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落伍者、孤独に身を翳る

深い霧に囲まれた円の中、銀色の龍が瞑目する。———龍の前には、死体が横たわっている。

 龍より死せし者に捧げられしは静寂の鎮魂歌。この者は、世に憂いを抱いて寺院に籠り、孤独の内に死んだ。

 人の世は明けぬ鈍色の天に似る。世界のシステムの不条理が人々に押し付けられ、人の心に昏きが生まれる。人類はみな、胸の内に憂いを抱いて自らの物語を生きる。人は自らの昏きから逃げることは許されず、歴史は哀しき連理を紡いできた。



(この者も……)



 憂いは人の内に蓄積し社会に蓄積して、骸の山を積み重ねていく。弱者の嘆きは弱きが故に人世に響かず、上に至れし者の苦悩はその栄華故に声に発されず。人類に圧し掛かる、憂いと苦しみという死の呪いを止めるべくは、今は無い。



(せめて)



 龍は思う。



(生きることの真の意味を見出せし者が増えれば)



 何万年後になるだろうか、人が哀しい音を発さずに済むようになるのは。死体に誓うように龍は頭を垂れる。



(人が迷惑しなくなる日が来るまで、私はここで迷える者の道標になろう)



 開かれた龍の瞳は、新たなる来訪者の姿を見据える。











 王都外れに木造の無計画な建物が雑多に建ち並ぶ道の中、擦りきれた木のプレートを握りしめながら黒髪の男が歩く。衣服は傷だらけ、顔には無精ひげがいっぱいで髪はボサボサ、正に不衛生な身なりだ。そうして、瞳には最後の輝きと言うべき光が煌々としていた。

 この男は、名をエル・ハウェと言う。この男が向かうのは、この辺りで一番豪華な外見の建物、役所だ。役所の前に人だかりができている。人だかりのほとんどは、一応の身なりは整えているが行動が荒々しく気品があまり感じられない。

 黒髪の男と、人だかりの人たちは王国の官僚試験の合否発表を見に来たのだ。

 といっても、人だかりの人たちと男では事情が違う。官僚試験は奴隷などの被支配身分でない限り、貴族でも平民でも受けられる。が、実際に受けるのは貴族がほとんどだ。さしずめ貴族に命じられて代理として結果を見に来た人が大半のところであろう。農奴の出である黒髪の男は自分で受け、自分の足で結果を確認しに来た。

 官僚試験。この試験は、この国では指折りで数えるほどしかない、平民が貴族になれる手段の一つ。首席合格や成績優秀であれば王国の大臣の座を狙えるかもしれない、正に平民の希望の道である。———最も合格者の殆どが貴族で、不合格者の殆どは平民の、不平等生産試験にもなっているのだが。

 エル・ハウェは農奴の出にして、農奴らしかぬ頭脳を以て官僚試験を受けたのだった。周りの人達からの反対を聞き捨て、停滞しているように見えた家族さえも縁を切って捨ててここにやって来たのだ。彼自身の頭脳のいと気高さを誇示する為に。

 人が多すぎて、結果を公表する立て板が見えない。木のプレートを眼前に挙げ、刻まれた数字を確認する。同じ数字が板にも刻まれていれば、男は合格だ。

 暴力的な文句を無視しながら人混みをかき分け、男が板を見る。

 ……男の数字は無かった。

「……え? そんな」

 瞬間、瞳の輝きが揺らめいて消えた。木のプレートを手からこぼし、あえかなる足取りで振り返って人混みを出る。どこか建物と建物の間の小路の中に入っていく。ぐるぐると小路を回り、袋小路に突き当たる。男が手を挙げて目前の壁に拳を叩きつける。壁に血が張り付き、手の甲からは赤い滝が流れる。

