六章、サルマンの最期
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何も感じない世界。身体が解放された喜びを覚えながら、ネルファンディアは暖かな木漏れ日に包まれていた。漂うこの感覚は一体何なのか。
彼女はゆっくりと目を開けた。視界がぼやけてはいるものの、両目は徐々に世界を取り戻し始めている。
「ん……」
ネルファンディアは身体を起こそうとして手を動かした瞬間、自分がどこにいるのかを知った。掌が触れたのは地面ではなく、透き通った水面だった。それよりも驚いたのは、指先に無かった感覚が戻っていることだ。魔力が寿命単位で削り取られたことはわかるが、ほとんど歩けるほどには回復している。
彼女はふらつきながらも立ち上がり、岸に身を横たえた。喉の渇きを潤すために、手で水をすくって飲む。そして自分が先程まで漂っていた水が何であるかを知った。
「……これは、エント水……ね」
著しい精神力の低下にはエント水が最も効果を発揮する。だがまさか、着衣の状態で全身を浸けられても効能があるとは思いもしなかった。
肘で身体を支えながら空を見上げ、ネルファンディアはため息をついた。戦いで杖を失ったことは大きな痛手だった。だが、アイゼンガルドを陥落させることは成功した。それでもまだ全身の倦怠感は残っている。彼女はこういうときに支えとなる杖が欲しいと思ったが、なんとか木の幹を使って立ち上がろうとした。
すると、目の前に一本の木の棒が現れた。彼女は顔をあげると共に驚きに包まれた。
「ビルボ……?これはあなたの体の一部じゃ……」
「使ってください。あなたが愛した人の命を救った、樫の木ですから」
ネルファンディアはエントのビルボから杖を受け取った。樫の木は、とても頑丈で手触りも良かった。彼女はトーリンに支えられているような気分になりながら、ゆっくりと歩きだした。
アイゼンガルドの方へ歩くことしばらく、ネルファンディアは楽しそうな声が聞こえてきたことに微笑みをこぼした。
「あっ!ネルファンディア!」
「もう大丈夫なんですか?」
ピピンとメリーは、一目散にネルファンディアの方へ駆け寄ってきた。二人は大はしゃぎしながら彼女の手を取って、身体は大丈夫か、もう歩いてもいいのか、お腹はすいていないかと次々に質問を投じてきた。
「大丈夫よ、ありがとう」
「そうですか。安心しました」
「あなたたちはお腹すいていないの?」
「ええ!大丈夫で……」
メリーがそう言おうとしたときだった。ホビットたちの腹が盛大に鳴った。ネルファンディアは失笑して、奥の石造りの建物を指差した。
「あれはうちの食料庫なんだけど、家族専用のものだから食べても大丈夫よ」
二人は今すぐ食料庫に飛び込みたい気分だったが、儀礼的に伺いを立てた。ネルファンディアはもちろん、にこりと笑って頷いている。
「ありがとう!」
「ありがとう、ネルファンディア!何か欲しいものはある?」
「そうね……私も一緒に見に行くわ」
一目散に倉庫へ向かった二人は、その食材の豊富さに目を疑った。ネルファンディアも後から瓦礫を伝ってやってくる。
「わぁ……」
「サルマンはあんな気難しい顔をして、意外に美食家だったんだな……」
「そうよ。父は食に煩くてね……特に塩漬け肉とワインを一緒に飲むのが好きな人だったわ」
ネルファンディアは遥か昔に思える遠い記憶に浸った。
『お父様、お腹すいたよ』
『困ったな。まだご飯の時間ではないと言うに……そうじゃ、お母様には内緒じゃぞ』
『うん!』
『ついておいで』
ネルファンディアは父と手を繋ぎながら、よくこの食料庫に来ていた。いつも決まってサルマンがくれるものは、レーズンとバターがたっぷり入った菓子パン──ブリオッシュだった。彼女はそれが大好きで、時々食べさせてくれる父にいつも感謝していた。普段は厳しい彼だったが、誰よりも愛情に溢れている人だった。
ネルファンディアは食料庫を見渡しながら、あの頃の思い出を一つ一つ振り返った。すると、隣でピピンがすっとんきょうな声を上げた。
「あれ?ブリオッシュだ」
「本当だ。しかもかなり新しい袋に入ってる」
