七章、選択と使命の果てに
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ネルファンディアは二人────正確には一人と一体だけが居る部屋の中で、全てに疲れ果てていた。
もう、自分の帰りを笑顔で出迎えてくれる人は居ない。頭を撫でてくれて、膝の上でお伽話を話してくれる人も居ない。父と呼べる人は、永久に失われたのだ。
彼女は目を閉じて父の亡骸の隣に横たわった。意識が深いところに落ちていく。このまま父のそばに行けたら、幸せになれるかもしれない。
体力的にも精神的にも限界を迎えていたネルファンディアの意識は、鉛のように闇へ吸い込まれていった。
これが、永遠の眠りなのだろうか。彼女は指先で闇をなぞった。すると、突然まばゆい光が指先に触れた。光は一気に闇を飲み込むと、ネルファンディアを包んで立ち上がらせた。光の世界に独り立っている自分に呆然としていると、目の前に見覚えのある男が現れた。だが、誰であるのかを思い出せない。
男は微笑むと、暖かな声で名前を呼んだ。
「ネルファンディア────我が祝福を受けた、宿命の子よ」
「あなたの祝福……を?」
それを聞いて、ネルファンディアはようやく思い出した。この男とは本当に幼い頃に出会っている。その名はアウレ。神に仕える上級精霊であるヴァラールのうちの一人で、精霊であるサルマンの上司だった者だ。彼はネルファンディアに直々に恩寵を施したヴァラールであり、守護者でもあった。
アウレはネルファンディアの額に触れ、その身体に失われた力を補填した。
「さぁ、ネルファンディア。今のそなたには何が見える?」
「私の目には……何も見えません」
「いいや、見えているはずだ。自らが行くべき道を、そなたは見失うほどの愚か者ではない」
ネルファンディアはもう一度、自らの内面を見つめ直した。すると今度ははっきりと何かが見えた。
「闇に……一滴の光が……滴のように落ち、光が戻る」
「そうだ。そして、その滴はそなただ」
静寂の一滴。ネルファンディアはようやく自らの召命を悟った。
「冥王に、立ち向かうことですね」
「そうだ。皆、旅の仲間はそれぞれの使命を背負っている。そしてその中には、そなたにしか出来ぬことがある」
アウレはネルファンディアの肩に触れ、深くうなずいた。だが、彼女はまだ戸惑っている。
「ですが、既に私の杖は折れました。もう私はイスタリでは……」
すると、アウレは不敵な笑みを浮かべて手を上に向けた。瞬く間に光が集められ、それは彼の手の中で杖になった。光を受けて輝く漆黒の杖は、ビルボがくれた樫の枝から出来ているものだった。先端には、かつてネルファンディアが愛用していた杖にはめられていたものと同じ宝石が埋め込まれている。そして何より驚いたのは、その杖の形だった。
「これは……」
「そう。そなたの父の杖と同じだ」
アウレはネルファンディアに杖を受けとるように促した。彼女は恐る恐る、杖に触れて受け取った。その瞬間、強い光が彼女の身体を包んで全身にこれまでにないほどの力を満たし始める。ネルファンディアは、自分の身に何が起きたのかを理解できずにいた。
そしてヴァラールたちの光の加護が消えた。だが彼女の身体から光が消えることはない。
「あの……私は……」
「おめでとう、ネルファンディア」
目を白黒させながら、ネルファンディアは自分の身なりを見直した。先程まで着ていたはずの服は、いつの間にか白いローブに変化している。
「父の果たせなかった召命を継ぐのだ。そなたの父は許されぬ罪を犯した。だが、同時にそなたは父の偉大さを引き継いでいる。故に自信をもて、ネルファンディア」
アウレは恭しくネルファンディアに一礼した。彼の声が遠退いていく。
「そなたなら出来る。誰よりも愛する人を失う辛さを知っているそなたなら、この中つ国を闇から救うことができるであろう。何より、そなたは独りではない────」
「アウレ様────!」
守護者の名を呼んだネルファンディアは、自分の声で目が覚めた。隣には父の亡骸が横たわっている。彼女は先程起きたことが本当に夢であったかどうかを確かめるべく、自室の鏡を見た。そこに映る姿は、自分であり自分でない新しいネルファンディアだった。
母親譲りの白銀の髪は、ラスガレンの白い宝石よりも白く以前よりもその輝きを増していた。服はしつらえたかのように背丈にぴったりなオフホワイトのローブだったが、そのデザインは所々に父であるサルマンの服を彷彿させた。
「私の召命は……父の果たせなかった使命を引き継ぎ、中つ国の民を再び一つにすること……?」
自分の容姿の変貌に驚いていると、ネルファンディアは肝心の杖が見当たらないことに気づいた。だが、それもすぐに見つかった。自分の寝室にあった、杖立に立て掛けるようにして置かれている杖を手に取ると、ネルファンディアは目を閉じた。はめ込まれている宝石こそ違うものの、父の杖と同じ姿をしている杖はとても心強かった。
「お父様……」
そして樫の木の手触りは、トーリンの優しさを思い出させてくれた。杖を抱き締めると、ネルファンディアは静かに呟いた。
「……私は、独りではない」
その言葉には、もう迷いはなかった。
ネルファンディアのことを心配しながら、ガンダルフたちはサルマンの間で待っていた。すると突然、閉ざされていた扉が静かに開いた。薄暗いオルサンクの部屋を、まばゆくも暖かい光が包む。
「これは……!」
「サルマンが復活でもしたのか?」
「いいや、違う……」
武器を構えるギムリを制し、ガンダルフは光の中心に目を凝らした。ゆっくりと歩み出たその人物は、ネルファンディアだった。サルマンに似た服を身にまとい、そっくりな杖を持っているが、その力は彼とは比べ物にならない強さだった。
