四章、忘れ形見
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ネルファンディアはオルクリストを手入れしながら、かつて母が身に付けていたエンディアンの石をかざして仕上がりを確認していた。明らかに他と違う空気の彼女に声を掛けようとする者は居らず、ガンダルフは独りを好む性格もトーリンに似てしまったのかと嘆いた。すると、ピピンとメリーが何も考えず陽気な声をあげながら隣に座った。ホビットはビルボのように、皆几帳面な者ばかりだとネルファンディアは思っていたためにやや驚いたが、暫くすると父親譲りの毅然とした声で話始めた。
「…………これはオルクリスト。遠い昔、私の愛剣と古い友人のものを交換したときに貰ったの。"かみつき丸"っていうのよ」
「へぇ…………かみつくの?」
「そうよ。相手にかみついて離さないの。」
お調子者のピピンがそう尋ねると、彼女は微笑んでそう返事をした。その様子を遠くから見ていたレゴラスは、彼女の芯の強さに感心した。だが、ガンダルフの考えは違っていた。
「……あの子が、真にトーリンの死と向き合えたと?いや、そんなことは有り得ん。永遠に来ぬじゃろうて」
「苦しみは、時が経てば薄れるのでは?」
「いいや、薄れることはない。どころか苦しみと影だけが広がっていくもの。永き時を生きることは、時に苦痛も伴うものじゃ、スランドゥイルの息子レゴラスよ」
レゴラスが何か言おうとして口を開いた時だった。彼の視界に何かが飛び込んできたのだ。同じく異変を感じたネルファンディアも隣にやって来て、目を細めながら遠くを凝視している。
「あれは……クレバイン?」
「ええ。しかもただのクレバインじゃない。あれは────」
「お主の父に操られておる!隠れよ!急ぐのじゃ!!」
ネルファンディアは父の正鵠が堕ちたことを誰よりも深く知っていた。だが、誰よりもまだ実感がわいていなかった。息を潜めて全員が岩影に隠れた瞬間に、丁度鳥の大群は頭上を通過していった。
ようやく姿が見えなくなり、外に出た一同は先程のものは何だったのかと議論を始めた。そんな喧騒の中、ネルファンディアは静かに端の方で呟きを投じた。
「────父が、送ったものよ」
「父って……サルマンか!あんたはサルマンの間者なのか?」
「ボロミア、やめろ」
「いいの、アラゴルン。そう思われても仕方がないのだから」
早速生じた不協和音に、ネルファンディアはエレボールの一行が瓦解した時と同じ感覚を覚えた。だが、今回の元凶はアーケン石ではない。彼女は横目でフロド・バキンズを見ると、僅かにその姿をトーリンと重ねた。
重荷に耐えかねて壊れてしまったあの人と、同じようにして彼も壊れてしまうのだろうか。
いいえ、そんなことはさせない。もう二度と、サウロン────あいつの計略で誰かを失ったりはしない。今に見ていなさい。私は父のことも必ず取り戻す。
悲痛な決意を込めて、ネルファンディアは一行の最後尾から振り返り、エレボールの方を見た。これがこの旅で離れ山を感じる最後の機会になるだろう。あまりに遠く、懐かしい場所を見つめながら、彼女はトーリンから貰った指輪を握りしめるのだった。
霧降山脈は、とても険しい道だった。一面の銀世界は即座に牙を向く。そしてネルファンディアを記憶の闇に引きずり込む。魔性の山で己を失ってはならないと自らを鼓舞しながら進む彼女は、難所に差し掛かったときに誰かの声が聞こえた気がした。それは徐々に大きくなり、同時に懐かしかと恋しさも込み上げてきた。その声は、紛れもなく父の声だった。
オルサンクの塔の最上部に佇む彼は、魔力を通しながら一行を見ていた。そして呪文を一閃させて道を断つべく、杖を振り上げようとした。だが、その瞬間彼の視界の中に、愛娘の姿が映った。
ネルファンディアも必死に力を集め、父の姿を見た。二人の目が合う。そしてその刹那、一行は魔力で起こされた雪崩に見舞われた。視界が全て白くなり、彼女は息苦しさを感じながらも必死にもがくことはしなかった。
無駄なことだと思った。父は自分がいると知りながら、娘を生き埋めにしたのだ。もう自分の知る父はどこにもいない。遠退く意識の中で、ネルファンディアの記憶は幼い頃に戻っていた。父と母と、笑いあって過ごした日々が懐かしくてそのまま留まりたいという思いがよぎる。だが、ふと別の声が聞こえてきた。
────……!……!