ネルファンディアはピピンが指差す場所にある袋を手に取った。確かにブリオッシュだった。だが、どうしてここに新しいブリオッシュがあるのか。彼女は急にあることを確かめたい思いに駈られ、倉庫を後にした。
ネルファンディアが向かった場所。それは母エルミラエルの墓がある、森の中の噴水広間だった。母は生前、ここでサルマンに求婚されたと言っていた。だが、今もその場所があるかどうかは謎だ。ネルファンディアは半分希望を捨てて、広間への入り口である石造りの門をくぐった。
そこに広がっていた景色に、彼女は言葉を失った。
「そんな……」
なにもかも、この場所だけは昔と変わらぬ姿を留めていた。ネルファンディアは母の墓に駆け寄ると、その辺りに目を凝らした。誰かが直近に手入れをしている様子が至るところに見受けられた。彼女はその場に力なく座り込むと、呆然として墓を眺めた。
すると、背後から若いエントが現れた。
「……サルマンが、手入れした」
エントのビルボだった。ネルファンディアは墓に置いてある母にそっくりに造られた彫刻を抱き締め、目を閉じた。
「お父……様……」
いつも、素直でない人だった。褒めるのが下手で、時には反抗したくなる程に無神経なことを言うこともあった。けれど、やはりネルファンディアにとって、サルマンは父だった。
「新しいブリオッシュを買っていたのは……」
「あの方は、あなたの帰りを待っていた。ずっと待っていた。魔力が尽き、命を落としかけていたあなたを洪水と死の淵から助けたのも、あの方でした」
「そんな……」
ならばあのとき、どんな気持ちで彼は娘である自分に杖を向けたのか。ネルファンディアは贖罪の念で一杯になった。もし、今も自分の帰りを孤独に塔の中で待ち続けているのだとしたら……
「私、お父様に会いたい。白のサルマンとしてでも、背信者のサルマンとしてでもなく、ただの父として会いたい」
例え叶わないとしても。ネルファンディアは杖を頼りに立ち上がった。行かなければならない。手遅れになる前に。もう誰も見捨てる形で失いたくはない。回復しきっていない身体を押しながら、彼女はがむしゃらに足を動かした。
アイゼンガルドに戻ると、そこにはガンダルフ一行が到着していた。ネルファンディアは彼らに見つからないように後ろへ回ると、隠し扉からオルサンクに忍び込んだ。
「お主はわしに、助言を求めに来たのか?」
「そうじゃ。サルマン、降りてこい」
サルマンとガンダルフのやり取りが始まった。ネルファンディアはすぐに父が最上階にいることを悟った。見上げても上が見えないほどに高いこの塔を、憔悴している状態で上がれるかは微妙なところだった。それでもやらねばならない。ネルファンディアは杖を背にかけて手すりを持ちながら、階段を一段ずつ踏みしめた。
────お父様、私が帰ってきました。もうネルファンディアは、あなたを独りにしたりしません。
彼女は気力だけで階段を上がり続けた。そしてようやく最上階への入り口に差し掛かった。
「お主の慈悲や情けは無用!」
「サルマン!お前の杖は折れた!」
ガンダルフの声に怒りが宿る。サルマンの杖が折れたちょうどその瞬間に、彼女は入り口を押し開けた。
「お父様!」
ネルファンディアはよろめく足でオルサンクの最上階に立つと、サルマンに娘として対峙した。彼の目が見開かれる。
「お父様────もう、終わりにしましょう」
「ネルファンディア……」
「さぁ、一緒に降りましょう。もう、あなたを独りにしたりしない」
ネルファンディアは穏やかに微笑みかけた。サルマンは手を伸ばすか躊躇しているが、ガンダルフたちに言われたときほど頑なに拒んでいる様子はない。
「ネルファンディア……我が娘よ……」
サルマンの表情が、背信者から父の面持ちに変わった。穏やかなその素顔に、アラゴルンとギムリは思わず感嘆した。
「もう一度、やり直しましょう。私も一緒について行くから」
「ネルファンディア……そなたは……このような父でも、許してくれると言うのか?」
「ええ。もちろんよ、だって私はあなたの娘なのよ?」
