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落伍者、孤独に身を翳る

 再び気が付いたラスを襲ったのは、強烈な飢餓。腹の中に巨大な空洞があると感じている。喉は水分を失って乾ききり、息をするごとに激痛が走る。口内は却って涎が大量に分泌され、瞳は食い物を求めてせわしなく明るい部屋の中を見回す。生の極限状態、余計な理性が排除されてただラスを本能のみが支配する。腕と脚に力が入らないのか、起き上がろうとしても横に倒れてしまい、失敗する。

「どこ、か……たべ、ものっ……!」

 這いずって、なんとか部屋を出ることに成功する。

「醜いな」

 声が、彼女の頭上からした。紛れもなく、エルだ。

「……危害を与えないと約束するか?」







       ◇◇◇







 何故、ラスを生かすのか。そのことについてエルは悩んで悩んで考えて考えて、答えは出なかった。出なかったけれど、取り合えず自分はラスを生かしたいのだという意識があることを受け入れた。

(なんでだろうな……)

 だが、ただで彼女を生かすわけにもいかない。生かすなら、約束が必要だ。そこまで考えて、初めてエルが口を開く。

「……危害を与えないと約束するか?」

 足下の餓えた女は、こくり、と首を下に振った。

「よし、待っていろ」

 調理室に向かいながら、エルは思案する。

(……俺の心の中に、自分の認めがたいものがある。それに触れようとすると胃酸が喉までこみ上げてきやがる……!)

 しかも、それは彼女と接するたびにエルの心に近づいていく感触がするのだった。今、エルは懸命に胃液を抑えて呼吸を整えながら調理室に向かう。

(野菜スープ……って、どう作るんだっけ)

 記憶の断片から、母と過ごした日々をなんとか拾い集めてレシピのピースを一つづつ嵌めていく。

(えーと、こう……か?)

 一つでも嵌め間違えたらやり直し。まるで壊れやすい硝子に触れるような手つきで調理を進めていく。

(なにやってんだろな)

 寺院に来てから、彼がそう首を傾げるのは何度目だろう。もう十回を超えているかもしれない。自分の行動に疑問を持ちつつも、何か形容しがたいものに突き動かされて動きを止められない。

「やった……か?」

 エルの目の前には、良い香り立ち上るスープが出来上がっている。石のトレーを引き出してスープを載せ、ついでにナイフと果物を載せる。一連の作業が終わってから、ラスの元へと急ぐ。ラスは、最早瞳を半分にしている。

「おいっ、ゆっくり流し込むぞ。少しずつ、飲め」

 頭を抱え起こして、椀の縁を彼女の唇に宛がう。乾いた彼女の唇に、徐々に艶が戻る。

「っぶ、げほ、ごほっ」

 飲み込む方法をも忘れてしまったか、ラスがせき込んでスープを吐く。

「っくそ、おい、本当に僅かずつだからな。飲み込まなくていい!」

 それから長い時間、エルはラスの命をなんとか繋ごうと奮闘した。

 ようやくラスの肌色が良くなって健康そうないびきをかきはじめた頃、窓によりかかったエルは紅蓮の空に目を奪われてしまう。太陽は霧に阻まれているせいか、霧に囲まれた寺院は暗い。天の光と地の闇の境界線が、エルの視線の先の霧の壁にできている。

(あっ)

 まるで社会の縮図みたいだな、とエルは思った。地上には希望なき象徴の闇が貧民や隷属の民、天には希望ある象徴の光が王侯や貴族を表している。そうだ、俺はこんな世界を変えたくて———

(……どうして変えたかったんだろう)

 今まで生を駆け抜けていく中でいつしか忘れ去ってしまった理由。遠い遠い過去の記憶を探ろうとして、心の奥辺に手を伸ばす。

 刹那、全身が泡立つ。鼓動が加速する。

(其処に触れたくないのか、俺は……)

 俺の本能が拒否している。思い出すことを。鎖が俺の脚を捕らえて「これ以上、踏み込まないでくれ」と言っているようだった。

 踏み込んだらどうなるのか。

 そこに、自分自身が壊れてしまうような何かがあると感じ取って、エルは手を引く。

(危ない……)

