七章、宿命の仲間たち
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ロスロリエンを去るとき、ガラドリエルは皆にそれぞれ贈り物を授けてくれた。皆がマントを一着ずつ、剣、盾、弓、ロープ(これはサムのものだったが、彼も正直面食らっていた)、そしてギムリはいつの間にか奥方に心酔していたので、彼女の髪を少しだけもらった。
フロドとネルファンディアは最後だった。フロドはエアレンディルの星の光を詰めた小瓶をもらっていた。
ガラドリエルはようやくネルファンディアの前に来て、直々にマントを着せてやった。そして、その手に同じく小瓶をを握らせた。
「……これは?」
「その薬は、疲労を取る薬です。どれ程大きな鍋一杯に張られた水にでも、一滴垂らせば同じ効果を与えることができます。何より便利なのは、馬の鼻に一滴付けるだけで走り続けることが出来ることですが」
ネルファンディアはガラドリエルの贈り物が、全て意味のあるものと見越して与えられていることに気づいていた。だから彼女は敢えて、これを何に使うかは尋ねなかった。代わりにガラドリエルが説明を付け加える。
「これは、そなたの母と父が共に試行錯誤を繰り返して作ったもの。言わば、そなたの兄弟のようなものです」
「父と母が……」
「そう。きっとあなたの力になるでしょう」
「ありがとうございます、お姉様」
ネルファンディアは両親を抱き締めるように、小瓶を胸に抱いた。雪解け水のようにひやりとしていたが、身に染みるように暖かく感じた。その背に、支度が整ったことを知らせるボロミアの声がかけられる。
「そろそろ行くぞ!ネルファンディア」
「ええ、そうね。今行くわ」
彼女は深々と一礼し、マントを翻して軽やかな足取りでボートに乗った。一行の姿が見えなくなるまで、ガラドリエルは見送り続けた。それは僅かに、贖罪の念のようにも見える気もした。
ネルファンディアたちが河を下っている最中、レゴラスはずっと何かの物音に耳をすませていた。彼は眉をひそめ、その音に首をかしげている。ギムリは何も気にならないのか、ネルファンディアに奥方様とはどういう間柄なのかと質問攻めしていた。
「ネルファンディア殿が、奥方様の妹君のお嬢様だったとは……」
「そうなの。……どうしたの?レゴラス」
ようやくレゴラスの異変に気づき、ネルファンディアは彼の方を見た。
「あぁ、いや……足音が聞こえるんだ。とてつもない大軍の」
「おかしいな。オークたちはこんな昼間に動けない」
「まさか……」
ネルファンディアは振り返って岸の方を見た。だが、何も見えない。けれど一つだけ確かなことがあった。
「────父が、新しい化け物を造った」
「何だって…!?」
「父は誰だと思う?白のサルマンよ」
「先を急ごう!つけられている!」
河を下る速度を速め、一行はなんとか隠れられそうな場所にたどり着いた。そこは奇遇にも、ゴンドール人であるボロミアとアラゴルンにとって見覚えのある場所だった。
「アモン・ヘンだ……」
「ここが?失われた遺跡の?」
普段なら瞳を輝かせて見物するのだが、今日はそういうわけにもいかない。ネルファンディアは休息で鈍った体をほぐすために、独り剣術の稽古を始めた。それを見ていたギムリが、斧を研ぎながら話しかけてきた。
「それは、ドワーフの……宮廷剣術では?」
「え……?」
そうだったのか。ネルファンディアはトーリンが道中で教えてくれた剣術を主に使う。たしかあの時────
『珍しい。ドワーフは己の種族のことは教えぬのでは?』
『ふん。別に構わん。こやつは私の……その……友だからな。』
バーリンが丁寧に剣術を教えるトーリンを茶化す。ネルファンディアを後ろから抱き抱えるようにして、剣の握り方から教えていたトーリンの頬が紅潮した。その様子を見ていたボフールたちが大笑いし、トーリンはため息をついた。
────あのときから、あなたははっきりと私が好きだったのね。私もあなたがとても好きだった。わざと覚えが悪い振りをして、稽古を長く続けてもらったこともあったわね。
ギムリが不思議そうに顔を覗き込んでいるのに気づき、ネルファンディアは我に返った。
「ええと、なんの話を……」
「あなたの剣術の話ですよ」
「私の?ええと…そうね。これは私の……」
トーリン、ごめんなさい。嘘をつくわ。ネルファンディアは心の中で婚約者に謝罪し、こう答えた。
「私の友人が教えてくれたの。魔法使いは顔が広いのよ」
「なるほど!そうでしたか」
ギムリもアラゴルンも、すぐに信じてくれた。だが唯一腑に落ちなさそうな顔をしていたのは、意外にもボロミアだった。何とか誤魔化せたと、少し離れた遺跡に腰かけて胸を撫で下ろしたネルファンディアの隣に、彼は静かに距離を開けて座った。
「……違うんだろ、本当は」
「え……?何が?」
「さっきの話。あんたの目は、友人を懐古する目じゃなかった。あれは……」
にこやかだが、隅に置けない男だ。ネルファンディアはため息をつくと、そうだと一言返した。
「……どんな奴だったんだ?」
「ドワーフの王子で、とても優しい人だった。皆の上に立つお方で、いつも責任感に苛まれる可哀想な人でもあった。でも、己の使命から逃げずに立ち向かった」
「それで……」
「立ち向かい、私の元へ戻ることはなかった」
沈黙が広がる。ボロミアは聞いてはならないことを聞いてしまった気がして、慌てて謝罪した。
「す、すまない。心の傷をえぐるつもりは──」
「いいのよ。いつか、その人のことをきちんと婚約者と言えるようにならなきゃね」
「そうだな。きっと今頃怒ってるぞ」
「ええ。たぶんね」
ボロミアは気さくでいい人だ。人懐っこいというのは、こういう人のことを言うのだろう。だがネルファンディアがそう思った刹那、彼の瞳に翳りが見えた。
「……影が、見える。あなたの瞳に」
「だろうな」
「私の元へ来たのは、何か悩みがあるからでしょう?」
それは奇しくも、トーリンと同じ影だった。ボロミアは苦痛を吐き出すように、ゆっくりと語り始めた。