親子の手が触れようとしていた。だがそこに横で控えていたグリマが怒りの言葉をぶつけた。
「貴様のせいで私はエオウィン姫の心を得られず、ローハンから追放された。それなのにお前だけが父親と幸せになって許されるものか!」
彼は短刀を取り出すと、奇声のような声を上げてネルファンディアに飛びかかろうとした。一瞬のことで、彼女はその場から動くことができない。グリマの振り上げた恨みの込められた刃の切っ先が、すぐそこに迫っている。視界が白く変わる。下に待ち構えているガンダルフたちが小さな悲鳴をあげた。自分は死んだ。そう思った。
けれど、刃はネルファンディアを貫くことはなかった。グリマの刃は、なんとサルマンの背を捕らえたのだ。
「お……お父……様?」
返事はない。主人を刺したことで呆然としていたグリマだったが、やがて彼にもぞんざいに扱われてきたことに対する憎悪を煮えたぎらせると、その背をもう一度刺そうと短刀を引き抜いた。ところが次の一刺しが振り下ろされる前に、レゴラスはとっさに弓を構えてグリマを射殺した。
サルマンの身体が、力なく床に崩れ落ちる。塔の外に転げ落ちそうになったその身をしっかり捉え、ネルファンディアは膝の上に載せて叫んだ。
「お父様!しっかりして!お父様!」
「ネルファンディア……怪我は……ないか?」
「私は大丈夫。でも……」
「わしは、問題……ない……わしのことは……もう……」
「駄目。絶対に駄目!」
ネルファンディアはサルマンを背に回すと、肩を貸すようにして塔を降り始めた。ガンダルフも魔力でオルサンクの入り口を破り、サルマンの元へと走った。
何とか寝室に運び込んだネルファンディアは、治療のために必要な薬を探そうと立ち上がった。だが、その手をサルマンはしっかりと掴んで離そうとしない。
「もう……良い……のだ。これで……良かったのかも……」
「そんなことない!死んでもいい命なんてどこにもない!」
その言葉にサルマンは微笑んだ。
「あぁ……懐かしい……六十年前、そなたはわしにそう言った……トーリン王子を救うために……」
「お父様……一つだけ、教えて。どうして、背信したの?」
ネルファンディアはベッドの横に膝をつくと、父の手を握って尋ねた。ガンダルフにも明かさなかった背信の理由。塔の上に上ってきた彼らも、部屋の扉近くで固唾をのんで解答を待っている。
サルマンは嘲笑を浮かべると、娘の目をしっかりと見て答え始めた。
「……わしは……ただ……戻りたかった……」
「何に?」
「あの頃……あの頃の……家族に……三人で、もう一度……」
ガンダルフはその言葉で全てを悟った。サルマンは力の指輪を手に入れて世界の支配者になる力ではなく、死者を甦らせる力を得たかったのだと。
「母が亡くなってから……そなたの笑顔は減った。いつもどこか……影を帯びていた。じゃが、そんなそなたの笑顔を……笑顔を取り戻してくれたのは……トーリン王子じゃった」
ネルファンディアの目が赤く染まる。
「だが────トーリン王子も、死んだ。毎日悲しみに暮れるそなたに……父であるわしは……何もしてやれなかった。そんなときに、あの指輪なら……死者を甦らせることができると……」
「違う!お父様は、間違えています」
ネルファンディアは叫んだ。父の手を握る指先に力を込め、彼女は空いた方の手でその頭を抱き締めた。
「私は……お父様と一緒に暮らせるだけでも……楽しかったのです。幸せでした。あれ以上の幸せは望んでいませんでした」
「そうだった……のか……」
サルマンの瞳から、涙がこぼれ落ちた。彼は悲しげに笑った。
「では……わしが全て……間違えておったんじゃな……」
「お父様、お願い。私を独りにしないで。お願い。トーリンやお母様みたいに、私を置いていかないで」
ガンダルフはサルマンに目で呼ばれた。黙ってかつての友の枕元にやって来ると、彼はその手を握った。初めてあった頃のことを思い出す、優しさ溢れる温かい手だった。
「ガンダルフ……ネルファンディアを……頼む。この子を独りにすることを……許して……ほしい」
「サルマン。この子にはあなたが必要なのです。どうか、頑張って下さい」
「いいや……心残りだが……行かねば……なら……ぬ」