『誰……もう、私は……』
────……!ネルファンディア!ここで尽きてはならぬ。そなたは生きるのだ。さぁ、私の差し出した手を取れ!
その声は、トーリンの声だった。ネルファンディアは声にならない声で叫んだ。
『トーリン……!あなたなの?トーリン?』
『ネルファンディア、生きねばならぬ。例えそれがどれ程残酷なことだとしても。側に私が居らぬとしても』
今度ははっきりと聞こえる。ネルファンディアはその言葉に首を振った。
『嫌。私はあなたがいない世界で六十年余りの時を過ごしてきた。でも、もう疲れたの。あなたに会えない世界で、次は父も私のもとを離れてしまった』
目を開けると、トーリンが目の前にいる。エルフが造ったような石造りの回廊の中心に向き合うように立っている二人は、互いの目に涙を湛えながら歩み寄った。そしてトーリンの手がそっと伸びてきて、ネルファンディアの涙を拭った。彼は昔と変わらぬ笑顔を見せると、落ち着いた声でこう言った。
『そなたは独りではない。私がいる。どれ程離れていようとも、私はそなたの隣にいつでもいる』
『トーリン……!』
『だから、この手を取ってくれ。頼む。そなたは生きるのだ』
愛する人の言葉は、例え幻であっても逆らうことはできなかった。ネルファンディアは手を伸ばしてトーリンの手を取った。
そして次の瞬間、彼女の世界に光と寒さが戻った。
「大丈夫か?ネルファンディア」
「え、ええ……私は……」
辺りを見回すと、心配そうに覗き込んでいる一行がいた。トーリンの姿はやはり幻だったのか。ネルファンディアは立ち上がって雪を払うと、落胆を隠すように深く礼を述べた。
ガンダルフは行くはずだった道に目を向けたが、どうにも進めそうにない。霧降山脈を越えることが一番安全だと考えていた彼にとって、この事態は相当な痛手だった。肩を落とす一同に、突然ギムリが声をあげた。
「そうだ!ガンダルフ、モリアへ行こう」
「なんじゃと?モリア?またどうして……」
「親類のバーリンがいるはずだ。きっと歓迎してくれる!」
モリアという言葉に聞き覚えがあったので、ネルファンディアは必死に記憶を辿り始めた。それはトーリンが何度か話してくれた場所の名前だった。自然と彼から聞いた話の断片が口から溢れる。
「アザヌルビザールの合戦の……」
「よくご存じなのだな、ネルファンディア殿は」
「え、ええ。昔、友から聞きました」
すっかり気分を良くしたギムリは、モリア行きの意見を固めた。ネルファンディアはそんなことよりもトーリンの居た場所が気になって仕方がなかった。感触や温もり息づかい、全てが現実のようだった。鼓膜を震わせる心地よい声────あれは正に幻ではあり得ない。そんな風に考えを巡らせている間に、一行は既にモリア行きへの意思を固めていた。ネルファンディアはピピンとメリーの声で我に帰ると、杖を持ち直して慌てて後を追うのだった。
ネルファンディアはモリアの入り口に差し掛かるにつれ、重苦しい空気が流れていることに気づいた。まるで心にのし掛かるようなその空気に、彼女は覚えがあった。
────グンダバドの奴等の空気と同じ……
「お主も感じるか?モリアの空気がおかしい」
「ええ。でも、もう引き返せない」
ガンダルフはため息をつくと、月明かりに照らし出されたモリアへの入り口の言葉を読みあげた。エルフの技術で作られたこの扉にも、エレボールのものと同じく、こちらのものも継ぎ目も取っ手もない。
「ええ……モリアの領主、ドゥリンの扉、唱えよ友、そして入れ」
「……また鍵穴のない扉の謎かけ?」
