一章、草原での出会い
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
一面に広がる草原に、一頭の白馬が立っている。その馬上では、目を見張るほどに美しい銀髪の乙女が辺りの景色に目を疑っていた。
乙女──ネルファンディアは、草原の先に見える煙に絶句した。
「レヴァナント、あの場所に行ってみましょう。何か分かるかもしれない」
言葉を理解する風の精霊でもある愛馬レヴァナントは、颯爽と走り出す前に鼻先で彼女の杖をつついた。
「え?これを見えないようにしておけって?」
レヴァナントは嬉しそうに頷いている。確かに一理ある。ネルファンディアは今や中つ国ほぼ全土の仇敵となった男の娘。それに一般人だと思われて損はない。彼女はオルクリストと杖を布に丁寧に包み、商人の娘を装うことにした。名は何とすべきか。母の名前をもじって、ラエルといったところでいいだろう。
そんなことを思いながら煙の近くにやって来たネルファンディアは、煙が人を焼いているものではなく家から出ているものだと知った。それもほぼ全ての家からだ。
「そんな……」
真実を確かめるために、ネルファンディアはうずくまる老婆とその嫁らしき人に尋ねた。
「あの、ここで一体何が……」
「大きな黒い甲冑を来た怪物が来て……あぁ、鉤みたいな剣を振り回してたね。そいつらが家を焼き払ったんだ。人も随分死んだよ」
「それだけじゃないの。私たちのなかにも裏切り者がいるんだ」
ネルファンディアはすぐ、ウルク=ハイの襲撃にあったことを悟った。だが、裏切り者がいるということは初耳だ。
「裏切り者?」
「あぁ、そうだよ。何でも白の魔法使いが裏切り者を募ってるんだとか……」
ネルファンディアの心が針で刺されたように痛む。この地で父の名を聞くこと──しかも悪名の方で聞くことは覚悟をしていた。だが、いざ耳にするとそれは確かに彼女の傷に変わった。
あと何度傷つけば済むのだろうか。これを思えば、やはり母はあの時亡くなって正解だったかもしれない。
ネルファンディアは二人に会釈すると、再びレヴァナントに乗ろうと足をかけた。だが、急に別の疑問が浮上し始めたので再び二人に向き直って声をかけた。
「ごめんなさい、もう一つお伺いしても?エドラスはどちらですか?」
すると二人は急に険しい顔に変わり、言葉も途端に歯切れが悪くなった。ネルファンディアは何かあると確信し、ためらうこと無く尋ねた。渋々といった様子で嫁の方が語りだす。
「あのね……エドラスへは行かない方がいいと思うわ。悪い噂を聞いたのよ。何でも陛下が変貌されたとか……」
「私たちの惨状には耳も傾けず、それどころか自分は安全な宮殿に引きこもってるんだよ」
あのセオデンが?ネルファンディアは耳を疑った。父と共にかつてエドラスの地に赴いたとき、彼は立派な統治者だった。それがそこまで堕落するものだろうか。だが、エレボールのスロール王の件があるので断定は出来ない。ネルファンディアは今度こそ礼を言うと、レヴァナントに乗ってその場を後にした。
行き先はもちろん、エドラスだ。真相を確かめねば。ネルファンディアは愛馬の背を撫でながら、建物が焼け焦げた香りが遠退くのを感じていた。
活気を失ったエドラスで、一人の美しい銀髪の女性が馬小屋に忍び込んでいる。女性──エオウィン姫はいたずらっ子のような笑みを浮かべながら、居眠りしている番人の隣をすり抜けて馬の紐を解いた。そして静かに外へ連れ出すと、誰もいないことを確認してその背を撫でた。
「いい子にしててね、ちょっと乗るだけだから。ね、お願い」
エオウィンは満面の笑みを浮かべると、小屋から盗んだ馬にまたがった。視界はとても高く、生まれ育ったはずの景色なのに全く別世界のように思える。彼女は試しに軽く馬を前に進めてみた。独特のリズムが心地よい。
ああ、やはり自分はローハンの血が流れている!エオウィンは感極まりながらどんどん馬を前に進めた。そして、兄のように風を切って走りたいと思った。
