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落伍者、孤独に身を翳る

 門の内側に入ると、草ぼうぼうになって放置された花壇、井戸、石道などが目についた。

(かつては華やかにあしらわれられていたんだろうが、今は見る影もないな。)

 荘厳な寺院が彼の前にそそり立つ。だが、よく見れば見るほどその荘厳さは空虚なものに思えてくる。獣一つの動く気配もせず、自然の新鮮な姿さえも見えない。此処の空間を支配しているのは生の精彩を放たないもののみ。

 寺院本体の、伝説に出てくるような巨人一人が入れてしまう扉の前に立った。

(これ、絶対儀式用だろ。どこかにあるはずだ……おっと)

 隣に小さな扉があるのを見つけ、取っ手を後ろに引いた。中に入ると、長椅子が規則正しく並べられた礼拝室が目につく。子供がはしゃいで端から端まで徒競走をしてしまいそうなほどに広い。天井はとても歪曲されており、天使やら老人やら、青い鎧を着た青年、太陽を手にする女性やら、果てには龍に似ているが形容のとてもつきそうにない化け物までが描かれてある。壁には、黄金の様々な装飾がなされてある。装飾を見るに、どうやら天井に描かれた絵と同一のモチーフを有しているようである。それで、最奥には、中にひし形の穴がくりぬかれているひし形の黄金が立っている。およそ、偶像の類であろうか。

「なんという……、まさかここまでとは思わなかったな……」

 ひとしきり嘆息を漏らしたのち、側にある長椅子に腰かけて息を漏らす。そうして、あたりをぐるりと見回す。

 音一つしない。それがエルの感想だ。伝説の事実に安堵して、心が安らぐのを感じる。

「疲れた……」

 抑制の効かない涙が、彼の頬を伝る。懐をまさぐって、傷で擦れた革の身分証明書を取り出す。

「はぁー……。こんなもの持っていてもなぁ」

 礼拝室のどこかに適当に放る。そうして、長椅子に座ったままでいる。

 今のエルに、目的はない。彼は今まで、平民の身でありながらにして自身の崇高な目的の為に奮闘していた。だが、高位な役職の採用試験に落ちてその前途が潰えてしまったのだ。

「何もやる事がないとこうなるものかよ……」

 次第に瞼が重くなっていく。空腹感は覚えるが、特段どうしようという気が湧いてこない。喉も多少乾いているが、立ち上がろうとする気はない。エルは、もう自分の身がどうなっても良いと思っている。彼自身は、そう思っているつもりだ。すべてが黒になっていく。





       ◇◇◇





 目覚めたエルの目についたのは、歪曲した天井だ。彼の実感として、酷く腹が凹んでいて喉がパリパリと乾燥して痛い。いつの間にか、立って礼拝室の奥のドアのノブに手をかけているのに気づく。

「まあ、いいや。腹満たせるもん、探すか」

 生を諦めたはずの男が、寺院内を食料を求めに彷徨い歩く。光のカーテンが差し込む中庭に面する、部屋のドアの多い回廊を歩くと階段の上から果物の匂いを感じ取る。上ると、さっきまでとは打って変って光があまり差し込まない廊下に出る。今にも、均等に並べられている像が動き出して襲い掛かりそうだ。

 廊下をぐるっと回ると、ドアが開放されている一室を見つける。果実だけでなく、肉やパンの匂いまでもする。

(まさか人がいるのか?)

 廊下と違って光量が丁度良い部屋だ。調理用の台や道具が所狭しと並べられ、保管室であろう隣接する部屋からの食料の匂いが強い。よく観察してみると、道具に人の手が触れた形跡がない。まるで最初に配置されたその時のままのようだ。

 発光魔法を用いて隣の保管室を覗く。エルは少し気分が悪くなった。

「これは、そうか。保管用の魔法ともう一つ、俺の知らない魔法が使われている」

 棚には肉や魚、果実など様々な食料が並べられている。その棚には魔法陣の紋様が施されている。魔法陣から発されるマナが濃い為に彼はマナ酔いを起こしたのだ。ささっとパンと野菜と肉を取って、調理室に逃げる。

「これほど大きい寺院なら、水が勝手に流れ出る魔法もあってよいものだが」

 しかし、調理室をいくら探してもそんな魔法は見つからなかった。諦めて、食料を台において桶を取り、中庭に見かけた井戸に向かう。井戸で水をくみ取り、調理室に移動したところで疲労がどっと押し寄せる。

 桶に口を突っ込んで水を飲み、パンだけでも今のうちに食べようと台の上に手を伸ばす。———手が空を振る。パンが無い。

「あ?」

 よく見ると、野菜には歯型がついている。肉には何ともない。

 この寺院に他に何かいると思うと、背がうら寒くなってくる。伝説は嘘だったのだ、と舌打ちを打つ。仕方なく、マナ酔いを我慢して保管庫からパンを持ってきて、かぶりつく。野菜は別のに変えて、調理室にあるものだけで調理する。

 出来上がった料理は素朴で簡単なものだ。野菜スープに、焼いて切った肉。それらを口におさめる。

「さて、どこか寝るところは……と」

 エルが見たところ、寺院は中央の建物とそれを取り囲むように配置されたそれぞれ別の方向にある三軒の建物で成り立っているらしい。その内、尤も宿泊施設らしい外観の建物に向かおうとする。

「しかし、本当に埃っぽいな」

 喉のパリパリが潤いのある柔らかみに変わり、腹が膨れ、心も落ち着いたエルは今更ながら建物全体が埃っぽいことに気づく。きっと、永らく掃除されていない。

 最初二階から下りる階段に向かおうとしていたが、方向を間違えてしまったらしい。歩いているうちに、まだ見たことのない大きな扉の前に立った。気になって、扉を押し開ける。

