五章、迫る決断
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鬱蒼とするファンゴルンの森に足を踏み入れたネルファンディアは、久々の故郷に胸踊らせるレヴァナントの頭を撫でた。馬でこの森を怖がらないのは彼だけだろう。
ネルファンディアはため息をつきながら森を進んだ。ふと、懐かしい声が耳に届いたので、彼女は顔をあげた。
────まさか、この声は……
ネルファンディアはレヴァナントを走らせ、声のする方へ向かった。そこには、声の主────メリアドク・ブランディバックことメリーと、ペレグリン・トゥックことピピンがいた。二人はネルファンディアを見て、幽霊でも見たかのような驚きぶりだ。
「えっ……メ、メリー、ネルファンディアがいる」
「本当だ……夢?」
ネルファンディアはさんざん心配させておいてという意味も込めて、二人の額を杖で小突いた。もちろん、表情は再会の喜びを隠しきれていない。
「ネルファンディア!」
「もう会えないと思ってました」
二人はネルファンディアに抱きついた。ビルボと同じ懐かしい背丈のホビットの頭を撫でようとして、彼女は手を止めた。
「……あれ?あなたたち、前より高くなってない?」
「え?あぁ……」
「ええと……」
身体の半分以上が悪戯と好奇心で出来ている二人の性格から、エント水を飲んだことはすぐに見破ることができた。だが、ネルファンディアは二人のことを叱ろうとはしなかった。何も言わずに頭を優しく撫でると、今までの経緯を聞こうとした。
だが二人が答えるよりも先に、"彼"が現れた。
「久しぶりですな、蒼の姫」
ネルファンディアはその声に振り返った。幼い頃からずっと一緒に遊んでくれた、エント族の木の髭だった。彼女は童心に帰ったように駆け寄ると、その幹に抱きついて顔を埋めた。
「木の髭!会いたかったわ」
「小さき姫よ、達者でしたか?」
「もちろん!あぁ、懐かしいわ……ひょっとして二人は、あなたが助けてくれたの?」
「そう。わしが助けました」
メリーとピピンは顔を見合わせて、ネルファンディアと木の髭の様子に面食らっている。
「わしはこの子が……お主らより小さい頃から……知っておる。よくサルマンと共に、散歩を楽しんでおったな」
「ええ……随分遠い昔の話のように思えるけどね」
ネルファンディアはため息をつき、石に腰かけた。この石も、よくサルマンが座っていたものだった。彼女は父の膝の上に座る。それがお気に入りの場所だった。
メリーとピピンは、ネルファンディアに尋ねられたアイゼンガルドの様子を寸分違えず伝え始めた。
「今、サルマンは大軍勢を従えています」
「どの程度?」
「あれは……数万?」
それくらいあれば、ヘルム峡谷は難なく落とせるだろう。ピピンは表情を曇らせているネルファンディアに続けた。
「サルマンは、人間を根絶やしにする気です。ウルク=ハイたちに、確かに『今宵、大地はローハンの血で染まるだろう。人間たちに朝はこない』と言っていました」
ネルファンディアは何も言わず、黙って聞いている。すっかり高揚したメリーは、彼女に捲し立てた。
「ネルファンディア!思ったんです。エント達が立ち上がれば、今のアイゼンガルドを落とすことができるはず!だから木の髭が会議……ええと…名前は……」
「エントミート。エントミートを開くんだ!」
そこまで言ってようやく、二人はネルファンディアの返事がないことに気づき、話を続けるのをやめる代わりに小さな声で謝罪した。
「……ごめん。あの人は君の……」
「父ではない」
「え?」
「あの人は……父ではない。あの男が居すわる塔も、もう私の家ではない」
顔をあげたネルファンディアの瞳には、確かな憎悪が燃えていた。それはサルマンに対しての反撃の意思でもあった。
エントミートが行われる広場で、ネルファンディアは草むらの上に横たわっていた。二人のホビットは彼女のやる気の無さに酷く憤慨した。
「どうしてそんなにやる気が無いんですか!?」
「そうですよ!ほら、起きてください!」
メリーに無理やり起こされ、ネルファンディアは吐き捨てるように言った。
「エントたちに何を望んでいるの?彼らは決して動かない」
「そんな……」
「じゃあ、どうすれば?」
「どうするも何も、動かないものは動かないと思うわ」
二人は顔を見合わせた。そしてネルファンディアが独りでも行かねばと言って去っていったその数時間後、彼らはその落胆の意味を知るのだった。
エントミートが始まって半日。既に夜になった。サルマンの計画通りなら、既にヘルム峡谷には何万というウルク=ハイの大軍が到着している頃だ。木の髭は振り返ると、メリーとピピンに進捗状況を報告した。