ネルファンディアは目を細めると、穏やかに微笑んだ。
「私、ネルファンディアは父が中つ国で果たすべきだった真の使命を全うすべく、再びあなたたちと共に戦います」
ガンダルフは何が起きたのかをすべて悟った。そして深々と敬意を込めて頭を下げた。
「よくぞお戻りに。あなたを歓迎しましょう────白のネルファンディア」
「ありがとうございます、白のガンダルフ」
レゴラスも深々と一礼する。アラゴルンは呆然としているギムリの頭を掴んで、慌てて二人で礼をした。セオデン王は口を開けて立ち尽くしている。
「敵の本隊が動き始めます。サウロンの狙いは恐らく、父が亡くなる直前に言っていた場所でしょう」
「ゴンドールと、エレボールか」
「ええ。一先ずはエドラスへ戻りましょう」
ネルファンディアはそう言って皆と同じように出発の支度にかかろうとしたが、父の亡骸をどうすべきかまだ決めていなかったことを思い出した。すると、ガンダルフが彼女を手招きして部屋へ連れていった。彼は穏やかな表情で眠るサルマンに、せめてもの救いがあったことを信じながら杖を振った。遺体の変質を防ぐ魔法をかけたことは、説明がなくともわかった。
「……これで当分は大丈夫です。戦いが終わったときに、きちんとエルミラエル様の隣に埋葬してさしあげよう」
「……そうですね」
ネルファンディアはまだほんのり暖かみが残る父の手に、自分の手を添えた。そしてその額に口づけして離れた。
「ネルファンディア。約束じゃぞ。戦いが終わり、わしと共にきちんと埋葬に立ち会うことは」
「ええ、もちろん。ありがとう、ガンダルフ」
ガンダルフはまだ何かを言おうとして口を開いた。だが既にネルファンディアは部屋を後にしていたので、彼もエドラスへの出発に向けて準備を始めるべく、安らかな眠りにつく友に別れを告げた。
エドラスへの帰還は、多くの者に祝福される形で果たされた。再び束の間の平和を取り戻した王都は、祝賀の空気に包まれている。ネルファンディアは複雑な思いで、仲間から少しはなれた場所を進みながら俯いた。そんな彼女を出迎えたのは、エオウィンだった。
「ネルファンディア!ネルファンディアはどこに?」
黄金館から裸足で飛び出してしたエオウィンは、親友の姿を探した。だが、身なりと髪色が変わったネルファンディアを探し出せず、彼女は呆然とした。そんな姫に、アラゴルンは笑ってネルファンディアの方を指差した。
「きちんとお戻りですよ、姫」
「えっ……?」
エオウィンの視界に飛び込んできたのは、純白の馬に乗っている落ち着いた雰囲気の女性だった。だが、よくみるとその目はネルファンディアそのものだったので、彼女はすぐに親友の元へ駆け寄った。
「ネルファンディア!随分変わったのね」
「ええ、色々あって……」
「よかった、もう会えないかと心配していたのよ」
エオウィンはレヴァナントを厩舎に入れて、ネルファンディアの隣を二人で歩いた。彼女はどこか沈んだようすの親友をみて、一目で何があったかを理解した。
「……お父様のことは、お気の毒に」
「そうね……でも、最期に会えてよかったのかも」
ネルファンディアは石段に座ると、懐から包みを取り出した。隣に座ったエオウィンが不思議そうにみている。
「これね、私の大好きなパンなんだけど……」
包みから出てきたのは、ブリオッシュだった。偶然二つ入っていたので、彼女は一つをエオウィンにあげた。
「あら、ブリオッシュじゃない!」
嬉しそうに匂いをかいではしゃいでいるエオウィンに笑いながら、ネルファンディアは自分の分にかぶりつこうとした。だが……
────これこれ。パンはちぎって食べるものじゃぞ。みっともない。
父の声が聞こえた気がした。ネルファンディアはため息をつくと、失笑しながらもパンをちぎって口に運んだ。懐かしい味が広がる。
「……美味しいね」
「うん、美味しいね」
夕陽がローハンの大地へと沈んでいく。人間の世界に夜明けが来たどころか、明日が来るのだ。
二人はいつまでも夕陽を眺めていた。そしてそれぞれの明日へと思いを馳せるのだった。
黄金館では、盛大な宴が催されていた。ネルファンディアはすっかり仲良くなったギムリとレゴラスの会話を横で聞きながら、このエルフが彼のことをゴブリンの息子と嘲笑した話をしても今なら信じないだろうと思った。背信者の娘という肩書きもあり、楽しそうな宴に混じる気にもなれないネルファンディアは静かに席を外そうとした。だが、そんな彼女を引き留める人がいた。それは意外にも、セオデンの従兄弟であるエオメルだった。彼はネルファンディアに深々と頭を下げてこう言った。
「アイゼンガルドの陥落に、あなたがお力を添えてくださったとか。それにあのとき、グリマから妹を守ってもくださった。お礼申し上げます」
「そんな、やめてください。私は、当然のことをしたまでで……」
「いいえ。父親と対峙することをお決めになったあなたは、謀反と言われてグリマを殺すことを躊躇した私よりもずっと偉大だ」
ネルファンディアは静かに首を横に振った。そしてエオメルの肩に手を置いて微笑んだ。
「あなたとあなたの一族を、永久にヴァラールの恩寵が包みますように」
「ありがとうございます、ネルファンディア殿」
周囲の兵士たちも、ネルファンディアに向けていた僅かな敵意を失っていく。ガンダルフはその様子を見ながら、満足げにうなずいている。
部屋に戻ったネルファンディアは、モリアから持ち帰ったオーリの書いた日記を読んでいた。エレボール復興からモリアの再建。故郷に戻れたことの喜びに文章は満たされていた。彼女がページをめくると、一枚の紙が落ちた。拾おうとしゃがむ前に、エオウィンがそれを拾った。