「マジかよ……」

 身長の二倍はありそうな本棚。所狭しと並べられた無数の鎖付き本。思わず、一番近くの本に手が伸びる。

「読めねぇな。言語が違うのか……」

 エルの分かる言語で書かれている本は、一時間の苦闘の末に発見された。

「はぁ~っ、良かった。多少古い言語だが、読める……!」

 目を輝かせて手元の本を見る。この本には一生お世話になりそうだ。図書室の隣の鍵を保存する部屋から鍵を持ってきてロックを外し、階段に向かう。





       ◇◇◇





「ここだな」

 エルが向かっていた、一番素朴な外見の宿泊施設らしき建物。だが、井戸と水洗い場が草をかぶりながらも完備されている。中に入ってみると、食堂らしき広がりのある部屋が二部屋あり、浴室らしきものもある。

「これは、魔法がかかっている……? だが、こう壊れていては湯が出んな。俺みたいな身分にゃ湯には滅多に入れないのに、目の前でおあずけかよ……」

 浴室の壊れた給湯口に舌鼓を打ちながらその場を後にする。上の階は全て宿室になっている。一番行動しやすいように、二階の階段すぐそばの部屋に腰を落ち着けることにする。

 埃だらけのシーツを外で払い、何とか環境を整えて初めてベッドに飛び込む。

「天国だ……天国……」

 ハ、としたようにエルが顔を上げる。

「そうか……俺はもう何しなくてもいいんだ」

 責任から解放された気分になる。

 思い起こせば、今まで何かに追われるように頑張ってきた。小さいころに村を貴族の馬車が通って、身分の絶望的な差を痛感した。たまたま訪れた王城で配られるべき富の存在を初めて知った。今まで信じて来た宗教の絶対性が、汚職であえなく崩れ去った。それからは絶望の水底から這い上がってほんとうにただしいこたえを探し求める為に勉強、勉強、勉強……。

 だが、この寺院には身分など存在しない。富など気にしなくてもよい。それに今となっては答を探す意味も無い。

 だが、気にするべきものが唯一つだけある。この寺院には、“誰か”がいる。それを解明するまでは、まだ心の中に引っ掛かった1ピースが抜けない。

 そのまま、微睡みの中にエルは堕ちていく……。







 目が覚める。闇の中にいる。陽が落ちた、というだけだ。エルはバツ悪そうに頭を掻きながらベッドに座す。

 エルの手が不自然に机の上に差し出される。この怪奇現象に、エルが慌てて後ずさる。

(なんでだ……? いや、そうか。これは、俺の強迫概念だ。勉強せねば、上に立たねばの精神そのものなのだ)

「クソっ、もう終わったんだ、終わったんだ……」

 屈んで何かを追い出そうと頭を掻きむしる。何回そうしただろうか。痛っ、と頭から微かばかり血が流れ始めた頃に頭を上げると、柔らかな日光が部屋を包んでいるのが分かった。

「そうか。そうか……」

 悟るように何度も何度も頷く。この明るみがエルに安らぎを与えた。もう何もしなくていいんだよ。陽が彼に語りかけているようであった。

 だが、今まで暮らしてきた日常とこれからの日常の変化に対応するのは難しい。

 抜け殻のように、彼がただ部屋の中に座するのみ。特段何をするわけでもなく、本に手を付けることも忘れてただただ静寂の内に座すのみ。義務も強迫も無い生活で何かをする技術も知識もエルからは抜け落ちている。

 エルは、時々シーツの上に横たえては体を起こし、また横たえる。それだけの生活を繰り返して、苦しみを覚えた時だけ食堂に向かう。その生活を繰り返すのみだ。

 ある時、調理室から戻るのに道を間違えた。気が抜けて、道一本間違えたのだ。それはエルの目の前の上り階段が証明している。気力の無いエルは、その場で崩れ落ちて壁に背を預ける。

(そういえば、子供の頃はどうしてたっけ。世界の不条理に気づく前の。確か、村の外れの修道院がやたらデカくて一度潜入にしたことがあったな……)

(……)

(あの頃は、わくわくしてたな。こーいう建物の、こーいう階段があったら、あの頃の俺は嬉々として昇っただろうな)

 不意に、心の中で沸き立つ感情を悟る。エルが自分の胸に手を当て、不思議そうに首を傾げる。脚がひとりでに前に進み始める。床に手をつけ、筋力を使って何とか立ち上がる。

「……行ってみようか」

 三階の、その先へ。







 かくして、エルは寺院の中を四階を除いて全て探険した。一階は主に大衆向けと見られるような礼拝施設。二階は調理室と図書館と大きなホール。三階は打って変って、専門的な礼拝施設。事務的な部屋もまま見受けられた。寺院の周りにある建物は、居住用を除けば宗教的な意味合いを備えているものが二つ。

 寺院の四階に続く階段は、エルが見た時に昇るのをすぐ断念した。階段はひとつしかなく、人一人通れるかすら怪しかった。おまけに階段の板が傾斜していて足を滑らせる可能性が高い。この階段の他に大きな階段が一つあったのだが、板が酷く損壊していて昇ること自体が不可能に見受けられたのだ。

 部屋に戻ったエルが、ベッドに身を委ねる。“寺院の中めぐり”は彼の少年心を掻き立てた。彼は非常に楽しめたのだ。久しぶりに心の中が晴天で晴れ渡っている。

「あー。良かった……」

 ゴロリと寝返りを打って仰向けになり、満面の笑顔で言う。

 薄明の中、ベッドの上で停止した彼は冷めるスープが如く心の熱が引けていった。少年心もどこへやら、いつしか彼は溜息をつく。

「次は、本か」

 机の上の分厚い本に目を向ける。彼の他の楽しみといえば、本しかないのだ。だが、この日は彼は探険で疲れている。いつしか瞼が重くなる。

 こうして、この一日は終わった。







 次のまた次の日。相変わらず調理室と部屋の往復を繰り返すエルには一つの気づきと一つの懸念がある。

 気づき、それは調理室の保管倉庫にある食料の数が全く減っていないように見えるのだ。恐らくもう一つの魔術がそうさせているんだろう。永遠に減らないとなれば、穏やかに衰え死ぬことができる。