「今、終えたところだ」
「話し合いを?」
「いいや、挨拶を」
メリーは悠長な様子に怒りを露にした。
「なんて悠長な!仲間が死にそうになっているんです!早くしてください!」
「まぁ、そうあせるな。何せエント語で話すのは時間がかかる……」
メリーは絶望混じりのため息をついた。ピピンもお喋りな口を今ではすっかり閉口している。
そして話し合いが再開された。次の報告は夜明け前だった。
「結論が出た」
「本当に!?戦いには?」
「いや、そうではなく。お主らがオークではないと」
ほぼ一晩と一昼かけて、この遅さ。メリーはついに激怒した。
「あなたたちは、これでいいんですか!?」
「わしらはいつも、魔法使いと人間のいさかいには関わらんようにしていた。だから今回も、恐らくそうなるじゃろう」
「そんな……あなたたちも、この世界の一員なのに!」
エントたちのざわめきが聞こえる。どうやら全員メリーの言いたいことは解っているようだ。彼は続けた。
「お願いです、助けてください」
返事はない。答えは最初から決まっていたのだ。やるせない気持ちが怒りより先行し、メリーはついに俯いてしまった。木の髭は何と返事すればよいかわからず、静かな声で二人に言った。
「ホビット庄へ戻るんじゃ。東の外れまで送ろう」
故郷に帰る。これほどに待ち焦がれたことなのに、何故かとても悲しかった。そして二人は渋々、解散したエントたちを見送ってから帰り支度を始めるのだった。
ピピンは悲嘆に沈むメリーの肩を叩いて、いつもの声で言った。
「でも、木の髭は正しいかも。僕らに何ができる?僕らにはホビット庄があるんだから。帰るべきなのかも」
その言葉に、メリーは落胆の色を滲ませながら答えた。
「……アイゼンガルドの災厄は戦火と共に広がる。それはやがて中つ国全土を闇で覆い、ホビット庄も消える。わかるか?ピピン。僕らの故郷も、ネルファンディアの故郷みたいに消えるんだ」
ピピンは言葉を失った。そして自分も心のどこかで木の髭たちと同じように、他人事だと思っていたことを恥じた。だが、今さらどうしようというのか。二人はそのやり取りきり、一言も交わさなくなってしまった。
その頃、ネルファンディアは独りで思案を巡らせていた。いや、正確にはエントたちと同じように決断から逃げていた。すると、そこにすっかり立派な若エントに成長したビルボ────ビルボ・バキンズからもらった、あのドングリから生えてきた樫の木が姿を現した。
「……父親を、打つのですか?ネルファンディア殿」
「父親だからこそ、私が終わらせなければならない」
「私も行きましょう。あなたの愛する人が、命と引き換えに守った中つ国を取り戻すため」
ネルファンディアはビルボの言葉には答えず、俯いた。行かねばならないと言っている自分と、行きたくないと言っている自分に板挟みにされる思いに包まれる。
────お母様、私はどうすればいいの。お父様を倒すなんて、私には……
アイゼンガルドの夜明けが来た。ヘルム峡谷はどうなっているのだろうか。ひょっとするとあの四人の中で、既に自分は最後の一人になっているのかもしれない。
孤独な思いを抱えて、ネルファンディアはトーリンの指輪を握った。それでも不安は止まらない。独りで立ち向かうことの恐怖を、彼女は初めて知った。トーリンが抱えていた思いの全てが、ようやく理解できた気がした。
決断のときは、すぐそこまで迫っていた。
一方、メリーとピピンは木の髭に運んでもらっている最中だった。すると、先程まで無言だったピピンが突然こんなことを言い出した。
「ねぇ、南へ行って!」
「アイゼンガルドを通るのか……?」
「正気か?捕まるだけだぞ」
「ああ、でも今度はそうはさせないさ」
ピピンは自信満々にオルサンクの塔を見据えた。木の髭の足が南へと向く。全く何を意図しているのかを理解していないメリーは、ピピンがいよいよ馬鹿になったと思っているようだ。
木の髭は南へ向かう間、思い出話に花を咲かせた。
「わしは南に行くのがすきでな。坂を下るように気分がよくなるんじゃ。野ネズミが肩に乗ってきて────」
だが、その話は南の森に差し掛かった瞬間に止まった。木の髭は自分の目を疑い、まばたきをした。けれども景色は変わらない。そう、彼の愛する南の森は根こそぎ削り取られていたのだ。木の髭は声を震わせながら、辺りの惨状を見回した。
「ここの木たちは、わしの友達じゃった。それぞれに声もあった」
その声は次第に強くなり、視線がオルサンクに向けられた時には怒りの色を宿すようになっていた。
「おのれ、サルマン!魔法使いともあろうものが!」
彼は声にならない叫びを森中に轟かせた。
「これほどの悪行をののしる言葉は、エント語にもエルフ語にも、人間の言葉にもないじゃろう」