兄のように腹を蹴ると、馬はすぐに加速し始めた。
「ふぅぅ!最高!」
まとめていない金髪が風と共に、夜明けの空のような色を撒いてたなびく。もちろん、彼女は止め方も知っていた。
「手綱を引くのよね」
ところが彼女が手綱を引いたものの、馬は全く止まらない。それどころかどんどん足を早めていく。エオウィンは急に不安になり始めた。
「やだ、止まって!お願い!」
その叫びを聞く者は誰もいない。彼女は目を閉じて、ただ馬が止まることだけを祈った。
すると、突然馬が停止した。エオウィンは何が起きたのかと思い、恐る恐る目を開けた。するとそこには────
「大丈夫よ。安心して……主とは違う人が乗って驚いたのよね」
銀髪の美しい女性が立っていた。隣には光と間違えそうになるくらいに眩しい白馬が並んでいる。馬をなだめ終わると、女性──ネルファンディアはエオウィンに礼儀正しく手を差しのべた。
「お怪我はありませんか?」
「ええ。全然、大丈夫よ」
エオウィンはローハンの誇りを汚すまいと気丈に振る舞い、ネルファンディアの手を借りること無く馬上から降りようと試みた。ところが乗れたにもかかわらず、降りることができない。ネルファンディアは失笑しながら、もう一度手を差し出した。エオウィンが無言で手を取る。
馬から降りて並んだ彼女は、恩人の気高い美しさに思わず見とれてこう言った。
「あなた……どこかの姫なの?」
「え?私が?」
冷や汗が出る。平民を装わねば。ネルファンディアはごまかすために、わざと大笑いした。
「やだ!あなた面白い人ね!私は商人の娘なの。父とはぐれてしまって、探しているんだけど……エドラスへ行ったと聞いて、そこを目指してるの」
エオウィンはなるほどと二三度頷き、突然ネルファンディアの目の前に手を出した。一体何事かと、賢者の娘は目を白黒させた。
「私、エオウィン。よろしくね」
「え……ええと……」
しばらく微妙な沈黙があって、ようやくネルファンディアは握手を求めていることを悟った。彼女は初対面の朗々とした女性に面食らいながらも、ラエルと名乗ってにこやかに握手を交わした。更にエオウィンはネルファンディアにこんな提案をしてきた。
「エドラスへ行くのよね?私、エドラスに住んでるのよ。だから一緒に行きましょう。寝る場所も食事も、全部世話してあげる」
「そうなの?でも、何だか悪いわ」
ネルファンディアの言葉は本心だった。明らかに平民の格好をしている、それも初対面の女性に世話を頼むなど、いくら恩人とはいえ甘えることはできない。だがエオウィンはしつこかった。ネルファンディアが独りで行こうとすると、道を阻むようについてくる。
そしてとうとう、ネルファンディアの方が折れた。彼女は満足げな名前も知らない女性の背についていくはめになったことを、幸と取るか不幸と取るかを悩むのだった。
エドラスの城下町に入城したネルファンディアは、活気を失ったとはいえ王都であることは変わりないと感嘆した。だが、防御としてはデールに次いで最悪の場所だ。そのことを受けて、ネルファンディアは父から、ローハンの民は戦になるとヘルム峡谷にある要塞へ避難すると聞いたことを思い出した。
馬上で純粋に回想と見物に耽っていると、エオウィンが良く通る元気の良い声でネルファンディアに手を振っている。いつの間にか彼女は王都の中心である黄金館に着いていた。彼女は首をかしげてエオウィンに尋ねた。
「ねぇ。あなた、ここは王族の居所よ?」
「ええ、そうよ。セオデン王の居所で、王都の中心地」
エオウィンは馬を適当に小屋の前にくくりつけると、振り返って満面の笑みで付け足した。
「──そして、私の家よ」
ネルファンディアは開いた口が塞がらない状態で、必死に現状を分析している。ローハンの姫は楽しそうに笑いながら、話し相手になってくれそうな客人を見ているのだった。