 長らく掃除されていないであろう誰も見当たらない寺院は埃が溜まっている。その為、歩けば床に足跡がついてエルがどこを通ったのかが分かる。

 一つの懸念とは、埃に別の人の足跡がついていることだ。調理室に初めて来た日もそうだったが、確実に誰かがいる。足跡は、多くはエルの足跡に重なっている。つまり、もう一人の人間はエルの存在に気付いて、後をつけているということになる。

 エルは調理室に入り、包丁が仕舞われている台の前に座る。包丁の柄を、チョンチョンと指でつつく。

「さて、いるんだろ? 出てこい」

 調理室のドアに向かって言い放つ。ガタガタ、と回廊で音が鳴る。

「誰だか知らないが、流石にここまで姿を見せないのは異常だ。なに、話し合おうじゃないか」

 エルは、実際はこの寺院の中に一人で居たかったのだ。だが、誰かほかに人がいるのならそれも仕方ないという心づもりだ。

「なぁ、いい加減出て来いって。いるのは分かっているんだから」

 言い終わったとき、彼はうら寒いものを感じて身震いをした。まるで足の無い幽霊のように、ススー、と若い女性が姿を現したのだ。

「なるほど。俺はエルだ。エル・ハウェ。そっちは?」

 問いを投げかけてから、相手を観察する。両手は土と砂でぐっちゃぐっちゃの汚い黄土色で、服から覗く肌には所かしこにアザが見え、髪は金に埃を被せたよう。女性は口を開く素振りどころか表情一つ変えない。まるであえかなる彫刻の様に。エルの視線が頭から腕へと視線を滑らせていくうちに、彼女の手に握られている物を目撃した。

 おおきい、石。

 台から包丁を抜き、エルが立ち上がる。

「その石をまず置いておけ。話し合いはそれからだ」

 だが女性は身じろぎひとつしない。まるで、こちらとの間合いを図っているようだ。この時に至り、エルは話し合いを諦めた。

 どちらかが動けば崩れるように空気が張り詰める。静寂と孤独の空間だった寺院が、生殺と緊張の寺院に変わった。

 エルがもう一丁、包丁を持とうと左手を台に伸ばした時、女性が疾風の如く突進してきた。想定していたエルは左手を翻す。

「目をくらませろっ!」

 エルの手から大量の光が放たれ、女性が目を潰される。その隙にエルが調理台を一周して調理室を出、疾走する。



 防壁の上の方がいい……!



 寺院をぐるりと囲っている防壁は、見張りが上を歩けるように歩行通路が狭いながらも敷かれている。環状の通路は前から来たら後ろに逃げる、後ろから来たら前に逃げるという単純な選択肢のみを可能とする。しかも、地面との出入り口が三つあるからどれか一つだけを塞がれても問題ない。

 防壁にくっついている見張り塔の螺旋階段を疾走して昇り詰める。-そこで男は完全疲労し、膝を床につける。腕の力のみで、なんとか防壁の上に這い出る。柵になんとか顎を乗せて、寺院の様子を見る。

 よし、なんとかこっちの様子はバレていない……。

 居場所を見透かされないうちに柵の内側に身を潜め、体力の癒えるのを待つ。







 ダンダンダン、と階段を駆け上る音がする。エルが昇ってきた螺旋階段からだ。すっかり疲労が取れたエルはすかさず螺旋階段の上に移動して、近くに落ちていた石を手に構える。

「それ以上動くな」

 女性の姿が露わになったところで、警告をする。

「そこから一歩でも上がってみろ、この石を落とす」

 エルと女性の間の位置的距離は遠い。物を落とせば、大きな損傷は免れないだろう。

「一体何の目的で俺を殺そうとする?」

 女性はだんまり。エルの瞳を睨み返すだけだ。

「なんか言ったらどうだ。言わなければ、石を落とすぞ」

「汚らわしい。男は消えろ」

 短く、ピシャリと女性が言い放つ。その言葉にエルが頷き返す。

「そうか。じゃあ俺は邪魔なんだな、お前にとって。俺も確信した、お前が邪魔だ」

 エルが石を投げ、女性も上に向かって石を投げる。ぶつかり合った二つの石は勢いを失い、女性の上に落ちる。避けようとした女性は脚を滑らせ、階段を滑落する。

「あっけなかったか……?」

 念には念を入れ、エルは別の出入り口から地面に降りて女性が滑落したであろう所に急ぐ。

 運が良かったのか、女性の出血は少ない。だが、声を掛けても身じろぎ一つしない。

 チャンスだ、とエルは思った。身に忍ばせてある包丁を取り出して、女性の首元に向ける。

 一思いに刺せば終わりだ……。刺せば、終わり……。

 エルの手が震える。汗が止めどなく流れる。人の命を取る事への罪悪感と自分の生への執着心がせめぎ合う。ついに瞳をつぶって刃を突き出す。

 ずぶり、と突き出された刃は土の中に埋まった。女性のうなじは無事なままだ。エルは地面に腰を投げ出し、せわしなく呼吸する。

 そうだ、縛っておけばいいか。殺せぬなら、殺せるようになるまで待つしかない。

 塔の上に縄が置いてあったことを思い出したエルは駆け上って縄を取り、また下る。そうして、女性を身動きひとつとれないように縛る。塔の螺旋階段の直下に押しとどめてやる。

「これでいいか。もう、限界だ……」

 彼は、もう何も考えられなかった。自分の部屋に戻るのに気力を使い果たして、深い眠りの闇へと堕ちていく。







「生きてたか」

 目覚めたエルは、女性を捕らえた塔に赴いた。女性は捕らえられた場から少しは動いたようだが、依然として文字通り手も足も出ない状態だ。そうして、弱い立場であるにも関わらず果敢にも彼に対して睨み返している。