木の髭が怒りを増幅させている間に、ファンゴルンの木々が揺れだした。メリーは驚いた様子で辺りを見ている。
「木が……動き出している!」
「これが最初で最後の、エントの行進になるじゃろう」
ピピンはしてやったりと笑っている。
実はネルファンディアと別れる少し前、ピピンは彼女を追いかけていた。
『ネルファンディア!逃げるの?』
『違う。ただ……整理を付けねばならないことがあるの』
彼女はピピンの肩に優しく手を置いて、静かに続けた。
『ピピン、あなたは賢い。それに機転が利く。……木の髭たちを奮起させることが出来るかもしれない策が、一つだけあるの』
『それは?』
『南へ行くのよ。南の森の惨状を、何も知らない木の髭に予告なしに見せるの』
その手があったか。ピピンは深くうなずいた。だが、うまく行くという保証はない。
『もし、それが失敗したら?』
『そのときは……』
ネルファンディアは表情を曇らせると、アイゼンガルドに目を向けて答えた。
『その時は、私一人でもあの人を止めるしかない』
────ネルファンディア、うまくいったよ。あなた一人で行かせるわけにはいかないよ。
二人のホビットは、今まで恐らく誰も見たことのないエントの大行進を自身の目で目撃できていることに喜びを感じていた。だが、あと一人足りない。メリーは木の髭に尋ねた。
「ねぇ、ネルファンディアは?待たないの?」
「姫を待たずして行く。あの子に父親への処罰をさせることなど出来ん」
二人と一体は、アイゼンガルドを見据えた。今こそ反撃のとき。あとは天が味方してくれることだけを祈るのだった。
アイゼンガルドに進軍してきたエントの群れについては、すぐにサルマンの元にも伝わった。彼はオルサンクのバルコニーからエントたちの反撃を見て狼狽した。だが、すぐに自信を取り戻すと、残った部下たちに高らかな声で告げた。
「火矢を放て!」
オークとウルク=ハイたちはすぐに火矢を準備すると、エントたちに一斉射撃を始めた。これには流石に堪らないと逃げ出す者、悲鳴を上げる者も出始めた。メリーとピピンはさっそく覆され始めた形勢に焦りを感じた。
だがエント部隊の一部が撤退しようとし始めた瞬間、二人は何よりも胸踊る援護を目にすることとなった。
一体の炎上しているエントを突然、青い光が包んだ。光が飛んできた方向を見ると、そこにはエントのビルボに乗って駆けつけたネルファンディアが居た。
「待たせたわね、みんな」
メリーとピピンは、歓喜の声をあげた。
「ネルファンディア!」
「来てくれたんだね!」
「おぉ……樫の木のビルボ、お主も加わるのか」
木の髭の言葉に頷いているビルボと呼ばれたエントを見て、二人は目を丸くした。
「ビルボ……?」
「あの、ビルボ・バキンズと関係が?」
「説明は後だ。サルマンを引きずり出さねば……」
するとビルボのその言葉に、ネルファンディアが答えた。
「────魔法使いのことは、私に任せなさい」
ネルファンディアはそう言うと、杖をしっかり携えてオルサンクの正面まで歩きだした。
「白のサルマン!」
サルマンは声のする方向を見て、驚愕した。
「なっ……ネルファンディア!?」
だが、ネルファンディアの表情は変わらない。彼女は杖を振り上げると、かつて父であった人にそっくりな声色で告げた。
「────白の賢者ともあろう方が、塔に閉じ籠るだけか?」
その言葉は、娘としての決別を意味していた。サルマンは曇天の空を仰いで、目を閉じた。そして漆黒の杖を握りしめて、バルコニーから姿を消した。固唾を呑んで見守るなか、サルマンがオルサンクの階段を下りてくる。ネルファンディアを捕らえようと動いた部下たちを、サルマンは威厳を込めながら制止した。
「手出しは無用。この不肖の娘は、わし自らが方をつける」
「不肖の娘、か。あなたの僕に託した伝言をお聞きになって仰っているのでしょうか?」
「ああ、無論」
サルマンはゆっくりとネルファンディアに近づき、顔を上げた。
「ならば、わしも娘とは思わんまでよ」
そして、彼は唐突に杖を振り上げた。盾を張る間もなく、ネルファンディアは後ろに弾き飛ばされた。その身体は黒曜石でできた石畳の上を滑り、オークたちの洞窟の手前でなんとか止まった。彼女はすかさず杖を同じように振り、サルマンの足をすくった。後ろにつんのめっている隙に立ち上がり、ネルファンディアは滑る石畳を利用して一気に距離を積めた。
「はぁぁ!!」
ありったけの魔力を杖の先に込め、ネルファンディアはサルマンに振りかぶった。彼は寸前のところで攻撃を同じように杖で受け止めると、ネルファンディアの脇腹に杖の逆側を叩きつけようとした。器用に反撃を避けると、彼女は再びサルマンに飛びかかった。杖で的確に防御をするため、お互い決着がつく様子はない。