 命が脅かされるわけでもない。だが、心は確実に死んでしまうだろう。——エルはそれきり、光と闇の境界線から目を逸らした。







       ◇◇◇







 ラスの瞼が、ゆっくりと押しあがる。天国のように光が眼に溢れる。光の中に人影がうっすらぼんやりと浮かび上がる。

「え……る……?」

 半ば反射的に飛び出たその名前に、人影がこちらを振り向く。

「契約は忘れていないだろうな」

 まとまりのつかない思考は契約という言葉を聞き逃して、脳の覚醒に一生懸命だ。ラスの視界が徐々に輪郭を帯びていく。光条に線が浮かび上がり、彼の姿形が明確になっていく。地面に横たわって床と平行になった視線の先にカップが下ろされる。

「飲めよ。死にたくないんだろ」

 その言葉通りにラスが上半身を起こしてカップに口をつける。

(……あれ、契約? あ、そうか)

 そこで、飢餓状態にあって意識が混濁していたときの記憶が鉄砲水の如く押し寄せてきた。大量の情報処理に頭脳が追い付かずに、ラスは頭を抱えた。

「える」

 頭の痛みに耐えつつも、儚い女性は彼の貌を見る。———それから、自分の胸に手を当てる。

(あれ、なんだかちがう……)

 違和感に、彼女が首を傾げる。彼女自身に。いつもなら男性を見ては喚起される嫌悪と憎悪の意が、今は沸き上がって来ないということ。彼の貌を、抵抗なく、手が水をすり抜けるように、見れる。

「お前のその目は初めてだな」

 彼女の側に座っている彼が、しかめ面で彼女の瞳を覗く。

「お前が覚えてるかどうか曖昧だからここでもう一回言っておく。お前と俺はお互いに危害を与えない。これはお前が意識が混濁してる時に結んだ。もう変更はない」

 保障の無い契約だが、無いよりはマシだろうというエルの心算である。約束事は、法律関係だけでなく人の心をも拘束する。精神が弱ければ弱いほど拘束されやすい。心が程よく弱っているラスなら契約が効くと踏んで結んだ。確かに契約は後々効いてくることになる。だが、エルが意図した理由からではない。

「……そうね。ちょっと風に当たってくる」

 微笑を湛えて、ラスが部屋を出ていく。出ていきざまにエルが果物を投げ渡した。

(今はこの気持ちに整理をつけたい)

 回廊を渡って礼拝堂に出る。舞い立つほこりに鼻をつまみながら扉を開けて、胸いっぱいに新鮮な風を受ける。———彼女の思考がクリアになっていく。

(ああ、そうか)

 天央に太陽が来ている。雨に濡れた雑草の大地が輝く。———世界が光に溢れている。

(男すべてが悪いわけじゃなく、すべての男を恨む必要はなかった)

 エルの行動が示していた。ラスを性消費物としてではなく、一人の人間として扱っていた。ラスには、そういう男は初めてだった。

(良かった、世界は全てが全て汚れきっているわけじゃない)

 世界の頂点から太陽が光を注ぎ込む。ラスが、光を満面に受け止めて、輝いていた。



 ドクン。



 刹那、彼女の頭の中に流れ込む記憶。それは、ラスがエルに危害を加え殺そうとしていた記憶。彼女の心臓が急に縮まり、彼女の膝が大地の泥につく。

「はっ、はっ、はっ」

 彼女自らの愚かな思い込みで罪なき彼の命が損なわれるかもしれなかった。

「……しまった」

 彼女の凄惨な過去の積み重ねがラスを盲めくらにして、知らず知らずのうちに大罪を背負う羽目になるかもしれなかった。意識の目から剥がれたヴェールは、皮肉にも彼女の愚かしさを露わにした。彼女の愚かしさは徐々に彼女の心臓を押しつぶし、精神に苦痛と拘束をもたらした。



 眩き光の下に居ることが耐えられなくなって、ラスは寺院の影に逃げる。





       ◇◇◇







(俺はこれから、どうなるんだろうか)

 気が付けば、寺院に来た当初は持っていた自殺願望は海に溶け込む墨が如く薄められていた。かといって、寺院の外に出ようなんて考えただけでも胸を掻きむしりたくなるくらいに苦しくなる。

(一生をここで過ごすしかないな)

 最初に考えていた他の自殺方法を全て棄てて、本を読みつくすまでは死ぬまいと決意を改める。

(しかし、不思議なものだな。俺という死にたがりが死にたくなくなるなんてな)

 天央の太陽の光が、まるで部屋中を満たそうととばかりに部屋に差し込んでくる。目下の悩みはといえば、相変わらずラスのことになる。エルは、その問題について一縷の望みを見出している。