「俺は……ゴンドール執政の息子だ。弟が一人いる。でも、父は弟を愛してない」
「……あなたは?」
「俺は、かけがえのない弟だと思ってる。だが、最近俺も父親の重圧に耐えられなくなり始めている」
ネルファンディアは目を細めると、ボロミアに静かな声で尋ねた。
「────逃れたいから、悩んでいるのではありませんね」
「ああ、そうだ。向き合いたいから悩んでる」
「なら、きっと大丈夫。あなたは一人ではない。仲間がいるから」
そう言って、彼女はボロミアに手を差し出した。困った素振りを見せながらも、彼は嬉しそうに笑っている。
「あんたの手なんか握ったら、そのドワーフの王子に殺される」
「イムリット・アムラ=ドゥールスレって言われながらね」
「……何だそれ?」
ネルファンディアは笑顔で答えた。
「" 竜の炎に焼かれて死ね "って意味よ。ドワーフ語でそう言うの」
「ふぅん……王子が口にする言葉じゃないな」
ボロミアはそう言って、自ら立ち上がった。そしてネルファンディアに向き合って微笑みかけた。
「──あんたは偉いよ。父親がああでも、前を向いて使命を果たそうとしてる」
「そんなことはない。逃げて後悔するのはもう嫌。ただそれだけよ」
トーリンが教えてくれた。逃げたりしないと。そして、見えないところでも仲間を気遣う大切さを。だからもう仲間を失ったりはしない。ネルファンディアはそう思いながら、再び剣術の稽古に戻るべく歩き出すのだった。
ネルファンディアが独りで稽古を再開していると、目の前に転がり込むようにしてフロドが現れた。驚いた彼女は、剣を仕舞って震えるホビットに駆け寄った。彼の瞳は涙と苦しみに歪んでいる。そして悲痛な声で何かをネルファンディアに差し出した。
「お願いです、受け取ってください。もう僕には無理です。僕には……」
「それは……」
どす黒くも眩しく輝き、黄金に光る指輪。サウロンの指輪だった。ネルファンディアも近くで直視することがなかったこの指輪は、彼女を確かに呼んでいた。あの耳障りで許しがたい男の声で。
────受けとれ……そうだ……手を伸ばせ……
「ボロミアも、ロスロリエンの奥方様も、この指輪の魔力に負けてしまった。僕もきっとああなる。でも、あなたなら大丈夫でしょう?強いはずだ」
ネルファンディアの耳に、フロドの言葉は届かない。その視線は物欲ではなく復讐心に燃えていた。
「もし……それを手にしたら、私は全てを終わらせることが出来ると思う?」
「ええ。あなたの手で滅びの裂け目に持っていくんです。きっとあなたなら出来る」
手がゆっくりと指輪へ伸びる。そしてその指先が僅かに金属の冷たさを感じそうになった瞬間、ネルファンディアは我に返った。
「駄目……私は、受け取れない」
「どうして!?どうして僕だけが背負わねばならないんですか?こんなの、理不尽だ。あんまりだ」
指輪に触れることさえなく、若き賢者は手をひっこめた。先程の憎悪を掻き立てる声が悪態をついた気がした。ネルファンディアはフロドの手にしっかり指輪を握らせると、その身体をモリアの時のように強く抱き締めた。
「そうよ。使命はとても気まぐれに訪れ、人を選ぶ。運命は残酷で、現実は凄惨なの」
ネルファンディアの頬から、涙が溢れる。フロドも泣いている。それでも彼女は続けた。
「でも……それでも、私たちは自分の使命を果たさなければならない。例えそれがどんなに理不尽だとしても」
「あなたも……何か使命があるんですか?」
「ええ。独りで行かねばならない使命から、ずっと逃げていたの。でも、もう逃げたりしない。それに気づかせてくれたのは……誰だと思う?」
フロドは小さく首を横に振った。
「あなたよ、フロド。あなたがこんなに小さい身体であんなに大きな荷を背負って、それでも私を励ましてくれたあのときに、私は決めたの」
彼女は驚くフロドの瞳を見ながら、全てを見守る優しい光のように微笑んだ。
「私には、私にしかできないことがある。あなたにも、あなたにしかできないことがある。だから一緒に行きましょう。独りで歩まねばならない道だから」
「独りなのに、どうして一緒に行くと?」
ネルファンディアは片方の手で彼のマントのブローチに、もう片方の手で自分のマントのブローチに触れた。
「だってどこに居ても、私たち10人はいつでも仲間だから」
「ネルファンディア……!」
フロドは嗚咽を堪えきれず、彼女の腕の中に飛び込んだ。その頭をネルファンディアは優しく撫でた。
「また、会えるよね?」
「ええ、きっと。懐かしい我が家に──故郷に帰るのよ。一緒に連れていってくれる?フロド」
「もちろんです。歓迎します。生きてまた再会する。これは約束ですからね」
「わかった。約束しよう」
二人は指切りを交わした。そしてフロドが立ち上がる。ネルファンディアはその小さな背をいつまでも見つめ続けた。心の奥底では再会できることを信じたくて、自分でもよくわからない何かに祈りながら。
ネルファンディアは近くの方で大軍が押し寄せる音を聞いた。先程川を下っている最中に聞いたものと同じだ。彼女が急いでアラゴルンたちの元へと駆けつけるべく、アモン・ヘンの遺跡を駆け上がったときには既に辺りは見たこともない敵で埋まっていた。
「ネルファンディア!一体これは?」
「わからない!けど……」
ネルファンディアはレゴラスに声をかけられ、倒し終えてある敵の骸を観察した。人間に限りなく近い身体に、黒い血。そして驚くほど強い力と持久力。更にはここまで追跡が出来る知能。
彼女は目を閉じて深呼吸した。とても冷静に話すことはできない。
「これは……おそらく最強の化け物。オークと人間の長所を備えた、無敵の殺戮兵器。光にも怯まず、高い知能を誇る。古より、これが完成すれば驚異となると言われていた魔物。────ウルク=ハイよ」
ネルファンディアは立ち上がり、空を仰いで独り言のように呟いた。
「サウロンがこれを作ることができなかった理由。それは彼が妖術使いではなかったから。そして今、黒の軍勢で奴等を作ることが出来る者は、たった一人」
「……君のお父上か」