彼はガンダルフの手を強く握り、最後の力を振り絞って警告した。
「あの目は……白き木と……山の下の王国に向いて……おる」
「ゴンドールと、エレボールのことか?」
「そう……じゃ……そこが陥落……すれば……世界は……永久の闇……に……」
ガンダルフは項を垂れた。時に嫌味で面倒な男でもあったが、それでもサルマンは自分の境遇を理解してくれる唯一の友だった。お互い、失ってから友としての大切さに気づくなど、あまりに悲しすぎた。彼はガンダルフのブローチを撫でて笑った。
「よう……似合うて……おる。なぁ、ガンダルフ……お主とわしが……初めから逆で……あれば……もっと仲良くなれた……かも……しれぬなぁ……」
「いいえ、それは違う。私はあなたを心より尊敬していました。あなたは今でも、私の友です」
ネルファンディアは父の涙をぬぐいながら、悲しみで押し潰されそうになっていた。
「お父様……」
「ネルファンディア。ずっと、変わらず愛して……おる。そなたはわしの……誇り。最高の娘じゃ……」
「私もです。あなたは自慢の父です」
ネルファンディアは涙を流さないと、決めていた。いつも大切なひとを見送るときは、最高の笑顔で見送ると決めていた。サルマンは愛娘の頬を、優しく撫でた。その手がとても懐かしくて、彼女は涙を堪えることができなくなってしまった。朦朧とする意識の中で、サルマンは最期の言葉を呟いた。
「どうしたの……だ。ネルファンディア……父がおる……から。ほら……泣くで……ない」
暖かくて、優しくて、安心できるその手が頬から離れる。ネルファンディアは瞳を見開いたまま、父の手を握って呆然としている。幼子のように見開かれた両目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちた。
こうして、白の賢者サルマンは壮絶な人生に幕を下ろした。彼の犯した罪は決して許されるべきものではない。だがガンダルフたちは、怒りよりも純粋な悲しみに包まれる気持ちにやりきれない思いを覚えた。
全てを元通りに戻したかった男は、全てを狂わせて去った。その生きざまは愚かで、そしてどこか哀れにも思われるのだった。
彼女はゆっくりと目を開けた。視界がぼやけてはいるものの、両目は徐々に世界を取り戻し始めている。
「ん……」
ネルファンディアは身体を起こそうとして手を動かした瞬間、自分がどこにいるのかを知った。掌が触れたのは地面ではなく、透き通った水面だった。それよりも驚いたのは、指先に無かった感覚が戻っていることだ。魔力が寿命単位で削り取られたことはわかるが、ほとんど歩けるほどには回復している。
彼女はふらつきながらも立ち上がり、岸に身を横たえた。喉の渇きを潤すために、手で水をすくって飲む。そして自分が先程まで漂っていた水が何であるかを知った。
「……これは、エント水……ね」
著しい精神力の低下にはエント水が最も効果を発揮する。だがまさか、着衣の状態で全身を浸けられても効能があるとは思いもしなかった。
肘で身体を支えながら空を見上げ、ネルファンディアはため息をついた。戦いで杖を失ったことは大きな痛手だった。だが、アイゼンガルドを陥落させることは成功した。それでもまだ全身の倦怠感は残っている。彼女はこういうときに支えとなる杖が欲しいと思ったが、なんとか木の幹を使って立ち上がろうとした。
すると、目の前に一本の木の棒が現れた。彼女は顔をあげると共に驚きに包まれた。
「ビルボ……?これはあなたの体の一部じゃ……」
「使ってください。あなたが愛した人の命を救った、樫の木ですから」
ネルファンディアはエントのビルボから杖を受け取った。樫の木は、とても頑丈で手触りも良かった。彼女はトーリンに支えられているような気分になりながら、ゆっくりと歩きだした。
アイゼンガルドの方へ歩くことしばらく、ネルファンディアは楽しそうな声が聞こえてきたことに微笑みをこぼした。
「あっ!ネルファンディア!」
「もう大丈夫なんですか?」
