でも、同い年のやつらの目には、親の目には、先生と領主の目には、おれは愚者として写ってるんだ。自分の分をわきまえない、自分の身の程を知らない、そして平然と自分の大事なものを捨てる莫迦として。そ……それは、俺が、愚者じゃない、というのは」
目をうろつかせて、手は震えて、声は涙声に。未だ彼は深い悲しみの中にいる。彼は自分が神だと勘違いしたドブネズミであることに自ら気が付いた。気が付いて、彼の過去を振り返った。そこにできていたのは、自分が振りまいてきた罪と言う名の汚れが一本の道となった彼の人生だった。彼はそのことに絶望し、悲しみ、彼自身を愚者という名の監獄に押し込めようとしている。
それでも、私は彼を救おう。彼を愚者という名の監獄から引っ張り出すのだ。
「私にとって、あなたは仲間以外の人間ではじめて私に優しくしてくれた人間。既に終わった私の人生に、それでも光を差してくれた人間。だから、あなた自身を愚者と呼ぶのはやめて」
「でも……、俺の過去は……」
涙の量が一層あふれてくる。もう一息かもしれない。彼の罪のある過去から彼自身を解放させれば、彼は救われる。彼の罪は彼自身によって贖罪可能だと、まだ罪人の自責を脱ぎ捨ててもと居た世界に戻れると教えてあげなければいけない。
私は彼のベッドの上に腰を落とし、彼の頭を膝にのせて抱える。彼の髪の流れに沿って撫でていく。
「……ラスぅ……」
「ね。それに、あなたの罪は、あなた自身によって償えると私は思うの。このグノーモンの寺院の深い霧を抜けて、馬車に乗って村まで戻って、みんなに頭下げて、そしたらあなたはもう罪人じゃなくなると思うの」
そうだ。彼の罪は、まだ引き返せる罪だ。彼自身がそのことを自覚してくれればいい。
「……あたまをさげて、どうにかなる問題じゃない……」
彼の声に少し怒気が混じっている。さっきよりも身体の震えが少し大きくなっている。
「あなたはなにも奪われていない。なにも失っていない。ただ少しの間、あなたの家族と友人と大人たちを遠ざけてしまっただけ。だから、今度はあなたが彼らに歩み寄ればいい」
彼の涙の啜り声が止まる。私の膝をつかむ彼の手の震えが大きくなる。
「……それで、贖えると思っているのか」
彼の精神が上向いてきている。最後の一声で、彼は完全に立ち直り明るい未来を歩めるようになる。その背中を、私が押すんだ。
「贖えるよ。あなたの思っている絶望は、あなたの思っているよりも軽い」
「……軽い?」
頭部に強い衝撃。そのまま私は、地面に衝突。
見上げると、エルが立っていた。泣きながら怒って。
◇◇◇
こいつは何を言った? 俺の絶望を、軽いだと? 自らかつての大切なものを捨て去ってしまったということに気付いて自覚して俺は悲しくなった。自分が恨めしくなった。俺は自分の人生に絶望した。自分が正しいと信じて、周りが間違っていると信じて進んで来た人生の旅路が己が罪にまみれていたと気付いた時には、もう取返しはつかなくなっていた。罪の赤黒い色で家路は塗りつぶされて見えなくなり、己が足は虚栄の泥にまみれ固められて動かなくなっていた。思い出の中の誰もいない寺院の中で、俺は己が罪を一人寂しく嘆くしかない。俺の心に希望はない。あるのは絶望と後悔と罪悪感と自分への失望だけ。悲しい負の感情だけで俺は成り立っている。そんな俺を見て、ひとり嘆くしかない寂しい男の元にこいつはやってきて、俺の絶望を軽いと言った。それが今言う言葉か。俺が己が罪を悔いている姿勢をこいつは踏みにじった。俺が自ら地獄に向かうしかないと諦観したのをを無碍にした。だから許せない。赦さない。
「俺のことを何も知らないでそうほざくか、この愚者が!」
ラスは呆然とした目つきで俺を見る。なんだその目は。人の心を土足で踏み荒らすのが悪い。