アラゴルンの語気に、意図していないつもりでもやや怒りが混じっている。だがネルファンディアはそれ以上に冷ややかな怒りを湛え、一同に振り返った。
「────いいえ、もう父ではない」
ネルファンディアは剣を抜き、無言で歩き出した。慌ててレゴラスが止めようとする。
「ネルファンディア!何をするつもりなんだ」
「探すのよ。これほどの知能がある奴等には、必ず長となる指揮官がいるはず。あなたならわかるでしょう?レゴラス。グンダバドの穢れの王と同じよ」
「……わかった。気を付けてくれ」
もう同じ理由で仲間を失うのはごめんだ。ネルファンディアはマントをなびかせて走り出した。
予想通り、ウルク=ハイには強力な指揮官がいた。ラーツは邪悪なしわがれ声で叫んだ。
「ホビットを探せ!!生け捕りにしろ!他は殺せ!」
彼は部下たちが指示を理解したのを見届け、主人が命じたもう一つの指示を付け足した。
「──それから、銀の髪の魔法使い。こいつも連れてこい!」
それを死角から聞いていたのは、メリーとピピンだった。二人は顔を見合わせて青ざめると、息を殺しながら囁きあった。
「まずい。ネルファンディアは知ってるのかな?」
「助けなきゃ。隠れながら行こう」
二人が走って行く先には、ボロミアがいた。彼らは息切れを抑えながらやっとのことで事態を報告した。
「大変だ!」
「何してる!隠れろ!奴等はホビットを探してるんだぞ?」
「それだけじゃない。ネルファンディアのことも探してる!」
「何だって……?」
それを聞いたボロミアの身体に怒りがほとばしる。実父ともあろう者が、娘がここに居ると知りながら兵を送るとは…
────許せない。
「わかった。ネルファンディアは俺に任せろ。お前たちは隠れるんだ」
メリーたちを行かせたあと、ボロミアはその視界でネルファンディアを探した。
────ネルファンディア、どこにいるんだ。
すると、僅かに木々の隙間から銀の髪が見えた。彼はすぐにそれがネルファンディアだと気づき、咄嗟に敵を引き付けるべく腰にかけてあった愛用の角笛を吹いた。
角笛が悲しい音色を立てて響く。ボロミアの思惑通り、敵は皆彼の元へと向かっていった。ネルファンディアは彼が捨て身の作戦に出たことを知り、斜面を転がり落ちるように応援に駆けつけようとした。
────だめ!もう誰も死なせたりしない!トーリン、キーリ、フィーリ、バーリン、オーリ、ノーリ、ドーリ、お母様……お願い、私の仲間たちを守って!
ネルファンディアが駆けつけたときには、既にボロミアは敵に囲まれていた。彼女は全身に力を集中させ、杖から強力な波動を放った。
「ネルファンディア!?何してるんだ!逃げろ!」
「仲間を置いて身を隠すなんて出来ない。絶対に駄目。あなたこそ、どうしてそんな無茶をするの?」
ボロミアは返事にためらった。その間もネルファンディアは、杖とのコンビネーションを利用し、見事な動きで敵を打ち倒している。
「もう、誰も死なせたりしない。私が生きている限り、仲間は誰にも傷つけさせない」
────トーリン。もし私の隣に居るのなら、お願い。私の仲間たちを守って。
ネルファンディアの加勢に、目的を果たすべくラーツが現れた。彼女はかつて父と慕った人の造り出した魔物と対峙し、オルクリストを静かに向けた。
「────私は、ネルファンディア。マイアールでも無くば、エルフでも無い。だが、中つ国の守護者ではある!」
「主人がお呼びだ。大人しくホビットと共に来い」
「……私に会うべき人はいない!」
ネルファンディアは地面を蹴って跳躍すると、近くにいた邪魔なウルク=ハイを倒した。オルクリストが黒い血で染まる。
「この剣の前で、勝てた悪はない」
「『かかれ!』」
耳障りなモルドール語。ネルファンディアは穢れの王のことを思い出して怒りと憎悪に震えた。ボロミアが隣で他のウルク=ハイたちと応戦している。彼女はラーツに立ち向かったが、驚異的な力強さで投げ飛ばされてしまった。全身を強く石畳に打ち付け、呻き声が出る。それでも彼女は短刀で担ごうとしてきたウルク=ハイを倒している。
手こずりそうだ。ラーツはネルファンディアに剣の切っ先を向けた。
「止めろ!」
ネルファンディアは目を閉じなかった。決して目を閉じてはならない。だから彼女は、次に目の前で起きた出来事を全て目撃していた。
剣が振り下ろされる。だが、その刃は彼の意図した相手を貫くことはなかった。その瞬間、ボロミアが彼女の目の前に飛び出したのだ。ゴンドール製の剣でラーツの攻撃を跳ね返し、彼は反動で倒れた。
邪魔者は全て殺す。ラーツは命令通り、弓に矢をかけた。
「ボロミア……逃げて……」
「あんたをアイゼンガルドへ連れていかせはしない。ホビットたちもだ!」
ボロミアは剣を握り直し、立ち上がった。逃げることもせず立ち向かう彼を、ネルファンディアは取りすがって止めることも出来ない。痛む全身を捻り、うわ言のように止めろと唱えることだけが彼女の出来うる全力だった。
そして、ボロミアの身体に矢が放たれる。ネルファンディアの言葉になら無い叫びが響く。彼の身体がゆっくりと崩れ落ちる。
何本も情け容赦なく矢は打ち込まれていく。膝立ちになったボロミアに近寄ると、ラーツは獲物を見るような目でその首に剣をあてた。後ろの方でメリーとピピンが連れていかれるのが視界に入る。だが、何をするにしても身体が動かない。力尽きてその場に伏すネルファンディアの目には、絶望的な光景が映し出されていた。
けれど、全てが終わったわけではなかった。角笛を聞き付けてやって来たアラゴルンが、ラーツに飛びかかったのだ。剣と剣がぶつかり合う金属音が遠退いていく。ネルファンディアは目を閉じた。
光が届かない世界に、ネルファンディアの身体は落ちていく。何一つ動かせないくらいに全身は痛み、心の灯火は消えていた。
────私は、やはり無理でした。誰も救うことなく、使命を知ることもできず私は……
絶望が視界を覆った。するとその耳に声が聞こえた。
────ここで力尽きてはいかん。ネルファンディア!サルマンの子よ!