ピピンとメリーは、一目散にネルファンディアの方へ駆け寄ってきた。二人は大はしゃぎしながら彼女の手を取って、身体は大丈夫か、もう歩いてもいいのか、お腹はすいていないかと次々に質問を投じてきた。
「大丈夫よ、ありがとう」
「そうですか。安心しました」
「あなたたちはお腹すいていないの?」
「ええ!大丈夫で……」
メリーがそう言おうとしたときだった。ホビットたちの腹が盛大に鳴った。ネルファンディアは失笑して、奥の石造りの建物を指差した。
「あれはうちの食料庫なんだけど、家族専用のものだから食べても大丈夫よ」
二人は今すぐ食料庫に飛び込みたい気分だったが、儀礼的に伺いを立てた。ネルファンディアはもちろん、にこりと笑って頷いている。
「ありがとう!」
「ありがとう、ネルファンディア!何か欲しいものはある?」
「そうね……私も一緒に見に行くわ」
一目散に倉庫へ向かった二人は、その食材の豊富さに目を疑った。ネルファンディアも後から瓦礫を伝ってやってくる。
「わぁ……」
「サルマンはあんな気難しい顔をして、意外に美食家だったんだな……」
「そうよ。父は食に煩くてね……特に塩漬け肉とワインを一緒に飲むのが好きな人だったわ」
ネルファンディアは遥か昔に思える遠い記憶に浸った。
『お父様、お腹すいたよ』
『困ったな。まだご飯の時間ではないと言うに……そうじゃ、お母様には内緒じゃぞ』
『うん!』
『ついておいで』
ネルファンディアは父と手を繋ぎながら、よくこの食料庫に来ていた。いつも決まってサルマンがくれるものは、レーズンとバターがたっぷり入った菓子パン──ブリオッシュだった。彼女はそれが大好きで、時々食べさせてくれる父にいつも感謝していた。普段は厳しい彼だったが、誰よりも愛情に溢れている人だった。
ネルファンディアは食料庫を見渡しながら、あの頃の思い出を一つ一つ振り返った。すると、隣でピピンがすっとんきょうな声を上げた。
「あれ?ブリオッシュだ」
「本当だ。しかもかなり新しい袋に入ってる」
ネルファンディアはピピンが指差す場所にある袋を手に取った。確かにブリオッシュだった。だが、どうしてここに新しいブリオッシュがあるのか。彼女は急にあることを確かめたい思いに駈られ、倉庫を後にした。
ネルファンディアが向かった場所。それは母エルミラエルの墓がある、森の中の噴水広間だった。母は生前、ここでサルマンに求婚されたと言っていた。だが、今もその場所があるかどうかは謎だ。ネルファンディアは半分希望を捨てて、広間への入り口である石造りの門をくぐった。
そこに広がっていた景色に、彼女は言葉を失った。
「そんな……」
なにもかも、この場所だけは昔と変わらぬ姿を留めていた。ネルファンディアは母の墓に駆け寄ると、その辺りに目を凝らした。誰かが直近に手入れをしている様子が至るところに見受けられた。彼女はその場に力なく座り込むと、呆然として墓を眺めた。
すると、背後から若いエントが現れた。
「……サルマンが、手入れした」
エントのビルボだった。ネルファンディアは墓に置いてある母にそっくりに造られた彫刻を抱き締め、目を閉じた。
「お父……様……」
いつも、素直でない人だった。褒めるのが下手で、時には反抗したくなる程に無神経なことを言うこともあった。けれど、やはりネルファンディアにとって、サルマンは父だった。
「新しいブリオッシュを買っていたのは……」
「あの方は、あなたの帰りを待っていた。ずっと待っていた。魔力が尽き、命を落としかけていたあなたを洪水と死の淵から助けたのも、あの方でした」
「そんな……」
ならばあのとき、どんな気持ちで彼は娘である自分に杖を向けたのか。ネルファンディアは贖罪の念で一杯になった。もし、今も自分の帰りを孤独に塔の中で待ち続けているのだとしたら……
「私、お父様に会いたい。白のサルマンとしてでも、背信者のサルマンとしてでもなく、ただの父として会いたい」
例え叶わないとしても。ネルファンディアは杖を頼りに立ち上がった。行かなければならない。手遅れになる前に。もう誰も見捨てる形で失いたくはない。回復しきっていない身体を押しながら、彼女はがむしゃらに足を動かした。