エオウィンに案内されるがままに宮殿に足を踏み入れたネルファンディアは、こんなにあっさりと偵察が叶うとは思ってもみなかったと感動した。そして杖と剣を隠したことは正解だったと満足していた。
姫は使用人たちを呼ぶと、ネルファンディアに客間と服を用意させるように命じた。
「客間は私の部屋から一番近いあの部屋ね。それと、服は私の服を使ってもらって」
「え?あなたの服を?いけません。姫様、私は使用人の服で構いませんから……」
すると、エオウィンの眉間にしわが寄せられた。なにか不味いことでも言っただろうか。ネルファンディアの額に冷や汗が浮かぶ。エオウィンは口をへの字に曲げると、客人の手を取って言った。
「ねぇ、ラエル。あなたは私の命の恩人よ。それに、客人。姫の客人は姫と同等の扱いを受けるもの。あと、その話し方はやめて。最初会ったときみたいに話してちょうだい」
やや後半の方は論点がずれているが、理にかなっている。ネルファンディアは黙ってじゃじゃ馬姫の顔を眺めた。そして、その無邪気で無鉄砲な瞳の中に、確かな勇敢さと知性を見た。
────暫くは付き合うことにしましょう。
ネルファンディアは恭しく頭を下げると、願ったり叶ったりの状況に、僅かにほくそ笑むのだった。
ローハンのドレスは袖が五分丈になっており、とても動きやすかった。ネルファンディアはその性能に感動しながら、何度か杖を振るような仕草をしている。
「どう?楽でしょう?」
「ええ、とっても。……ところで、王様に無断でこのようなことをして大丈夫なの?もし良ければ謁見したいのだけど……」
「あ……それは……」
途端にエオウィンの表情が曇る。やはり王に何か異変が起きているのだとネルファンディアは悟った。
────調査が必要ね。さて、どうするか……
「だ、大丈夫よ!だって私、エオウィンだから」
至極全うでよく分からない回答が返ってきたものの、ネルファンディアは敢えて気づかない振りをした。姫に頼めないとすれば、他にどうやって謁見すればいいのか。彼女は鋭い視線で辺りを見回しながら、今後の策を弄し始めるのだった。
ネルファンディアがテラスに座っていると、隣にエオウィンがやって来た。
「ねぇ、あなたってどこから来たの?」
一番聞かれると困る質問だった。だが、きちんと賢者の娘は答えを用意していた。
「デールよ」
「デール!?まぁ……遠いのね」
「ええ。でも、良いところよ。高台にあって、色んな種族で賑わう市場があるの。それから正面には────」
エレボール。呪いのようなその言葉は、ネルファンディアの舌を凍りつかせた。やっとのことで声を紡ぎだし、彼女は続けた。
「エレボール──山の下の王国があるの」
「聞いたことあるわ!ドワーフの若き王子が、仲間と共に竜から故郷を取り戻した話よね!」
おとぎ話に目を輝かせる子供のようにはしゃぐエオウィンを見て、ネルファンディアは驚いた。人間たちにとってはそんなに昔の話なのか。だが、彼女はすぐにそれもそうだと納得した。
もう60年も前になるのだから。呪縛のようなあの日々は、とても長かった。あの頃から既に父の背信と狂信が始まっていたのならば、もっと早くに気づくことが出来れば救えたのでは。今頃気難しいながらも旅に協力してくれて、アイゼンガルドで皆と一時を過ごしていたのではないだろうか。
トーリンが生きていたらにしても、父が背信しなかったらにしても、そう考え始めればなんでも変わってしまう。ネルファンディアはため息をつくと、エオウィンの話に相槌を打った。彼女はとても楽しそうに話し続けている。
だが、突然その会話が止まった。エオウィンは先程とは全く違う真剣な面持ちに変わり、ネルファンディアを見た。
「ラエル。絶対にここから動かないで。声も出さない。いいこと?」
「え?ち、ちょっと、エオウィン?」
ネルファンディアが状況を飲み込むより前に、エオウィンはテラスのカーテンを固く閉めて行ってしまった。一体何があったのだろうか?