「殺せ」

「なぜだ?」

 首を傾げてみせる。エルは自分の命を女性から守る。片や女性は早く死にたい。利害は一致しているはずだが、依然としてエルの良心が殺害を堰き止めている。だから、理由を聞くことで殺害行為の先延ばしをしている。

「殺せ」

「こっちが理由を聞いている!」

 意図するより早く繰り出されたエルのつま先が女性の肩を蹴り飛ばす。地面にぶつかった女性の鼻から血が垂れる。

「どうして殺してもらいたいんだ? え?」

「その方が汚されなくて済む」

 昨日も女性は同じことを言っていた。エルは確信した。こいつは男が嫌いなのだ、と。男から離れられるなら自分の死も辞さないのだ。

「あーそう。生憎今の俺にしちゃあお前は魅力的じゃねーよ」

 実際にエルは今は性欲を忘れているのだ。吐き捨てて、呼び名に窮しているのに気付く。

「お前、名は?」

「……」

「言え。減るものではないだろうに」

「ラス・アルミア」

「そうか。ラスと言うのか」

 これ以上の対話を望めないと判断して、エルが身を翻す。殺す決心は、ついにつかなかった。

「エル、だったか?」

 彼の背後でラスが声を上げる。

「何故、ここに来た?」

 立ち止まって、少々言葉を思索する。

「落伍した、からだ」

「……死にたがりの類か?」

 やけにラスの舌が回る。彼女の不審な態度にエルは吐き気すら覚える。

「そうだな。楽に死ねる方法が無いもんで、ここに来た」

「なら、四階に行け」

 四階……。エルが寺院でまだ行ったことの無い階層だ。ラスが四階のことを話すのだ。そこに、命を終わらせる何かがあるだろうということは察しが付く。

「……。そこまでして俺を殺すか自分が死ぬかしたいのか」

「そうだ」

「分かった」

 エルが寺院を仰ぐ。四階。外見からしてそこが最高の階層。遺跡のようなミステリアスに包まれた雰囲気すら覚える其処に、エルの心臓が高鳴る。それ以上声を発さずに、エルがその場を離れていく。







「この階段、険しいんだよな」

 一人ごちたエルの眼前には、狭くて急な階段が天まで届くか位に伸びている。この傾斜のせいで前回は昇るのを断念したが、其処に特別なナニカがあると聞かれれば少年心が昇らないのを許すわけが無かった。

 這うように階段を昇る。身体がずり落ちて転落してしまわないように。やや気合と体力の要るそれは、充分にエルの疲労を溜めていく。時折クモが手の甲を這っては、埃が鼻についてくしゃみをする。まるで濡れたドブネズミのような姿になりながらも、昇る。

 階段を昇り詰めて、長い回廊を歩いた突き当りに大きな扉がある。扉の隙間から、まるで吐息のように高濃度のマナが漏れてくる。

 -神秘的な存在でもいるのか。

 マナに酔わぬように深呼吸してから、重い扉を身体全体で押してこじ開ける。

 やけに白く、明るい空間。陽の光が、灼かない温度で懸命に俺を灼こうとしている。天井は無く壁はところどころ崩落しており、石の地面が広がる。光さやけき空間の中、銀色に光る巨大なモノがある。

 龍、だ。伝説にしか聞かないファンタジーの存在。頭からは双つの角が生え、犬みたいな四肢だが身体全体は鱗で覆われている。尻からは鞭みたいな尾が伸びている。

 つい、エルが一歩分後ずさる。膝がひとりでに床につく。手が白い石の床に下ろされる。これ以上あの御姿を見てはいけないと、瞳がうつむく。

 今、俺は何をしている。これじゃまるで、神にひれ伏す神官じゃないか。

 エルが捧げているその恰好は、祈りそのものだ。理性よりも先に、本能が龍を敬い、畏れたのだ。

「頭を上げよ」

 ……?

 男は今一瞬、自分の耳を疑った。人の語が空気を流れたのだ。顔を上げ、せわしなく辺りを見回す。

「我と、お前しかいない」

 龍の喉が膨らむと共に声が届く。

 ああ、この龍が……。龍が、俺に語りかけている。

「名は何という?」

「エル・ハウェ。……と申します」

 恭しい態度にエルが自分で驚く。自分には似つかわしくないと思いながら、態度を変えようとはまったく思わない。

「そうか。我はグノーモン。寺院を守護する者。……此処が霧に包まれて久しい」

 龍の姿を凝視しているうちに、グノーモンの後ろに何かが光った。少し視線を逸らして、それを見る。

「外の世は果たして栄華を極めているであろうか。それともその逆、飢餓に餓える地獄であろうか。それともどっちでもない。煉獄の世であろうか……」

 間違いない。グノーモンの後ろには宝物が山に積まれている。

 ……途端、エルが白けていく。龍も、結局は欲望の生き物なんだと。自然と敬いのポーズが解かれていく。

「ん? ……どうした? 何か言うことあれば言え」

 姿勢を変えるエルを不審に思ったのか、グノーモンが言を促す。最後に念のために龍に説明してもらおうと、エルが口を開ける。

「後ろの財宝、何のためにあるんだ? 命を繋ぐのに必要なのか。……それとも、貴方が好きで集めたのか」

 グノーモンと向き合って、問いただす。---、龍の後ろで金色の炎が立ち上がる。

「良し、欲は無いようだな。お前が欲望深き者であれば、即座に食い殺していた……」

 すっかり宝物の山が消え、白い石の床しか見当たらなくなる。

「試されていたのか。はぁ……」

 安心したか、エルが再び跪いて頭を垂れる。その顔には微笑すら見える。

「エル・ハウェ。お前は何故ここに来た?」

「は。それが……、落伍してしまいまして」

「落伍とは?」

「自らの目指す前途が塞がれてしまいました」

 ——途端、グノーモンの眼差しにはエルの背に影が這ったように見えた。それは、エルの重き気が見せた幻覚だった。

「そうか。つまりは、ここで静かに暮らして死にたい、と」

「はい。……問題は今現在ありますが」

「問題とは、ラス・アルミアのことか」

「ええ。私は、寺院の中では必ず一人になる、という伝説を聞きつけてやって来ました。ですから他の人の存在は想定していませんでしたし、それに彼女の私自身に向ける殺意が強すぎます……」