アイゼンガルドに戻ると、そこにはガンダルフ一行が到着していた。ネルファンディアは彼らに見つからないように後ろへ回ると、隠し扉からオルサンクに忍び込んだ。
「お主はわしに、助言を求めに来たのか?」
「そうじゃ。サルマン、降りてこい」
サルマンとガンダルフのやり取りが始まった。ネルファンディアはすぐに父が最上階にいることを悟った。見上げても上が見えないほどに高いこの塔を、憔悴している状態で上がれるかは微妙なところだった。それでもやらねばならない。ネルファンディアは杖を背にかけて手すりを持ちながら、階段を一段ずつ踏みしめた。
────お父様、私が帰ってきました。もうネルファンディアは、あなたを独りにしたりしません。
彼女は気力だけで階段を上がり続けた。そしてようやく最上階への入り口に差し掛かった。
「お主の慈悲や情けは無用!」
「サルマン!お前の杖は折れた!」
ガンダルフの声に怒りが宿る。サルマンの杖が折れたちょうどその瞬間に、彼女は入り口を押し開けた。
「お父様!」
ネルファンディアはよろめく足でオルサンクの最上階に立つと、サルマンに娘として対峙した。彼の目が見開かれる。
「お父様────もう、終わりにしましょう」
「ネルファンディア……」
「さぁ、一緒に降りましょう。もう、あなたを独りにしたりしない」
ネルファンディアは穏やかに微笑みかけた。サルマンは手を伸ばすか躊躇しているが、ガンダルフたちに言われたときほど頑なに拒んでいる様子はない。
「ネルファンディア……我が娘よ……」
サルマンの表情が、背信者から父の面持ちに変わった。穏やかなその素顔に、アラゴルンとギムリは思わず感嘆した。
「もう一度、やり直しましょう。私も一緒について行くから」
「ネルファンディア……そなたは……このような父でも、許してくれると言うのか?」
「ええ。もちろんよ、だって私はあなたの娘なのよ?」
親子の手が触れようとしていた。だがそこに横で控えていたグリマが怒りの言葉をぶつけた。
「貴様のせいで私はエオウィン姫の心を得られず、ローハンから追放された。それなのにお前だけが父親と幸せになって許されるものか!」
彼は短刀を取り出すと、奇声のような声を上げてネルファンディアに飛びかかろうとした。一瞬のことで、彼女はその場から動くことができない。グリマの振り上げた恨みの込められた刃の切っ先が、すぐそこに迫っている。視界が白く変わる。下に待ち構えているガンダルフたちが小さな悲鳴をあげた。自分は死んだ。そう思った。
けれど、刃はネルファンディアを貫くことはなかった。グリマの刃は、なんとサルマンの背を捕らえたのだ。
「お……お父……様?」
返事はない。主人を刺したことで呆然としていたグリマだったが、やがて彼にもぞんざいに扱われてきたことに対する憎悪を煮えたぎらせると、その背をもう一度刺そうと短刀を引き抜いた。ところが次の一刺しが振り下ろされる前に、レゴラスはとっさに弓を構えてグリマを射殺した。
サルマンの身体が、力なく床に崩れ落ちる。塔の外に転げ落ちそうになったその身をしっかり捉え、ネルファンディアは膝の上に載せて叫んだ。
「お父様!しっかりして!お父様!」
「ネルファンディア……怪我は……ないか?」
「私は大丈夫。でも……」
「わしは、問題……ない……わしのことは……もう……」
「駄目。絶対に駄目!」
ネルファンディアはサルマンを背に回すと、肩を貸すようにして塔を降り始めた。ガンダルフも魔力でオルサンクの入り口を破り、サルマンの元へと走った。
何とか寝室に運び込んだネルファンディアは、治療のために必要な薬を探そうと立ち上がった。だが、その手をサルマンはしっかりと掴んで離そうとしない。
「もう……良い……のだ。これで……良かったのかも……」
「そんなことない!死んでもいい命なんてどこにもない!」
その言葉にサルマンは微笑んだ。
「あぁ……懐かしい……六十年前、そなたはわしにそう言った……トーリン王子を救うために……」
「お父様……一つだけ、教えて。どうして、背信したの?」
ネルファンディアはベッドの横に膝をつくと、父の手を握って尋ねた。ガンダルフにも明かさなかった背信の理由。塔の上に上ってきた彼らも、部屋の扉近くで固唾をのんで解答を待っている。