「これは……」
エオウィンはすぐに返そうとしたが、紙に書いてあるものに目を留めた。そこには絵が描いてあった。
「オーリは、絵を描くのがとても上手な人だったからね」
「ねぇ、これ……あなたじゃない?」
ネルファンディアはエオウィンの言葉に耳を疑い、絵をじっくり見た。そこに描かれていたのは、確かにネルファンディアだった。それに隣には────
トーリンが居た。ビオルンの屋敷で束の間の休息を得た時の姿を、オーリはこっそり描いていたのだ。絵の中のネルファンディアは楽しそうに笑っている。トーリンも相変わらずの仏頂面だが、目許は確かに穏やかだ。
エオウィンはトーリンの顔を見ながら微笑んだ。
「……素敵な人じゃない。男前だったのね」
「……ええ、とても。世界で、一番素敵な人だった……」
ずっと会いたかった人に、会えた気がした。ネルファンディアは絵の中の幸せそうなトーリンの輪郭をなぞりながら、昔の想いに浸るのだった。
その夜は久しぶりに平和だった。澄んだ空気のお陰で霧降山脈が見渡せる静かな夜には、いつも決まってネルファンディアは歌いたくなった。
トーリンと月明かりの下で歌ったあの歌のメロディーに乗せて、ネルファンディアは父親譲りの朗々とした優しい声で静かに歌いだした。
遠き山並み越えて この声響かせよう
あなたが眠る場所 懐かしい離れ山へ
何度月が沈むとも 想いは募るばかり
忘れじその温もり 既に失われし過去
あなたは何処に 記憶を追う日々よ
ネルファンディアの声は小さくともサルマン同様に響く力強さがあったため、その歌は宴会を終えた黄金館中に聞こえていた。エオウィンはその悲しげな歌詞に胸痛め、目頭が熱くなるのを感じた。酔いつぶれていたギムリも素面に戻り、黙って故郷の旋律に耳を傾けている。
やがて歌いおわったネルファンディアは、目を瞑ってこれまでの出来事に思いを馳せた。
自分の人生が変わるきっかけは一体なんだったのだろう。やはりトーリンと出会ったことから全て始まっていたのだろうか。そんなことを考えていると、いつの間にか全員が寝静まる時間になっていた。彼女はゆっくり立ち上がると、皆が寝る大広間の扉を静かに開けた。すると、扉の隙間から辺りを見回して何かを覗き込もうとしているピピンを見つけた。ネルファンディアは息を殺して暗がりに目を凝らした。彼の手の中で月明かりを受けて光るものに、ネルファンディアが見覚えの無いはずはなかった。
そう、ピピンが覗き込もうとしているのは彼女の父を狂わせた原因の一端を担う、遠見の水晶球────パランティアだった。ネルファンディアはすぐに止めようと部屋に飛び込んだが、遅かった。好奇心を押さえきれずに球体を覗いたピピンが、突然苦しみだした。ガンダルフたちもその絶叫に飛び起きた。アラゴルンは咄嗟にピピンの手からパランティアを引き剥がしたが、その闇の魔力から生じる痛みを肩代わりする程度にしかならない。ネルファンディアは杖を振ってアラゴルンからパランティアを取ると、自らの手に収めた。アイゼンガルドで見たときよりも増しているサウロンの力は、彼女の手を焼き付くすほどに強力だった。痛みに顔を歪めながらも、彼女は魔力でパランティアとサウロンとの交信を断った。一瞬部屋を濃い暗黒の霧が覆ったと思うと、パランティアは静かになった。ため息をつくネルファンディアの持つ水晶玉に布を厳重に被せると、ガンダルフは怒りを露にした。
「ペレグリン・トゥック!お主がここまでの馬鹿だとは思うてもみなかったぞ!」
だが、驚きと憔悴に飲み込まれているピピンの呼吸は返事もできないほどに乱れていた。ネルファンディアが額に手を当てて闇の気を浄化してようやく、彼はガンダルフの問いに答え始めた。
「ご、ごめんなさ──」
「何か話したのか!?」
「指輪はどこかと尋ねられました!でもなにも答えませんでした!奴が頭の中に入ろうとしてきた瞬間に、アラゴルンとネルファンディアが助けてくれたので……」
「それで、何かみたか?」
ピピンは必死にそのときの光景を思い出した。そして断片的ではあるものの、見た内容を忠実に語り始めた。
「木が、白い木が燃えていました。それから……古い砦」
「白き木は、ゴンドールの都ミナス・ティリスか。じゃが砦は……」
ピピンは砦の前に見えたものを、ゆっくりと記憶から呼び起こした。
「砦が見える前に……山!山肌を削るような形で作られた王国が見えました。入り口には二体の大きなドワーフ王の石像があって、そのちょうど向かい側にも国が────」
ネルファンディアとギムリはそれを聞いて、即座にエレボールとデールのことであると理解した。更に彼女はガンダルフと顔を見合わせて、厳しい面持ちで言った。
「……砦は、ドル=グルドゥア────棄てられた北にある闇の要塞のことですね」
ピピンの話しはまだ続く。
「その砦に、いくつもの炎が灯っていました。王国との間には闇の軍勢が勝利の角笛を轟かせ、山々は燃えていました」
サルマンから断片的に仕入れたサウロンの目論見が、はっきりと見えた。ガンダルフは俯きながら呟いた。
「オスギリアス占領だけでなく、敵の狙いは既にミナス・ティリスへと向いておるというのか。またドル=グルドゥアの要塞を取り戻すこと、更にはエレボールとデールを滅ぼすことまで範疇に入れておるとは……」
ネルファンディアはサウロンの企みが既に大成しようとしていることに、大きな危機感を覚えた。
その晩は一睡もできず、朝を迎えた。その間ずっと、彼女はトーリンの指輪を眺めているのだった。