ネルファンディアはバックステップと前転を使って後ろに下がると、利き脚を後ろにずらして杖を前に突き出した。杖の先からは、先程エントを救ったものとは比べ物にならないほどに目映い光が発せられた。サルマンは咄嗟に同じように杖を突き出し、攻撃を受け止めた。お互いの力が拮抗し合う。
サルマンは顔をしかめながらも、余裕がありげに叫んだ。
「最低階級である蒼のイスタリが、白のサルマンに勝てると思うか!思い上がるな!」
「あなたはもう純粋な白ではない!」
二人の力関係が僅かに変化した。ネルファンディアが不利になっている。
メリーとピピンは魔法使いの戦いに気をとられていたが、やがて危機的状況であることを思い出して我に返った。
「何とかしないと!木の髭、何か方法は────」
ピピンは自分が悪戯をするならどうするかという視点で、必死に辺りを見回した。だが、こういう時に限って思い付かない。すると、彼の視界にダムの存在が入った。
「木の髭!ダムを決壊させるんだ!」
「わかった。皆のもの、ダムを壊せ!」
エント達がダムへと向かう。かなりの距離があるため、ネルファンディアがそれまで持ちこたえられるかどうかはわからなかった。事実、彼女の力は限界を迎えていた。
「私は……!あなたを……止める!」
「無駄な足掻きは止めよ!死ぬぞ!」
「────ここで……死すべき定めなら……」
ネルファンディアは杖を両手で握り、命を削るほどの魔力を出した。
「あなたと共に────死ぬまでよ!」
最後の足掻きとも言える力は、とてもサルマンの受け止めきれるものではなかった。ネルファンディアの杖は発する魔力に耐えきれず、粉々に砕け散った。二人は共に後方へ吹き飛んだ。地面に力なく伏した彼女の世界が暗転する。
サルマンは苦痛に喘ぎながらも、何とか身体を起こした。すると、遥か遠くに今にも決壊しそうなダムが目に飛び込んできた。彼は声にならない声で、動かない瀕死の娘に叫んだ。だが、返事はない。彼女は浅い息を繰り返しながら、青白い顔で倒れている。一刻の猶予もない。サルマンはふらつく足を無理矢理動かして、ネルファンディアの元へ走った。そして己の疲労の限界も忘れて彼女を肩に担ぎ上げると、唯一の高台──オルサンクの階段へと急いだ。
濁流がすぐそこまで迫る中、なんとか娘を階段の一番上まで運びきったサルマンは、荒い息を立てながら座り込んだ。だが、ネルファンディアが目を覚ます気配はない。彼は娘を階段に横たえ、様子を注意深く観察した。息は既に弱々しく、時折咳き込む度に黒い血を吐くまで衰弱していた。彼は両目に涙をためながら、娘の身体を抱き締めて愛しいその名を叫んだ。
「ネルファンディア……!ネルファンディア……!目を開けるのだ!」
しかし、ネルファンディアはその呼び掛けには答えない。サルマンは空を仰いだ。
────ヴァラール達よ。自由の民を裏切り、己の目的を達しようとしたわしのことを罰しても構いません。わしの魔力を奪っても、この肉体を八つ裂きにしようとも構いません。ですからどうか、わしから愛する娘のネルファンディアは奪わないでください!
勝手な願いであることは、彼自身もよくわかっていた。同じくらいの年の娘や、彼女よりも幼い子供の命も容赦なく奪ったことの天罰と言われればそれまでだった。
神頼みでは改善しないと悟ったのか、サルマンは塔へ急ぎ戻って自室から薬瓶を取り出した。そして娘のもとに戻ると、無理矢口を開けて薬を流し込んだ。
「頼む……目を覚ましてくれ……。せめて、せめて顔色だけでも戻ってくれさえすれば……」
サルマンは娘の手を握り、回復の兆しを待った。まばたきを二三度する程度の時間だったが、異常に長く感じられる。
薬はすぐに効果を見せた。ネルファンディアがひときわ大きく咳き込んで黒い血をすべて吐き出すと、顔色はみるみると元の色を取り戻し始めた。
「ネルファンディア!聞こえるか?わしじゃ!」
朦朧とした意識の中で、ネルファンディアがうっすらと目を開けた。サルマンは感極まって大粒の涙を流すと、依然と生死をさ迷う娘の額に口づけした。
「ネルファンディア……我が最愛の娘よ……この父を、許してくれ……まだやらねばならんことが残っておるんじゃ。だからどうか、理解せずともよい。憎むことも許そう。じゃが、父の悲願を達成するその日まで生きておってくれ……」
サルマンは顔を上げ、辺りを見回した。自分を八つ裂きにしようと怒りに燃えるエント達には、まだ捕まるわけにはいかなかった。
「ネルファンディア!」
「しっかりして!」
メリーとピピンが、木の髭の上からネルファンディアの名を呼んでいる。彼は娘から名残惜しそうに離れると、素早く塔の入り口に入って扉を固く閉ざした。そして膝からその場に崩れ落ち、魔法使いは声を殺して泣いた。