彼女は好奇心を抑えきれず、注意深く部屋の音に耳を澄ませた。すると、中からエオウィンと男の声が聞こえてきた。その声はねっとりとしていて、間接的に聞くのも寒気がするほどだった。男はエオウィンに何やら話しかけている。
「姫。なぜ頑なに私を拒むのですか?」
「あなたの言葉は、毒です。陛下をあやつり、何を企んでいるのですか?」
ネルファンディアはセオデンが男に操られているという言葉に、がぜん興味を示して耳をそばだてた。そして、男の顔をちらりと見るためにカーテンの裾をそっと開いた。
鴉のように不吉な漆黒の服に、青白い顔の中にぐりっと見開かれた目。確かに気味が悪い男だった。だが、彼にセオデン王を操るほどの魔力は無さそうに思える。ネルファンディアが引き続き観察していると、突然男がエオウィンを抱き締めようとした。明らかに嫌がっている。彼女を助けるべく、とっさにネルファンディアは大きな物音を立てた。
「誰だ!?」
男は勘が鋭いようで、テラスに一直線に向かっていった。エオウィンが冷や汗をかきながら息をのむ。
だが男が辺りを見回したとき、そこには既に誰も居なかった。エオウィンは敵意を露にしながら彼に告げた。
「帰って」
「……いつまで意地を張っていられるか、楽しみですね」
男は捨て台詞を吐いて、その場から立ち去った。足音が聞こえなくなったのを見計らい、ネルファンディアはため息をついた。エオウィンが慌ててテラスへと駆け寄ってくる。
「ラエル!?」
「全く……私はここよ」
テラスの外側にぶら下がっていたネルファンディアは、器用に片手でよじ登ってエオウィンの隣に戻ってきた。
「よかった……あいつに見つかると厄介だわ」
「ねぇ、あの男は誰なの?」
ネルファンディアの質問に答えるのも嫌そうに顔をしかめながら、エオウィンは言葉に棘を含ませながら話し始めた。
「あいつは、陛下の相談役だったのよ。でも最近、陛下に怪しげな施術をして……それ以来、陛下の様子がおかしいの」
「例えばどんな風に?」
「そうね……話を聞いてくれなくなったわ。それに、忠臣たちをどんどん排斥していって……」
ネルファンディアは眉をひそめながら話を聞いていた。そして魔術が関係していると即刻に悟った。彼女はエオウィンに侍女の服を貸してほしいと頼んだ。
「どうして?」
エオウィンが不思議そうに尋ねる。ネルファンディアは目を細めて口の端を歪めた。
「男の化けの皮を剥いでやるのよ」
その瞳には母譲りのお転婆精神が、確かに光り輝いていた。
乙女──ネルファンディアは、草原の先に見える煙に絶句した。
「レヴァナント、あの場所に行ってみましょう。何か分かるかもしれない」
言葉を理解する風の精霊でもある愛馬レヴァナントは、颯爽と走り出す前に鼻先で彼女の杖をつついた。
「え?これを見えないようにしておけって?」
レヴァナントは嬉しそうに頷いている。確かに一理ある。ネルファンディアは今や中つ国ほぼ全土の仇敵となった男の娘。それに一般人だと思われて損はない。彼女はオルクリストと杖を布に丁寧に包み、商人の娘を装うことにした。名は何とすべきか。母の名前をもじって、ラエルといったところでいいだろう。
そんなことを思いながら煙の近くにやって来たネルファンディアは、煙が人を焼いているものではなく家から出ているものだと知った。それもほぼ全ての家からだ。
「そんな……」
真実を確かめるために、ネルファンディアはうずくまる老婆とその嫁らしき人に尋ねた。
「あの、ここで一体何が……」
「大きな黒い甲冑を来た怪物が来て……あぁ、鉤みたいな剣を振り回してたね。そいつらが家を焼き払ったんだ。人も随分死んだよ」
「それだけじゃないの。私たちのなかにも裏切り者がいるんだ」
ネルファンディアはすぐ、ウルク=ハイの襲撃にあったことを悟った。だが、裏切り者がいるということは初耳だ。
「裏切り者?」
「あぁ、そうだよ。何でも白の魔法使いが裏切り者を募ってるんだとか……」
ネルファンディアの心が針で刺されたように痛む。この地で父の名を聞くこと──しかも悪名の方で聞くことは覚悟をしていた。だが、いざ耳にするとそれは確かに彼女の傷に変わった。