「伝説のことだが、ここを支配する強大な魔法がそうさせている。だが、どんなことにも綻びがあるものだ。偶々、お前はラス・アルミアのいる寺院に入り込んだ」

 つまり、龍でさえ想定しない出会いということだ。

「ラス・アルミアのことは我の与ることではない。エル・ハウェが自らで解決するのだ」

「元からそのつもりです。龍の力を借りようなどとは思っていません」

 グノーモンはラスとも何か話したことがあるに違いない。エルは心算をつけて、ラスのことを聞き出そうとする。

「時に、ラスから貴方は何か聞きませんでしたか? ここにやって来た理由など……。今後の対処のヒントにしたいのですが」

 グノーモンが瞳を落として、首を鞭のように横に振る。

「我から言うことは無い。お前が自らで答を導かねばならない」

 瞼を閉じて、俯く。ラスのことが聞き出せないとあっては、これ以上話すことはない。……実を言えば、エルにはもうひとつ訊きたいことがあった。でも、”ただしいおしえ”がこの世界にあるかどうか訊こうとする思いが喉元まで出かかって、しかしこの龍に変に思われたくないとためらって何も言わずに俯いたのだ。

「では、何もござらないようでしたら私は下に戻ろうと思いますが」

 グノーモンが思案するように瞼を閉じる。少しの静寂の後、息をついたグノーモンが瞳でエルを捉える。

「お前は霧の中に走っても、出れることは無い。ここにまた戻ってくる。もし人生に再び希望を見ることがあったなら寺院の地下に赴け。そこに試練がある。もし希望を見出せないなら、命果てる時は霧に切り取られた円の空を仰ぐことになる」

 地下? 彼が首を傾げる。エルは地下への入り口を見つけていない。

「希望宿る時に心の中で念ずれば道は開かれる。案ずることは無い」

「ありがとうございます。では、失礼します」

 龍の威厳に圧されて少々浮きついたコントロールの効かない足をなんとか操りながら、後退してその空間をエルが立ち去る。







 グノーモンと会った次の日。エルが井戸から水を汲み上げて顔を洗う。目下の頭痛の種は、ラスの存在だ。何故か、エルの心が殺すことを躊躇ってしまう。ならどうすればいいか。エルは、彼女を永遠に閉じ込めておくべきと考えている。何のため? ここには法秩序なんてないし社会もない。他に尊重するべき他者が存在しない寺院で、ラスの命を留めておく理由は皆無だ。だが、エルにはもうラスを閉じ込めるしか考えが思いつかなかった。

 エルのこの気持ちは憐れみであろうか。彼女にかける情けであろうか。彼女の歩いてきた人生は最早容易に想像できたし、だからといってラスには何の思い入れも無いはずである。自分の気持ちに解をつけられないまま、エルは調理室から食物を塔に運ぶ。

「ほら」

 無造作に、果物と野菜を地面に放る。ラスはそれらを見るなり、犬が地面に這いつくのと同じような様で食物にがっつく。果物の汁が地面に染み、彼女の口は土の茶色と果物の黄で汚れた。

「へえ、餓死するより生きてた方がいいのか」

 エルの一言で自分の言動の矛盾にラスが気づく。縛られて何も口にしていない苦しみからの行動とはいえ、自らの死かエルの死を優先していたはずの彼女にとって彼の施しによる延命は目的とは真逆の行為だ。

 当然、屈辱感を募らせてラスが顔を下に下げる。醜い生物だな、というのがエルの第一感だ。

 例外を除いて人間とは概して醜い生物であるというのがエルの信じていることである。大抵の人物は自らの欲を原始的で手っ取り早い方法で満たすことしか考えない。畜生の生物とは何の変りもない、汚らわしい生物なのだ。彼は自身を、畜生とは違う例外だと信じ込んでいる。

 ふと、エルはこうも思った。ラスがこの拘束を逃れてしまった時、自分はどうなるんだろうか。エルは頷きながら苦笑して、まあ殺されてもいいかなと思った。だって、死ぬのが元々の目的なんだから。







       ◇◇◇







「なぜ生きようとする」

 エルがラスを飼い殺しにしてから五日目。

 ラスは相変わらずエルが定期的に地面にぶちまける食物を貪欲に貪っている。そうして、土で汚れ切った姿でエルを睨み返す。

「……お前に縛られたまま死ぬのは違う。やっぱりお前は殺す」

 犬のような唸り声を混ぜてラスが答える。

「そっか」

 つまらなさそうな顔で、男は自分の衣服に付着した埃を払い落とす。

「まあいいけどよ、まずはその醜い状態を何とかしなきゃな」

 笑って蔑む。

「精々頑張れよ」

 背を見せながら、エルが去る。見てろよ、とラスが心の中で呟く。





       ◇◇◇





 霧の円に切り取られた暗黒の空に星が瞬く。ラスは身体をもぞもぞと動かして懸命に縄をほどこうとする。刹那できたほんの僅かな緩みを逃さずに手首の縄を一気に解く。自由になった両手で他に巻き付けられた縄を解き、自由を手に入れる。

「よし……」

 自分の身体をそこかしこ動かして自由を確かめる。縄をきつく縛られた跡を手で擦って、少しでもと苦痛を紛らわす。不意に喉の渇きを覚えた彼女は井戸に疾走して水で喉を潤わせる。

