二章、残酷な再会
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ネルファンディアはどうみても侍女にしか見えない格好に変身すると、エオウィンに男を足止めするのを頼んで部屋に侵入する計画を立てた。
案の定、男はすぐに引っ掛かって部屋を出た。ネルファンディアは周囲に目を光らせながら部屋に入り、首尾よく潜入に成功した。
部屋はとても相談役のものとは思えない物で溢れていた。中には妖術に使う薬草や、死に至る恐れもある毒草まで入っていた。その中で、彼女は一冊の本に目を留めた。
「これは……!」
それは、アイゼンガルドで目にした本と同じように見える──いや、全く同じ本だった。何故これがここにあるのか。ネルファンディアはその本の内容に覚えがあった。
『ネルファンディア。決してこの本に書いてあることは使ってはならんぞ。人を操るような魔術も載っておるからな』
『じゃあ、どうしてお勉強するの?』
『知っておくことは重要じゃ』
『ふぅん……』
父────サルマンはたしかにそう言っていた。ネルファンディアは瞬時に、気づきたくない真実にたどり着いたことを悟った。
「あの男は……サルマンの手先……」
ネルファンディアは視界が歪むのを感じていた。立ち眩みがする。この部屋から出なければ。その一心で足を動かし外へ出ると、彼女は柱の影で座り込んだ。
「そんな……」
セオデン王の変貌は、父のせいだというのか。どうしてこんなことに。ネルファンディアは泣く気にもなれず、歯を食い縛った。悲しみよりも怒りが先行する。
必ず、父を止めてみせる。
そう決意して顔をあげるネルファンディアの瞳には、カザド=ドゥムで見た焔よりも深い緋が宿っていた。
捜索が終わったことの合図として決めてあった、お召し替えの時間でございますという言葉を、ネルファンディアはエオウィンに告げた。男は見慣れない顔の召し使いに、注意深く目を凝らした。
鋭くも儚く、澄んだ遠い瞳。彫刻のような美しい鼻筋。何より、ローハンでは珍しい白銀の髪。男──グリマは隣を一礼して通りすぎようとしたネルファンディアを引き留めた。
「待て。お前、使用人か?」
「はい、そうでごさいます」
「使用人というより、私の話し相手として呼んだ者です。文句がおありですか?」
「いえ、文句というより……」
綺麗すぎる。グリマは息をのみながらネルファンディアを観察し始めた。そして、この使用人に違和感を覚えた。
──それにしては、気品がありすぎるのでは?まるで……
ネルファンディアは先程と同じ、冷ややかな声でグリマに尋ねた。
「──行っても、宜しいでしょうか」
「あ、ああ」
深々と一礼すると、ネルファンディアはエオウィンの後ろを静かについていった。 残されたグリマは、何か腑に落ちないものを感じながらも、首をかしげて部屋に戻るのだった。
部屋に戻ったエオウィンとネルファンディアは、拳を合わせて笑いあった。
「ラエル、見た?あの間抜け面!最高だったわ」
「ええ。本当に。あとは一発殴れたら文句なしだった」
二人は顔を見合わせて目を丸くした。
「……私たち、思っていた以上に気が合いそうね」
「ええ、とっても」
エオウィンはネルファンディアの手を取って、見せたいものがあると言い出した。言われるがままについていくと、そこは見張り台だった。登っていいものなのかと躊躇していると、エオウィンはさっさと慣れた様子で登り始めた。
「早く!ここからの景色は素敵よ」
ネルファンディアはどこまでも元気なエオウィンに感心しつつも、笑みをこぼして梯子を登った。