涙をぬぐいながら、俺はこみ上げる怒りを口に吐いた。
「その目は何だ」
「え、その」
「人が苦しみ悲しんでいるときに、軽い絶望と言うのはなんだ、なんだ、なんだ!」
身体の衝動を抑えきれず、部屋の卓上にあった本を掴んで地面にたたきつける。俺の手をラスの首へと近づける。
「なぜだなぜだなぜ言ったなぜ言ったお前は俺よりも偉いのかああああ!」
ガシ、と彼女の首を掴んで締めようとする。締め付ける力を徐々に強めていって、彼女がか細い呻き声をあげる。
「俺の悲しみは、俺の絶望は、重い! この世界の何よりもな!」
と、ラスの足の裏が俺の腹に触れていることに気が付いた。力強く蹴りだされて俺は首から手を離し、冷たい地面に背中をぶつけた。背中の痛みをこらえながら立ち上がると、彼女の姿は無くなっていた。
「俺の気持ちを軽いとのたまうだけでなく、俺を傷めつけやがって……ああ、なんだよおおおおおお!!!!!」
怒りが爆発し、机を倒し、枕を投げ、シーツをビリビリに破り、壁に拳をぶつけた。怒りが収まらず、破壊が加速する。机の脚を折り、枕を爪で裂き、破ったシーツを部屋中に散らし、破れた壁の穴を抉る。叫びながら壊す。壊す壊す壊す。
怒りが収まった頃には、空は一等星が位置を変えていた。一時間ほどくらい経ったのだろうか。破れて読めない本、抉れて羽毛が飛び出て眠れないベッド、外から暑さ寒さを呼ぶ壁の大穴。もう役目を果たせない机。全て、俺の怒りが壊した。
そうだ。この破壊は俺の怒りそのものだ。俺の悲しみそのものだ。ラス・アルミアが余計なことをしたから。俺の心を踏みにじったから。だから、結局はあいつも俺の世界には要らない―――。
『い ら な い ?』
何かが耳元で囁いた。同時に心臓が痛くなって、思わず跪く。驚いて振り返るが、誰も居ない。
いや、ちがう。
おれが、ここにいるじゃないか。
『そ う や っ て い ま ま で も す て て き た』
……ちがう。あれは、ラスが俺の心を踏みにじったのが……
『父 は? 母 は? 友は?お隣の人たちは?先生は領主はロイスは』
ちがう。いや、ちがうのがちがう。おれはまたおなじことを……
心臓が、こころが、いたい。
『ラ ス ア ル ミ ア も』
こころがこわれそうでいたい。……おれ、は……
ラスの首を絞めた時、彼女は泣いていた。
『ま た す て た ね』
おれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいラスごめんごめんおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいラスアルミアごめんおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれラスごめんラスごめんラスごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
——再び重ねた罪が、瞳の光を消す。
◇◇◇
負の感情の黒色に塗れた精神が、暗く冷たい湖の底に重く沈んだ。男は今や重ねた罪を自覚し、自分の首に枷かけられた鎖が地獄まで続いていることに気が付いた。全てを救うべく天を目指す上り坂を歩いていたつもりが、世の中のこと何一つ見えぬ愚者だと自覚して初めて自分仕掛けの色眼鏡をとったとき、彼は下り坂を歩いていて後ろには罪の足跡が続いていた。そして、彼はもう自分の内に正しさと希望を見出すのを止めた。
自分を罪人だと決めつけた女は在りもしない贖罪の道を歩き出して踏み外して、そして地獄に転落する錯覚をする。彼女の脳内の瞳に映るのは、死と言う名の処刑台への道。たった一つの、しかし彼女にとって大きな事件が今だに尾を引いて彼女に錯覚と幻覚を見せ続けている。仲間たちの死の事実が、彼女に罪と死の幻を見せ続けて歩かせ続け、人生と命の断崖へと彼女を導いている。