ネルファンディアのその言葉に、フロドとサムが僅かに反応した。だが、ガンダルフは気にも留めずに知っている開門の呪文を唱えた。
静寂がその場を気まずさと共に支配する。ガンダルフは動揺を隠しながら笑っている。
「うん、問題はない。わしは呪文をこやつの父より多く知っておる。任せよ」
けれども、その後何度呪文を変えたり声色を変えたりしても、扉は答えなかった。ついに万策つきたガンダルフは、杖で一度扉を殴って座り込んでしまった。その様子を見て、ネルファンディアは珍しく声をあげて笑った。
「何がおかしい!笑うならこの戸を開けてみろ、蒼の姫よ」
「いえ、おかしいのは戸が開かぬからではありません。あなたの態度が余りに似ていたから……」
その一言にレゴラスも思わず吹き出した。二人はトーリンのことを言っていると直ぐ様理解したが、反論する前にネルファンディアは立ち上がって戸を眺め始めた。その隣には、興味深そうな表情を浮かべている、ホビットのピピンが並んだ。
「ネルファンディア姫。何か思い付いたんですか?前のほら……鍵穴ののない扉はどうやって解決したんですか?」
「いえ……大したことでは無いんだけれど、以前は月の光が差し込むことを気づいて解決したわ。でも、今回は違うみたい……」
険しい表情を浮かべるネルファンディアの横で、ピピンがガンダルフに尋ねる。
「……友ってエルフ語でなんていうの?」
「えっ?……あぁ!そういうことね!メルロン(友)!」
ネルファンディアの声と呼応するように扉が開く。懐かしい感覚だった。ホビットが答えを導きだし、自分が完全な答えを出す。彼女はあの時ビルボ・バキンズを見つめたのと同じ眼差しで、隣で得意気に立っているピピンを見た。
「なんじゃ。そんな簡単なことじゃったか。わしにもわかるわい」
「ガンダルフったら……」
一行が失笑しながらのろのろと腰を上げたときだった。門の前にある池の水面が揺れる。何かに気づいたネルファンディアは声をあげようとした。だがそれよりも敵の方が早かった。水中の"監視者"は物凄い勢いで触手を伸ばし、フロドの足を掴んで引きずり込み始めた。
「フロド!」
「離せ!サム!助けて!」
アラゴルンたちが剣を抜いて触手を切り落とし始めたが、フロドを一更に離す気配はない。仲間を失うことを恐れるあまり、ネルファンディアはオルクリストを抜いて池に挑んだ。
「闇より出でし監視者よ。エンディアンの水の使い手である私が相手になろう!」
そう言い放つと、彼女は目眩ましの光線を放ってその隙にフロドを掴んでいる触手を切り落とすことに成功した。
目が弱点であると悟ったレゴラスも、後ろから正確な矢で援護をし始める。そして監視者が一旦水の中に入った折を見て、ガンダルフとギムリが叫んだ。
「早く!入り口へいそげ!」
ネルファンディアは足がもつれるフロドの手をしっかり握りしめ、扉の向こうに飛び込んだ。何とか難を逃れた一行は、一気に疲れが押し寄せる感覚を覚えた。そんな状況でも、ギムリは故郷とも言えるモリアに帰れて嬉しそうだった。
「バーリンがすぐに迎えてくれる。ドワーフは────」
「宴会好きだから」
またもやネルファンディアの発言に驚いたギムリは、口をあんぐりと開いている。バーリンという名を聞いて、彼女は懐かしさに涙ぐみそうになった。時に優しく、時に厳しく、誰よりも温かくトーリンと自分のことを見守ってくれていた人だ。会えたならとても嬉しい。けれど、そんなネルファンディアの希望を打ち砕くことが起きた。明かりを灯したガンダルフは、モリアの異変にいち早く気づいた。レゴラスは必死に目を凝らして、地面から何かを拾い上げた。