明け方に集められたネルファンディアたちは、セオデン王たちと共に軍議に投じた。だが、話は意外な方向に飛び火した。
「ローハンが危機に陥ったあのとき、ゴンドールは助けに来なかった!同盟を結んでいたというのに……」
「わかっています。ですが……」
「ゴンドールへは援軍を出さん!」
セオデンがゴンドールに対して怒るのもわかる。ガンダルフは何も言えずに不毛な時間の終わりを待った。ネルファンディアはそのやり取りが成されている間も、下を向いて黙っている。
そしてついに裂け谷での会議のときのように周りが口論を始めた瞬間、彼女は固く閉ざした口を開いた。
「お静かに!」
威厳溢れるその声に、一同はすぐに閉口した。ネルファンディアは苦々しげに話し始めた。
「援軍が来るとか、来なかったとか。そんなことは関係ありません。もはやこの戦いは、人間の王国同士の問題を超越しています。まだわかりませんか?ゴンドールの白き都が陥落すれば、この世界から光は消え失せるのです」
「なら、北への警告は!?荒れ地を抜けねばならぬ遠い北の王国へ誰が行ける?」
怒るセオデンにギムリは俺が行こうと言ったが、アラゴルンに無理だと諭された。再び喧騒が始まろうとしている。ネルファンディアは杖を床に振り下ろし、一同を睨み付けた。
「私が、行きましょう。私なら、闇の森の近道を通り抜けることができるでしょう」
「だけど……」
「レゴラス、あなたのお父様にも知らせねば。エレボールへは私が行きます」
あの辛い思い出が詰まった地へ赴くというのか。ガンダルフはその決意に言葉を失くした。更に彼女はトーリンの指輪を掲げて言った。
「この指輪があれば、援軍を要請できるかもしれません。それまで何とか持ちこたえてください」
ドワーフ相手の交渉だ。困難を極めることくらい、ネルファンディアにもわかっていた。それでもサウロン軍を打ち倒すにはこの方法しかなかった。少なくとも北の守りは固めるべきだ。
結局ネルファンディアがエレボールへ、アラゴルンたちがローハン抜きでの模索を図ることとなった。ガンダルフはミナス・ティリスへの警告に向かうという。
彼は出発しようとしているネルファンディアの名を呼んだ。その面持ちは神妙だ。
「……ネルファンディア」
「なにも言わないでください、ガンダルフ」
「いいや、言わねばならない。わしはまだ、お主に話しておらんことがある」
ガンダルフは一息吐いてから、懺悔に顔を歪めた。
「サルマンは、わしに言った。わしは信頼を置く者も、寵愛する者も、皆平然と犠牲にすると。そうじゃ。お主の父は正しかった。わしが……トーリン王子を殺したんじゃ」
「いいえ、違うわガンダルフ。あなたが彼を……」
「わしがあの男を焚き付けなければ、死ぬことはなかった!それだけではない。わしは己の使命を全うすべく、トーリンを犠牲にした。闇の勢力を偵察することを優先し、トーリンを見殺したんじゃ!」
ガンダルフは長年苦しみ続けていたことを全て吐き出し、楽になることができたものの、まだ消えない罪悪感の処遇に戸惑った。ネルファンディアはそんなガンダルフの肩にそっと手を置き、こう言った。
「確かに、そうかもしれない。けれど考えてみて、ガンダルフ」
彼女は暖かな笑みを浮かべ、トーリンの指輪をガンダルフに見せた。
「あなたが居なければ、あの人と出会うことはなかった」
ガンダルフから離れたネルファンディアは、背を向けながら呟いた。
「もし────人生をやり直すことがあったとしても、私はまた同じ人生を歩みたい。今は、はっきりとそう思います」
その言葉に偽りはなかった。それは彼女が多すぎる哀しみの中でたどり着いた、揺るぎない答えだった。ガンダルフはその背を最大の敬意を込めて見送った。
すると、会議の結果を知ってやってきたエオウィンが彼に尋ねた。
「ネルファンディアは!?ネルファンディアはどこに!?」
「今ここを出たところじゃ。まだレヴァナントに乗っておらんじゃろうから、すぐに行けば間に合います」
エオウィンは会釈も忘れて走り出した。
────だめよ、ネルファンディア。まだ挨拶もしていないのに!
「ネルファンディア!」
エオウィンが追い付いたときは、ちょうどネルファンディアがレヴァナントに乗ろうとしているところだった。
「ネルファンディア……私たち……」
「ええ、また会える。次は闇の失せた世界で、真の勝利の角笛を聞きながら会いましょう」
「もちろん」
二人が手を握りあって再会の誓いを立てていると、アラゴルンたちもやって来た。彼らは初めて会ったときよりも気さくな笑みを浮かべている。
「また会おう、ネルファンディア」
「行ってらっしゃい。……最後の戦いには遅れるんじゃないぞ」
「我が故郷と父に宜しくと伝えておいてくれ!」
アラゴルン、レゴラス、ギムリからの挨拶を受けてネルファンディアは深くうなずいた。そしてレヴァナントの腹を蹴って、平原の向こうへと走り出した。残された仲間たちは、彼女の無事と計画の成功をその背に祈るのだった。
ガラドリエルの贈り物である疲れを癒す薬を服用したレヴァナントは、休むことなく走り続けた。元から普通の馬とは違う彼は、薬の力も借りて数日のうちに霧降山脈近くの丘に到達した。ネルファンディアは馬上から丘の遥か彼方を見据え、レヴァナントの頭を撫でた。
────帰ってきたのね、始まりの地へ。
霧降山脈の頂を仰ぎ、ネルファンディアは唇を噛み締めた。その瞳には最後の戦いに挑むための決意と、思い出の地への憧憬が揺らめいている。
「さぁ、行きましょう。エレボール──山の下の王国へ」
レヴァナントは嬉しそうに一鳴きすると、軽やかな足取りで突風のように走り出した。