「クソがっ!」

 続けて蹴りを壁に入れ、ヒビが入ったところで男の身体から力が抜けて壁に前のめりに倒れる。

「あっあ……ううぅ……」

 手のひらに爪を立てすぎて血が出るくらいに拳を強く握る。壁に縋るような姿勢で、男は慟哭する。涙が溢れ、男の膝元には大きな染みができている。

「なぜなぜ、なんで俺が落ちる……」

 ひどく狼狽した様子で天を仰ぎ見る。そして、何かを悟ったように瞳を下ろす。

「そうか。そうだったのか。……結局、どこにも神は在りやしないんだ」

 どれくらい、そうしていただろうか。涙が枯れて、空を仰いだ時には雲が夕焼け色に染まっていた。ポン、と男の肩に手が置かれる。手の主、帯剣した男が今まで泣いていたエル・ハウェと瞳を合わせる。

「飲み、行こうか」







      ◇◇◇







「そうか、落ちたのか」

 騒々しい酒場の中で、木のビールジョッキを片手に帯剣した金髪の男が黒髪の男に話す。

「で、これからどうするよ? 生憎だが、俺にはお前をこれ以上住まわせる余裕はない。なぁ、エル」

 エル・ハウェが顔を上げる。金髪の男、ロイスが続ける。

「警備の仕事くらいなら俺が紹介できる。下町でだって、お前魔法使えるから魔法を使うところの下働きとかできるだろ?」

 エルは顔を上げ、天井の一点を見つめる。その眼差しは虚空の色を示して、世の全てを見得ていないようである。

「なんか言ったらどうなんだ?」

 ロイスがビールジョッキでエルの額をどつく。虚空から現実に戻された瞳がロイスの顔を捉える。アルコールによってもたらされた熱が、掃き溜めのような生臭い息となってエルの口より漏れ出る。

「はぁ……。俺には、もう生きる理由がない」

「あれか? 人の上に立たなきゃならないってあれか?」

「ああ。俺は、気づいてるんだよ。この世は不条理だ。それを突破するための官僚だったんだが……。唯一の道が不合格じゃな」

「だとしても、生きてるだけでもうけ」

 ダン! と、エルがビールジョッキの底を卓に叩きつけて割る。ビールが卓にぶちまけられ、その中のいくつかは小さな滝となって床に零れ落ちる。零れた液体はもう還らない。自分と同じだな、と嘲笑してから顔をロイスにぶつける。

「それは、生きていることにならない。不正義を見て見ぬふりする奴隷と同じだ。奴隷になるなら死んだ方がましだ……」

 眉間に皺を寄せて、まるで鬼のように言う。尚もビールジョッキを卓に押し付ける手は震えている。

「じゃあ、お前は死ぬつもりなのか?」

 ロイスも負けじと身を起こしてエルに睨み返す。

「ああ。というより、死ぬしかない。結果を得られなきゃ、なるべき存在になれないなら無意味だ」

 予想できた返答に、しかしロイスは視線を泳がせつつ呼吸を整える。ロイスにとっては、彼に言ってほしくない言葉だった。束の間に自分の望んだ未来が陽炎となって立ち消えるような幻想を感じたのち、現実に戻ってエルを睨み返す。

「エル……。本当にそう思ってるのか」

「そうだ」

「お前、それは」

 エルがその先の言葉を紡がせまいとロイスを制した。否。彼の瞳の奥に広がる虚無の世界が、気だるげに構えられた黒の衣の全身が、中途半端に強張った筋肉が、ロイスに言葉を紡がせまいとした。ロイスの口が泳ぐ。エルは、ただそこに身を中途半端に投げ出し構えているだけで彼の言葉をロイスに悟らせようとしていた。

 言える言葉はいくらでもあった。彼をなだめる言葉は幾らも浮かんだ。それでも、ロイスは遂に彼を救う言葉を見つけられなかった。ロイスは彼に時間が必要だと思った。否、自分に彼から少しだけ逃げる時間を欲した。