「違う。これは……墓だ」
「何を言って────」
ネルファンディアは感傷から覚め、辺りを改めて見回した。慣れてきた目が、モリアで起きた悲劇を映す。
「嘘……そんな……」
五軍の合戦がフラッシュバックする。立ちくらみを覚えた彼女を支えたのは、意外にもボロミアだった。
「大丈夫か?あんた、一体ドワーフ族と何が……」
「気にしないで。大したことでは……」
ギムリの声にならない叫びがこだまする。グローイン譲りの声が、トーリンを失ったときの悲哀と似ていて、またネルファンディアは悲しくなった。ボロミアが息を呑みながらも、正論を発する。
「早いとこ、出ようぜ。でなきゃ俺たちも仲間入りだ」
「そうじゃな。さぁ、出────」
ガンダルフが声をかけようとした時だった。突然轟音と地鳴りが雷鳴のように轟き、モリアの門が破壊された。一行は既に犯人が誰かを知っていた。
「……あの蛸め」
ボロミアが悪態をつく。彼らしい反応だ。
「先を行くしかなさそうね。進みましょう、ガンダルフ」
「ああ。道は粗方知っておるが、どうも物忘れが最近……」
「私が手伝う。実はあの人から昔に聞いたことがあるから」
けれど、ふとネルファンディアは思い出し笑いに駈られた。そういえば、トーリンは方向音痴だった。そんな人の話を宛にして大丈夫なのだろうか。
「やっぱり出来るだけガンダルフに任せるわ。頑張ってね」
彼女はにっこり微笑むと、今度は遅れないようについていくのだった。
ここは嫌いだ。分かれ道のせいで混乱したガンダルフを労って一休みしながら、ネルファンディアはため息をついた。
「ここにも、あやつとの思い出が多すぎるか?」
「いえ、私が悪いのです。お気になさらず」
ガンダルフもため息をつきながら、隣に腰かけた。ネルファンディアの手の中には、紐に通して首にかけられたトーリンの指輪があった。ドゥリン王朝の者である証を彼が形見として渡したことは、いくら鈍いガンダルフであっても理解ができた。
「……あやつが生きておればお主を、山の下の王妃ネルファンディア殿と呼んでいたのじゃろうか」
「王妃と呼ばれるよりも、山の下の王の妻と言われたいものです」
「そうじゃったな。お主はいつもそうじゃった」
そんなやり取りの向こうで、ネルファンディアの指輪を横目で見たフロドは、ちょこんと目の前にしゃがみこんで彼女に小さな声で尋ねた。
「あの……」
「な、何?」
「それ……ビルボの本にあった指輪と似ていて……」
ネルファンディアは一瞬戸惑ったが、やはりバキンズ家の者には隠し事が出来ないなと苦笑してからこう言った。
「ええ、そうよ。同じもの。あの旅に行った方と、お友だちだったの」
「そうなんですか!じゃあ、それはビルボみたいに旅の報酬というか……分け前だったんですか?」
彼女は少し考えると、トーリンに最期に見せたのと同じ笑顔で答えた。
「ええ、そうよ。最高の思い出の品。私の宝物なの」
二人の会話が終わったことを見計らい、ガンダルフがよっこらしょと腰をあげた。
「おお、そうじゃ。思い出した。こっちじゃ」
旅の仲間たちが分かれ道を行く。ネルファンディアも顔を上げて前をしっかり見据えると、決意を固めた足取りでその後をついていった。
それはどこか軽やかで、エレボールの回廊をトーリンと二人で歩いたときを彷彿させるものだったことを、一体誰が知っているだろうか。旅がまたひとつ、ネルファンディアを強くするのだった。
「…………これはオルクリスト。遠い昔、私の愛剣と古い友人のものを交換したときに貰ったの。"かみつき丸"っていうのよ」