ネルファンディアはトーリンの指輪を握りしめて前を見据えた。その訪問が愛する人の故郷を救うことを願いながら。
闇と光がぶつかる、最後の決戦のときが迫っていた。
もう、自分の帰りを笑顔で出迎えてくれる人は居ない。頭を撫でてくれて、膝の上でお伽話を話してくれる人も居ない。父と呼べる人は、永久に失われたのだ。
彼女は目を閉じて父の亡骸の隣に横たわった。意識が深いところに落ちていく。このまま父のそばに行けたら、幸せになれるかもしれない。
体力的にも精神的にも限界を迎えていたネルファンディアの意識は、鉛のように闇へ吸い込まれていった。
これが、永遠の眠りなのだろうか。彼女は指先で闇をなぞった。すると、突然まばゆい光が指先に触れた。光は一気に闇を飲み込むと、ネルファンディアを包んで立ち上がらせた。光の世界に独り立っている自分に呆然としていると、目の前に見覚えのある男が現れた。だが、誰であるのかを思い出せない。
男は微笑むと、暖かな声で名前を呼んだ。
「ネルファンディア────我が祝福を受けた、宿命の子よ」
「あなたの祝福……を?」
それを聞いて、ネルファンディアはようやく思い出した。この男とは本当に幼い頃に出会っている。その名はアウレ。神に仕える上級精霊であるヴァラールのうちの一人で、精霊であるサルマンの上司だった者だ。彼はネルファンディアに直々に恩寵を施したヴァラールであり、守護者でもあった。
アウレはネルファンディアの額に触れ、その身体に失われた力を補填した。
「さぁ、ネルファンディア。今のそなたには何が見える?」
「私の目には……何も見えません」
「いいや、見えているはずだ。自らが行くべき道を、そなたは見失うほどの愚か者ではない」
ネルファンディアはもう一度、自らの内面を見つめ直した。すると今度ははっきりと何かが見えた。
「闇に……一滴の光が……滴のように落ち、光が戻る」
「そうだ。そして、その滴はそなただ」
静寂の一滴。ネルファンディアはようやく自らの召命を悟った。
「冥王に、立ち向かうことですね」
「そうだ。皆、旅の仲間はそれぞれの使命を背負っている。そしてその中には、そなたにしか出来ぬことがある」
アウレはネルファンディアの肩に触れ、深くうなずいた。だが、彼女はまだ戸惑っている。
「ですが、既に私の杖は折れました。もう私はイスタリでは……」
すると、アウレは不敵な笑みを浮かべて手を上に向けた。瞬く間に光が集められ、それは彼の手の中で杖になった。光を受けて輝く漆黒の杖は、ビルボがくれた樫の枝から出来ているものだった。先端には、かつてネルファンディアが愛用していた杖にはめられていたものと同じ宝石が埋め込まれている。そして何より驚いたのは、その杖の形だった。
「これは……」
「そう。そなたの父の杖と同じだ」
アウレはネルファンディアに杖を受けとるように促した。彼女は恐る恐る、杖に触れて受け取った。その瞬間、強い光が彼女の身体を包んで全身にこれまでにないほどの力を満たし始める。ネルファンディアは、自分の身に何が起きたのかを理解できずにいた。
そしてヴァラールたちの光の加護が消えた。だが彼女の身体から光が消えることはない。
「あの……私は……」
「おめでとう、ネルファンディア」
目を白黒させながら、ネルファンディアは自分の身なりを見直した。先程まで着ていたはずの服は、いつの間にか白いローブに変化している。
「父の果たせなかった召命を継ぐのだ。そなたの父は許されぬ罪を犯した。だが、同時にそなたは父の偉大さを引き継いでいる。故に自信をもて、ネルファンディア」
アウレは恭しくネルファンディアに一礼した。彼の声が遠退いていく。
「そなたなら出来る。誰よりも愛する人を失う辛さを知っているそなたなら、この中つ国を闇から救うことができるであろう。何より、そなたは独りではない────」
「アウレ様────!」
守護者の名を呼んだネルファンディアは、自分の声で目が覚めた。隣には父の亡骸が横たわっている。彼女は先程起きたことが本当に夢であったかどうかを確かめるべく、自室の鏡を見た。そこに映る姿は、自分であり自分でない新しいネルファンディアだった。
母親譲りの白銀の髪は、ラスガレンの白い宝石よりも白く以前よりもその輝きを増していた。服はしつらえたかのように背丈にぴったりなオフホワイトのローブだったが、そのデザインは所々に父であるサルマンの服を彷彿させた。
「私の召命は……父の果たせなかった使命を引き継ぎ、中つ国の民を再び一つにすること……?」
自分の容姿の変貌に驚いていると、ネルファンディアは肝心の杖が見当たらないことに気づいた。だが、それもすぐに見つかった。自分の寝室にあった、杖立に立て掛けるようにして置かれている杖を手に取ると、ネルファンディアは目を閉じた。はめ込まれている宝石こそ違うものの、父の杖と同じ姿をしている杖はとても心強かった。
「お父様……」
そして樫の木の手触りは、トーリンの優しさを思い出させてくれた。杖を抱き締めると、ネルファンディアは静かに呟いた。
「……私は、独りではない」
その言葉には、もう迷いはなかった。
ネルファンディアのことを心配しながら、ガンダルフたちはサルマンの間で待っていた。すると突然、閉ざされていた扉が静かに開いた。薄暗いオルサンクの部屋を、まばゆくも暖かい光が包む。
「これは……!」
「サルマンが復活でもしたのか?」
「いいや、違う……」
武器を構えるギムリを制し、ガンダルフは光の中心に目を凝らした。ゆっくりと歩み出たその人物は、ネルファンディアだった。サルマンに似た服を身にまとい、そっくりな杖を持っているが、その力は彼とは比べ物にならない強さだった。