景色は確かに最高だった。限りなく広がる平野の高台からは、エレボールの辺りの山々まで見える。ネルファンディアはつい、感傷的に目を細めた。
「ねぇ、ラエルってたまに……すごく哀しそうね」
そのエオウィンの言葉に、ネルファンディアは力なく笑った。
「……そうね。父が見つからないから、かしら」
「それだけじゃない気がする。何だか……」
そこまで言って、エオウィンは我に返った。
「あっ……ごめんなさい!私、別に詮索するつもりじゃなくて……ただ……」
「いいのよ。そうね……いつか、話してみようと思ったら話すから」
何を?と尋ねるより前に、エオウィンは土煙を上げて走ってくる兵士たちに気をとられた。
「あれは?……どうしたのかしら」
ネルファンディアも目を凝らして騎士たちを観察した。すると、列の後方に居る者たちが何かを担いでいるのに気づいた。
「何か、担いでいるわ……」
「まさか────!!」
エオウィンはそう叫ぶと、慌てて転がり落ちるように見張り台から下りて走り出した。異常事態が起きていることを悟ったネルファンディアも、後に続いて黄金館へ戻る。
エオウィンの予感は的中した。ネルファンディアが見たものは、セオデン王の実子、セオドレド王子の遺体だったのだ。
従兄弟の死を前にして、エオウィンは絶句していた。
「お兄様……」
その痛ましい様子に、ネルファンディアは強烈で抗えない追憶の波に襲われた。
『フィーリ!』
トーリンがフィーリの遺体に駆け寄り、叫ぶ。その声は今までネルファンディアが聞いたことのないトーリンの声だった。長としてでもなく、王子としてでも、王としてでもないその声は、純粋な叔父としての悲嘆だった。
あのとき、トーリンは何かを覚悟していたのだろうか。ネルファンディアの手を取って婚約してほしいと言ったあの瞬間。既にトーリンは、自らの死の可能性を受け入れていたのではないだろうか。
いずれにせよ、遅かったのだ。ネルファンディアは追憶から逃れ、現実に戻った。エオウィンが泣きながら王の間へと向かっている姿が見える。そっとしておくべきなのだろう。
ネルファンディアは黙ってその場を立ち去った。その手には、トーリンの指輪が不安を紛らわせるように握られているのだった。
ネルファンディアが独りで指輪を眺めながら廊下に佇んでいると、背後からグリマがやって来た。
「────その指輪は、随分高価そうだが……」
ネルファンディアは慌てて首に指輪をかけ直した。
「形見です。それに、指輪はどれも高価です」
グリマは卑屈に笑うと、指輪を服の内側に直すネルファンディアの手を掴んだ。
「……貴様、何者だ」
「何者とは?」
「姫に取り入り、何を企んでいる。さては魔女か」
ネルファンディアは思わずグリマを鼻で笑った。そして手を振り払うと、父親譲りの冷笑を向けた。普段何も怖くはない彼だったが、謎の侍女の表情全てが背筋を凍らせていく感覚を味わっていた。
「魔女、ですか。悪くない称号だこと」
彼女は仕返しのようにグリマの胸ぐらを掴んで引き寄せると、漆黒の地底から湧くような恐ろしい声で警告した。
「────私を怒らせない方が宜しいかと」
「な、何だと?」
「エオウィン様のお心を掴むために、私の覚えを良くしておこうとは思わぬのですか?」
グリマは瞬時に、それが警告ではなく脅しであることを悟った。大方、エオウィンに告げ口をするということだろう。彼は歯軋りしながらネルファンディアを突き飛ばすと、そのまま歩き去ってしまった。だがその脳裏には、また新たな疑問が生じていた。
────あの笑い方に、喋り方。そして瞳。どこかで見た者に似ている。だが、一体誰に……?