サルマンは嘲笑を浮かべると、娘の目をしっかりと見て答え始めた。
「……わしは……ただ……戻りたかった……」
「何に?」
「あの頃……あの頃の……家族に……三人で、もう一度……」
ガンダルフはその言葉で全てを悟った。サルマンは力の指輪を手に入れて世界の支配者になる力ではなく、死者を甦らせる力を得たかったのだと。
「母が亡くなってから……そなたの笑顔は減った。いつもどこか……影を帯びていた。じゃが、そんなそなたの笑顔を……笑顔を取り戻してくれたのは……トーリン王子じゃった」
ネルファンディアの目が赤く染まる。
「だが────トーリン王子も、死んだ。毎日悲しみに暮れるそなたに……父であるわしは……何もしてやれなかった。そんなときに、あの指輪なら……死者を甦らせることができると……」
「違う!お父様は、間違えています」
ネルファンディアは叫んだ。父の手を握る指先に力を込め、彼女は空いた方の手でその頭を抱き締めた。
「私は……お父様と一緒に暮らせるだけでも……楽しかったのです。幸せでした。あれ以上の幸せは望んでいませんでした」
「そうだった……のか……」
サルマンの瞳から、涙がこぼれ落ちた。彼は悲しげに笑った。
「では……わしが全て……間違えておったんじゃな……」
「お父様、お願い。私を独りにしないで。お願い。トーリンやお母様みたいに、私を置いていかないで」
ガンダルフはサルマンに目で呼ばれた。黙ってかつての友の枕元にやって来ると、彼はその手を握った。初めてあった頃のことを思い出す、優しさ溢れる温かい手だった。
「ガンダルフ……ネルファンディアを……頼む。この子を独りにすることを……許して……ほしい」
「サルマン。この子にはあなたが必要なのです。どうか、頑張って下さい」
「いいや……心残りだが……行かねば……なら……ぬ」
彼はガンダルフの手を強く握り、最後の力を振り絞って警告した。
「あの目は……白き木と……山の下の王国に向いて……おる」
「ゴンドールと、エレボールのことか?」
「そう……じゃ……そこが陥落……すれば……世界は……永久の闇……に……」
ガンダルフは項を垂れた。時に嫌味で面倒な男でもあったが、それでもサルマンは自分の境遇を理解してくれる唯一の友だった。お互い、失ってから友としての大切さに気づくなど、あまりに悲しすぎた。彼はガンダルフのブローチを撫でて笑った。
「よう……似合うて……おる。なぁ、ガンダルフ……お主とわしが……初めから逆で……あれば……もっと仲良くなれた……かも……しれぬなぁ……」
「いいえ、それは違う。私はあなたを心より尊敬していました。あなたは今でも、私の友です」
ネルファンディアは父の涙をぬぐいながら、悲しみで押し潰されそうになっていた。
「お父様……」
「ネルファンディア。ずっと、変わらず愛して……おる。そなたはわしの……誇り。最高の娘じゃ……」
「私もです。あなたは自慢の父です」
ネルファンディアは涙を流さないと、決めていた。いつも大切なひとを見送るときは、最高の笑顔で見送ると決めていた。サルマンは愛娘の頬を、優しく撫でた。その手がとても懐かしくて、彼女は涙を堪えることができなくなってしまった。朦朧とする意識の中で、サルマンは最期の言葉を呟いた。
「どうしたの……だ。ネルファンディア……父がおる……から。ほら……泣くで……ない」
暖かくて、優しくて、安心できるその手が頬から離れる。ネルファンディアは瞳を見開いたまま、父の手を握って呆然としている。幼子のように見開かれた両目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちた。
こうして、白の賢者サルマンは壮絶な人生に幕を下ろした。彼の犯した罪は決して許されるべきものではない。だがガンダルフたちは、怒りよりも純粋な悲しみに包まれる気持ちにやりきれない思いを覚えた。
全てを元通りに戻したかった男は、全てを狂わせて去った。その生きざまは愚かで、そしてどこか哀れにも思われるのだった。