ネルファンディアは目を細めると、穏やかに微笑んだ。
「私、ネルファンディアは父が中つ国で果たすべきだった真の使命を全うすべく、再びあなたたちと共に戦います」
ガンダルフは何が起きたのかをすべて悟った。そして深々と敬意を込めて頭を下げた。
「よくぞお戻りに。あなたを歓迎しましょう────白のネルファンディア」
「ありがとうございます、白のガンダルフ」
レゴラスも深々と一礼する。アラゴルンは呆然としているギムリの頭を掴んで、慌てて二人で礼をした。セオデン王は口を開けて立ち尽くしている。
「敵の本隊が動き始めます。サウロンの狙いは恐らく、父が亡くなる直前に言っていた場所でしょう」
「ゴンドールと、エレボールか」
「ええ。一先ずはエドラスへ戻りましょう」
ネルファンディアはそう言って皆と同じように出発の支度にかかろうとしたが、父の亡骸をどうすべきかまだ決めていなかったことを思い出した。すると、ガンダルフが彼女を手招きして部屋へ連れていった。彼は穏やかな表情で眠るサルマンに、せめてもの救いがあったことを信じながら杖を振った。遺体の変質を防ぐ魔法をかけたことは、説明がなくともわかった。
「……これで当分は大丈夫です。戦いが終わったときに、きちんとエルミラエル様の隣に埋葬してさしあげよう」
「……そうですね」
ネルファンディアはまだほんのり暖かみが残る父の手に、自分の手を添えた。そしてその額に口づけして離れた。
「ネルファンディア。約束じゃぞ。戦いが終わり、わしと共にきちんと埋葬に立ち会うことは」
「ええ、もちろん。ありがとう、ガンダルフ」
ガンダルフはまだ何かを言おうとして口を開いた。だが既にネルファンディアは部屋を後にしていたので、彼もエドラスへの出発に向けて準備を始めるべく、安らかな眠りにつく友に別れを告げた。
エドラスへの帰還は、多くの者に祝福される形で果たされた。再び束の間の平和を取り戻した王都は、祝賀の空気に包まれている。ネルファンディアは複雑な思いで、仲間から少しはなれた場所を進みながら俯いた。そんな彼女を出迎えたのは、エオウィンだった。
「ネルファンディア!ネルファンディアはどこに?」
黄金館から裸足で飛び出してしたエオウィンは、親友の姿を探した。だが、身なりと髪色が変わったネルファンディアを探し出せず、彼女は呆然とした。そんな姫に、アラゴルンは笑ってネルファンディアの方を指差した。
「きちんとお戻りですよ、姫」
「えっ……?」
エオウィンの視界に飛び込んできたのは、純白の馬に乗っている落ち着いた雰囲気の女性だった。だが、よくみるとその目はネルファンディアそのものだったので、彼女はすぐに親友の元へ駆け寄った。
「ネルファンディア!随分変わったのね」
「ええ、色々あって……」
「よかった、もう会えないかと心配していたのよ」
エオウィンはレヴァナントを厩舎に入れて、ネルファンディアの隣を二人で歩いた。彼女はどこか沈んだようすの親友をみて、一目で何があったかを理解した。
「……お父様のことは、お気の毒に」
「そうね……でも、最期に会えてよかったのかも」
ネルファンディアは石段に座ると、懐から包みを取り出した。隣に座ったエオウィンが不思議そうにみている。
「これね、私の大好きなパンなんだけど……」
包みから出てきたのは、ブリオッシュだった。偶然二つ入っていたので、彼女は一つをエオウィンにあげた。
「あら、ブリオッシュじゃない!」
嬉しそうに匂いをかいではしゃいでいるエオウィンに笑いながら、ネルファンディアは自分の分にかぶりつこうとした。だが……
────これこれ。パンはちぎって食べるものじゃぞ。みっともない。
父の声が聞こえた気がした。ネルファンディアはため息をつくと、失笑しながらもパンをちぎって口に運んだ。懐かしい味が広がる。
「……美味しいね」
「うん、美味しいね」
夕陽がローハンの大地へと沈んでいく。人間の世界に夜明けが来たどころか、明日が来るのだ。
二人はいつまでも夕陽を眺めていた。そしてそれぞれの明日へと思いを馳せるのだった。
黄金館では、盛大な宴が催されていた。ネルファンディアはすっかり仲良くなったギムリとレゴラスの会話を横で聞きながら、このエルフが彼のことをゴブリンの息子と嘲笑した話をしても今なら信じないだろうと思った。背信者の娘という肩書きもあり、楽しそうな宴に混じる気にもなれないネルファンディアは静かに席を外そうとした。だが、そんな彼女を引き留める人がいた。それは意外にも、セオデンの従兄弟であるエオメルだった。彼はネルファンディアに深々と頭を下げてこう言った。
「アイゼンガルドの陥落に、あなたがお力を添えてくださったとか。それにあのとき、グリマから妹を守ってもくださった。お礼申し上げます」
「そんな、やめてください。私は、当然のことをしたまでで……」
「いいえ。父親と対峙することをお決めになったあなたは、謀反と言われてグリマを殺すことを躊躇した私よりもずっと偉大だ」
ネルファンディアは静かに首を横に振った。そしてエオメルの肩に手を置いて微笑んだ。
「あなたとあなたの一族を、永久にヴァラールの恩寵が包みますように」
「ありがとうございます、ネルファンディア殿」
周囲の兵士たちも、ネルファンディアに向けていた僅かな敵意を失っていく。ガンダルフはその様子を見ながら、満足げにうなずいている。
部屋に戻ったネルファンディアは、モリアから持ち帰ったオーリの書いた日記を読んでいた。エレボール復興からモリアの再建。故郷に戻れたことの喜びに文章は満たされていた。彼女がページをめくると、一枚の紙が落ちた。拾おうとしゃがむ前に、エオウィンがそれを拾った。
「これは……」