その声は、紛れもなくガンダルフのものだった。真偽を確かめる間も無く、ネルファンディアは唐突に覚醒させられた。
世界が眩しい。絶望の中にあるというのに、世界はこんなに明るかったのか。彼女はうっすらと戻りつつある景色に眼を凝らした。そこには劣勢に立たされるアラゴルンの姿があった。
これがきっと最期の機会だ。ネルファンディアの心が叫んだ。彼女はうなり声を上げて、よろめく身体で立ち上がった。そして足元に落ちているオルクリストを拾い上げ、両の足で地を踏みしめた。ラーツの注意が、剣を弾き飛ばされたアラゴルンから逸れる。ネルファンディアは深淵から湧き出る泉のように深く、澄んだ声を轟かせた。
「────穢れの王を討ち取ったかみつき丸、オルクリスト。この剣でお前の首を切り落とし、主人に送り返してやる」
「小娘ごときに何ができる」
「私は確かに弱い。だが、強くなることはできる」
ネルファンディアはそう言って、杖を持つこと無くオルクリストのみでラーツに挑んだ。大柄な相手の意表を突く動きを心掛けながら、ネルファンディアは時間を稼いだ。アラゴルンもその意図に気づいたのか、剣を拾って立ち上がっている。
そしてついにネルファンディアはラーツの肩に切っ先を深々と刺すことに成功した。だが、この怪物はその程度では倒れなかった。刺さった剣ごと振り回された彼女は、必死に食らいついた。木の幹に足をつけると、ネルファンディアは勢いをつけてラーツを倒しながら逆方向に剣と共に着地した。ちょうどその足元には、彼女の愛用の杖が落ちている。ありったけの怒りと憎しみを込めて、ネルファンディアは杖から閃光を放った。
「もとあるべき場所へ帰れ!」
ラーツが怯んだ瞬間を見計らい、アラゴルンがその腹に剣を刺した。終わった。二人ともそう思った。だがまだラーツの息の根は止まらない。剣の刃を持ってアラゴルンを引き付け始めたのだ。ネルファンディアは全てを終わらせるために、怪物の首にオルクリストを一閃した。
辺りが静寂に包まれる。ラーツの胴と首が分かれて地面に落ちる。ネルファンディアは大きく息を吐き出してから、ボロミアの方へ駆け寄った。既に息は弱々しく、目も虚ろだ。
「ボロミア!しっかりして」
「あぁ……ネルファンディア……あんた……綺麗だよ」
「何を訳のわからないことを──」
「残念だよ……あんたに先客が……居なければ……」
アラゴルンも隣にやって来た。ボロミアは弱々しく笑っている。
「その男は……心残りだった……だろうな。あんたみたいな……いい女を置いて……死ぬ……なんて……」
ネルファンディアは最期のときまで彼らしい言葉に、思わず涙が出た。ボロミアはアラゴルンの手を掴んで、最期の力を振り絞って尋ねた。
「フロドは……フロドは……あいつに……俺は申し訳ないことを……」
「フロドは無事だ、安心してくれ」
ネルファンディアは、ボロミアも指輪のせいで変わってしまったとフロドが言っていたことを思い出した。ボロミアは身体を起こし、アラゴルン──若きゴンドールの正統なる世継ぎに嘆願した。
「アラゴルン……我らがゴンドールの王……白の都にお戻り下さい……そして、ゴンドールの再興を……あなたが……」
「いいや、ボロミア。" 私たち "だ。君と共に、あの城門をくぐろう」
ネルファンディアはやるせない気持ちで一杯になった。そして弱い自分を責めた。だが、ボロミアは最期まで優しかった。
「泣いて……くれるのか……俺のために」
「ごめんなさい。私のせいで……」
「あんたは……悪くない。……なぁ、手を……握ってくれないか」
「ええ、もちろんよ」
朦朧とする意識の中で、ボロミアは手を握ってくれているネルファンディアの顔を見た。純粋に、とても綺麗だった。
「父親に……ちゃんと会って……理解してあげるんだぞ。きっと……後悔する……から……」
握った手が、力尽きた。ネルファンディアは目を大きく見開いたまま、ただ両目から涙を溢して呆然としている。
仲間は、失われた。もう永遠に、共に帰路に着くことはない。
ボロミアを剣や角笛と共に小舟に乗せると、ネルファンディアたちは大河の彼方に消えるまで彼を見守った。流れの先に船が消えると、彼女は独り荷造りを始めた。
「……ボロミアのことは、君のせいじゃない」
「ありがとう、アラゴルン。でも、私は父との戦いに決着をつけなければいけない」
そして、自分の使命が何であるかも知らなければ。
ネルファンディアはアラゴルンの腕に巻かれたものに気がつき、微笑んだ。
「それ、ボロミアのものね」
「ああ。彼と共に、白の都──ミナスティリスに戻るんだ」
「じゃあ、決めたのね。アラソルンの息子、アラゴルン」
アラゴルンが静かにうなずく。すると、後ろの方でレゴラスが声をあげた。
「フロドたちはどこに!?我々も追わなければ」
だが、アラゴルンは小さく首を横に振った。それだけでレゴラスは何を意味しているかを悟り、しゅんとしてしまった。
「じゃあ、旅の仲間は解散か?」
ギムリが腰を下ろしながらそう言った。アラゴルンがにこりと笑いながら、彼に手を差しのべる。
「いいや、そうじゃない。メリーとピピンは、ウルク=ハイたちにアイゼンガルドへ連れていかれた。追わないとな」
「じゃあ急いだ方がいい。行こう」
レゴラスとアラゴルン、そしてギムリが同じ方向に立った。三人はネルファンディアの方を向き、一緒に行こうと目で訴えている。
だが、ネルファンディアは大河の方を向いて答えた。
「私は、やらねばならないことがあるの。だから、またどこかで再会しましょう」
その背中がとても遠くて、レゴラスは悲しくなった。
「僕たちが一緒に背負ってはいけないものなのか?」
「ええ、そうね。私にしかできないことがある。ガンダルフもサルマンも亡き今、たった一人残ったイスタリの私がやるべきことが。だから、行って。必ず再会できるはず」
ネルファンディアは振り返って三人に微笑みかけた。
「だって、私たちは宿命で結ばれた旅の仲間なんだから」