あれからどれほど泣いただろうか。気が付けば、日は既に高く昇っていた。今日の太陽は全く隠れていないにもかかわらず、輝きが足りないような気がする。もう涙は出ない。泣こうとも思わない。俺の人生が急に平坦になって、あとは崖に飛び込むだけのような気がする。元々死ぬために寺院に来たのだが、あの時でさえこんな感じはしなかった。自分の中で解は既に自分は罪人の一つだけで、他の思考など無駄な気がする。
死のう。
もう死のう。
せめて罪人のつとめとして彼女に一言謝ってから死のう。
◇◇◇
泣いて、神に祈り、懺悔した。彼に蹴られて拒否されて、私は礼拝室に駆け込んだ。ひし形の黄金を見た時、私はあれに懺悔しなきゃと思った。贖罪は失敗した。私に残された道など一本もない。泣いて、泣いて泣いて泣いて、神と仲間に謝って謝って謝った。涙と喉が枯れて私が立ち上がったとき、私が入ってきたとき開けたドアから風が吹いてドアがはためいていた。あそこが、私の死への転落の道。それは道と呼べる代物ではなく、奈落そのものと思える。何故だろう、死へと向かう時、私の魂と身体が軽い。
さあ死のう。
この世界には何も残されていない。
エルに拒否された。みんないない。だれもいない。今までの罪の分を背負って死のう。
◇◇◇
アーチ状の弧を描いた回廊。エルは、ラスが踏みしめた埃の足跡を辿って礼拝室に向かう。途中で、ラスの足跡が二つになった。礼拝堂とは逆の方向で、それは階段に向かっていた。階段を駆け上がって、三階に向かう。テラスの手すりに近づくラスの後姿がみえた。
「ラス。俺は、あなたに謝らなくてはならない」
エルは下に伏せがちな瞳を震わせながら上に上げて、眼差しをラスに向けて逸らさないようにする。自分は罪人だから、これは義務だからと自分に言い聞かせて強制してその場に彼自身を立たせている。
「あなたは自分を救おうとしてくれたにも拘わらず、俺はあなたを拒絶した。あなたの言葉を否定した。俺はあなたの救いを振り払った」
ラスは振り返らない。何も答えない。埃被った黄金の髪がなびくだけ。
「以上だ。そして、俺はこの世界から永久に離れる」
黄金の髪が一際強く揺れる。その横をエルが横切って、手すりに上ろうと右足をかける。
「……なに、やってるの?」
そこで、はじめてラスの声がでた。驚きと、戸惑いの声。
エルは答えない。手すりに両手でつかまって、もう片方の足を床から手すりにあげようとする。
ラスが走り出して、エルを抱え、後ろに引き戻す。手すりから引き戻されたエルの身体が宙を舞って、ラスを押しつぶす。
「がっ……ぐあぁ……」
エルの身体に潰されて、ラスが呻き出す。
「なぜ……なぜ俺を死なせなかった……?」
ラスは答えない。代わりに、痛む身体をおして立ち上がり、フラフラと手すりに近づく。
「何をしようとしてるんだ、ラス?」
ラスが手すりに右足をかける。エルが走り出す。
「あなたは駄目だあああああああああ!!」
彼女の腕を引っ張って、腰に手を回して引き戻す。
「駄目だ……駄目なんだ……」
「どうして……どうして? エル……」
戸惑い、パニックになり、涙を流すラス・アルミア。
エルは、自身の罪悪感の筵の中でこう考えていた。
(ラス・アルミアは善き人間。罪なき人間。その者の自殺の背を押してしまったなら、俺は引き戻さなければならない。この世界に必要なのは、俺のような罪人ではなく彼女のような善人なのだから)
「あなたは、善い人間です。でも、俺はそんなあなたを拒絶してしまった。死ぬべきは……俺なのです」
腕の中からラスを離してやり、手すりに近づくエル。その腕を、ラスが両手で捕まえる。