あの女の正体を暴いてやる。グリマは肩越しにネルファンディアを睨み付け、床を蹴るのだった。
王の間で、エオウィンの兄エオメルは反逆罪で追放処分を受けていた。罪状は適当だが、大方理由はわかっていた。
グリマがエオウィンに付きまとうことが許せず、剣を抜いたことが原因なのだ。エオメルは呆れてものも言えない状況に、怒ることもせず従った。隣でエオウィンが心配そうに様子を見守っている。
────どうしたらいいの?私は……
兄が去っていく姿を見ていることしかできない自分が情けなくて、エオウィンはその場から離れた。
向かった先は、やはりネルファンディアの隣だった。彼女は泣いている様子のエオウィンに驚くと、やや戸惑ってからその肩を優しく撫でた。
「ラエル……私、どうすればいいの?私は……」
「大丈夫。きっと大丈夫だから。これ以上に悪いことなんて起きない。私が保障するから」
赤い目で小さくうなずくエオウィンを見て、ネルファンディアは何故彼女に感情移入できるかに気づいた。
彼女は、幼い頃に父から聞いた自分の母そっくりなのだ。だからこそ、孤独なその背に寄り添ってあげたかった。
ふとネルファンディアが顔をあげると、一頭の白い馬を先頭にして四人ほどの者が黄金館に向かってくるのが見えた。彼女はすぐにそのうちの三人がアラゴルン、レゴラス、ギムリであることに気づいた。
────みんな!まさかこんなところで合流できるなんて。でも……あの白馬に乗った人は……
あとの一人が誰であるかが、皆目見当がつかない。ネルファンディアは立ち上がると、エオウィンに手を差し出した。
「行きましょう。客人が来られたみたい」
彼女の手を取って立ち上がったエオウィンは、共に王の間へと向かった。
部屋へ向かうと、既にグリマの部下たちとの乱闘が始まっており、ネルファンディアは黙って様子を伺っていた。エオウィンは驚きで硬直している。
────あの人、誰なの?
かつての父に似た空気を醸し出している白髪の老人の姿を凝視しながら、ネルファンディアは首をかしげた。程なくして、ギムリに踏みつけられているグリマ自身から答えが出された。しかも意外な人物の名だった。
「ガンダルフです。あの厄介者です。灰色の魔法使いですよ」
ガンダルフと聞き、ネルファンディアは心臓が飛び上がる思いに駈られた。
────生きていたのね!!
だが、ネルファンディアの喜びもつかの間、ガンダルフは更なる驚きをもたらした。
「いいや、今は灰色ではない。白の魔法使いじゃ!」
そう言うと、彼はくすんだ色のマントを引き剥がして目映い白の衣姿を露にした。手にはミナスティリスの白の樹も及ばない程に、眩しく輝く白い杖が握られている。
彼────白のガンダルフは懐かしい声を高らかにあげ、杖を振り上げてセオデンに告げた。
「お主を引き出そう、サルマンよ!」
その言葉にネルファンディアは耳を疑った。そして反射的に部屋へ飛び込んだ。驚きで全員の視線が侍女姿の彼女に向けられる。
「ネルファンディア!」
「ネルファンディアか……ここで何を?」
レゴラスとアラゴルンの問いには答えず、ネルファンディアはガンダルフに声を恐怖で震わせて尋ねた。
「この方は……セオデン王は……父なのですか?」
「何を言っているの?ラエル、この人は私の叔父よ?それに、そもそもネルファンディアって……」
ガンダルフは大方の話を悟ると、エオウィンにもネルファンディアにも何も言わずに、再びセオデン────サルマンに乗っ取られた身体に向き直った。
ネルファンディアは衰弱してすっかり瞳の色を失っているセオデンを見た。その瞳の奥は常人には計り知れないものだったが、彼女にはわかった。一目でその奥に父がいることを。
「お父……様」
ふらつく足で、ネルファンディアは吸い寄せられるようにして父のもとへと歩き出した。ガンダルフが慌てて止めようとしたが、既に遅かった。彼女はセオデンの身体を通して、父の手に触れた。
「お父様……」
すると先程まで表情のなかったセオデンに、突然哀しみの色が宿った。生気のない瞳からは、涙がとめどなくこぼれ落ち始めた。呻き声に近い声しか出なかった口からは、懐かしい声色で娘の名前が溢れた。
「ネルファンディア……」
「お父様!私です。わかりますか?私です!ネルファンディアです」
ガンダルフは顔をしかめながら、やむ無く親子の残酷すぎる再会を断った。強力な魔力でセオデンの肉体からサルマンを引き剥がし始めたのだ。ネルファンディアの悲痛な叫びが響く。
「止めて!!ガンダルフ!嫌!お父様が苦しんでいるの!止めて!!お父様、行かないで!」