「金は置いておく。寝床はやるから、後で俺んち来いよ」

 そう言ってロイスは席を立ち、酒場を後にした。後には、椅子に中途半端に身を投げ出した黒衣の男一人。

「答に……。すべて正しき答よ、いずこ……」

 ぼそぼそと呟きながら、エルは、ぼんやりと酒場の空間のどこでもないようなところを眺めつつ彼自身の人生を追憶する。



 はじまりは義務感だった。母親に連れられて教会に行ったはじめてのとき、”神の教え”を教わった。あのとき、身が震えた。”神の教え”は全能感にあふれていて、この世界の理を規定する唯一無二の答えであるように思えた。あのときから俺は聖典を読み漁るようになった。聖典の解釈を学ぶために教会に通った。でも幼いころに王都に赴くことになって俺は失望した。異教徒が普通に存在していて、当の教団は腐敗していた。俺の中で、”神の教え”が”ただしいおしえ”じゃなくなって、まるで今いる世界が根本から崩れ去るような感覚を味わった。その時から俺は様々な宗教の本を読み漁り、”ただしいおしえ”が何処にあるのか血眼になって探した。だけども、何もわからないままここまで来てしまった。世界の不条理を無くしたいという思いと”ただしいおしえ”がどこにあるか知りたいという思いの二つだけで、ここまで来てしまった。官僚になれば、高い位の者たちと触れ合って”ただしいおしえ”を知る者と出会えるかもしれないと思っていたけども、それも潰えた。もう気力は無い。



 少しの間ぼんやりしていたら、テーブルに人の影が忍びた。辺りを見回すと、帯剣している二人組が立ってこちらを睨みつけている。大方、傭兵といったところだろうか。

「席、よこせよ」

 その言葉に応える気力もなく、椅子に座ったままでいようとした。立とうとしないエルに二人は苛つき、罵声をかけた。それでもエルは動かない。大きい方がエルの胸倉を掴んで、引きずる。エルは死体の様になって、抵抗しない。酒場の裏口から裏小路に引きずり出されると、エルの身体が生ごみの掃き溜めに投げられる。肉の腐った匂い、ハエのたかる音、誰かの吐瀉物の感触。

「俺らを舐めてんだろ、お前。痛い目に合いたかったか?今ならカネで許すが」

 二人組がエルの膝を踏みつけながら、掌を彼の前に開く。催促だ。

「ない」

 無機質に首を横に振る。もう終わった身。抵抗することに何の意味があろう。

「あ? ケッ!」

 エルの腹に重い衝撃が響く。二人組の蹴りが四、五発と入れられ、エルが吐く。掃き溜めに吐瀉物を追加し、エルは自分の身もついに汚物の仲間入りしたかと嘲り笑う。

「気持ち悪いな。これ以上やっても俺らが汚れちゃかなわねぇ、切りあげるか」

 二人組が去り、まるで死体のようにエルが生ごみの上に横たわる。横たわりながら、エルは呟く。

「ただ見下ろすだけの星の海め……」

 それからしばらくして、寝息をかくようになった。数時間ほどだろうか、エルがゴミの上に横たわったままでいるとロイスがやってきて、目を閉じたままのエルを担いでロイスの家へと帰る。





 瞼を撫でる陽光に、エルが目覚める。開目一番、目に入ったのがロイスだった。

「ロイス……」

「よう、エル。随分やられたようだな」

「ゲホッ。はぁ、運んだのか、俺を」

 はぁ、とロイスがため息をつく。

「どうも、お前の態度を思い出してるとずっとあそこから動かないんじゃないかと思ってな」

 ロイスの手をエルが掴み、立ち上がる。ロイスがある程度洗ったとはいえ、生ごみの酷臭にはさすがのロイスにも応えたようですかさず鼻をつまむ。

「くせぇな。外れの川でもっと洗えよ。代わりの服はやるからさ」

「ああ。そうだな」

「ところで昨日の続きなんだが、」

 ロイスが一息置いてから、強い声調で言う。———先ほどとは打って変って、身に軸を据えたように態度が定まっている。

「お前はどうも、人生を簡単に諦めているように見える」

「……は?」

 ギロリ、とエルの鋭い眼光が彼を睨みつける。熱い風が二人の間を横切り、静寂たる緊張が生まれる。言葉の間合いを見つけてか、ロイスが言葉を繋げる。

「他人の人生だし、俺がどうこう言うことではないだろうが……。もっと、こう、他に頑張る道くらい見つけられるはずだろうと思ってな。ほら、村に帰って畑耕すとかさ」

「他? 他の道? 俺には見当たらないな。大体、村に帰れと言われても過去は棄てちまってるんだ。さぞやお前は俺よりも聡明なんだろう。貴殿の言う道を私にご教示くださいな!」