彼女の進むべき道は異なる。けれど四人のたどる道は全て同じ行き先に続いているのだ。
暗闇を唯一打ち砕くことのできる、希望という名の夜明けへと。
フロドとネルファンディアは最後だった。フロドはエアレンディルの星の光を詰めた小瓶をもらっていた。
ガラドリエルはようやくネルファンディアの前に来て、直々にマントを着せてやった。そして、その手に同じく小瓶をを握らせた。
「……これは?」
「その薬は、疲労を取る薬です。どれ程大きな鍋一杯に張られた水にでも、一滴垂らせば同じ効果を与えることができます。何より便利なのは、馬の鼻に一滴付けるだけで走り続けることが出来ることですが」
ネルファンディアはガラドリエルの贈り物が、全て意味のあるものと見越して与えられていることに気づいていた。だから彼女は敢えて、これを何に使うかは尋ねなかった。代わりにガラドリエルが説明を付け加える。
「これは、そなたの母と父が共に試行錯誤を繰り返して作ったもの。言わば、そなたの兄弟のようなものです」
「父と母が……」
「そう。きっとあなたの力になるでしょう」
「ありがとうございます、お姉様」
ネルファンディアは両親を抱き締めるように、小瓶を胸に抱いた。雪解け水のようにひやりとしていたが、身に染みるように暖かく感じた。その背に、支度が整ったことを知らせるボロミアの声がかけられる。
「そろそろ行くぞ!ネルファンディア」
「ええ、そうね。今行くわ」
彼女は深々と一礼し、マントを翻して軽やかな足取りでボートに乗った。一行の姿が見えなくなるまで、ガラドリエルは見送り続けた。それは僅かに、贖罪の念のようにも見える気もした。
ネルファンディアたちが河を下っている最中、レゴラスはずっと何かの物音に耳をすませていた。彼は眉をひそめ、その音に首をかしげている。ギムリは何も気にならないのか、ネルファンディアに奥方様とはどういう間柄なのかと質問攻めしていた。
「ネルファンディア殿が、奥方様の妹君のお嬢様だったとは……」
「そうなの。……どうしたの?レゴラス」
ようやくレゴラスの異変に気づき、ネルファンディアは彼の方を見た。
「あぁ、いや……足音が聞こえるんだ。とてつもない大軍の」
「おかしいな。オークたちはこんな昼間に動けない」
「まさか……」
ネルファンディアは振り返って岸の方を見た。だが、何も見えない。けれど一つだけ確かなことがあった。
「────父が、新しい化け物を造った」
「何だって…!?」
「父は誰だと思う?白のサルマンよ」
「先を急ごう!つけられている!」
河を下る速度を速め、一行はなんとか隠れられそうな場所にたどり着いた。そこは奇遇にも、ゴンドール人であるボロミアとアラゴルンにとって見覚えのある場所だった。
「アモン・ヘンだ……」
「ここが?失われた遺跡の?」
普段なら瞳を輝かせて見物するのだが、今日はそういうわけにもいかない。ネルファンディアは休息で鈍った体をほぐすために、独り剣術の稽古を始めた。それを見ていたギムリが、斧を研ぎながら話しかけてきた。
「それは、ドワーフの……宮廷剣術では?」
「え……?」
そうだったのか。ネルファンディアはトーリンが道中で教えてくれた剣術を主に使う。たしかあの時────
『珍しい。ドワーフは己の種族のことは教えぬのでは?』
『ふん。別に構わん。こやつは私の……その……友だからな。』
バーリンが丁寧に剣術を教えるトーリンを茶化す。ネルファンディアを後ろから抱き抱えるようにして、剣の握り方から教えていたトーリンの頬が紅潮した。その様子を見ていたボフールたちが大笑いし、トーリンはため息をついた。
────あのときから、あなたははっきりと私が好きだったのね。私もあなたがとても好きだった。わざと覚えが悪い振りをして、稽古を長く続けてもらったこともあったわね。
ギムリが不思議そうに顔を覗き込んでいるのに気づき、ネルファンディアは我に返った。
「ええと、なんの話を……」
「あなたの剣術の話ですよ」
「私の?ええと…そうね。これは私の……」
トーリン、ごめんなさい。嘘をつくわ。ネルファンディアは心の中で婚約者に謝罪し、こう答えた。
「私の友人が教えてくれたの。魔法使いは顔が広いのよ」
「なるほど!そうでしたか」
ギムリもアラゴルンも、すぐに信じてくれた。だが唯一腑に落ちなさそうな顔をしていたのは、意外にもボロミアだった。何とか誤魔化せたと、少し離れた遺跡に腰かけて胸を撫で下ろしたネルファンディアの隣に、彼は静かに距離を開けて座った。
「……違うんだろ、本当は」
「え……?何が?」
「さっきの話。あんたの目は、友人を懐古する目じゃなかった。あれは……」
にこやかだが、隅に置けない男だ。ネルファンディアはため息をつくと、そうだと一言返した。
「……どんな奴だったんだ?」
「ドワーフの王子で、とても優しい人だった。皆の上に立つお方で、いつも責任感に苛まれる可哀想な人でもあった。でも、己の使命から逃げずに立ち向かった」
「それで……」
「立ち向かい、私の元へ戻ることはなかった」
沈黙が広がる。ボロミアは聞いてはならないことを聞いてしまった気がして、慌てて謝罪した。
「す、すまない。心の傷をえぐるつもりは──」
「いいのよ。いつか、その人のことをきちんと婚約者と言えるようにならなきゃね」
「そうだな。きっと今頃怒ってるぞ」
「ええ。たぶんね」
ボロミアは気さくでいい人だ。人懐っこいというのは、こういう人のことを言うのだろう。だがネルファンディアがそう思った刹那、彼の瞳に翳りが見えた。
「……影が、見える。あなたの瞳に」
「だろうな」
「私の元へ来たのは、何か悩みがあるからでしょう?」
それは奇しくも、トーリンと同じ影だった。ボロミアは苦痛を吐き出すように、ゆっくりと語り始めた。
「俺は……ゴンドール執政の息子だ。弟が一人いる。でも、父は弟を愛してない」
「……あなたは?」
「俺は、かけがえのない弟だと思ってる。だが、最近俺も父親の重圧に耐えられなくなり始めている」