あと何度傷つけば済むのだろうか。これを思えば、やはり母はあの時亡くなって正解だったかもしれない。
ネルファンディアは二人に会釈すると、再びレヴァナントに乗ろうと足をかけた。だが、急に別の疑問が浮上し始めたので再び二人に向き直って声をかけた。
「ごめんなさい、もう一つお伺いしても?エドラスはどちらですか?」
すると二人は急に険しい顔に変わり、言葉も途端に歯切れが悪くなった。ネルファンディアは何かあると確信し、ためらうこと無く尋ねた。渋々といった様子で嫁の方が語りだす。
「あのね……エドラスへは行かない方がいいと思うわ。悪い噂を聞いたのよ。何でも陛下が変貌されたとか……」
「私たちの惨状には耳も傾けず、それどころか自分は安全な宮殿に引きこもってるんだよ」
あのセオデンが?ネルファンディアは耳を疑った。父と共にかつてエドラスの地に赴いたとき、彼は立派な統治者だった。それがそこまで堕落するものだろうか。だが、エレボールのスロール王の件があるので断定は出来ない。ネルファンディアは今度こそ礼を言うと、レヴァナントに乗ってその場を後にした。
行き先はもちろん、エドラスだ。真相を確かめねば。ネルファンディアは愛馬の背を撫でながら、建物が焼け焦げた香りが遠退くのを感じていた。
活気を失ったエドラスで、一人の美しい銀髪の女性が馬小屋に忍び込んでいる。女性──エオウィン姫はいたずらっ子のような笑みを浮かべながら、居眠りしている番人の隣をすり抜けて馬の紐を解いた。そして静かに外へ連れ出すと、誰もいないことを確認してその背を撫でた。
「いい子にしててね、ちょっと乗るだけだから。ね、お願い」
エオウィンは満面の笑みを浮かべると、小屋から盗んだ馬にまたがった。視界はとても高く、生まれ育ったはずの景色なのに全く別世界のように思える。彼女は試しに軽く馬を前に進めてみた。独特のリズムが心地よい。
ああ、やはり自分はローハンの血が流れている!エオウィンは感極まりながらどんどん馬を前に進めた。そして、兄のように風を切って走りたいと思った。
兄のように腹を蹴ると、馬はすぐに加速し始めた。
「ふぅぅ!最高!」
まとめていない金髪が風と共に、夜明けの空のような色を撒いてたなびく。もちろん、彼女は止め方も知っていた。
「手綱を引くのよね」
ところが彼女が手綱を引いたものの、馬は全く止まらない。それどころかどんどん足を早めていく。エオウィンは急に不安になり始めた。
「やだ、止まって!お願い!」
その叫びを聞く者は誰もいない。彼女は目を閉じて、ただ馬が止まることだけを祈った。
すると、突然馬が停止した。エオウィンは何が起きたのかと思い、恐る恐る目を開けた。するとそこには────
「大丈夫よ。安心して……主とは違う人が乗って驚いたのよね」
銀髪の美しい女性が立っていた。隣には光と間違えそうになるくらいに眩しい白馬が並んでいる。馬をなだめ終わると、女性──ネルファンディアはエオウィンに礼儀正しく手を差しのべた。
「お怪我はありませんか?」
「ええ。全然、大丈夫よ」
エオウィンはローハンの誇りを汚すまいと気丈に振る舞い、ネルファンディアの手を借りること無く馬上から降りようと試みた。ところが乗れたにもかかわらず、降りることができない。ネルファンディアは失笑しながら、もう一度手を差し出した。エオウィンが無言で手を取る。
馬から降りて並んだ彼女は、恩人の気高い美しさに思わず見とれてこう言った。
「あなた……どこかの姫なの?」
「え?私が?」
冷や汗が出る。平民を装わねば。ネルファンディアはごまかすために、わざと大笑いした。
「やだ!あなた面白い人ね!私は商人の娘なの。父とはぐれてしまって、探しているんだけど……エドラスへ行ったと聞いて、そこを目指してるの」
エオウィンはなるほどと二三度頷き、突然ネルファンディアの目の前に手を出した。一体何事かと、賢者の娘は目を白黒させた。
「私、エオウィン。よろしくね」
「え……ええと……」