「さて、契約が本当に効いたかどうかだな」

 改心までしてもらおうとは考えない。だが、考えようによっては日常の諍いごとがひとつ消えてむしろ楽しみごとがひとつ増えるかもしれないのだ。

「どうなるか、楽しみだな」

 頬杖をつきながら独り言をつぶやくエルは、これからの生活に思いを馳せて、口角を上げている。







       ◇◇◇



 回廊の壁に遠い間隔で現れる小さな窓から黄昏時の霧の壁を眺めつつ、エルは調理室へと歩く。彼の鼻を野菜スープと思われる匂いが支配しているのが、エルにとってはやや不思議である。

(もっとも、誰がやっているかは分かるけどな)

 自分の分が果たしてあるか、と淡い期待を抱くエルであった。その期待はすぐに当たることとなる。

「お、ラスが作ったのか」

 水蒸気が支配する空間に足を踏み入れたエルが、テーブルの上に置かれた料理を見下ろす。調理室の奥に、金に埃を被せたような髪の女の後ろ姿が見える。

「エル。……貴方の分もあるぞ」

 少し意外そうに目を丸めながら、エルが調理の跡に目をやる。台の一ヶ所に纏められた玉ねぎの皮、まな板に浮いている肉の脂。

「ふ、どういう風の吹き回しだ……?」

 悪戯っぽく笑みをラスに向ける。ラスのことを少々警戒しているせいか、エルは椅子の背に手をついたまま座らない。

「今までの自分、少し考えたら確かにおかしかったなって……」

 尚も背を見せたまま、ラスが言う。なんか声調が変だ。エルは試しにスープの膜に指を伸ばしてなめる。

(なんだか塩辛いな? この寺院に毒になるものは無かったが……)

 まあ、生まれ育ちの違いだろう。エルは味の違いの理由をそう結論づけて、視線をラスに戻す。

「どうした、食べないのか? 作ったのに?」

 ラスが首を回して顔だけをエルに向ける。その瞳を見た時、エルは先ほどの結論が間違っていたことに気づいて眼を大きくした。

 ラスが泣いていた。静かに目から滴を流していた。姿勢は冷静を保ち、口は一文字に結ばれている。そうして、頬に涙の流れたあとが残っている。

「……食べよ。エル」

 最後の一品をトレーに載せて、ラスが運ぶ。ラスが着席したところで、エルも着席する。座りざまにエルは、ラスの手元を確認して武器の無いことを確かめた。

「それで、今までの自分がおかしかった、というのは?」

「うん……。どうして今までの私はあなたをむやみに襲っていたんだろ」

 伏目がちのラスに対し、直視するエル。

「一体、何があったんだ? ラス・アルミア」

 次に紡ぎ出されたラスの声は弱弱しいものだ。

「昔語りになるけど、いいかな……」

「ああ。スープが冷めても構わない、話して」

 こうして、ぽつりぽつりと語り始めるのだった。







       ◇◇◇





 私は、王国の交易都市の外れで生きてきた。3人の仲間と一緒に生き延びてきた。……言うまでも無いけど3人も女よ。親の顔は知らない。確か15年前くらいに物心がついたら其処に居たって感じ。







 ……外れ、というのは娼婦街だった。交易都市に集まるのは様々な人々。商売で儲けようとする富める者、そのおこぼれに与ろうとする貧しい者。一番高い位の娼婦は富める人と対等にやり取りができる。だけど、位の低い娼婦は男にただ嬲られるだけ。そして全ての娼婦に言えるのは、男の意向ありきの商売だってこと。だから、私は男が羨ましかったし憎かった。







 自分の身体を売ったことがある。まだ腹に居る子を堕ろしたこともある。……私を買った男はみんな、酷かった。低位の娼婦だったから、いっぱい殴られたし好き勝手にされた。正直言って、男に良い思いをさして貰えたのはエルが初めてだよ。時には飯屋の棄てた残飯を漁ったり、時には盗みを働いて日銭を得たこともある。それでも、3人の仲間が心の支えになっていたから生きてこれた。







 けれども、3人の仲間たちと決定的な別れの時がきた。思い出したくない。……けど、話さなきゃね。

 ……ある日、わたしは3人とは別に行動していた。そしたら、いつも集まるはずの場所に3人は現れなかった。娼館に行って尋ねてみると、とある富豪の目の前を通ったので奴隷にされたという。