「へぇ…………かみつくの?」
「そうよ。相手にかみついて離さないの。」
お調子者のピピンがそう尋ねると、彼女は微笑んでそう返事をした。その様子を遠くから見ていたレゴラスは、彼女の芯の強さに感心した。だが、ガンダルフの考えは違っていた。
「……あの子が、真にトーリンの死と向き合えたと?いや、そんなことは有り得ん。永遠に来ぬじゃろうて」
「苦しみは、時が経てば薄れるのでは?」
「いいや、薄れることはない。どころか苦しみと影だけが広がっていくもの。永き時を生きることは、時に苦痛も伴うものじゃ、スランドゥイルの息子レゴラスよ」
レゴラスが何か言おうとして口を開いた時だった。彼の視界に何かが飛び込んできたのだ。同じく異変を感じたネルファンディアも隣にやって来て、目を細めながら遠くを凝視している。
「あれは……クレバイン?」
「ええ。しかもただのクレバインじゃない。あれは────」
「お主の父に操られておる!隠れよ!急ぐのじゃ!!」
ネルファンディアは父の正鵠が堕ちたことを誰よりも深く知っていた。だが、誰よりもまだ実感がわいていなかった。息を潜めて全員が岩影に隠れた瞬間に、丁度鳥の大群は頭上を通過していった。
ようやく姿が見えなくなり、外に出た一同は先程のものは何だったのかと議論を始めた。そんな喧騒の中、ネルファンディアは静かに端の方で呟きを投じた。
「────父が、送ったものよ」
「父って……サルマンか!あんたはサルマンの間者なのか?」
「ボロミア、やめろ」
「いいの、アラゴルン。そう思われても仕方がないのだから」
早速生じた不協和音に、ネルファンディアはエレボールの一行が瓦解した時と同じ感覚を覚えた。だが、今回の元凶はアーケン石ではない。彼女は横目でフロド・バキンズを見ると、僅かにその姿をトーリンと重ねた。
重荷に耐えかねて壊れてしまったあの人と、同じようにして彼も壊れてしまうのだろうか。
いいえ、そんなことはさせない。もう二度と、サウロン────あいつの計略で誰かを失ったりはしない。今に見ていなさい。私は父のことも必ず取り戻す。
悲痛な決意を込めて、ネルファンディアは一行の最後尾から振り返り、エレボールの方を見た。これがこの旅で離れ山を感じる最後の機会になるだろう。あまりに遠く、懐かしい場所を見つめながら、彼女はトーリンから貰った指輪を握りしめるのだった。
霧降山脈は、とても険しい道だった。一面の銀世界は即座に牙を向く。そしてネルファンディアを記憶の闇に引きずり込む。魔性の山で己を失ってはならないと自らを鼓舞しながら進む彼女は、難所に差し掛かったときに誰かの声が聞こえた気がした。それは徐々に大きくなり、同時に懐かしかと恋しさも込み上げてきた。その声は、紛れもなく父の声だった。
オルサンクの塔の最上部に佇む彼は、魔力を通しながら一行を見ていた。そして呪文を一閃させて道を断つべく、杖を振り上げようとした。だが、その瞬間彼の視界の中に、愛娘の姿が映った。
ネルファンディアも必死に力を集め、父の姿を見た。二人の目が合う。そしてその刹那、一行は魔力で起こされた雪崩に見舞われた。視界が全て白くなり、彼女は息苦しさを感じながらも必死にもがくことはしなかった。
無駄なことだと思った。父は自分がいると知りながら、娘を生き埋めにしたのだ。もう自分の知る父はどこにもいない。遠退く意識の中で、ネルファンディアの記憶は幼い頃に戻っていた。父と母と、笑いあって過ごした日々が懐かしくてそのまま留まりたいという思いがよぎる。だが、ふと別の声が聞こえてきた。
────……!……!