「……たしか、あの男はあそこで寝ているはず」

 エルに気づかれる前のストーキングで、彼のいつもの行動パターンは割れている。それにエルが来る前にラスは霧の中を徹底的に調べ尽くしたから灯りを点さなくても充分行動ができる。

 調理室で包丁を手に入れ、静かにエルの寝床に立つ。

 彼の顔は酷いものだ。髭がぼうぼうに生えて、フケが大量に下りている。隈は大きく、歳不相応に皺が多い。

 この男を殺せば、襲われる恐れは無くなる。やっと、私だけの安寧を手に入れられる。

 包丁を構えて、手を高く振りかぶる。刹那、包丁を握る右腕に電流が走ったような感覚に襲われる。

 動かない。

 いつまで経っても、右腕が振り下ろされない。それどころか、ラスは右腕が石になったかと疑うほどに動かない。かと思えば、右手首から先が震え始める。左手を添えようとするが、その左手すらも小刻みの震えが激しい。

「なんで、こんなにも動けないの……」

 もし失敗したらどうしよう……。刃が逸れてしまったら殴られて、押し倒される。やだやだやだ、殺すしかない。のにどうして失敗したことを思い出すの……!

 彼女の過去からやってきた声が、呪縛のように彼女の身と心を縛る。右手から筋力が失われていって、手からずり落ちた包丁の刃が床に埋まる。

「はっ、はっ、はっ」

 不意に自由になった右手でなんとなく首を拭う。汗が、水をすくったように手の平の中に溜まる。

 つい、足を滑らせて尻餅をつく。ドズン、と大きな音がして部屋全体が揺れる。

「-お前っ!」

 エルががばっと起き上がって、ラスを怒鳴りつける。彼の姿に、過去にラスを殴りつけた男の影が被る。

「うわっ、あああああああ」

 精神が弱弱しくなったラスに抵抗を取る択は無く、エルに背を向けて一心不乱に逃走するのみだった。

 寺院の扉つき部屋に駆け込んで、内部から閂をかける。そこで、ラスがへたれこむ。

「うっ、うううぅぅぅ……」

 ラスが自分の身に爪を立てて抱きしめる。そのラスを、光の無い空間が囲い込む。

 -どうして。どうして憎き男性であるエルを刺し殺せなかったの。嫌だ、嫌だ。まだ過去に囚われてる。もう嫌、嫌、嫌……!

 闇の中から、過去の陰影が飛び出てくる。男たちに拘束されて地下に連れてかれて、醜く肥え太った男の硬い拳に殴られた血の味。木の床を背にしてただただ無力に馬乗りされるあの屈辱。もう嫌、嫌。

「いやあああああああぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーっ!」

 過去と今の入り混じった慟哭が放たれる。







       ◇◇◇







「はぁ、なんだよ。結局まだ死ねねえのかよ」

 床に刺さっている包丁が、月に照らされている。自身の首に手を当てながら、エルが舌打ちする。

「傷ひとつ無え。あいつ、俺を殺せないのか? だとしたら支離滅裂だな……」

 快眠を妨げられたエルは、胸内に暴れまわる鬱憤を懸命に押さえつけている。ともすれば、辺りの物に当たり散らかして部屋を破壊してしまいかねない。

「部屋の鍵、つけとくか……」

 そういえば、と彼が本に目を向ける。いままではなんやかんやで結局今日にいたるこの日まで本の存在を忘れていた。

 ついでに本を取り、心を鎮めるために月の光で読書を始める。

(ああ、やっぱり本を読むのは良いな。知らなかったことが知れる。本を読むごとに一つの真理が解明されるか、一つの虚構が崩れ落ちるか、それとも真理に挑む鍵を知るか、そのどれかが達成される。そうして次の未知に繋がる扉を開けていく感覚が気持ちいい。……気持ちいい?)

「まて。……今、俺は何を思った?」

 胸の中で、心から漏れ出た声を反芻する。……気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。

 自分の感情に当初、エルは信じられなかった。今まで感じたことの無い感情……のように感じて彼はすぐ撤回した。記憶の奥底に眠っていた原初の体験を今、彼は掘り起こしたのだ。

「そうか。あの頃はふたつ……。知らないことを知るという気持ちよさと世の中の不条理に対抗する気持ちのふたつがあったな」

 片や学者になろうか、片や官吏になろうか。小さいころはその二つに心が揺らめいていた。だが貧民の身にあっては学者になれない。なら官吏を目指すしかない、そう誓った日を思い出す。

 彼が頬に手をつける。指の潤いで、自分が知れず涙を流したことを知る。

(確かあの図書室に沢山の本があったな。……あの図書室で本を読みふけりながら死のう)

 月に向かって誓うように、男が微笑む。







       ◇◇◇







 引きずるような重い足取りで、ラスが回廊を進む。食料が減らない、あの調理室へ。空腹には逆らえず、自分の生への欲求には逆らえず。それでも、男への恐怖からか鼓動の音が孤独な回廊の空間に響く。昨晩とは打って変って一気に歳を取ったような顔つきになっている。



 ガタ……



「!」

 はっ、としたようにラスが顔を上げる。調理室のドアに、エルが手をかけている。向こうは目を大きくしてラスの方を向いている。

「ひ……」

 身に刻まれた男性への恐怖の記憶が鎖となってラスの身体を雁字搦めに拘束する。床にくっついてしまったかのように足が動かない。汗が腕から指へと伝い、埃だらけの床に点を作る。