もちろんその痛みは、ネルファンディアに届くことはなかった。
ネルファンディアはため息をつきながら森を進んだ。ふと、懐かしい声が耳に届いたので、彼女は顔をあげた。
────まさか、この声は……
ネルファンディアはレヴァナントを走らせ、声のする方へ向かった。そこには、声の主────メリアドク・ブランディバックことメリーと、ペレグリン・トゥックことピピンがいた。二人はネルファンディアを見て、幽霊でも見たかのような驚きぶりだ。
「えっ……メ、メリー、ネルファンディアがいる」
「本当だ……夢?」
ネルファンディアはさんざん心配させておいてという意味も込めて、二人の額を杖で小突いた。もちろん、表情は再会の喜びを隠しきれていない。
「ネルファンディア!」
「もう会えないと思ってました」
二人はネルファンディアに抱きついた。ビルボと同じ懐かしい背丈のホビットの頭を撫でようとして、彼女は手を止めた。
「……あれ?あなたたち、前より高くなってない?」
「え?あぁ……」
「ええと……」
身体の半分以上が悪戯と好奇心で出来ている二人の性格から、エント水を飲んだことはすぐに見破ることができた。だが、ネルファンディアは二人のことを叱ろうとはしなかった。何も言わずに頭を優しく撫でると、今までの経緯を聞こうとした。
だが二人が答えるよりも先に、"彼"が現れた。
「久しぶりですな、蒼の姫」
ネルファンディアはその声に振り返った。幼い頃からずっと一緒に遊んでくれた、エント族の木の髭だった。彼女は童心に帰ったように駆け寄ると、その幹に抱きついて顔を埋めた。
「木の髭!会いたかったわ」
「小さき姫よ、達者でしたか?」
「もちろん!あぁ、懐かしいわ……ひょっとして二人は、あなたが助けてくれたの?」
「そう。わしが助けました」
メリーとピピンは顔を見合わせて、ネルファンディアと木の髭の様子に面食らっている。
「わしはこの子が……お主らより小さい頃から……知っておる。よくサルマンと共に、散歩を楽しんでおったな」
「ええ……随分遠い昔の話のように思えるけどね」
ネルファンディアはため息をつき、石に腰かけた。この石も、よくサルマンが座っていたものだった。彼女は父の膝の上に座る。それがお気に入りの場所だった。
メリーとピピンは、ネルファンディアに尋ねられたアイゼンガルドの様子を寸分違えず伝え始めた。
「今、サルマンは大軍勢を従えています」
「どの程度?」
「あれは……数万?」
それくらいあれば、ヘルム峡谷は難なく落とせるだろう。ピピンは表情を曇らせているネルファンディアに続けた。
「サルマンは、人間を根絶やしにする気です。ウルク=ハイたちに、確かに『今宵、大地はローハンの血で染まるだろう。人間たちに朝はこない』と言っていました」
ネルファンディアは何も言わず、黙って聞いている。すっかり高揚したメリーは、彼女に捲し立てた。
「ネルファンディア!思ったんです。エント達が立ち上がれば、今のアイゼンガルドを落とすことができるはず!だから木の髭が会議……ええと…名前は……」
「エントミート。エントミートを開くんだ!」
そこまで言ってようやく、二人はネルファンディアの返事がないことに気づき、話を続けるのをやめる代わりに小さな声で謝罪した。
「……ごめん。あの人は君の……」
「父ではない」
「え?」
「あの人は……父ではない。あの男が居すわる塔も、もう私の家ではない」
顔をあげたネルファンディアの瞳には、確かな憎悪が燃えていた。それはサルマンに対しての反撃の意思でもあった。
エントミートが行われる広場で、ネルファンディアは草むらの上に横たわっていた。二人のホビットは彼女のやる気の無さに酷く憤慨した。
「どうしてそんなにやる気が無いんですか!?」
「そうですよ!ほら、起きてください!」
メリーに無理やり起こされ、ネルファンディアは吐き捨てるように言った。
「エントたちに何を望んでいるの?彼らは決して動かない」
「そんな……」
「じゃあ、どうすれば?」
「どうするも何も、動かないものは動かないと思うわ」
二人は顔を見合わせた。そしてネルファンディアが独りでも行かねばと言って去っていったその数時間後、彼らはその落胆の意味を知るのだった。
エントミートが始まって半日。既に夜になった。サルマンの計画通りなら、既にヘルム峡谷には何万というウルク=ハイの大軍が到着している頃だ。木の髭は振り返ると、メリーとピピンに進捗状況を報告した。
「今、終えたところだ」
「話し合いを?」
「いいや、挨拶を」
メリーは悠長な様子に怒りを露にした。
「なんて悠長な!仲間が死にそうになっているんです!早くしてください!」