『誰……もう、私は……』
────……!ネルファンディア!ここで尽きてはならぬ。そなたは生きるのだ。さぁ、私の差し出した手を取れ!
その声は、トーリンの声だった。ネルファンディアは声にならない声で叫んだ。
『トーリン……!あなたなの?トーリン?』
『ネルファンディア、生きねばならぬ。例えそれがどれ程残酷なことだとしても。側に私が居らぬとしても』
今度ははっきりと聞こえる。ネルファンディアはその言葉に首を振った。
『嫌。私はあなたがいない世界で六十年余りの時を過ごしてきた。でも、もう疲れたの。あなたに会えない世界で、次は父も私のもとを離れてしまった』
目を開けると、トーリンが目の前にいる。エルフが造ったような石造りの回廊の中心に向き合うように立っている二人は、互いの目に涙を湛えながら歩み寄った。そしてトーリンの手がそっと伸びてきて、ネルファンディアの涙を拭った。彼は昔と変わらぬ笑顔を見せると、落ち着いた声でこう言った。
『そなたは独りではない。私がいる。どれ程離れていようとも、私はそなたの隣にいつでもいる』
『トーリン……!』
『だから、この手を取ってくれ。頼む。そなたは生きるのだ』
愛する人の言葉は、例え幻であっても逆らうことはできなかった。ネルファンディアは手を伸ばしてトーリンの手を取った。
そして次の瞬間、彼女の世界に光と寒さが戻った。
「大丈夫か?ネルファンディア」
「え、ええ……私は……」
辺りを見回すと、心配そうに覗き込んでいる一行がいた。トーリンの姿はやはり幻だったのか。ネルファンディアは立ち上がって雪を払うと、落胆を隠すように深く礼を述べた。
ガンダルフは行くはずだった道に目を向けたが、どうにも進めそうにない。霧降山脈を越えることが一番安全だと考えていた彼にとって、この事態は相当な痛手だった。肩を落とす一同に、突然ギムリが声をあげた。
「そうだ!ガンダルフ、モリアへ行こう」
「なんじゃと?モリア?またどうして……」
「親類のバーリンがいるはずだ。きっと歓迎してくれる!」
モリアという言葉に聞き覚えがあったので、ネルファンディアは必死に記憶を辿り始めた。それはトーリンが何度か話してくれた場所の名前だった。自然と彼から聞いた話の断片が口から溢れる。
「アザヌルビザールの合戦の……」
「よくご存じなのだな、ネルファンディア殿は」
「え、ええ。昔、友から聞きました」
すっかり気分を良くしたギムリは、モリア行きの意見を固めた。ネルファンディアはそんなことよりもトーリンの居た場所が気になって仕方がなかった。感触や温もり息づかい、全てが現実のようだった。鼓膜を震わせる心地よい声────あれは正に幻ではあり得ない。そんな風に考えを巡らせている間に、一行は既にモリア行きへの意思を固めていた。ネルファンディアはピピンとメリーの声で我に帰ると、杖を持ち直して慌てて後を追うのだった。
ネルファンディアはモリアの入り口に差し掛かるにつれ、重苦しい空気が流れていることに気づいた。まるで心にのし掛かるようなその空気に、彼女は覚えがあった。
────グンダバドの奴等の空気と同じ……
「お主も感じるか?モリアの空気がおかしい」
「ええ。でも、もう引き返せない」
ガンダルフはため息をつくと、月明かりに照らし出されたモリアへの入り口の言葉を読みあげた。エルフの技術で作られたこの扉にも、エレボールのものと同じく、こちらのものも継ぎ目も取っ手もない。
「ええ……モリアの領主、ドゥリンの扉、唱えよ友、そして入れ」
「……また鍵穴のない扉の謎かけ?」