エオウィンはすぐに返そうとしたが、紙に書いてあるものに目を留めた。そこには絵が描いてあった。
「オーリは、絵を描くのがとても上手な人だったからね」
「ねぇ、これ……あなたじゃない?」
ネルファンディアはエオウィンの言葉に耳を疑い、絵をじっくり見た。そこに描かれていたのは、確かにネルファンディアだった。それに隣には────
トーリンが居た。ビオルンの屋敷で束の間の休息を得た時の姿を、オーリはこっそり描いていたのだ。絵の中のネルファンディアは楽しそうに笑っている。トーリンも相変わらずの仏頂面だが、目許は確かに穏やかだ。
エオウィンはトーリンの顔を見ながら微笑んだ。
「……素敵な人じゃない。男前だったのね」
「……ええ、とても。世界で、一番素敵な人だった……」
ずっと会いたかった人に、会えた気がした。ネルファンディアは絵の中の幸せそうなトーリンの輪郭をなぞりながら、昔の想いに浸るのだった。
その夜は久しぶりに平和だった。澄んだ空気のお陰で霧降山脈が見渡せる静かな夜には、いつも決まってネルファンディアは歌いたくなった。
トーリンと月明かりの下で歌ったあの歌のメロディーに乗せて、ネルファンディアは父親譲りの朗々とした優しい声で静かに歌いだした。
遠き山並み越えて この声響かせよう
あなたが眠る場所 懐かしい離れ山へ
何度月が沈むとも 想いは募るばかり
忘れじその温もり 既に失われし過去
あなたは何処に 記憶を追う日々よ
ネルファンディアの声は小さくともサルマン同様に響く力強さがあったため、その歌は宴会を終えた黄金館中に聞こえていた。エオウィンはその悲しげな歌詞に胸痛め、目頭が熱くなるのを感じた。酔いつぶれていたギムリも素面に戻り、黙って故郷の旋律に耳を傾けている。
やがて歌いおわったネルファンディアは、目を瞑ってこれまでの出来事に思いを馳せた。
自分の人生が変わるきっかけは一体なんだったのだろう。やはりトーリンと出会ったことから全て始まっていたのだろうか。そんなことを考えていると、いつの間にか全員が寝静まる時間になっていた。彼女はゆっくり立ち上がると、皆が寝る大広間の扉を静かに開けた。すると、扉の隙間から辺りを見回して何かを覗き込もうとしているピピンを見つけた。ネルファンディアは息を殺して暗がりに目を凝らした。彼の手の中で月明かりを受けて光るものに、ネルファンディアが見覚えの無いはずはなかった。
そう、ピピンが覗き込もうとしているのは彼女の父を狂わせた原因の一端を担う、遠見の水晶球────パランティアだった。ネルファンディアはすぐに止めようと部屋に飛び込んだが、遅かった。好奇心を押さえきれずに球体を覗いたピピンが、突然苦しみだした。ガンダルフたちもその絶叫に飛び起きた。アラゴルンは咄嗟にピピンの手からパランティアを引き剥がしたが、その闇の魔力から生じる痛みを肩代わりする程度にしかならない。ネルファンディアは杖を振ってアラゴルンからパランティアを取ると、自らの手に収めた。アイゼンガルドで見たときよりも増しているサウロンの力は、彼女の手を焼き付くすほどに強力だった。痛みに顔を歪めながらも、彼女は魔力でパランティアとサウロンとの交信を断った。一瞬部屋を濃い暗黒の霧が覆ったと思うと、パランティアは静かになった。ため息をつくネルファンディアの持つ水晶玉に布を厳重に被せると、ガンダルフは怒りを露にした。
「ペレグリン・トゥック!お主がここまでの馬鹿だとは思うてもみなかったぞ!」
だが、驚きと憔悴に飲み込まれているピピンの呼吸は返事もできないほどに乱れていた。ネルファンディアが額に手を当てて闇の気を浄化してようやく、彼はガンダルフの問いに答え始めた。
「ご、ごめんなさ──」
「何か話したのか!?」
「指輪はどこかと尋ねられました!でもなにも答えませんでした!奴が頭の中に入ろうとしてきた瞬間に、アラゴルンとネルファンディアが助けてくれたので……」
「それで、何かみたか?」
ピピンは必死にそのときの光景を思い出した。そして断片的ではあるものの、見た内容を忠実に語り始めた。
「木が、白い木が燃えていました。それから……古い砦」
「白き木は、ゴンドールの都ミナス・ティリスか。じゃが砦は……」
ピピンは砦の前に見えたものを、ゆっくりと記憶から呼び起こした。
「砦が見える前に……山!山肌を削るような形で作られた王国が見えました。入り口には二体の大きなドワーフ王の石像があって、そのちょうど向かい側にも国が────」
ネルファンディアとギムリはそれを聞いて、即座にエレボールとデールのことであると理解した。更に彼女はガンダルフと顔を見合わせて、厳しい面持ちで言った。
「……砦は、ドル=グルドゥア────棄てられた北にある闇の要塞のことですね」
ピピンの話しはまだ続く。
「その砦に、いくつもの炎が灯っていました。王国との間には闇の軍勢が勝利の角笛を轟かせ、山々は燃えていました」
サルマンから断片的に仕入れたサウロンの目論見が、はっきりと見えた。ガンダルフは俯きながら呟いた。
「オスギリアス占領だけでなく、敵の狙いは既にミナス・ティリスへと向いておるというのか。またドル=グルドゥアの要塞を取り戻すこと、更にはエレボールとデールを滅ぼすことまで範疇に入れておるとは……」
ネルファンディアはサウロンの企みが既に大成しようとしていることに、大きな危機感を覚えた。
その晩は一睡もできず、朝を迎えた。その間ずっと、彼女はトーリンの指輪を眺めているのだった。
明け方に集められたネルファンディアたちは、セオデン王たちと共に軍議に投じた。だが、話は意外な方向に飛び火した。