ネルファンディアは目を細めると、ボロミアに静かな声で尋ねた。
「────逃れたいから、悩んでいるのではありませんね」
「ああ、そうだ。向き合いたいから悩んでる」
「なら、きっと大丈夫。あなたは一人ではない。仲間がいるから」
そう言って、彼女はボロミアに手を差し出した。困った素振りを見せながらも、彼は嬉しそうに笑っている。
「あんたの手なんか握ったら、そのドワーフの王子に殺される」
「イムリット・アムラ=ドゥールスレって言われながらね」
「……何だそれ?」
ネルファンディアは笑顔で答えた。
「" 竜の炎に焼かれて死ね "って意味よ。ドワーフ語でそう言うの」
「ふぅん……王子が口にする言葉じゃないな」
ボロミアはそう言って、自ら立ち上がった。そしてネルファンディアに向き合って微笑みかけた。
「──あんたは偉いよ。父親がああでも、前を向いて使命を果たそうとしてる」
「そんなことはない。逃げて後悔するのはもう嫌。ただそれだけよ」
トーリンが教えてくれた。逃げたりしないと。そして、見えないところでも仲間を気遣う大切さを。だからもう仲間を失ったりはしない。ネルファンディアはそう思いながら、再び剣術の稽古に戻るべく歩き出すのだった。
ネルファンディアが独りで稽古を再開していると、目の前に転がり込むようにしてフロドが現れた。驚いた彼女は、剣を仕舞って震えるホビットに駆け寄った。彼の瞳は涙と苦しみに歪んでいる。そして悲痛な声で何かをネルファンディアに差し出した。
「お願いです、受け取ってください。もう僕には無理です。僕には……」
「それは……」
どす黒くも眩しく輝き、黄金に光る指輪。サウロンの指輪だった。ネルファンディアも近くで直視することがなかったこの指輪は、彼女を確かに呼んでいた。あの耳障りで許しがたい男の声で。
────受けとれ……そうだ……手を伸ばせ……
「ボロミアも、ロスロリエンの奥方様も、この指輪の魔力に負けてしまった。僕もきっとああなる。でも、あなたなら大丈夫でしょう?強いはずだ」
ネルファンディアの耳に、フロドの言葉は届かない。その視線は物欲ではなく復讐心に燃えていた。
「もし……それを手にしたら、私は全てを終わらせることが出来ると思う?」
「ええ。あなたの手で滅びの裂け目に持っていくんです。きっとあなたなら出来る」
手がゆっくりと指輪へ伸びる。そしてその指先が僅かに金属の冷たさを感じそうになった瞬間、ネルファンディアは我に返った。
「駄目……私は、受け取れない」
「どうして!?どうして僕だけが背負わねばならないんですか?こんなの、理不尽だ。あんまりだ」
指輪に触れることさえなく、若き賢者は手をひっこめた。先程の憎悪を掻き立てる声が悪態をついた気がした。ネルファンディアはフロドの手にしっかり指輪を握らせると、その身体をモリアの時のように強く抱き締めた。
「そうよ。使命はとても気まぐれに訪れ、人を選ぶ。運命は残酷で、現実は凄惨なの」
ネルファンディアの頬から、涙が溢れる。フロドも泣いている。それでも彼女は続けた。
「でも……それでも、私たちは自分の使命を果たさなければならない。例えそれがどんなに理不尽だとしても」
「あなたも……何か使命があるんですか?」
「ええ。独りで行かねばならない使命から、ずっと逃げていたの。でも、もう逃げたりしない。それに気づかせてくれたのは……誰だと思う?」
フロドは小さく首を横に振った。
「あなたよ、フロド。あなたがこんなに小さい身体であんなに大きな荷を背負って、それでも私を励ましてくれたあのときに、私は決めたの」
彼女は驚くフロドの瞳を見ながら、全てを見守る優しい光のように微笑んだ。
「私には、私にしかできないことがある。あなたにも、あなたにしかできないことがある。だから一緒に行きましょう。独りで歩まねばならない道だから」
「独りなのに、どうして一緒に行くと?」
ネルファンディアは片方の手で彼のマントのブローチに、もう片方の手で自分のマントのブローチに触れた。
「だってどこに居ても、私たち10人はいつでも仲間だから」
「ネルファンディア……!」
フロドは嗚咽を堪えきれず、彼女の腕の中に飛び込んだ。その頭をネルファンディアは優しく撫でた。
「また、会えるよね?」
「ええ、きっと。懐かしい我が家に──故郷に帰るのよ。一緒に連れていってくれる?フロド」
「もちろんです。歓迎します。生きてまた再会する。これは約束ですからね」
「わかった。約束しよう」
二人は指切りを交わした。そしてフロドが立ち上がる。ネルファンディアはその小さな背をいつまでも見つめ続けた。心の奥底では再会できることを信じたくて、自分でもよくわからない何かに祈りながら。
ネルファンディアは近くの方で大軍が押し寄せる音を聞いた。先程川を下っている最中に聞いたものと同じだ。彼女が急いでアラゴルンたちの元へと駆けつけるべく、アモン・ヘンの遺跡を駆け上がったときには既に辺りは見たこともない敵で埋まっていた。
「ネルファンディア!一体これは?」
「わからない!けど……」
ネルファンディアはレゴラスに声をかけられ、倒し終えてある敵の骸を観察した。人間に限りなく近い身体に、黒い血。そして驚くほど強い力と持久力。更にはここまで追跡が出来る知能。
彼女は目を閉じて深呼吸した。とても冷静に話すことはできない。
「これは……おそらく最強の化け物。オークと人間の長所を備えた、無敵の殺戮兵器。光にも怯まず、高い知能を誇る。古より、これが完成すれば驚異となると言われていた魔物。────ウルク=ハイよ」
ネルファンディアは立ち上がり、空を仰いで独り言のように呟いた。
「サウロンがこれを作ることができなかった理由。それは彼が妖術使いではなかったから。そして今、黒の軍勢で奴等を作ることが出来る者は、たった一人」
「……君のお父上か」
アラゴルンの語気に、意図していないつもりでもやや怒りが混じっている。だがネルファンディアはそれ以上に冷ややかな怒りを湛え、一同に振り返った。