ネルファンディアのその言葉に、フロドとサムが僅かに反応した。だが、ガンダルフは気にも留めずに知っている開門の呪文を唱えた。
静寂がその場を気まずさと共に支配する。ガンダルフは動揺を隠しながら笑っている。
「うん、問題はない。わしは呪文をこやつの父より多く知っておる。任せよ」
けれども、その後何度呪文を変えたり声色を変えたりしても、扉は答えなかった。ついに万策つきたガンダルフは、杖で一度扉を殴って座り込んでしまった。その様子を見て、ネルファンディアは珍しく声をあげて笑った。
「何がおかしい!笑うならこの戸を開けてみろ、蒼の姫よ」
「いえ、おかしいのは戸が開かぬからではありません。あなたの態度が余りに似ていたから……」
その一言にレゴラスも思わず吹き出した。二人はトーリンのことを言っていると直ぐ様理解したが、反論する前にネルファンディアは立ち上がって戸を眺め始めた。その隣には、興味深そうな表情を浮かべている、ホビットのピピンが並んだ。
「ネルファンディア姫。何か思い付いたんですか?前のほら……鍵穴ののない扉はどうやって解決したんですか?」
「いえ……大したことでは無いんだけれど、以前は月の光が差し込むことを気づいて解決したわ。でも、今回は違うみたい……」
険しい表情を浮かべるネルファンディアの横で、ピピンがガンダルフに尋ねる。
「……友ってエルフ語でなんていうの?」
「えっ?……あぁ!そういうことね!メルロン(友)!」
ネルファンディアの声と呼応するように扉が開く。懐かしい感覚だった。ホビットが答えを導きだし、自分が完全な答えを出す。彼女はあの時ビルボ・バキンズを見つめたのと同じ眼差しで、隣で得意気に立っているピピンを見た。
「なんじゃ。そんな簡単なことじゃったか。わしにもわかるわい」
「ガンダルフったら……」
一行が失笑しながらのろのろと腰を上げたときだった。門の前にある池の水面が揺れる。何かに気づいたネルファンディアは声をあげようとした。だがそれよりも敵の方が早かった。水中の"監視者"は物凄い勢いで触手を伸ばし、フロドの足を掴んで引きずり込み始めた。
「フロド!」
「離せ!サム!助けて!」
アラゴルンたちが剣を抜いて触手を切り落とし始めたが、フロドを一更に離す気配はない。仲間を失うことを恐れるあまり、ネルファンディアはオルクリストを抜いて池に挑んだ。
「闇より出でし監視者よ。エンディアンの水の使い手である私が相手になろう!」
そう言い放つと、彼女は目眩ましの光線を放ってその隙にフロドを掴んでいる触手を切り落とすことに成功した。
目が弱点であると悟ったレゴラスも、後ろから正確な矢で援護をし始める。そして監視者が一旦水の中に入った折を見て、ガンダルフとギムリが叫んだ。
「早く!入り口へいそげ!」
ネルファンディアは足がもつれるフロドの手をしっかり握りしめ、扉の向こうに飛び込んだ。何とか難を逃れた一行は、一気に疲れが押し寄せる感覚を覚えた。そんな状況でも、ギムリは故郷とも言えるモリアに帰れて嬉しそうだった。
「バーリンがすぐに迎えてくれる。ドワーフは────」
「宴会好きだから」
またもやネルファンディアの発言に驚いたギムリは、口をあんぐりと開いている。バーリンという名を聞いて、彼女は懐かしさに涙ぐみそうになった。時に優しく、時に厳しく、誰よりも温かくトーリンと自分のことを見守ってくれていた人だ。会えたならとても嬉しい。けれど、そんなネルファンディアの希望を打ち砕くことが起きた。明かりを灯したガンダルフは、モリアの異変にいち早く気づいた。レゴラスは必死に目を凝らして、地面から何かを拾い上げた。