 気が付いたら、その富豪の屋敷の門を叩いていた。私も捕まって、富豪の前に突き出されて……。

 色々酷くやられてさ、終いには檻の中に入れられたよ。……。







 嫌だ……あの光景は今でも思い出したくない……。







 ああ、ごめん。でも、これだけは言わないとね。







 3人、その檻の中で息絶えてた。







 1人は舌を噛み切って自殺、あとの2人は激しく暴行された跡があった。







 激しく慟哭した。絶対、あの富豪の男がやったんだ。いや、あの富豪だけじゃない。あの男に付いていた下っ端の男どももきっと色々やっていた。いや、それ以前に男という生物が身勝手すぎる。







 この世界を、この世界に産まれついた運命を、この身が割れんばかりに呪って、叫んだ。救いなんてなかった。







 ……私は、仲間の1人が息絶える直前まで作っていた逃げ道から逃げた。その後の記憶は、霧の壁が目の前にそそり立っているのに気が付いたところまでトんでいる。







       ◇◇◇





 語り終えたラスの瞳いっぱいに涙が溢れて、今にも決壊しそうになっている。

「察しはついていたが……。それならあの頃のお前の態度も納得いく」

 想像以上の凄惨さに、エルは身を震わせる。いつしか、闇の帳がおりた外から冷たい空気が流れてくる。そうして、エルが湯気の消えた野菜スープに口をつける。

「冷めちまったな。少々手間だが俺が温めなおす」

 エルがシンクに立ってラスの分までスープを一つの 器に入れて、魔法で火を熾して温める。

「なんか、俺が邪魔しちまったな」

 語り終えて沈黙するラスに、尚も語りかけるエル。

「お前だって伝説を聞いて来ただろうな……。俺という男がやって来ちまって嫌だっただろな」

 エルが饒舌なのは、とにかく声を出して自分の気分を落ち着かせようということである。だんだんと、彼女について脳の中で整理する。

(そうか。こいつは俺に似ている)

 その日を懸命に生き抜き、上を目指していたのと富める者との対比の立場にあるという点でも共通している。———早い話が、同じ落伍者であるということだ。

 そこまで整理をつけて、彼がラスを振り返る。

「ほら、温め直したぞ」

 ラスの目の前に置かれたスープから湯気が立ちのぼっている。エルがゆっくりと、器に口をつける。

「お……スープ美味しいな」

 何気ない一言に背を押されるかのようにラスの手がスープにのびる。器を両手で柔らかくつつみ、持ち上げて縁に口をつける。温かい汁が流れ込んで、彼女の、鉄のように冷め切った身体の細胞をすり抜けて温かみがゆっくりと全体に広がってゆく。

「うん、おいしい」

 瞳のダムが温かみにとかされて、涙が決壊する。

「ううっ、う……」

 懸命にこらえながらも涙を流すラスを、エルは静かに見守る。







       ◇◇◇







 2人の和解から二日後。エルはテラスで、倦んでいる。微かな風が耳元に鳴り、僅かばかりの土が渦に舞う。

 日光を反射する瞳は、何かを見出そうと懸命に動かされている。

(どうしたものか……)