 汗の行方を見届けたエルは、足を後ろに引いて、ラスとは反対側へ向く。

「あ……?」

 エルは顎をしゃくって調理室を示すと、そのまま足を進める。男とは暴虐と性欲の象徴。絶対に信用信頼できないはずの存在が、今こうしてラスに食料を譲っている。

「あ、えあ……」

 エルが食料をラスに譲った理由を知りたいと、彼女は思った。だが、身体のこわばりが声をまともに出すことを許さない。

「ど、どうして……?」

 それでも、懸命に喉と口を意識して声を絞りだす。

「……。俺は苦しんで死にたくない。だからお前との諍いは最小限にしたい。まったく、なんで昨晩は俺を楽に死なせられなんだか……」

 最後に悪態をついて、彼は足を速くする。終ぞ、環状の回廊のカーブの向こうに姿を消した。彼の発言から察するに、エルはラスとまた争うのを避けたいから自らラスの益を優先したのだろう。それでも、ラスにとっては今回の彼の態度は新鮮だった。……いや、今回だけではない。エルの命が危ないというのに、彼は自身の命を脅かすラスを殺そうとしたことさえあったのに。

「なん、で。エルは……」

 幾多ものの仮説がラスの頭を巡る。一つ。ラスを生かして慰み者にすること。一つ。下僕として働かせること。他の仮説も全て、最悪な想定だった。

 だが、それにしては立ち振る舞いが潔すぎる。まるで、彼女をどうこうしようなどと考えていないかのようだ。

(なんで、そういう態度を取れるの? なんで私の利になるような行動が取れるの? 男なのに、男なのに……)

 そこまで考えて、ラスはエルに心の主導権を握られてしまっていると感じた。勿論エルにそのような意図はないが、だからこそラスは自分自身の心をより一層恨んで、でも腹の虫に抗いきれずに調理室に入っていく。





       ◇◇◇







「む。……ラス・アルミアか」

 竜が鞭のような首をよじらせて入り口の戸を向く。黄金に埃が被って輝きを失ったかのような髪をなびかせながらラスが入ってくる。その足取りはか弱く、産まれたばかりのアヒルが母親を見失って彷徨うようだ。

「……あいつは、ここに来てないのよね?」

 異界を彷徨うような瞳がグノーモンに返される。少しばかり瞼を閉じた後、否定するように首を振る。

「来た」

 その竜の反応が、ラスをたじろかせる。

「まさか……ねぇ、私にやったのと同じ試練はやったの?」

「うむ」

 そんな、と短い悲鳴が漏れ出る。髑髏ばった醜悪な見た目、地獄から這い出てきたような目つきの男が、まさか無欲の人間だなんて、とも彼女は思った。

 思い込みすぎる節があるな、とグノーモンは心の中で印づける。彼女の過去が螺旋の鎖となって彼女の根源まで縛ってしまっている。鎖が解かれぬ限り、彼女は死ぬまで、いや死んでも永遠に地獄の針のむしろに座し続けるように苦しむだろう。上にあげた瞳を下に下ろせばそこに針の無い空いた地面があるというのに、首に巻き付いた鎖がそれを許さない。

(せめて自分で解ける時が来れば彼女は楽になるのにな)

 今にも涙の滴が出てきそうな哀しい眼差しがラスに向けられる。それを知ってか知らずか、ラスは地面に頭をくっつけて抱える。

「いやだ……胸がムカムカする。吐き出してしまいたい。胸をこじ開けて中の物を取り出してしまいたい」

 竜は何も応えない。安易な救済は却って破滅をもたらす。愚者は拙速にそれを求めるが、賢者は導きの標だけを道の上に置いて去る。竜も、彼女が初めて此処に来た時にこう言っていた。

「まずは自分自身を顧みてみるがいい」

 だが、彼女にはその意味を未だ理解できていないようだ。

(このままでは今まで寺院に入ってきた数多の骸の数にまた一つ足されるだろうな)

「お願い……ねぇ、常人には扱えない力が使えるんでしょ? あの男に会ってから私またおかしくなっちゃった。どうにかして……」

 目を見開きながら涙を流すその様はまるで破滅の間際にいるような感じを連想させる。嗚咽が混ざった声は心優しき者に涙を流させるには容易く、そうでない者の心にも充分悲しくさせることができるのであった。竜は首を横に振る。代わりに、口を開いて標を指し示す。

「男との関係において自分自身を顧みよ」

「……」

 全てを解決する力か答を期待していたラスは、がっくりと肩を落としてうなだれる。自分の力ではもう限界だ、と自分で感じているからである。丁度霧の真上を入道雲が通りかかり、其処の地面に雨の滴がポツリポツリと降り始めた頃だった。

「もう無理だよ」

 体育座りになって、頭を抱え込んだラスが弱弱しく呟く。

「無理。もう死にたい」

「では、死ぬか」

 雨の降りる音が徐々に激しさを増す。陽の光が失われて行き、湿気が場を占め始める。

 竜は動かない。女も、動かない。

「結局、神が全てを救う存在なんてのは嘘だ。でなきゃ、とっくに地上は楽園のはずだよね……」

 最早、彼女に何の決心をつける勇気も無い。そうして、神や竜のことを愚痴りながらも、心のどこかで超常の存在らに自身の代わりに何かを決めてくれないかなという、僅かで淡く縋るような気持ちを持っている。

 龍は口を開こうとしたが、しばらく瞳を宙に漂わせた後に唾を飲み込んで口を閉じる。やがて、再び開いて心配するように言った。

「風邪を引く。戻ったらどうだ」

 その言葉にも応えず、ラスは雨の滴を全身いっぱいに受けて石のように動かない。







       ◇◇◇





「知らない言語の本を読んでみたが、分からんな……。グノーモンに訊いてみるか」

 言うや否やエルは本を抱えて図書室を出る。グノーモンの居る所に通じる階段に近づいた時、エルは自分の眼を疑った。

 名彫刻家の作った像のように美しく、そして幽々しいオーラを纏う中性の見た目の人が立っていた。

 かの人に気圧されたか、エルは一瞬呼吸を忘れ、慌てて我を取り戻す。そうして、かの人がラスを抱えているのに気付いた。それに、かの人から放たれる膨大なマナが場を支配している。