 荒々しい声でエルがまくし立てる。

「……。お前の道は俺が決めることじゃないからご教示することはできない。ただ、世の中を見回せば思いつくだろう?」

「無責任だな」

 冷たい一言が空間を引き裂く。

「道を見つけろと言いながら、お前は道を示さない。俺にはもう道がないって分からないのか! 俺が今の今まで悩んで悩んで悩み抜いてこれしかないと悟ったたった一つの道を閉ざされたって分からないのか!」

 自分の固まりに固まった思考を声に上げるその様子は、ロイスには気が狂っているとしか思えなかった。

 ロイスが何か言おうとしてとして、自分の声を押しつぶした。エルの視ている世界とロイスの視ている世界は違う。エルにとって大事なのは自身が世界の上に立つこと。ロイスにとって大事なのはその日暮らしの命を繋ぎながらたまの日に楽しむこと。エルに生きてもらいたいならばエルがエル自身を変えるしかなく、その術はロイス、いや、エル以外の全ての者には無いかと思われる。

 結局、ロイスは説得を諦めた。肩を落として臭いため息をつく。

「分かった……。とりあえず、川に行って残りの匂い落としてこい」

「ああ、そうだな……」

 二人の会話に一応の決着はついた。ロイスは苦虫を噛みしめるような顔でエルの背姿を見つめる。そうして、酒場から漏れる喧騒を人生の一度たりともエルに分けてやれなかったことを悔やむ。









 身を川の水で清めたエルは、数少ない自分の所有物を整理する。

「この家にずっと居てもいいんだぜ、死ぬか、他の道を見つけるまで」

 ギロリ、とエルの黒い瞳がロイスを刺す。

「言っただろう。他の道は無いと」

「やはり、無理か」

「絶対にな」

「じゃあ……。何かやり残したことがあるなら言ってくれ」

 これから、の言葉にエルが動きを止める。すっかり落伍した人生に、なんの未練があろうか。記憶の糸を手繰り寄せて、何もないことに気づく。

「いや、死ぬことしかない」

 ロイスにとっては、やはり、という感じだ。そうしてロイスは今、じわじわと親愛なる友人を失う実感にを現実に持ち始めている。背に氷柱が走り、心臓の鼓動が早まる。冷や汗を頬で感じながらも、手が冷たくなって動かなくなるのを懸命に耐える。

「そうか。まあ、止めることはない。お前の人生だもんな、好きにしろよ。あ、ここで死ぬのは勘弁だかんな」

「分かってるよ」

 親友の懇願とも取れるささやかなジョークにエルが頬を綻ばせる。それから、エルは宙に目を漂わせて自分の死を思う。

 どう死のうか。できれば苦しくない、楽な死に方がいい。飛び降りるのはむしろ延々と苦しむことになる。毒も、すぐに死ぬことはできない。刃物と人体に知識のないエルでは、自分の身に刃を突き立てることも苦しみの死につながる。

 エルが部屋の中に羊皮紙の本を見つける。伝説が記された本だ。そういえば、とエルが頷く。

「グノーモンの寺院に行ってみるか」

 グノーモンの寺院。それは、伝説に記された寺院。おおきな霧の柱、ファルネスの大霧の中に在りて、今までに目撃したとされる人物は唯一人だけ。今まで寺院を目指した者は数多く、しかし一人を除いて全員が今だ霧から帰らず。

「グノーモンの寺院……? お前、まさかファルネスの大霧の中に入ろうっていうのか?」

「ああ。どうせなら、伝説の中に死にたい。それに、必ず一人になれるそうだからな」

 グノーモンの寺院にはこんな言い伝えがある。唯一の生還者曰く、“霧の中では必ず一人になる”。

「分かった。ここからじゃ少し遠いか……。馬車の金は?」

「大丈夫だ」

 エルが金の入っている袋をロイスに見せる。納得したロイスは、ドアから身体をどける。

「友人エル・ハウェの旅立ちに幸いあれ、神よ」

「ありがとう、ロイ」

 エル・ハウェがロイスに見せた笑顔は、破滅の間際にいるようだった。





       ◇◇◇





 おおきな霧の柱、ファルネスの大霧が立っている。ひとつの大城は囲めそうなほどに大きく、上を仰げばいつも曇り。不思議なことに雨は降ったことがない。かつて沢山の人がこの霧に入り、そして姿を消した。霧の向こう側からはただ一人を除き誰も、そして何の返事も帰ってきていない。