「まぁ、そうあせるな。何せエント語で話すのは時間がかかる……」
メリーは絶望混じりのため息をついた。ピピンもお喋りな口を今ではすっかり閉口している。
そして話し合いが再開された。次の報告は夜明け前だった。
「結論が出た」
「本当に!?戦いには?」
「いや、そうではなく。お主らがオークではないと」
ほぼ一晩と一昼かけて、この遅さ。メリーはついに激怒した。
「あなたたちは、これでいいんですか!?」
「わしらはいつも、魔法使いと人間のいさかいには関わらんようにしていた。だから今回も、恐らくそうなるじゃろう」
「そんな……あなたたちも、この世界の一員なのに!」
エントたちのざわめきが聞こえる。どうやら全員メリーの言いたいことは解っているようだ。彼は続けた。
「お願いです、助けてください」
返事はない。答えは最初から決まっていたのだ。やるせない気持ちが怒りより先行し、メリーはついに俯いてしまった。木の髭は何と返事すればよいかわからず、静かな声で二人に言った。
「ホビット庄へ戻るんじゃ。東の外れまで送ろう」
故郷に帰る。これほどに待ち焦がれたことなのに、何故かとても悲しかった。そして二人は渋々、解散したエントたちを見送ってから帰り支度を始めるのだった。
ピピンは悲嘆に沈むメリーの肩を叩いて、いつもの声で言った。
「でも、木の髭は正しいかも。僕らに何ができる?僕らにはホビット庄があるんだから。帰るべきなのかも」
その言葉に、メリーは落胆の色を滲ませながら答えた。
「……アイゼンガルドの災厄は戦火と共に広がる。それはやがて中つ国全土を闇で覆い、ホビット庄も消える。わかるか?ピピン。僕らの故郷も、ネルファンディアの故郷みたいに消えるんだ」
ピピンは言葉を失った。そして自分も心のどこかで木の髭たちと同じように、他人事だと思っていたことを恥じた。だが、今さらどうしようというのか。二人はそのやり取りきり、一言も交わさなくなってしまった。
その頃、ネルファンディアは独りで思案を巡らせていた。いや、正確にはエントたちと同じように決断から逃げていた。すると、そこにすっかり立派な若エントに成長したビルボ────ビルボ・バキンズからもらった、あのドングリから生えてきた樫の木が姿を現した。
「……父親を、打つのですか?ネルファンディア殿」
「父親だからこそ、私が終わらせなければならない」
「私も行きましょう。あなたの愛する人が、命と引き換えに守った中つ国を取り戻すため」
ネルファンディアはビルボの言葉には答えず、俯いた。行かねばならないと言っている自分と、行きたくないと言っている自分に板挟みにされる思いに包まれる。
────お母様、私はどうすればいいの。お父様を倒すなんて、私には……
アイゼンガルドの夜明けが来た。ヘルム峡谷はどうなっているのだろうか。ひょっとするとあの四人の中で、既に自分は最後の一人になっているのかもしれない。
孤独な思いを抱えて、ネルファンディアはトーリンの指輪を握った。それでも不安は止まらない。独りで立ち向かうことの恐怖を、彼女は初めて知った。トーリンが抱えていた思いの全てが、ようやく理解できた気がした。
決断のときは、すぐそこまで迫っていた。
一方、メリーとピピンは木の髭に運んでもらっている最中だった。すると、先程まで無言だったピピンが突然こんなことを言い出した。
「ねぇ、南へ行って!」
「アイゼンガルドを通るのか……?」
「正気か?捕まるだけだぞ」
「ああ、でも今度はそうはさせないさ」
ピピンは自信満々にオルサンクの塔を見据えた。木の髭の足が南へと向く。全く何を意図しているのかを理解していないメリーは、ピピンがいよいよ馬鹿になったと思っているようだ。
木の髭は南へ向かう間、思い出話に花を咲かせた。
「わしは南に行くのがすきでな。坂を下るように気分がよくなるんじゃ。野ネズミが肩に乗ってきて────」
だが、その話は南の森に差し掛かった瞬間に止まった。木の髭は自分の目を疑い、まばたきをした。けれども景色は変わらない。そう、彼の愛する南の森は根こそぎ削り取られていたのだ。木の髭は声を震わせながら、辺りの惨状を見回した。
「ここの木たちは、わしの友達じゃった。それぞれに声もあった」
その声は次第に強くなり、視線がオルサンクに向けられた時には怒りの色を宿すようになっていた。
「おのれ、サルマン!魔法使いともあろうものが!」
彼は声にならない叫びを森中に轟かせた。
「これほどの悪行をののしる言葉は、エント語にもエルフ語にも、人間の言葉にもないじゃろう」
木の髭が怒りを増幅させている間に、ファンゴルンの木々が揺れだした。メリーは驚いた様子で辺りを見ている。
「木が……動き出している!」