 寺院ではやることが少ない。読書も良いものだが、それだけではその日を満たすには足りない。新たな興味関心が、エルには必要なのだ。

 そうこうして倦んでいる時、彼の頭の上で新たな風が生まれた。———グノーモンが、飛翔したのだ。

 龍の翼の下に孕まれた風は剛く、しかしエルに届くころには柔くなっている。龍の飛翔は渦を巻き、天高く昇っていく。

「———あ」

 エルの中で何かが弾けた。

 そうだ。簡単なことだったのだ。この寺院は未だに謎が多い。ならば謎を解明していくのも一興ではないか。

 彼は、彼自身でも気が付いた頃には走り出していた。







「ラス、ちょっといいか……?」

 妙に息を荒くしたエルが来たので、ラスは少々困惑している。彼女は、自分が今まで身に付けていたボロボロの服を直している最中だった。

「どうしたの、エル?」

 遠慮げに漂う瞳を見て、エルはすぐに佇まいを直す。

「あ、急に駆けてきて悪かった。……ここの生活って、やること無いよな」

 本来、エルは女性との会話が苦手である。相手が少し前までいがみ合っていたラスであることも手伝ってか、少々会話の間合いを取り損ねているようである。

「そだね……」

 いけない、彼女を困惑させてしまったか、とエルがたじろう。———早速本題に入ることにしたようだ。

「この寺院のこと、調べてみないか?」

「え? あっ、そうか……。とても興味あるね」

 微かに震えつつも、光の差している眼差しがエルに向けられる。———その瞳に何か思うところがあったか、エルが目をそらす。

「で、どうやるの?」

「そうだな……。グノーモンに訊いてみるのもいいかもしれないが、折角だから自分たちで色々分析していきたい」

 ラスが、ん? と首を傾げたのは、自分たちで分析していくというところだろう。彼女には、まだその具体的方法が思いつかないのだ。

「まあ、具体的にどうするかは後で考えよう。そうだな、夕飯の時にでも」

 ラスの部屋を後にして、エルは図書室に向かう。

「そういえば、ラスの奴は文字読めたっけ……?」

 心の内に贅沢な悩みを抱えながら。静謐に歩を進める。

 ———ドクン。

「!」

 エルが、急に自分の胸を掴む。

(またかよ……)

 光と闇の境界線を見た、あの日から異常な鼓動が時々起こるようになった。物理的に胸の具合が悪いという感じではなく、精神の奥から鋭利な刃が抉ってくるようだ。

(それに)

 奥底から湧いてくるのは刃だけではない。得体のしれない、自分の精神を蝕み責めてくるようなラメントさえ聞こえてくるようでもあるのだ。

「……耐えねばな」

 脂汗をにじませながら、独り図書室に向かう。





       ◇◇◇





「読めない」

 ラスが、そう呟いた。文字の羅列を目の当たりにして混乱しているようである。

「やっぱり、か……」

 そもそも、文字が読める平民の存在など稀である。エルはその例外であって、平民は文字が分からないのが常だ。———例に漏れず、ラスもそうである。

 このことはエルの頭痛の種になっている。エルは今まで学ぶことしかやってこなかった。教える、ということが今の彼にとって困難なことに思えるのだ。

(まずは、話し言葉と書き言葉を照らし合わせるところからか?)

 寺院に残されていた書字板を取り出して、ラスの目の前に置く。

「これ、箱型の蝋燭?」

「違う。文字を書くためのものだ」

 え、とラスが声を上げる。確かに、富めぬ者にとって蝋燭とは灯を点す為の物でしかない。書字板としての用途さえ知らなくてもおかしくはない。

「蝋はキズを入れやすいだろ? だからこうして」

 小さな石を取り出して、蝋の上に本のそれと同じ文章を刻んでいく。

「あ、ほんとだ。こういう風にも使えるんだね」

 その声を聞いた時、エルは心の底から躍りたつようなメロディーが湧き出た気がした。無意識なものであったのでギョっとしたが、

(ああ、これが教える喜びってやつか)

 と、頬に笑みを浮かべる。

「そうだな、ラスはこの文章に何が書いてあると思う?」

 彼女は顔を上にあげて、うーんと唸る。

「えっと……、天才や神様にしか分からない暗号?」

「あっはっはっはっ」

 すぐにラスがそっぽを向いてしまったので、エルが慌てる。

「ああごめんごめん。別に分からなくてもいいんだよ」

「笑ったくせに」

「うっぐぅ……」

 確かに否定できない。それでもと、咳払い一つしてエルが向き直る。

「昔話の一つくらい聞いたことはあるだろう? これにはフェリグレライの伝説記が書いてあるよ」

 ラスの瞳に光が宿った気がした。

「文字、といっても大層なもんじゃあない。文章に書かれている全てのことは普段俺たちが話す言葉と同じさ」

「え、同じ……?」

 と言っても、具体的に想像することは難しいだろう。試しにと、エルはラスが持つ本の一節をなぞる。

「———其れは深きアルトゥネスの湖より出で、夜の中に妖しい輝きを放ちながら全てを誘惑する歌を歌った。その歌は船乗りの心を侵して、自らの居る湖の奥底へといざない沈めていった」

 エルの声はまるで詩を歌うように、空間に浸透していった。剛と柔を併せ持って空間を流れる彼の声に、ラスは束の間に口を開けたままでいた。

「声、凄くいいね」

 エルの手が止まる。文字に伏せた瞳をゆっくり、彼女の眼差しに向ける。……眩しい瞳だ。

「そ、そうか?」

 エルはすぐに視線を文字に伏せる。何故だろうか、彼はラスを直視すると心臓が跳ねてしまう。此処に鍵盤があれば一心に乱れ弾きたくなるくらいに、恥ずかしくなってしまうようになったのだ。