 二人の兵卒が槍を担いで霧の周りを歩いている。

「…ふぁ~あ。ねむい。」

「おい、気を抜き過ぎだ。」

「なんだよ。……いつものことながら誰もこねーんだよ。」

 と、会話している最中に背の高い方が、誰かが霧を囲う柵を乗り越えようとしているのを見つけた。

「あれだ!」

「おう!」

 誰かの元に走り寄り、二人掛けで柵から引きずり下ろす。

「いてっ!」

 拍子に、柵を越えようとした者が地面に頭を打ちつける。よく見ると、柵を乗り越えようとしていたのは黒髪の、無精ひげが生えた面長の男だった。この男こそが、エルである。

「おい、なんで乗り越えようとしてたんだ?」

「言えるか、そんなん。」

「ま、このまま駐屯地に連れていくんで、いいすね。」

「……やだ。」

「なんで嫌なんだ、とっとと立て!」

 二人はエルの腕を掴んで立たせた。

「……離せよ。腕が動かん」

 男は腕をしっかり掴まれて自由に動けないようにされている。

「ほら、いくぞ。」

 二人の歩みに抵抗するかのように男はぎこちない歩き方をする。

「さあ、もう一回訊くぞ、なんで乗り越えようとしたんだ」

 男は頭を下に向けて、唾を吐く。

「……分かるものかよ、話したって。天を目指したのに堕とされた奴のキモチなんて」

「なに?」

 彼は自由の利く手首を回して手のひらを二人に向けた。

「抵抗はやめよーよ、ねっ」

「いやこれは、目をつぶー」

 背の高い兵卒が言うより早く、エルが詠唱をして発光魔法を発動した。目をつぶるのが遅かった二人はあまりの光量に驚いて、顔を手で覆ってしまった。

「あ、くそ! 離してしまった、おい逃げるな!」

 背の高い方が叫んだが、目が見えない為エルを追いかけて捕まえることは出来ない。

 ようやく二人の目の自由が利くようになった時には、そこには二人の他に誰も居なかった。







 エルは白い霧の中をさまよっている。彼を囲う霧は不思議なことに纏わりつかず、恭しく道を譲るようであった。風が麦色の雑草を鳴らして、寂しい音色を奏でる。

(おかしい、霧の中だというのに明るい……。一寸先の様子がわからぬというのに)

 しばらく歩いていると、霧の靄の先に明るい光の玉が浮かび上がる様が見えた。

(アレは……? ……目指してみるか)

 エルは光の玉に向かって歩いた。歩いた。ずっと歩き続けた。しかし、一向に光の玉が霧の中から現れる気配はない。

(近づけば玉が大きく見えるようになるはずだが……うおっと)

 不意に霧が晴れた。違う、抜けたのだ。燦然と降り注ぐ日光の下、男の眼前に広がるのは壁に囲まれた荘厳な寺院の姿だった。

(これは……、なんという……)

「これが、うわさに聞く、出れずの寺院、グノーモンの寺院か……!」

 彼の住んでいる国のどのような建築にも見当たらない、しかし年季の入っている、ねずみ色の建築はただ厳かにエルを圧していた。

「これは……ジェネフ建築か…? だが、どこか違う……?」

 ハ、と気が付いて後ろを振り返る。太陽まで届くかというほどに霧の壁がそそり立っている。よく見てみると霧の壁はぐるりと寺院を囲っているように見える。ここは、ファルネスの大霧の中なのだ。

 男は、ただしばらく其処に座していた。だが、本来の目的を思い出すと、立ち上がった。

「……お世話になるぜ、グノーモンの寺院。」

 門に向かって歩く。

「……俺の命が果てる時までな……」
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