「まさか、あなたは……」

 エルは、一人くらいしか心当たりが無かった。いや、一頭と言うべきだろうか。

「ご明察だな。私はグノーモン。寺院は私には狭いからね、中に入る時はヒトの形をとっている」

 グノーモンの銀の髪の先端から光が落ちて、エルは二人がずぶ濡れになっているのに気付いた。しかもラスは気を失っているようだ。

「その人をどうするつもりなのか?」

 エルやラスに関わろうとしないはずの竜が彼女をこうして抱えていることに、エルは一種の不安を心に抱いた。だが、まもなく不安は打ち破られることになる。

「目の前で死なれるのでは私の気が済まない。……この者は、気を失うまでずっと私の前に座していた」

「確かに、具合が悪そうだな。……手は出していないんだな?」

「安心してくれ。命を奪うようなことは、もう私は君たちにはしないと決めてある」

「そうか……」

「この者はここに置いておく。この者は結局、自分の心の弱きに向き合うことができなかった。……それまでだ」

 彼女の頭を手で支えて、グノーモンがラスをゆっくりと石の冷たい床に下ろす。下ろされたラスの服から雨の水が流れ出て、彼女の身体を中心に水溜まりができる。

「それで、エルよ。何用かな?」

「あ……。その、雨だったんだな」

 実は、図書室で本の世界に入っていたエルの耳には大雨の音すら届いていなかったのだ。

「グノーモン様は、その、風邪引かないか?」

「竜は雨程度で風邪を引かぬ」

「……でも、やっぱり用はまた晴れた時にするよ」

 結局、エルは人間の物差しでグノーモンの身を心配する。エルは優しいのだな、と感じてグノーモンは微笑する。

(根は善人だ。今までの尖った性格は、彼の環境や思い込みによって作られたものだ。この男は、もしかしたらあの者のようにここを出れるかもしれん。……だが)

「私はあそこに戻るよ。エルも、具合に気をつけよ」

「あ、ありがとうございます」

(今までも、エルのような者は数人かいた。だがその中で自分の心に向き合えたのは唯一人だけか。……期待はし過ぎない、ようにせんとな)

 振り返って戻っていくグノーモンの顔を影が差したようにエルは見えた。

(グノーモン……?)

 彼の視線はすぐに足元に向けられた。ラスだ。彼女が目を覚ます気配はない。

(だが、呼吸はある)

 エルが屈んで、彼女の息や脈を確かめる。その後に、ある考えが浮かぶ。

(グノーモンはここに置いておくって言ってたが、俺がまたここに来るときに死体があったら嫌だな)

 せめてどこかに運べれば良い、と思い、エルはとにかくラスを抱えようとする。だが、鍛えていない貧弱な筋肉は彼女を支えきれない。

「くそ、鍛えておけば……いや、そんな時間は無かったな」

 ロイスの体躯を思い出し、同時に妬む。……エルはその後に、あれは奴隷の身体だ、と付け足すのを忘れなかった。

 丁度、階段の横に部屋がある。仕方なく、エルはラスをそこへ引きずって運んだ。

「こいつには似つかわしくない部屋だが……まあいいか」

 この部屋は高位の者の為の部屋らしく、気が落ち着けるような広がりを持っている。部屋の窓の下には中庭があるため、もしラスがこのまま死んだら死体を突き落として下で土葬なり火葬なり出来るな、とエルは踏んだのであった。







       ◇◇◇







 寒い。寒い……。冷たい。冷たい。

 それが、気が付いたラスの第一感だ。未だ雨の降りしきる夜の中、纏まりのない頭をなんとか働かせて、身を起こす。妙に身体が重いと思い、身に纏わりつく邪魔な濡れた服を全部脱ぎ捨てる。身を震わせながら、部屋を出る。はっきりしない頭で寺院の中を、まるで幽鬼のように彷徨う。冷たい闇の中に、光が現れた。輪郭がぼんやりと見えているが、火のようだ。餓えた動物が獲物を見つけたような目をして、火に近づく。

(火、火。火火火……)

 火がラスの視界いっぱいになったところで、突如肩が何かに捕まれる。続いて、耳元に轟音が入ってくる。ラスは驚いて、思わず耳を塞ぐ。そうして、足をばたつかせて何かに抵抗しようとする。-が、力が入らず、膝から崩れ落ちる。

「……ろ! あ……! ひが……く、おま…は……」

 轟音が徐々に人の声色に変わる。ラスの瞳も、まだはっきりと物を見ることは出来ないが、其処に人がいるのだと捉えることができるようになった。

(……人……?)

 そこで初めて、其処にエルが居るのだと気付く。しかし、その驚きは脳を覚醒させるには足りなかった。元より、完全に風邪を引いてしまっているのだ。力を振り絞って逃げようと考えても身体に力が入らず、思考も逃げてしまう。纏まらない頭で、なんとか火の近くに座る。

「……こえていないのか? ったく、まあいい。くれぐれも、……でくれよ」

 その声と共に、暖かい、毛布のような感触のものが身体を包んだとラスは感じる。彼女の視界がその形を徐々に鮮明にしてくる。エルが、暖炉の火をくべて手元の本に読みふけっている。時々、火が揺らめいて彼の懸命な眼差しを輝かせる。

「お腹すいた……」

「後にしろ。どっちみち今は暗くて料理しづらい」

 そう言う彼も眠いのか、徐々に瞼が下りてくる。時折、本に顔を埋めては気が付いて上半身を跳ねさせる。

「……限界か。寝る……」

 エルは、椅子を引いて毛布を何重にも重ねてその中に包まり、地面に横たえる。温かい光を受けて、優しい寝顔が浮かび上がる。

 ラスは、自分の瞼が重くなっているのに気付かないまま眠りについた。
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