ガンダルフの力で弾き飛ばされたネルファンディアは、あっけなく床に叩きつけられた。力なく身体を起こしながら、彼女は父の目を見た。もがき苦しんでいるものの、瞳は確かに愛娘を見ている。
「お父様……」
そして、光に包まれたと思うとその場が再び静寂に包まれる。サルマンがセオデンから引き剥がされたのだ。
後に残されたのは、ネルファンディアの床に伏してすすり泣く声だけだった。
案の定、男はすぐに引っ掛かって部屋を出た。ネルファンディアは周囲に目を光らせながら部屋に入り、首尾よく潜入に成功した。
部屋はとても相談役のものとは思えない物で溢れていた。中には妖術に使う薬草や、死に至る恐れもある毒草まで入っていた。その中で、彼女は一冊の本に目を留めた。
「これは……!」
それは、アイゼンガルドで目にした本と同じように見える──いや、全く同じ本だった。何故これがここにあるのか。ネルファンディアはその本の内容に覚えがあった。
『ネルファンディア。決してこの本に書いてあることは使ってはならんぞ。人を操るような魔術も載っておるからな』
『じゃあ、どうしてお勉強するの?』
『知っておくことは重要じゃ』
『ふぅん……』
父────サルマンはたしかにそう言っていた。ネルファンディアは瞬時に、気づきたくない真実にたどり着いたことを悟った。
「あの男は……サルマンの手先……」
ネルファンディアは視界が歪むのを感じていた。立ち眩みがする。この部屋から出なければ。その一心で足を動かし外へ出ると、彼女は柱の影で座り込んだ。
「そんな……」
セオデン王の変貌は、父のせいだというのか。どうしてこんなことに。ネルファンディアは泣く気にもなれず、歯を食い縛った。悲しみよりも怒りが先行する。
必ず、父を止めてみせる。
そう決意して顔をあげるネルファンディアの瞳には、カザド=ドゥムで見た焔よりも深い緋が宿っていた。
捜索が終わったことの合図として決めてあった、お召し替えの時間でございますという言葉を、ネルファンディアはエオウィンに告げた。男は見慣れない顔の召し使いに、注意深く目を凝らした。
鋭くも儚く、澄んだ遠い瞳。彫刻のような美しい鼻筋。何より、ローハンでは珍しい白銀の髪。男──グリマは隣を一礼して通りすぎようとしたネルファンディアを引き留めた。
「待て。お前、使用人か?」
「はい、そうでごさいます」
「使用人というより、私の話し相手として呼んだ者です。文句がおありですか?」
「いえ、文句というより……」
綺麗すぎる。グリマは息をのみながらネルファンディアを観察し始めた。そして、この使用人に違和感を覚えた。
──それにしては、気品がありすぎるのでは?まるで……
ネルファンディアは先程と同じ、冷ややかな声でグリマに尋ねた。
「──行っても、宜しいでしょうか」
「あ、ああ」
深々と一礼すると、ネルファンディアはエオウィンの後ろを静かについていった。 残されたグリマは、何か腑に落ちないものを感じながらも、首をかしげて部屋に戻るのだった。
部屋に戻ったエオウィンとネルファンディアは、拳を合わせて笑いあった。
「ラエル、見た?あの間抜け面!最高だったわ」
「ええ。本当に。あとは一発殴れたら文句なしだった」
二人は顔を見合わせて目を丸くした。
「……私たち、思っていた以上に気が合いそうね」
「ええ、とっても」
エオウィンはネルファンディアの手を取って、見せたいものがあると言い出した。言われるがままについていくと、そこは見張り台だった。登っていいものなのかと躊躇していると、エオウィンはさっさと慣れた様子で登り始めた。
「早く!ここからの景色は素敵よ」
ネルファンディアはどこまでも元気なエオウィンに感心しつつも、笑みをこぼして梯子を登った。
景色は確かに最高だった。限りなく広がる平野の高台からは、エレボールの辺りの山々まで見える。ネルファンディアはつい、感傷的に目を細めた。
「ねぇ、ラエルってたまに……すごく哀しそうね」
そのエオウィンの言葉に、ネルファンディアは力なく笑った。
「……そうね。父が見つからないから、かしら」
「それだけじゃない気がする。何だか……」
そこまで言って、エオウィンは我に返った。
「あっ……ごめんなさい!私、別に詮索するつもりじゃなくて……ただ……」
「いいのよ。そうね……いつか、話してみようと思ったら話すから」
何を?と尋ねるより前に、エオウィンは土煙を上げて走ってくる兵士たちに気をとられた。
「あれは?……どうしたのかしら」
ネルファンディアも目を凝らして騎士たちを観察した。すると、列の後方に居る者たちが何かを担いでいるのに気づいた。
「何か、担いでいるわ……」
「まさか────!!」