「——違う! 私が罪人なの! 仲間をあの世に置き去りにして、あなたの心を壊れるまでに傷つけた! あなたは人に何かを与えることができる人間。この世界に居るべきは、あなた。私じゃない!」
そして彼女は乞う。
「わたしを死なせて!」
そして彼は願う。
「あなたは生きてください。そして、俺を死なせてください」
背筋を伸ばしてエルが手すりに近づこうとする。ラスの彼を捕まえる力がより一層強く増し、しかし未だ弱い全力のままで彼を引き戻そうとする。
「放してください。……俺は、現世にも、天国にも、煉獄にも、地獄にも、浄土にも、輪廻にさえも、いていい場所は無いんです。あなたが慈悲をかけてくださっているのは嬉しいのですが……俺は、慈悲を受けていい人間じゃない」
微かにしか抑揚のつかない、感情の無い平坦な声。
(私は、あなたを止める為にはどうすればいいのかな……)
死を決意して揺るがないエル・ハウェ。彼を生かすためには、今、何が必要なのだろうか。彼女は思案する。
(力では解決しない。どのみち、私は弱い。……)
たった一つの、しかし既に失敗した案しか思いつかなかった。
(言葉じゃ無理だ……。私は彼を傷つけた……)
他の案は? 彼を止める為には、どうすれば——
彼の死よりも、彼にとって大事なものはないのだろうか。……全てを捨てて無くした彼にとっては、もう本当にないのだろうか?
いや。
いや……。
(違う)
違う。
(ここに……まだ、私がいる)
そう、ラス・アルミアがいる。
(……なんで……?)
エル・ハウェを止める為の唯一の手掛かりが、彼と同じく死を決意したラス・アルミア。彼女は、その結論に辿り着いた。唯一の正解、崖っぷちに落ちていた命綱を拾い上げた。
だが、その辿り着いた結論にラス・アルミアは瞳を震わせる。歯を噛みしめて、動機を抑えようとする。自分で心臓を掴んでいるような苦しさを感じている。
「……なぜ……」
彼女の瞳が潤う。罪人である自分が生きていいはずはないのに、よりにもよって罪人の存在だけが彼を救う唯一の手掛かり、という皮肉。
(……なら、こうすればいい)
彼を、騙す。
彼を騙して、罪に正直でいる。
「だったら、あなたが死んだら私も死ぬ。その代わり、あなたが生きてこの寺院を出るなら私も生きて出る」
早口でまくしたてる。エルが彼女を引き離そうとりきむ力が緩む。
(嘘だ。エルが寺院を出るとき、彼の背中を霧の向こう側へと押し出して私はここに残る。ここに残って死ぬ)
ラスは、光沢のない瞳をエルに向ける。
エル・ハウェは絶望した。
(しなせてくれない)
死ぬしかない罪人に、ラス・アルミアは枷をかけた。エル・ハウェはもう死ぬことができない。彼女が生きている限り、彼女を自殺させないように生きる必要がある。でも、それは……。
(不要な延命……。ただいたずらに罪から逃れるという罪を重ねるだけ……)
太陽の輝きが、妙に足りない。心臓の位置する部位がちくちくと痛む。呼吸が荒いような気がする。エルは、精神と連動した身体の不調の発露を感じる。
(でも、それでも彼女の命は俺が罪を重ねるに値する……)
彼女は正しい存在で、死んではいけない存在。心の根底にそう刻み込んだエルは、鈍く重い口を開ける。
「わかった。お前を死なせない為に俺も生きる」
(そして、俺はお前と別れた瞬間に人知れず死ぬ)
エル・ハウェは、彼女の人生から彼自身がいなくなった時に、彼女からかけられた枷をといて自ら死のうと決心した。
死の未来しか見えていなかった二人。だけれどもお互いの存在が枷となって、崖から墜落するのを許さない。それぞれの存在はこの誰も来ない寺院の中で時間を過ごすうちに大切になっていって、いつしかそれぞれの我が望みよりも優先すべき宝物になっていたのだ。宝物は枷となりて、お互いの首を繋ぎ、離れさせなくしていた。