「これが最初で最後の、エントの行進になるじゃろう」
ピピンはしてやったりと笑っている。
実はネルファンディアと別れる少し前、ピピンは彼女を追いかけていた。
『ネルファンディア!逃げるの?』
『違う。ただ……整理を付けねばならないことがあるの』
彼女はピピンの肩に優しく手を置いて、静かに続けた。
『ピピン、あなたは賢い。それに機転が利く。……木の髭たちを奮起させることが出来るかもしれない策が、一つだけあるの』
『それは?』
『南へ行くのよ。南の森の惨状を、何も知らない木の髭に予告なしに見せるの』
その手があったか。ピピンは深くうなずいた。だが、うまく行くという保証はない。
『もし、それが失敗したら?』
『そのときは……』
ネルファンディアは表情を曇らせると、アイゼンガルドに目を向けて答えた。
『その時は、私一人でもあの人を止めるしかない』
────ネルファンディア、うまくいったよ。あなた一人で行かせるわけにはいかないよ。
二人のホビットは、今まで恐らく誰も見たことのないエントの大行進を自身の目で目撃できていることに喜びを感じていた。だが、あと一人足りない。メリーは木の髭に尋ねた。
「ねぇ、ネルファンディアは?待たないの?」
「姫を待たずして行く。あの子に父親への処罰をさせることなど出来ん」
二人と一体は、アイゼンガルドを見据えた。今こそ反撃のとき。あとは天が味方してくれることだけを祈るのだった。
アイゼンガルドに進軍してきたエントの群れについては、すぐにサルマンの元にも伝わった。彼はオルサンクのバルコニーからエントたちの反撃を見て狼狽した。だが、すぐに自信を取り戻すと、残った部下たちに高らかな声で告げた。
「火矢を放て!」
オークとウルク=ハイたちはすぐに火矢を準備すると、エントたちに一斉射撃を始めた。これには流石に堪らないと逃げ出す者、悲鳴を上げる者も出始めた。メリーとピピンはさっそく覆され始めた形勢に焦りを感じた。
だがエント部隊の一部が撤退しようとし始めた瞬間、二人は何よりも胸踊る援護を目にすることとなった。
一体の炎上しているエントを突然、青い光が包んだ。光が飛んできた方向を見ると、そこにはエントのビルボに乗って駆けつけたネルファンディアが居た。
「待たせたわね、みんな」
メリーとピピンは、歓喜の声をあげた。
「ネルファンディア!」
「来てくれたんだね!」
「おぉ……樫の木のビルボ、お主も加わるのか」
木の髭の言葉に頷いているビルボと呼ばれたエントを見て、二人は目を丸くした。
「ビルボ……?」
「あの、ビルボ・バキンズと関係が?」
「説明は後だ。サルマンを引きずり出さねば……」
するとビルボのその言葉に、ネルファンディアが答えた。
「────魔法使いのことは、私に任せなさい」
ネルファンディアはそう言うと、杖をしっかり携えてオルサンクの正面まで歩きだした。
「白のサルマン!」
サルマンは声のする方向を見て、驚愕した。
「なっ……ネルファンディア!?」
だが、ネルファンディアの表情は変わらない。彼女は杖を振り上げると、かつて父であった人にそっくりな声色で告げた。
「────白の賢者ともあろう方が、塔に閉じ籠るだけか?」
その言葉は、娘としての決別を意味していた。サルマンは曇天の空を仰いで、目を閉じた。そして漆黒の杖を握りしめて、バルコニーから姿を消した。固唾を呑んで見守るなか、サルマンがオルサンクの階段を下りてくる。ネルファンディアを捕らえようと動いた部下たちを、サルマンは威厳を込めながら制止した。
「手出しは無用。この不肖の娘は、わし自らが方をつける」
「不肖の娘、か。あなたの僕に託した伝言をお聞きになって仰っているのでしょうか?」
「ああ、無論」
サルマンはゆっくりとネルファンディアに近づき、顔を上げた。
「ならば、わしも娘とは思わんまでよ」
そして、彼は唐突に杖を振り上げた。盾を張る間もなく、ネルファンディアは後ろに弾き飛ばされた。その身体は黒曜石でできた石畳の上を滑り、オークたちの洞窟の手前でなんとか止まった。彼女はすかさず杖を同じように振り、サルマンの足をすくった。後ろにつんのめっている隙に立ち上がり、ネルファンディアは滑る石畳を利用して一気に距離を積めた。
「はぁぁ!!」
ありったけの魔力を杖の先に込め、ネルファンディアはサルマンに振りかぶった。彼は寸前のところで攻撃を同じように杖で受け止めると、ネルファンディアの脇腹に杖の逆側を叩きつけようとした。器用に反撃を避けると、彼女は再びサルマンに飛びかかった。杖で的確に防御をするため、お互い決着がつく様子はない。