 こほん、と咳払いしてからエルが彼女に向き直る。

「とにかく、書き言葉と話し言葉の本質は同じだって分かったか?」

「うん。……言葉を形にできるって魔法みたいだね」

「魔法ではないけどな。さぁ、続けようか」



 ———この会話中、エルはどこか柔らかくて暖かい不協和音を胸に抱いていた。おそらくラスもそうだったであろう。殺伐としていた時は過ぎ、二人の間のわだかまりもすっかり消え失せている。不協和音が消えぬうちに味わっていたい。二人は同じことを思っているとも知らずに思うのだった。







       ◇◇◇







 陽が堕ちて黒の支配せしめるかと思える寺院にて、ラスが独り蝋燭の火を元に本を解読しようとしている。エル、彼の教えを基に脳内で文字と音をリピートしながら読み解いていく。

「……なんで頭痛くなるんだろ」

 頭を使うことは往々にして頭痛の元になる。いわんや使われずの頭をや。彼女は今、未知なる痛みと戦いながら解読を進める。文字をリピートするたびにエルの顔を思い出す。

「やさしいなぁ……」

 懇切丁寧。彼の教え方を一言で表すとこうなる感じだった。ラスと生殺の時を過ごしていた彼からは想像がつかなかった。

 ふと、何故彼がこの寺院にやって来たのだろうか、と彼女は考える。

(まぁ、私と似たようなもので外の世界で生きることができなくなったんだろう)

 当然の帰結。初めて寺院にやって来た頃の、妙に刺々しかった態度からも推測できる。ラスの瞳には、あの頃のエルは理不尽の巨靄を纏っているように見えていた。世の中の憂いを一身に背負って、ともすれば彼自身が不幸の化物になってしまいかねないよう。

「辛いもの、かな」

 ラスは思い出すだけで手が震えて刃を探し求めてしまいそうな自分の過去をエルに重ねる。ラスとは違うだろうが、彼にも夜の黒で全て塗りつぶしてしまいたいような過去があるのは明らか。

「……ま、いいか。どうせ触れてはいけないし触れることもないだろうし」

 頭をふるふると震わせて、続きを再開するのであった。







       ◇◇◇







 曇天の下、外郭の霧の壁を背にしてエルは寺院を眺める。悠久の時を経て、尚朽ちず。静かに幽かで、揺るぐことの無い力が其処にある。

(魔法か、設計か)

 力の正体は何だろう。外に在る一切に手出すことなく、目の前にただ力が停滞している。唯、不動の力のみが其処にある。

「此処に、何があったんだ」

 永遠の深き霧に囲まれて、無人の寺院。王立図書館にも正式な記録は無く、ただ伝説のみ。ボロボロになった布に包まれて、確かにあるはずの歴史其れ自体もホコリをかぶって朽ちかけている。

(やりがいがあるな)

 ふ、と頬を緩めて笑みを浮かべる。振り返って、霧の壁。今までに何度か試したことがあるが、結局外側に出ることは出来なかった。

(あるいは、出ようとすれば化物が口を開けて待っているのだと思っていたが)

 だが、といっても出る気は元から無い。この寺院の中に身を落ち着けているだけで本当に充分なのだ。

 指先に雨粒が弾ける。首筋を雨が伝る。最初は忍ぶように、徐々に激しく雨が打ち放たれる。エルは、その中ただ立っている。天を仰いで立っている。

(全て、洗い流される)

 心の中に潜む虻虫すらも、心の壁に張り付いた黴すらもざあっと流されていく。すみずみまで雨の水が行き渡って、零れ出ていく。

(自分の存在が、透けてゆく)

 色の淡き内に融けてゆく。そんな幻覚さえもする。現に戻らなければいけない魂を、まだ、とエルは放しておいたままにする。草葉を踏み分けながら、精神は霧と雨の灰色を泳ぐ。

(まだだ……まだ……まだ……)

 雨粒をかき分けて、魂は天の高きを目指す。100m……200m……300m……。まだ、泳いでいたい。まだ浮遊していたい。雨がエルの存在を透けさせて、彼自身の精神が浮揚しながら天の高きへと目指そうとしている。