「────いいえ、もう父ではない」
ネルファンディアは剣を抜き、無言で歩き出した。慌ててレゴラスが止めようとする。
「ネルファンディア!何をするつもりなんだ」
「探すのよ。これほどの知能がある奴等には、必ず長となる指揮官がいるはず。あなたならわかるでしょう?レゴラス。グンダバドの穢れの王と同じよ」
「……わかった。気を付けてくれ」
もう同じ理由で仲間を失うのはごめんだ。ネルファンディアはマントをなびかせて走り出した。
予想通り、ウルク=ハイには強力な指揮官がいた。ラーツは邪悪なしわがれ声で叫んだ。
「ホビットを探せ!!生け捕りにしろ!他は殺せ!」
彼は部下たちが指示を理解したのを見届け、主人が命じたもう一つの指示を付け足した。
「──それから、銀の髪の魔法使い。こいつも連れてこい!」
それを死角から聞いていたのは、メリーとピピンだった。二人は顔を見合わせて青ざめると、息を殺しながら囁きあった。
「まずい。ネルファンディアは知ってるのかな?」
「助けなきゃ。隠れながら行こう」
二人が走って行く先には、ボロミアがいた。彼らは息切れを抑えながらやっとのことで事態を報告した。
「大変だ!」
「何してる!隠れろ!奴等はホビットを探してるんだぞ?」
「それだけじゃない。ネルファンディアのことも探してる!」
「何だって……?」
それを聞いたボロミアの身体に怒りがほとばしる。実父ともあろう者が、娘がここに居ると知りながら兵を送るとは…
────許せない。
「わかった。ネルファンディアは俺に任せろ。お前たちは隠れるんだ」
メリーたちを行かせたあと、ボロミアはその視界でネルファンディアを探した。
────ネルファンディア、どこにいるんだ。
すると、僅かに木々の隙間から銀の髪が見えた。彼はすぐにそれがネルファンディアだと気づき、咄嗟に敵を引き付けるべく腰にかけてあった愛用の角笛を吹いた。
角笛が悲しい音色を立てて響く。ボロミアの思惑通り、敵は皆彼の元へと向かっていった。ネルファンディアは彼が捨て身の作戦に出たことを知り、斜面を転がり落ちるように応援に駆けつけようとした。
────だめ!もう誰も死なせたりしない!トーリン、キーリ、フィーリ、バーリン、オーリ、ノーリ、ドーリ、お母様……お願い、私の仲間たちを守って!
ネルファンディアが駆けつけたときには、既にボロミアは敵に囲まれていた。彼女は全身に力を集中させ、杖から強力な波動を放った。
「ネルファンディア!?何してるんだ!逃げろ!」
「仲間を置いて身を隠すなんて出来ない。絶対に駄目。あなたこそ、どうしてそんな無茶をするの?」
ボロミアは返事にためらった。その間もネルファンディアは、杖とのコンビネーションを利用し、見事な動きで敵を打ち倒している。
「もう、誰も死なせたりしない。私が生きている限り、仲間は誰にも傷つけさせない」
────トーリン。もし私の隣に居るのなら、お願い。私の仲間たちを守って。
ネルファンディアの加勢に、目的を果たすべくラーツが現れた。彼女はかつて父と慕った人の造り出した魔物と対峙し、オルクリストを静かに向けた。
「────私は、ネルファンディア。マイアールでも無くば、エルフでも無い。だが、中つ国の守護者ではある!」
「主人がお呼びだ。大人しくホビットと共に来い」
「……私に会うべき人はいない!」
ネルファンディアは地面を蹴って跳躍すると、近くにいた邪魔なウルク=ハイを倒した。オルクリストが黒い血で染まる。
「この剣の前で、勝てた悪はない」
「『かかれ!』」
耳障りなモルドール語。ネルファンディアは穢れの王のことを思い出して怒りと憎悪に震えた。ボロミアが隣で他のウルク=ハイたちと応戦している。彼女はラーツに立ち向かったが、驚異的な力強さで投げ飛ばされてしまった。全身を強く石畳に打ち付け、呻き声が出る。それでも彼女は短刀で担ごうとしてきたウルク=ハイを倒している。
手こずりそうだ。ラーツはネルファンディアに剣の切っ先を向けた。
「止めろ!」
ネルファンディアは目を閉じなかった。決して目を閉じてはならない。だから彼女は、次に目の前で起きた出来事を全て目撃していた。
剣が振り下ろされる。だが、その刃は彼の意図した相手を貫くことはなかった。その瞬間、ボロミアが彼女の目の前に飛び出したのだ。ゴンドール製の剣でラーツの攻撃を跳ね返し、彼は反動で倒れた。
邪魔者は全て殺す。ラーツは命令通り、弓に矢をかけた。
「ボロミア……逃げて……」
「あんたをアイゼンガルドへ連れていかせはしない。ホビットたちもだ!」
ボロミアは剣を握り直し、立ち上がった。逃げることもせず立ち向かう彼を、ネルファンディアは取りすがって止めることも出来ない。痛む全身を捻り、うわ言のように止めろと唱えることだけが彼女の出来うる全力だった。
そして、ボロミアの身体に矢が放たれる。ネルファンディアの言葉になら無い叫びが響く。彼の身体がゆっくりと崩れ落ちる。
何本も情け容赦なく矢は打ち込まれていく。膝立ちになったボロミアに近寄ると、ラーツは獲物を見るような目でその首に剣をあてた。後ろの方でメリーとピピンが連れていかれるのが視界に入る。だが、何をするにしても身体が動かない。力尽きてその場に伏すネルファンディアの目には、絶望的な光景が映し出されていた。
けれど、全てが終わったわけではなかった。角笛を聞き付けてやって来たアラゴルンが、ラーツに飛びかかったのだ。剣と剣がぶつかり合う金属音が遠退いていく。ネルファンディアは目を閉じた。
光が届かない世界に、ネルファンディアの身体は落ちていく。何一つ動かせないくらいに全身は痛み、心の灯火は消えていた。
────私は、やはり無理でした。誰も救うことなく、使命を知ることもできず私は……
絶望が視界を覆った。するとその耳に声が聞こえた。
────ここで力尽きてはいかん。ネルファンディア!サルマンの子よ!