しばらく微妙な沈黙があって、ようやくネルファンディアは握手を求めていることを悟った。彼女は初対面の朗々とした女性に面食らいながらも、ラエルと名乗ってにこやかに握手を交わした。更にエオウィンはネルファンディアにこんな提案をしてきた。
「エドラスへ行くのよね?私、エドラスに住んでるのよ。だから一緒に行きましょう。寝る場所も食事も、全部世話してあげる」
「そうなの?でも、何だか悪いわ」
ネルファンディアの言葉は本心だった。明らかに平民の格好をしている、それも初対面の女性に世話を頼むなど、いくら恩人とはいえ甘えることはできない。だがエオウィンはしつこかった。ネルファンディアが独りで行こうとすると、道を阻むようについてくる。
そしてとうとう、ネルファンディアの方が折れた。彼女は満足げな名前も知らない女性の背についていくはめになったことを、幸と取るか不幸と取るかを悩むのだった。
エドラスの城下町に入城したネルファンディアは、活気を失ったとはいえ王都であることは変わりないと感嘆した。だが、防御としてはデールに次いで最悪の場所だ。そのことを受けて、ネルファンディアは父から、ローハンの民は戦になるとヘルム峡谷にある要塞へ避難すると聞いたことを思い出した。
馬上で純粋に回想と見物に耽っていると、エオウィンが良く通る元気の良い声でネルファンディアに手を振っている。いつの間にか彼女は王都の中心である黄金館に着いていた。彼女は首をかしげてエオウィンに尋ねた。
「ねぇ。あなた、ここは王族の居所よ?」
「ええ、そうよ。セオデン王の居所で、王都の中心地」
エオウィンは馬を適当に小屋の前にくくりつけると、振り返って満面の笑みで付け足した。
「──そして、私の家よ」
ネルファンディアは開いた口が塞がらない状態で、必死に現状を分析している。ローハンの姫は楽しそうに笑いながら、話し相手になってくれそうな客人を見ているのだった。
エオウィンに案内されるがままに宮殿に足を踏み入れたネルファンディアは、こんなにあっさりと偵察が叶うとは思ってもみなかったと感動した。そして杖と剣を隠したことは正解だったと満足していた。
姫は使用人たちを呼ぶと、ネルファンディアに客間と服を用意させるように命じた。
「客間は私の部屋から一番近いあの部屋ね。それと、服は私の服を使ってもらって」
「え?あなたの服を?いけません。姫様、私は使用人の服で構いませんから……」
すると、エオウィンの眉間にしわが寄せられた。なにか不味いことでも言っただろうか。ネルファンディアの額に冷や汗が浮かぶ。エオウィンは口をへの字に曲げると、客人の手を取って言った。
「ねぇ、ラエル。あなたは私の命の恩人よ。それに、客人。姫の客人は姫と同等の扱いを受けるもの。あと、その話し方はやめて。最初会ったときみたいに話してちょうだい」
やや後半の方は論点がずれているが、理にかなっている。ネルファンディアは黙ってじゃじゃ馬姫の顔を眺めた。そして、その無邪気で無鉄砲な瞳の中に、確かな勇敢さと知性を見た。
────暫くは付き合うことにしましょう。
ネルファンディアは恭しく頭を下げると、願ったり叶ったりの状況に、僅かにほくそ笑むのだった。
ローハンのドレスは袖が五分丈になっており、とても動きやすかった。ネルファンディアはその性能に感動しながら、何度か杖を振るような仕草をしている。
「どう?楽でしょう?」
「ええ、とっても。……ところで、王様に無断でこのようなことをして大丈夫なの?もし良ければ謁見したいのだけど……」
「あ……それは……」
途端にエオウィンの表情が曇る。やはり王に何か異変が起きているのだとネルファンディアは悟った。
────調査が必要ね。さて、どうするか……
「だ、大丈夫よ!だって私、エオウィンだから」
至極全うでよく分からない回答が返ってきたものの、ネルファンディアは敢えて気づかない振りをした。姫に頼めないとすれば、他にどうやって謁見すればいいのか。彼女は鋭い視線で辺りを見回しながら、今後の策を弄し始めるのだった。
ネルファンディアがテラスに座っていると、隣にエオウィンがやって来た。
「ねぇ、あなたってどこから来たの?」
一番聞かれると困る質問だった。だが、きちんと賢者の娘は答えを用意していた。