「違う。これは……墓だ」
「何を言って────」
ネルファンディアは感傷から覚め、辺りを改めて見回した。慣れてきた目が、モリアで起きた悲劇を映す。
「嘘……そんな……」
五軍の合戦がフラッシュバックする。立ちくらみを覚えた彼女を支えたのは、意外にもボロミアだった。
「大丈夫か?あんた、一体ドワーフ族と何が……」
「気にしないで。大したことでは……」
ギムリの声にならない叫びがこだまする。グローイン譲りの声が、トーリンを失ったときの悲哀と似ていて、またネルファンディアは悲しくなった。ボロミアが息を呑みながらも、正論を発する。
「早いとこ、出ようぜ。でなきゃ俺たちも仲間入りだ」
「そうじゃな。さぁ、出────」
ガンダルフが声をかけようとした時だった。突然轟音と地鳴りが雷鳴のように轟き、モリアの門が破壊された。一行は既に犯人が誰かを知っていた。
「……あの蛸め」
ボロミアが悪態をつく。彼らしい反応だ。
「先を行くしかなさそうね。進みましょう、ガンダルフ」
「ああ。道は粗方知っておるが、どうも物忘れが最近……」
「私が手伝う。実はあの人から昔に聞いたことがあるから」
けれど、ふとネルファンディアは思い出し笑いに駈られた。そういえば、トーリンは方向音痴だった。そんな人の話を宛にして大丈夫なのだろうか。
「やっぱり出来るだけガンダルフに任せるわ。頑張ってね」
彼女はにっこり微笑むと、今度は遅れないようについていくのだった。
ここは嫌いだ。分かれ道のせいで混乱したガンダルフを労って一休みしながら、ネルファンディアはため息をついた。
「ここにも、あやつとの思い出が多すぎるか?」
「いえ、私が悪いのです。お気になさらず」
ガンダルフもため息をつきながら、隣に腰かけた。ネルファンディアの手の中には、紐に通して首にかけられたトーリンの指輪があった。ドゥリン王朝の者である証を彼が形見として渡したことは、いくら鈍いガンダルフであっても理解ができた。
「……あやつが生きておればお主を、山の下の王妃ネルファンディア殿と呼んでいたのじゃろうか」
「王妃と呼ばれるよりも、山の下の王の妻と言われたいものです」
「そうじゃったな。お主はいつもそうじゃった」
そんなやり取りの向こうで、ネルファンディアの指輪を横目で見たフロドは、ちょこんと目の前にしゃがみこんで彼女に小さな声で尋ねた。
「あの……」
「な、何?」
「それ……ビルボの本にあった指輪と似ていて……」
ネルファンディアは一瞬戸惑ったが、やはりバキンズ家の者には隠し事が出来ないなと苦笑してからこう言った。
「ええ、そうよ。同じもの。あの旅に行った方と、お友だちだったの」
「そうなんですか!じゃあ、それはビルボみたいに旅の報酬というか……分け前だったんですか?」
彼女は少し考えると、トーリンに最期に見せたのと同じ笑顔で答えた。
「ええ、そうよ。最高の思い出の品。私の宝物なの」
二人の会話が終わったことを見計らい、ガンダルフがよっこらしょと腰をあげた。
「おお、そうじゃ。思い出した。こっちじゃ」
旅の仲間たちが分かれ道を行く。ネルファンディアも顔を上げて前をしっかり見据えると、決意を固めた足取りでその後をついていった。
それはどこか軽やかで、エレボールの回廊をトーリンと二人で歩いたときを彷彿させるものだったことを、一体誰が知っているだろうか。旅がまたひとつ、ネルファンディアを強くするのだった。