エオウィンはそう叫ぶと、慌てて転がり落ちるように見張り台から下りて走り出した。異常事態が起きていることを悟ったネルファンディアも、後に続いて黄金館へ戻る。
エオウィンの予感は的中した。ネルファンディアが見たものは、セオデン王の実子、セオドレド王子の遺体だったのだ。
従兄弟の死を前にして、エオウィンは絶句していた。
「お兄様……」
その痛ましい様子に、ネルファンディアは強烈で抗えない追憶の波に襲われた。
『フィーリ!』
トーリンがフィーリの遺体に駆け寄り、叫ぶ。その声は今までネルファンディアが聞いたことのないトーリンの声だった。長としてでもなく、王子としてでも、王としてでもないその声は、純粋な叔父としての悲嘆だった。
あのとき、トーリンは何かを覚悟していたのだろうか。ネルファンディアの手を取って婚約してほしいと言ったあの瞬間。既にトーリンは、自らの死の可能性を受け入れていたのではないだろうか。
いずれにせよ、遅かったのだ。ネルファンディアは追憶から逃れ、現実に戻った。エオウィンが泣きながら王の間へと向かっている姿が見える。そっとしておくべきなのだろう。
ネルファンディアは黙ってその場を立ち去った。その手には、トーリンの指輪が不安を紛らわせるように握られているのだった。
ネルファンディアが独りで指輪を眺めながら廊下に佇んでいると、背後からグリマがやって来た。
「────その指輪は、随分高価そうだが……」
ネルファンディアは慌てて首に指輪をかけ直した。
「形見です。それに、指輪はどれも高価です」
グリマは卑屈に笑うと、指輪を服の内側に直すネルファンディアの手を掴んだ。
「……貴様、何者だ」
「何者とは?」
「姫に取り入り、何を企んでいる。さては魔女か」
ネルファンディアは思わずグリマを鼻で笑った。そして手を振り払うと、父親譲りの冷笑を向けた。普段何も怖くはない彼だったが、謎の侍女の表情全てが背筋を凍らせていく感覚を味わっていた。
「魔女、ですか。悪くない称号だこと」
彼女は仕返しのようにグリマの胸ぐらを掴んで引き寄せると、漆黒の地底から湧くような恐ろしい声で警告した。
「────私を怒らせない方が宜しいかと」
「な、何だと?」
「エオウィン様のお心を掴むために、私の覚えを良くしておこうとは思わぬのですか?」
グリマは瞬時に、それが警告ではなく脅しであることを悟った。大方、エオウィンに告げ口をするということだろう。彼は歯軋りしながらネルファンディアを突き飛ばすと、そのまま歩き去ってしまった。だがその脳裏には、また新たな疑問が生じていた。
────あの笑い方に、喋り方。そして瞳。どこかで見た者に似ている。だが、一体誰に……?
あの女の正体を暴いてやる。グリマは肩越しにネルファンディアを睨み付け、床を蹴るのだった。
王の間で、エオウィンの兄エオメルは反逆罪で追放処分を受けていた。罪状は適当だが、大方理由はわかっていた。
グリマがエオウィンに付きまとうことが許せず、剣を抜いたことが原因なのだ。エオメルは呆れてものも言えない状況に、怒ることもせず従った。隣でエオウィンが心配そうに様子を見守っている。
────どうしたらいいの?私は……
兄が去っていく姿を見ていることしかできない自分が情けなくて、エオウィンはその場から離れた。
向かった先は、やはりネルファンディアの隣だった。彼女は泣いている様子のエオウィンに驚くと、やや戸惑ってからその肩を優しく撫でた。
「ラエル……私、どうすればいいの?私は……」
「大丈夫。きっと大丈夫だから。これ以上に悪いことなんて起きない。私が保障するから」
赤い目で小さくうなずくエオウィンを見て、ネルファンディアは何故彼女に感情移入できるかに気づいた。
彼女は、幼い頃に父から聞いた自分の母そっくりなのだ。だからこそ、孤独なその背に寄り添ってあげたかった。
ふとネルファンディアが顔をあげると、一頭の白い馬を先頭にして四人ほどの者が黄金館に向かってくるのが見えた。彼女はすぐにそのうちの三人がアラゴルン、レゴラス、ギムリであることに気づいた。
────みんな!まさかこんなところで合流できるなんて。でも……あの白馬に乗った人は……
あとの一人が誰であるかが、皆目見当がつかない。ネルファンディアは立ち上がると、エオウィンに手を差し出した。
「行きましょう。客人が来られたみたい」
彼女の手を取って立ち上がったエオウィンは、共に王の間へと向かった。
部屋へ向かうと、既にグリマの部下たちとの乱闘が始まっており、ネルファンディアは黙って様子を伺っていた。エオウィンは驚きで硬直している。
────あの人、誰なの?