その声は、紛れもなくガンダルフのものだった。真偽を確かめる間も無く、ネルファンディアは唐突に覚醒させられた。
世界が眩しい。絶望の中にあるというのに、世界はこんなに明るかったのか。彼女はうっすらと戻りつつある景色に眼を凝らした。そこには劣勢に立たされるアラゴルンの姿があった。
これがきっと最期の機会だ。ネルファンディアの心が叫んだ。彼女はうなり声を上げて、よろめく身体で立ち上がった。そして足元に落ちているオルクリストを拾い上げ、両の足で地を踏みしめた。ラーツの注意が、剣を弾き飛ばされたアラゴルンから逸れる。ネルファンディアは深淵から湧き出る泉のように深く、澄んだ声を轟かせた。
「────穢れの王を討ち取ったかみつき丸、オルクリスト。この剣でお前の首を切り落とし、主人に送り返してやる」
「小娘ごときに何ができる」
「私は確かに弱い。だが、強くなることはできる」
ネルファンディアはそう言って、杖を持つこと無くオルクリストのみでラーツに挑んだ。大柄な相手の意表を突く動きを心掛けながら、ネルファンディアは時間を稼いだ。アラゴルンもその意図に気づいたのか、剣を拾って立ち上がっている。
そしてついにネルファンディアはラーツの肩に切っ先を深々と刺すことに成功した。だが、この怪物はその程度では倒れなかった。刺さった剣ごと振り回された彼女は、必死に食らいついた。木の幹に足をつけると、ネルファンディアは勢いをつけてラーツを倒しながら逆方向に剣と共に着地した。ちょうどその足元には、彼女の愛用の杖が落ちている。ありったけの怒りと憎しみを込めて、ネルファンディアは杖から閃光を放った。
「もとあるべき場所へ帰れ!」
ラーツが怯んだ瞬間を見計らい、アラゴルンがその腹に剣を刺した。終わった。二人ともそう思った。だがまだラーツの息の根は止まらない。剣の刃を持ってアラゴルンを引き付け始めたのだ。ネルファンディアは全てを終わらせるために、怪物の首にオルクリストを一閃した。
辺りが静寂に包まれる。ラーツの胴と首が分かれて地面に落ちる。ネルファンディアは大きく息を吐き出してから、ボロミアの方へ駆け寄った。既に息は弱々しく、目も虚ろだ。
「ボロミア!しっかりして」
「あぁ……ネルファンディア……あんた……綺麗だよ」
「何を訳のわからないことを──」
「残念だよ……あんたに先客が……居なければ……」
アラゴルンも隣にやって来た。ボロミアは弱々しく笑っている。
「その男は……心残りだった……だろうな。あんたみたいな……いい女を置いて……死ぬ……なんて……」
ネルファンディアは最期のときまで彼らしい言葉に、思わず涙が出た。ボロミアはアラゴルンの手を掴んで、最期の力を振り絞って尋ねた。
「フロドは……フロドは……あいつに……俺は申し訳ないことを……」
「フロドは無事だ、安心してくれ」
ネルファンディアは、ボロミアも指輪のせいで変わってしまったとフロドが言っていたことを思い出した。ボロミアは身体を起こし、アラゴルン──若きゴンドールの正統なる世継ぎに嘆願した。
「アラゴルン……我らがゴンドールの王……白の都にお戻り下さい……そして、ゴンドールの再興を……あなたが……」
「いいや、ボロミア。" 私たち "だ。君と共に、あの城門をくぐろう」
ネルファンディアはやるせない気持ちで一杯になった。そして弱い自分を責めた。だが、ボロミアは最期まで優しかった。
「泣いて……くれるのか……俺のために」
「ごめんなさい。私のせいで……」
「あんたは……悪くない。……なぁ、手を……握ってくれないか」
「ええ、もちろんよ」
朦朧とする意識の中で、ボロミアは手を握ってくれているネルファンディアの顔を見た。純粋に、とても綺麗だった。
「父親に……ちゃんと会って……理解してあげるんだぞ。きっと……後悔する……から……」
握った手が、力尽きた。ネルファンディアは目を大きく見開いたまま、ただ両目から涙を溢して呆然としている。
仲間は、失われた。もう永遠に、共に帰路に着くことはない。
ボロミアを剣や角笛と共に小舟に乗せると、ネルファンディアたちは大河の彼方に消えるまで彼を見守った。流れの先に船が消えると、彼女は独り荷造りを始めた。
「……ボロミアのことは、君のせいじゃない」
「ありがとう、アラゴルン。でも、私は父との戦いに決着をつけなければいけない」
そして、自分の使命が何であるかも知らなければ。
ネルファンディアはアラゴルンの腕に巻かれたものに気がつき、微笑んだ。
「それ、ボロミアのものね」
「ああ。彼と共に、白の都──ミナスティリスに戻るんだ」
「じゃあ、決めたのね。アラソルンの息子、アラゴルン」
アラゴルンが静かにうなずく。すると、後ろの方でレゴラスが声をあげた。
「フロドたちはどこに!?我々も追わなければ」
だが、アラゴルンは小さく首を横に振った。それだけでレゴラスは何を意味しているかを悟り、しゅんとしてしまった。
「じゃあ、旅の仲間は解散か?」
ギムリが腰を下ろしながらそう言った。アラゴルンがにこりと笑いながら、彼に手を差しのべる。
「いいや、そうじゃない。メリーとピピンは、ウルク=ハイたちにアイゼンガルドへ連れていかれた。追わないとな」
「じゃあ急いだ方がいい。行こう」
レゴラスとアラゴルン、そしてギムリが同じ方向に立った。三人はネルファンディアの方を向き、一緒に行こうと目で訴えている。
だが、ネルファンディアは大河の方を向いて答えた。
「私は、やらねばならないことがあるの。だから、またどこかで再会しましょう」
その背中がとても遠くて、レゴラスは悲しくなった。
「僕たちが一緒に背負ってはいけないものなのか?」
「ええ、そうね。私にしかできないことがある。ガンダルフもサルマンも亡き今、たった一人残ったイスタリの私がやるべきことが。だから、行って。必ず再会できるはず」
ネルファンディアは振り返って三人に微笑みかけた。
「だって、私たちは宿命で結ばれた旅の仲間なんだから」
彼女の進むべき道は異なる。けれど四人のたどる道は全て同じ行き先に続いているのだ。
暗闇を唯一打ち砕くことのできる、希望という名の夜明けへと。