「ローハンが危機に陥ったあのとき、ゴンドールは助けに来なかった!同盟を結んでいたというのに……」
「わかっています。ですが……」
「ゴンドールへは援軍を出さん!」
セオデンがゴンドールに対して怒るのもわかる。ガンダルフは何も言えずに不毛な時間の終わりを待った。ネルファンディアはそのやり取りが成されている間も、下を向いて黙っている。
そしてついに裂け谷での会議のときのように周りが口論を始めた瞬間、彼女は固く閉ざした口を開いた。
「お静かに!」
威厳溢れるその声に、一同はすぐに閉口した。ネルファンディアは苦々しげに話し始めた。
「援軍が来るとか、来なかったとか。そんなことは関係ありません。もはやこの戦いは、人間の王国同士の問題を超越しています。まだわかりませんか?ゴンドールの白き都が陥落すれば、この世界から光は消え失せるのです」
「なら、北への警告は!?荒れ地を抜けねばならぬ遠い北の王国へ誰が行ける?」
怒るセオデンにギムリは俺が行こうと言ったが、アラゴルンに無理だと諭された。再び喧騒が始まろうとしている。ネルファンディアは杖を床に振り下ろし、一同を睨み付けた。
「私が、行きましょう。私なら、闇の森の近道を通り抜けることができるでしょう」
「だけど……」
「レゴラス、あなたのお父様にも知らせねば。エレボールへは私が行きます」
あの辛い思い出が詰まった地へ赴くというのか。ガンダルフはその決意に言葉を失くした。更に彼女はトーリンの指輪を掲げて言った。
「この指輪があれば、援軍を要請できるかもしれません。それまで何とか持ちこたえてください」
ドワーフ相手の交渉だ。困難を極めることくらい、ネルファンディアにもわかっていた。それでもサウロン軍を打ち倒すにはこの方法しかなかった。少なくとも北の守りは固めるべきだ。
結局ネルファンディアがエレボールへ、アラゴルンたちがローハン抜きでの模索を図ることとなった。ガンダルフはミナス・ティリスへの警告に向かうという。
彼は出発しようとしているネルファンディアの名を呼んだ。その面持ちは神妙だ。
「……ネルファンディア」
「なにも言わないでください、ガンダルフ」
「いいや、言わねばならない。わしはまだ、お主に話しておらんことがある」
ガンダルフは一息吐いてから、懺悔に顔を歪めた。
「サルマンは、わしに言った。わしは信頼を置く者も、寵愛する者も、皆平然と犠牲にすると。そうじゃ。お主の父は正しかった。わしが……トーリン王子を殺したんじゃ」
「いいえ、違うわガンダルフ。あなたが彼を……」
「わしがあの男を焚き付けなければ、死ぬことはなかった!それだけではない。わしは己の使命を全うすべく、トーリンを犠牲にした。闇の勢力を偵察することを優先し、トーリンを見殺したんじゃ!」
ガンダルフは長年苦しみ続けていたことを全て吐き出し、楽になることができたものの、まだ消えない罪悪感の処遇に戸惑った。ネルファンディアはそんなガンダルフの肩にそっと手を置き、こう言った。
「確かに、そうかもしれない。けれど考えてみて、ガンダルフ」
彼女は暖かな笑みを浮かべ、トーリンの指輪をガンダルフに見せた。
「あなたが居なければ、あの人と出会うことはなかった」
ガンダルフから離れたネルファンディアは、背を向けながら呟いた。
「もし────人生をやり直すことがあったとしても、私はまた同じ人生を歩みたい。今は、はっきりとそう思います」
その言葉に偽りはなかった。それは彼女が多すぎる哀しみの中でたどり着いた、揺るぎない答えだった。ガンダルフはその背を最大の敬意を込めて見送った。
すると、会議の結果を知ってやってきたエオウィンが彼に尋ねた。
「ネルファンディアは!?ネルファンディアはどこに!?」
「今ここを出たところじゃ。まだレヴァナントに乗っておらんじゃろうから、すぐに行けば間に合います」
エオウィンは会釈も忘れて走り出した。
────だめよ、ネルファンディア。まだ挨拶もしていないのに!
「ネルファンディア!」
エオウィンが追い付いたときは、ちょうどネルファンディアがレヴァナントに乗ろうとしているところだった。
「ネルファンディア……私たち……」
「ええ、また会える。次は闇の失せた世界で、真の勝利の角笛を聞きながら会いましょう」
「もちろん」
二人が手を握りあって再会の誓いを立てていると、アラゴルンたちもやって来た。彼らは初めて会ったときよりも気さくな笑みを浮かべている。
「また会おう、ネルファンディア」
「行ってらっしゃい。……最後の戦いには遅れるんじゃないぞ」
「我が故郷と父に宜しくと伝えておいてくれ!」
アラゴルン、レゴラス、ギムリからの挨拶を受けてネルファンディアは深くうなずいた。そしてレヴァナントの腹を蹴って、平原の向こうへと走り出した。残された仲間たちは、彼女の無事と計画の成功をその背に祈るのだった。
ガラドリエルの贈り物である疲れを癒す薬を服用したレヴァナントは、休むことなく走り続けた。元から普通の馬とは違う彼は、薬の力も借りて数日のうちに霧降山脈近くの丘に到達した。ネルファンディアは馬上から丘の遥か彼方を見据え、レヴァナントの頭を撫でた。
────帰ってきたのね、始まりの地へ。
霧降山脈の頂を仰ぎ、ネルファンディアは唇を噛み締めた。その瞳には最後の戦いに挑むための決意と、思い出の地への憧憬が揺らめいている。
「さぁ、行きましょう。エレボール──山の下の王国へ」
レヴァナントは嬉しそうに一鳴きすると、軽やかな足取りで突風のように走り出した。
ネルファンディアはトーリンの指輪を握りしめて前を見据えた。その訪問が愛する人の故郷を救うことを願いながら。
闇と光がぶつかる、最後の決戦のときが迫っていた。