「エル。戻らないと」

 その一言が、エルの魂を現の地上へと引き戻した。ラスだ。自分の行いに自覚を感じて、エルが驚く顔をする。それから、ばつ悪そうに顔をしたに向ける。

「悪かった。……呑み込まれていた」

 呑み込まれていた? ラスのおうむ返しの疑問に、エルが再び顔を天に上げる。

「雨って、なんか不思議な引力あるよな。こうしていると、心が、すうーーーっと天に引き上げられて昇りそうになる」

 つられて、ラスも天を仰ぐ。

「降りしきる雨の流線が俺を天に誘うんだ。俺はそれに見入って、そして魂までをも解放してしまうところだった」

 エルは顔を下げ、視線をラスに動かす。

「お前の声掛けが無ければあのまま俺は固まっていた。ありがとうな」

 ラスは少しはにかんで、エルに寺院に戻るよう促す。



       ◇◇◇



 ———寺院、夜。闇の巨棺かとも思える図書室。相も変わらずラスが本の解読に苦労している。

「ん、この本は……」

 題名が気になって、頁を開く。———都市の貧民を描いた童話だ。



 とある王国の貧しい町に、人を想う美しい女性がいた。王子は貧民の女性に惚れるが王族や側近の猛反対に遭う。王子は自らの地位を捨てて、女性と共に遠い土地へと旅に出る。



 —————……ハッピーエンドだ。



「良かったぁ、最後は幸せに終われて。私は……」

 ランタンの灯以外がどっぷり漆黒に浸っている空間を見回す。

(私は、この女性のようにはいかないけれど、せめてこの寺院の中で幸せに)

 生きていこう、という言葉を、脳内で紡ぐことができなかった。



 呪いの口が、彼女の耳で囁いたから。



 ランタンと共に火が落ちて、消える。







 今、囁かれた言葉が聞こえなかった。否、聞こえなかったことにした。———……、だ れ 。

 声色はエルのものではない。しかし、遥かな記憶の向こう側に手を伸ばせば思い出せるかもしれない。

 私の身体は凍てついた。後ろに存在するナニカが恐ろしくてたまらない。



 闇が私の心の表面を舐めるように触れる。精神が質量を持って重くなる。懸命に、テーブルにしがみついて腰を椅子に落ち着かせる。



 月の僅かな明かりしかない空間。背後から闇の手が私を絡めとろうとする。気を抜けば、あっという間に後ろに引かれて飲み込まれそう。視界は揺れて、眼球はせわしない活動する。

「だ、だれ……?」

 絞りだす、糸のようにか弱い声。

 一拍置いて、私の心が空白になった。脳裏で、盆がひっくり返って水が零れる映像を見た。



『わ す れ た の』



 瞬間、生涯の罪悪を全て搔き集めたような、毒々しくて鉛のような感情に身が染まっていく。今、いちばんやってはいけないことをしてしまった。ごめんなさい。



『か っ て に し あ わ せ に な る つ も り』



 闇の手ひとつ。私の右肩に置かれて千切らんと掴む。



『【わ た し た ち を お い て』】



 呪譜が二つに重なりて、耳元から凍土の冷気を流し込む。首から背を伝って、生きて良い実感が体温と共に冷やされ失せていく。



『【〈ひ と り だ け』】〉



 闇の中から三人分の瞳が浮かび上がる。私が見られている。恨意の目を受けている。裁定の目を受けている。胸が痛い。痛い。苦しい。なぜか、罪人の繋がれた手のように両手首がくっついて離れない。



『【〈し あ わ せ に な る ?』】〉



 仲間たちが死んでから以降、彼女らの死に触れようとしなかった。亡骸からただ背を背けてばかり。嘗ての思い出さえも捨て去って。———その事実が。罪悪が。後悔が。重責が。逃げて来た足跡を振り返る度に、自分は赦されない気持ちが堆積する。気持ちが重くなって身動きが取れなくなっていく。



〖許さない。永遠に赦されない〗



 過去の全てが眼差しを持って、私を中心に取り囲む。見ないで。目の前に、黒い私がいる。消えて。地から筵が伸びて私の足を貫く。痛い。手首は鎖に囚われている。放して。痛い。きつい。怖い。見られたくない。