「デールよ」
「デール!?まぁ……遠いのね」
「ええ。でも、良いところよ。高台にあって、色んな種族で賑わう市場があるの。それから正面には────」
エレボール。呪いのようなその言葉は、ネルファンディアの舌を凍りつかせた。やっとのことで声を紡ぎだし、彼女は続けた。
「エレボール──山の下の王国があるの」
「聞いたことあるわ!ドワーフの若き王子が、仲間と共に竜から故郷を取り戻した話よね!」
おとぎ話に目を輝かせる子供のようにはしゃぐエオウィンを見て、ネルファンディアは驚いた。人間たちにとってはそんなに昔の話なのか。だが、彼女はすぐにそれもそうだと納得した。
もう60年も前になるのだから。呪縛のようなあの日々は、とても長かった。あの頃から既に父の背信と狂信が始まっていたのならば、もっと早くに気づくことが出来れば救えたのでは。今頃気難しいながらも旅に協力してくれて、アイゼンガルドで皆と一時を過ごしていたのではないだろうか。
トーリンが生きていたらにしても、父が背信しなかったらにしても、そう考え始めればなんでも変わってしまう。ネルファンディアはため息をつくと、エオウィンの話に相槌を打った。彼女はとても楽しそうに話し続けている。
だが、突然その会話が止まった。エオウィンは先程とは全く違う真剣な面持ちに変わり、ネルファンディアを見た。
「ラエル。絶対にここから動かないで。声も出さない。いいこと?」
「え?ち、ちょっと、エオウィン?」
ネルファンディアが状況を飲み込むより前に、エオウィンはテラスのカーテンを固く閉めて行ってしまった。一体何があったのだろうか?
彼女は好奇心を抑えきれず、注意深く部屋の音に耳を澄ませた。すると、中からエオウィンと男の声が聞こえてきた。その声はねっとりとしていて、間接的に聞くのも寒気がするほどだった。男はエオウィンに何やら話しかけている。
「姫。なぜ頑なに私を拒むのですか?」
「あなたの言葉は、毒です。陛下をあやつり、何を企んでいるのですか?」
ネルファンディアはセオデンが男に操られているという言葉に、がぜん興味を示して耳をそばだてた。そして、男の顔をちらりと見るためにカーテンの裾をそっと開いた。
鴉のように不吉な漆黒の服に、青白い顔の中にぐりっと見開かれた目。確かに気味が悪い男だった。だが、彼にセオデン王を操るほどの魔力は無さそうに思える。ネルファンディアが引き続き観察していると、突然男がエオウィンを抱き締めようとした。明らかに嫌がっている。彼女を助けるべく、とっさにネルファンディアは大きな物音を立てた。
「誰だ!?」
男は勘が鋭いようで、テラスに一直線に向かっていった。エオウィンが冷や汗をかきながら息をのむ。
だが男が辺りを見回したとき、そこには既に誰も居なかった。エオウィンは敵意を露にしながら彼に告げた。
「帰って」
「……いつまで意地を張っていられるか、楽しみですね」
男は捨て台詞を吐いて、その場から立ち去った。足音が聞こえなくなったのを見計らい、ネルファンディアはため息をついた。エオウィンが慌ててテラスへと駆け寄ってくる。
「ラエル!?」
「全く……私はここよ」
テラスの外側にぶら下がっていたネルファンディアは、器用に片手でよじ登ってエオウィンの隣に戻ってきた。
「よかった……あいつに見つかると厄介だわ」
「ねぇ、あの男は誰なの?」
ネルファンディアの質問に答えるのも嫌そうに顔をしかめながら、エオウィンは言葉に棘を含ませながら話し始めた。
「あいつは、陛下の相談役だったのよ。でも最近、陛下に怪しげな施術をして……それ以来、陛下の様子がおかしいの」
「例えばどんな風に?」
「そうね……話を聞いてくれなくなったわ。それに、忠臣たちをどんどん排斥していって……」
ネルファンディアは眉をひそめながら話を聞いていた。そして魔術が関係していると即刻に悟った。彼女はエオウィンに侍女の服を貸してほしいと頼んだ。
「どうして?」
エオウィンが不思議そうに尋ねる。ネルファンディアは目を細めて口の端を歪めた。
「男の化けの皮を剥いでやるのよ」
その瞳には母譲りのお転婆精神が、確かに光り輝いていた。