かつての父に似た空気を醸し出している白髪の老人の姿を凝視しながら、ネルファンディアは首をかしげた。程なくして、ギムリに踏みつけられているグリマ自身から答えが出された。しかも意外な人物の名だった。
「ガンダルフです。あの厄介者です。灰色の魔法使いですよ」
ガンダルフと聞き、ネルファンディアは心臓が飛び上がる思いに駈られた。
────生きていたのね!!
だが、ネルファンディアの喜びもつかの間、ガンダルフは更なる驚きをもたらした。
「いいや、今は灰色ではない。白の魔法使いじゃ!」
そう言うと、彼はくすんだ色のマントを引き剥がして目映い白の衣姿を露にした。手にはミナスティリスの白の樹も及ばない程に、眩しく輝く白い杖が握られている。
彼────白のガンダルフは懐かしい声を高らかにあげ、杖を振り上げてセオデンに告げた。
「お主を引き出そう、サルマンよ!」
その言葉にネルファンディアは耳を疑った。そして反射的に部屋へ飛び込んだ。驚きで全員の視線が侍女姿の彼女に向けられる。
「ネルファンディア!」
「ネルファンディアか……ここで何を?」
レゴラスとアラゴルンの問いには答えず、ネルファンディアはガンダルフに声を恐怖で震わせて尋ねた。
「この方は……セオデン王は……父なのですか?」
「何を言っているの?ラエル、この人は私の叔父よ?それに、そもそもネルファンディアって……」
ガンダルフは大方の話を悟ると、エオウィンにもネルファンディアにも何も言わずに、再びセオデン────サルマンに乗っ取られた身体に向き直った。
ネルファンディアは衰弱してすっかり瞳の色を失っているセオデンを見た。その瞳の奥は常人には計り知れないものだったが、彼女にはわかった。一目でその奥に父がいることを。
「お父……様」
ふらつく足で、ネルファンディアは吸い寄せられるようにして父のもとへと歩き出した。ガンダルフが慌てて止めようとしたが、既に遅かった。彼女はセオデンの身体を通して、父の手に触れた。
「お父様……」
すると先程まで表情のなかったセオデンに、突然哀しみの色が宿った。生気のない瞳からは、涙がとめどなくこぼれ落ち始めた。呻き声に近い声しか出なかった口からは、懐かしい声色で娘の名前が溢れた。
「ネルファンディア……」
「お父様!私です。わかりますか?私です!ネルファンディアです」
ガンダルフは顔をしかめながら、やむ無く親子の残酷すぎる再会を断った。強力な魔力でセオデンの肉体からサルマンを引き剥がし始めたのだ。ネルファンディアの悲痛な叫びが響く。
「止めて!!ガンダルフ!嫌!お父様が苦しんでいるの!止めて!!お父様、行かないで!」
ガンダルフの力で弾き飛ばされたネルファンディアは、あっけなく床に叩きつけられた。力なく身体を起こしながら、彼女は父の目を見た。もがき苦しんでいるものの、瞳は確かに愛娘を見ている。
「お父様……」
そして、光に包まれたと思うとその場が再び静寂に包まれる。サルマンがセオデンから引き剥がされたのだ。
後に残されたのは、ネルファンディアの床に伏してすすり泣く声だけだった。