〖許さない。赦さない。赦されない〗



 黒い私が徐々に近づく。怖い。いなくなって。重圧が圧し掛かる。お願いだから。悪かったから。私の貌を見まいと、瞳を下に向ける。



〖背けるな。お前———〗



 顎に手が掛かって、顔を上に上げられる。



〖私は赦されてはいけない、永遠に〗



 大罪の貌があった。



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 ーーー暗き檻に、呑み込まれてゆく。







       ◇◇◇



 迷わぬ者は例外。苦しまぬ者は数少なし。神たる知恵の円環に触れること能わず、人々は知らずの内に自らに楔を打つ。

 苦しむのは何故か。誰かが首を絞めようとしているのか。正体不明の病に侵されているのか。——この二人に限っては、否。エルは未だ巨大な楔に気づかず、ラスは気づかずの内に千の棘に自ら飛び込んだ。此処に神の知恵の円環は無い。救いの歌うたうものも居ない。手差し伸べる者無き寺院にて、再び悲愴の時が訪れる———



       ◇◇◇



 風が青空に通り過ぎて行って、何か大切なものが通り抜けてしまったとエルは感じた。追いかけようとするけれど、それは遥か昔から既に一番深きファロースの谷底ほどに離れてしまっているような気がして足を止めた。宙を漂う手を見つめて、握りしめる。

「なにやってんだか」

 調理室の窓枠に目を落とす。ラスがまだ来ない。スープは冷めた。

 寝てるかもしれない。それならば起こすのは無粋。そう思って、彼は廊下に足を進める。

 気分は上向いてきている。廊下の途中の埃被ったピアノに指を叩き踊りたい気分だ。

 何も気にせずに図書室に踏み入れた瞬間、重力が重くなった。

 闇が、其処に、あった。闇が、絶望が、人に……ラスに纏わりついていた。より正確に言えば、室の一番光があたらない隅っこにうずくまって、ぼさぼさの髪を更に乱して、顔を太腿の間に埋めていた。



「ラ、ス……?」



 近寄りがたく、エルは手を宙に漂わせて名前を発することしかできなかった。

「あ、エル……」

 赤く潤った眼差しがエルに向けられて、ようやくラスは顔を上げた。

 エルは、この先に踏み入れ難い彼女の心の領域が在ると直感する。ここから先は薄氷の領域で、少しでも踏み外せば暴風域と化して今までの全てが壊れる。引き返すか。その択はエルによって消された。踏み入れないままでも、彼女が壊れていく音が聞こえた。何故か、エルはその音を聞き逃しておくことをしなかった。

「ど、うした……?」

 身の冷えるような冷気が頬を掠る、そんな幻覚さえ現実に感じながらもエルは声を出す。ただ、理由なくとも彼女の為に。

「う、うん……。なんでもない」

 か弱く、砕け散りそうな声を発して、ラスは立ち上がる。足をふるふると震わせながら。

 彼に合わせるともない彼女の眼差しを、彼は懸命に見つめる。逸らしたら、激しい自分への失望の内に自分を燃やしたくなるからだろう。

「スープ、温め直すよ」

 エルは絞りだしてこれか、と自分に失望を覚える。ああ、願わくば自分が神のごとき口を持てていれば。

「いい……。作ってくれたんだ、ありがとう」

 ラスが、寄る辺なき足を地面になんとか突っ立てながら進んでゆく。その後ろ姿を見送ってから、ああクソ、とエルは彼女の後姿の幻影を追いかける。





       ◇◇◇





 夕方、黄昏の日を右頬に受けてエルは目蓋をつむる。

 ラスの異常事態。気にならない筈がない。

(此処には龍と俺しかいない。他に誰かが来た痕跡もない)

 では、彼女のあの顔は何だったのか。

(……唯一あり得るのは、後悔か)

 悲しむなら過去のことでしか悲しみようがない。

(なら、干渉すべきではない?)

 干渉しないままで解決するような類いの表情ではなかった。

(だが)

 彼女のこもる殻の割り方を間違えれば、彼女までもひび割れてしまう。そんな悲劇など招きたくない。

(ならば)

 変わらず接しよう。彼女のことを徐々に知っていこう。今はそれしかない。

(それにしても)

 何故、今の俺はこうなっているのか。いつのまにか彼女のことに取り入るようになった。なってしまった。

(自分はいったい)

 エルという名前の自分という人間は、一体何なんであろうか? 少し前と統一せぬ態度。変わりゆく自分の性格。変わっている? いや違う、まるで回帰しているような感覚。

(回帰してゆくごとに)

 何かもまた、迫りくる。ともすれば一瞬で斬り裂かれそうになる、切迫した危機感。……まただ。







 今は……まだ目を逸らしていたい。
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