ネルファンディアはバックステップと前転を使って後ろに下がると、利き脚を後ろにずらして杖を前に突き出した。杖の先からは、先程エントを救ったものとは比べ物にならないほどに目映い光が発せられた。サルマンは咄嗟に同じように杖を突き出し、攻撃を受け止めた。お互いの力が拮抗し合う。
サルマンは顔をしかめながらも、余裕がありげに叫んだ。
「最低階級である蒼のイスタリが、白のサルマンに勝てると思うか!思い上がるな!」
「あなたはもう純粋な白ではない!」
二人の力関係が僅かに変化した。ネルファンディアが不利になっている。
メリーとピピンは魔法使いの戦いに気をとられていたが、やがて危機的状況であることを思い出して我に返った。
「何とかしないと!木の髭、何か方法は────」
ピピンは自分が悪戯をするならどうするかという視点で、必死に辺りを見回した。だが、こういう時に限って思い付かない。すると、彼の視界にダムの存在が入った。
「木の髭!ダムを決壊させるんだ!」
「わかった。皆のもの、ダムを壊せ!」
エント達がダムへと向かう。かなりの距離があるため、ネルファンディアがそれまで持ちこたえられるかどうかはわからなかった。事実、彼女の力は限界を迎えていた。
「私は……!あなたを……止める!」
「無駄な足掻きは止めよ!死ぬぞ!」
「────ここで……死すべき定めなら……」
ネルファンディアは杖を両手で握り、命を削るほどの魔力を出した。
「あなたと共に────死ぬまでよ!」
最後の足掻きとも言える力は、とてもサルマンの受け止めきれるものではなかった。ネルファンディアの杖は発する魔力に耐えきれず、粉々に砕け散った。二人は共に後方へ吹き飛んだ。地面に力なく伏した彼女の世界が暗転する。
サルマンは苦痛に喘ぎながらも、何とか身体を起こした。すると、遥か遠くに今にも決壊しそうなダムが目に飛び込んできた。彼は声にならない声で、動かない瀕死の娘に叫んだ。だが、返事はない。彼女は浅い息を繰り返しながら、青白い顔で倒れている。一刻の猶予もない。サルマンはふらつく足を無理矢理動かして、ネルファンディアの元へ走った。そして己の疲労の限界も忘れて彼女を肩に担ぎ上げると、唯一の高台──オルサンクの階段へと急いだ。
濁流がすぐそこまで迫る中、なんとか娘を階段の一番上まで運びきったサルマンは、荒い息を立てながら座り込んだ。だが、ネルファンディアが目を覚ます気配はない。彼は娘を階段に横たえ、様子を注意深く観察した。息は既に弱々しく、時折咳き込む度に黒い血を吐くまで衰弱していた。彼は両目に涙をためながら、娘の身体を抱き締めて愛しいその名を叫んだ。
「ネルファンディア……!ネルファンディア……!目を開けるのだ!」
しかし、ネルファンディアはその呼び掛けには答えない。サルマンは空を仰いだ。
────ヴァラール達よ。自由の民を裏切り、己の目的を達しようとしたわしのことを罰しても構いません。わしの魔力を奪っても、この肉体を八つ裂きにしようとも構いません。ですからどうか、わしから愛する娘のネルファンディアは奪わないでください!
勝手な願いであることは、彼自身もよくわかっていた。同じくらいの年の娘や、彼女よりも幼い子供の命も容赦なく奪ったことの天罰と言われればそれまでだった。
神頼みでは改善しないと悟ったのか、サルマンは塔へ急ぎ戻って自室から薬瓶を取り出した。そして娘のもとに戻ると、無理矢口を開けて薬を流し込んだ。
「頼む……目を覚ましてくれ……。せめて、せめて顔色だけでも戻ってくれさえすれば……」
サルマンは娘の手を握り、回復の兆しを待った。まばたきを二三度する程度の時間だったが、異常に長く感じられる。
薬はすぐに効果を見せた。ネルファンディアがひときわ大きく咳き込んで黒い血をすべて吐き出すと、顔色はみるみると元の色を取り戻し始めた。
「ネルファンディア!聞こえるか?わしじゃ!」
朦朧とした意識の中で、ネルファンディアがうっすらと目を開けた。サルマンは感極まって大粒の涙を流すと、依然と生死をさ迷う娘の額に口づけした。
「ネルファンディア……我が最愛の娘よ……この父を、許してくれ……まだやらねばならんことが残っておるんじゃ。だからどうか、理解せずともよい。憎むことも許そう。じゃが、父の悲願を達成するその日まで生きておってくれ……」
サルマンは顔を上げ、辺りを見回した。自分を八つ裂きにしようと怒りに燃えるエント達には、まだ捕まるわけにはいかなかった。
「ネルファンディア!」
「しっかりして!」
メリーとピピンが、木の髭の上からネルファンディアの名を呼んでいる。彼は娘から名残惜しそうに離れると、素早く塔の入り口に入って扉を固く閉ざした。そして膝からその場に崩れ落ち、魔法使いは声を殺して泣いた。
もちろんその痛みは、ネルファンディアに届くことはなかった。